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浦山村のこと(2)

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3.浦山村の昔と今

旧浦山村は、「風土記稿」によると、さっき言ったように人家180とあります。1戸あたり5人とすると、江戸時代末期の1800年頃には人口が900人くらいの村であったのがわかります。また、浦山口に資料館があり、ここで戦後の人口の推移がわかります。それによると、昭和30年(1955年)には、262世帯で1244人の人がいました。明治以降の150年間で人口が300人くらい増えました。ところが、昭和60年(1985年)には、164世帯494人になり、平成12年(200年)には89世帯212人まで減少してしまいました。戦後のわずか50年足らずで、5分の1以下になってしまいました。急激な人口減少です。たぶん、浦山村の人口が回復することはないと思います。

私も、秩父のあちこちを回りましたが、浦山ほど平地の少ない所はないと思います。土地はすべて崖のような急傾斜です。かつて畑として利用された土地も今はススキの野原です。畑であった時にも、これでは腰に綱でもつけなければ安心して農作業もできないのではないかという気がしました。現在耕されている農地はほとんどありません。畑が耕されなくなっただけではなく、家そのものが移転してしまった所もたくさんあります。

実は、浦山は秩父の市街地から、浦山村の入り口近くで5キロ、奥地でも15キロの距離しかありません。ですから、道のりだけをみると、小鹿野町や吉田町よりも秩父の街にはるかに近いところにあります。ところが、土地がありません。たぶん、家を建てる土地を確保するのも困難だったと思います。こういう村の地形では家を構えても、車が走る道に出るだけで大変です。離村もやむを得ないのかなと思います。

私が行ったのは、十一月の紅葉の季節でした。川俣の集落近くに山に入る道があります。その先がどうなっているのかと行ってみました。

山の麓を沢が流れ、そのそばに廃屋が二軒ありました。庭には、収穫する人もないのにユズが実をたわわにみのり、楓が赤く紅葉していました。二階建ての屋根の一部が崩れ、もうだいぶ前に廃屋になっているのがわかります。

ふと見ると家の脇に新しい墓石がありました。墓誌には4人の名が刻まれていました。
昭和40年  男性83歳
昭和40年  女性76歳
昭和47年  男性63歳
平成14年  女性84歳
たぶん前の二人は先代夫婦で、後の二人はこの夫婦の息子夫婦だと思います。先代夫婦はおそらくこの村で生まれ、この村で生き、そうしてこの村で一生を終えたと思います。しかし、二代目の夫婦はそうはいかなかったような気がします。そうして、二代目の母親をここに葬った遺族の方の心中を想像するとさまざまの感慨が去来します。

ふとこんなことを考えます。文明が進めば人々の生活は便利になる。しかし、それで人々が幸福になるかというとは決してそうではない。新しい発明がなされれば、たしかに仕事の時間が短縮され、効率はよくなる。しかし、人間というのは不思議なもので、では余った時間で人生を豊かにするかというとそんなことはない。必ずまた新しい義務的仕事を見つけ、前よりいっそう濃密で神経をすり減らすことになる。そうして過酷な労働を自らに課し、孤独な状況に自らを追いやる。現代人は息絶え絶えの状況に呻吟しているが、それは誰のせいでもなく自ら招いた、いわゆる人間の自業自得というものでしかないのではないのか。

4.山村の風景

浦山川の下流は荒川の川筋に近く、したがって秩父往還沿いになります。また、旧秩父郡の中では比較的賑わっていた旧日野村のすぐそばに位置しています。しかし、昔からこの下流の川岸には人は住みませんでした。

このことは浦山村に限らず、秩父の山岳地すべてにあてはまります。奥深い山の中にも人は住んでいますが、人家はたいてい山腹か頂上付近にあり、麓の川沿いにはありません。私は最初に東秩父のいわゆる外秩父(そとちちぶ)の山間地を車でまわった時、山を登るにつれてだんだん人家が増えてくるのを見て非常に不思議でした。しかし、いろいろ考えてようやくわかりました。

険しい山も斜面のどこも同じように険しいというわけではありません。傾斜がもっとも急なのがふもとの川のところです。ですから、ここには人は住みません。しかし、中腹のあたりから傾斜もゆるやかで、狭いながらも畑にできるような所があります。すると、ここに人は家を作り住みつきます。畑にできる斜面がもっとも多いのは頂上付近です。そこで、頂上付近には比較的多くの人々が住み着くことになるのだと思います。とくに外秩父の山は、高いといっても海抜千メートルくらいです。畑地になりそうな土地も多くあります。

それと秩父では、冬になると、盆地の底の平地より標高400から600メートルの山間地の方が気温が5、6度高くなるという気温の逆転現象がおこります。ですから秩父の高地は平地より比較的温暖で人々が十分暮らしていける所なのです。

話はそれますが、落人部落というのが各地にあります。しかし、あれはすべて事実ではないと思います。山中の奥深くに突然集落が現れると、知らない人は驚きます。しかし、あれは単にそこが人々の生活できる場所だから住んでいるだけのことで、別に世間から隠れているわけではありません。山村の生活は意外と恵まれていて、平地の上層農民のような豊かさは無理ですが、いわゆる水呑百姓とよばれる下層農民の悲惨さとも無縁だったように思います。また、山村の労働についても、詳しいことは知らないのですが、平地の農民に比べとりわけ過酷ということはなかったのではないかという気がしています。

考えてみると、山村の利点は二つあります。一つは、山村に住む人々は借金をしません。山村は思いの外貨幣経済に組み込まれていますが、山村では金を借りようにも、貸してくれる所がないのと、担保に差し出す資産がありません。ですから借金とは無縁です。したがって、借金に追い回されるということはありません。明治になって起こる秩父事件は、たしかに農民の借金がもとですが、事情はちょっとちがうように思っています。

それとこれが山村の最大の利点ですが、こういう奥深い山に住む人々は、昔はだいたい租税が免除されるか、非常に軽い税で済んでいたことです。

江戸時代の農民をみると、平地の農民が没落するのはだいたい借金です。
年貢が払えなくて借金をし、一度借金をすると今度は借金の返済と年貢の重さで身動きとれなくなるというのがもっとも多いパターンだったようです。そして、この上に家族の誰かが病気になり、そのため医者にかかるということになればまちがいなく破産です。その点、借金と租税の心配がない山村生活は、家族が健康であれば生活に不安を持つということはまずなかったと思います。

ただ、今の私たちとちがって、昔の人にとって税を払わなくてもよいというのは単純に喜ばしいことではなかったようです。「風土記稿」の中津川村の記述に、この山村は免租だったが村人が課税を願い出た。徴税しても仕方ないが村の顔を立てて微税を課した、というような内容のことが書いてあります。ですから、昔の人にとって租税免除というのは、ちょうど戦前の徴兵検査で不合格になった若者が、男として失格の烙印を押されたような屈辱を感じるのと同じようなものだったようです。

浦山村のこと(1)

浦山村のこと
1.浦山への道

国道140号を秩父の市街地から山梨方面に車を走らせると、旧荒川村との境でそれまでまっすぐだった道が急なカーブの下り道になります。しかし、その手前で左に折れる県道があります。

その道もはじめは下りですが、やがて長い登り道に変わり、途中短いトンネルやむき出しの崖地を見ながら道なりに行くと前方に大きなダムが見えてきます。この道路は立派に舗装されていて、ダムの所で曲がり、細長い湖をはるか右下に見ながらずっと先まで続いています。これが旧浦山村に行く道です。
ダムは浦山ダム、湖は秩父さくら湖です。この湖は浦山川をせきとめて作った人造湖です。国道のさっきのカーブの所は、この浦山川が荒川と合流するする場所で、「浦山口」(うらやまぐち)といいます。昔は秩父から旧浦山村に行く入り口でした。

ダムに沿って走る道は、短いトンネルを三ケ所次々と通りぬけます。道は緩やかな坂道です。三つ目のトンネルを出ると、左手の傾斜地に家が五六軒ある集落に出ます。「大谷」(おおげ)の集落です。しかし、大谷をすぎると、また無人の景色が広がり、やがて長いトンネルが現れます。「寄国土」(ゆすくど)トンネルです。このトンネルをくぐると、眼の前に浦山大橋という大きな橋が見えます。ダムの所からここまでで、旧浦山村の半ばを通り過ぎました。この間、眼に映った人家は大谷の集落だけです。湖の対岸にも家は見えません。左手には、くすんだ黄色や赤に染まる雑木の山肌がせまり、右下には、絵の具の青の原色を塗ったような湖面が見えるだけです。

しかし、実は大谷の集落を過ぎたすぐの所に、山の頂上に向かって伸びる細い道がありました。昔の道です。この道の先には山の頂上近くまで起伏に富んだ地形が広がっており、ここにも人家がポツリポツリあります。そして、ここも旧浦山村です。「日向」(ひなた)、「岳」(だけ)、「巣郷」(すごう)「、茶平」(ちゃだいら)、「武士平」(ぶしたいら)。そして、トンネルのある「寄国土」も旧浦山村の地名です。

地名は、山や川や峠の名でなければ、それは人が住んでいる所の名前です。昔の人は一軒でも家があれば名前をつけています。それは小字(こあざ)というより屋号といったほうがふさわしいのですが、「風土記稿」では、秩父大宮の中心地の「上町」も、山間の寒村のたった一軒か二軒の地名にも同じように小名とよんでいます。

昔はトンネルはもちろんこのダム沿いの道路もありませんでした。ですから、村人はふもとの浦山口から、浦山川沿いの急斜面の道をほとんど山登りでもするように、この大谷まで歩き、そしてまた、あの山の道を登っていたのです。道はそこから、さっきの日向などの集落を通り、さらに大きく弧を描いて「大神楽」(おかぐら)という所に出ます。大神楽で、道は再び下りになり、この橋のずっと先にある「毛付」(けづけ)という所でこの県道と合流します。

今の道は湖岸の道路で寄国土のトンネルを抜け、浦山大橋を渡ります。このあたりが湖のはじまりで、本来の浦山川がその姿を現します。驚いたことに橋の上から釣りをしている人がいました。聞いてみましたところ、橋から水面までの距離は65メートルだそうです。

浦山橋を渡ると、川は道路の左側に変わり、川も道路の高さにぐっと近づきます。川の対岸を「山掴」(やまつかみ)といいます。昔は山津神と書きました。昔の道は、その山掴の方にあります。川岸は険しい崖になっていて、その岩壁に貼りついたように家が何軒かありますが、それはすべて廃屋です。そういう捨てられた人家を過ぎると「毛附」(けづけ)の集落に着きます。この毛附とそのすぐ先の「川俣」が、いわば旧浦山村の中心地です。毛附には昌安寺という寺があり、川俣には小学校があります。浦山口から、毛附までは直線で約10キロ。そう長い距離ではありませんが、いかにも遠くに来たという感じがします。そして、この毛付と川俣の先には人家はありません。また、大神楽からさらに東南に上れば、「冠谷」(かんむりだに)という所があって、ここが浦山村の奥の奥になります。ここには、昔は二三軒ありました。しかし、今はどうなっているかはっきりしません。

2.昔の浦山村

「風土記稿」によると、浦山という村名は武甲山の裏にあるからついたとあります。確かに浦山村は武甲山の裏手にあたりますが、実際には、この武甲山の西側には高い山々が波打つように広がっていて、この山間部の急な斜面にポツリポツリと人家が点在しているのが浦山村です。

「風土記稿」を見ると、当時の浦山村の戸数は180とあります。そして、浦山村の人々は主に焼き畑で生活していました。しかし、焼き畑農業では必要な食料の半分も自給できず、そのため、男は山木の伐採、薪の切り出し、白箸削り、鋤の柄作り、鍛冶炭(クリの木を焼いた炭)。鳥獣魚の狩猟。女は麻、絹、藤太布の機織りとあります。

もっとも頼りとなる副業は薪の切り出しだったようで、村には馬が17,8頭いて、この馬の背に薪を積み秩父の町まで売りに行き、帰りには米粟を買ってくるということが書いてあります。この17頭の馬というのは浦山村の小名の数と同じです。ですから、集落ごとに馬が共有されて、一種の組合みたいな形で運営されていたのかなと思います。

ちなみにこの薪というのはなかなか有力な副業でした。というのも、薪は燃料ですが、昔は木の薪というのは貴重品だったからです。たとえば、農家でも囲炉裏に木の薪を使うのは来客があった時か、盆や正月の晴れの日くらいでした。ふだんは蔓性の細い枝木や桑の細い枯れ枝を、家中を煙だらけにして燃やしていました。村から秩父の町に持っていけばそれなりの収入になっていました。 
浦山村が旧秩父郡でも特異なのは、村への入口が北の浦山口しかなく、村の三方が閉ざされていることにあります。東は武甲山、西は川浦山などの高い山、南は有馬山という険しい山でさえぎられ出入り口がありません。この三つの山地に囲まれた細長い谷底を浦山川が流れています。

「風土記稿」はこういう村の様子を、中国の有名な伝説、川の上流をさかのぼり洞窟の向こうに突然現れる桃花源にたとえています。

現在は浦山の毛付から南の方角に林道が走っていて、この道は有馬山を越えて飯能市の旧名栗村に通じています。しかし、昔はこの道はありませんでした。この林道も、私は実際に車で走ってみました。二時間くらいかかりました。私が通ったのは11月の平日でしたが、驚いたことにこの二時間の間、対向車が来たのはたった1台でした。日本にもこういうところがあるのだと驚きました。

道路がある現在でもこうですから、昔は有馬越えで名栗村やそのすぐ隣の東京都の青梅方面と往来するのはとてもできなかったろうと思います。そういう意味で、この浦山村というのは袋小路の村です。
「風土記稿」には、同じ秩父の辺境の村に、奥秩父の中津川村があります。戸数二十七の小さな村です。しかし、ここは秩父からすれば西の果てですが、その果ての先には長野県の梓山村という村落があります。中津川の人たちはこの村と交流し、嫁取りもこの村からしていました。ですから、中津川村は辺境の地といっても、秩父と信州を結ぶ細い糸の間にあります。
  
ところが、この浦山村には浦山口への道を除くと道がありません。ですから、浦山村の外からこの村にやってくる人はいません。「風土記稿」では、浦山口に近い所は他の村々と同じだが、奥地は風俗もちがっている。髪を結う習慣もなく、短い衣服で一年中過ごしているとあります。ただ、人々は素朴実直で「風土記稿」の執筆者がこの村を訪れた時には、村人が道に転がっている石や木の枝を取り除きながら案内するので、そういう心遣いは無用だといったところ、「道を歩く人が歩きやすいようにするのは当然のこと。自分は先に江戸まで行った折にも往復の道すがら同じことをしていた」と言って執筆者を感心させています。

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4.北条氏の北武蔵進出

二つの力が拮抗して静止して見える状態も、ほんの少し均衡がくずれると変化します。その変化は最初はゆっくりですが、ある臨界点を越えると急激に一方に傾きます。これを自然科学ではカタストロフィ現象といいます。歴史でも似たようなことが起こります。戦国時代の北武蔵にもこのカタストロフィがやってきます。それは北条氏と両上杉古河公方の連合軍が戦った川越城をめぐる戦争でした。

川越は地図で見ると関東平野の真ん中にあります。しかし、ここは北武蔵の南端です。ここからさらに南部をみると、東側には低湿地帯が広がり、西側はいくら井戸を掘っても水が出ないという台地です。ですから、昔から川越は豊かな北武蔵と不毛の南武蔵の境界になる戦略上の要地でした。

川越城はもとは扇谷上杉の持ち城でした。その川越城を関東征服をめざす北条氏が占領します。しかし、川越を北条氏にとられては北武蔵全体が危うくなります。そこで扇谷上杉は山内上杉と古河公方に加勢を頼み大軍で川越城を囲みました。1546年のことです。

戦いの経過は省略しますが、夜の奇襲作戦が功を奏し北条が圧勝します。これが川越夜戦とよばれる戦いでした。少ない兵力で大軍を打ち破った戦いとして、信長の桶狭間の戦い、毛利の宮島の戦いと並んで有名です。しかし、実際は組織化した軍隊と地侍をたくさん集めただけの軍隊の戦いで、この結果は当然の帰結でもありました。

この戦いで扇谷上杉は滅亡し、古河公方も古河におしこめられます。山内上杉も本拠の鉢形に引き上げました。しかし、今までの戦いとちがって、北条は追及の手をゆるめず一気に北武蔵に押し寄せました。
これを北武蔵の土豪や豪族が見ていました。当然彼らは動揺します。しかし、長瀞寄居に広い領地を持つ地元の豪族の藤田氏は、「もう上杉の時代ではない」と痛感し、率先して北条にしたがいます。これを機に北武蔵の土豪たちがいっせいに北条方につきました。

こうなると管領山内上杉氏といえども北武蔵にはいられません。上杉憲政は鉢形を放棄し、上州に落ちのびます。こうして、北条氏の北武蔵攻略が成功しました。

ただ、秩父の土豪たちは簡単には北条氏に従いませんでした。彼らは最後まで北条氏に抵抗し、今の皆野町の日野沢にある高松城にたてこもりました。しかし、北条氏は篭城する秩父軍をたくみに説得して降伏に導きます。

鉢形城に入った北条氏邦は北武蔵の土豪たちを再編し、鉢形北条軍の中核にします。そのうちでも、秩父の兵は秩父衆とよばれ、秩父孫次郎という人が頭領となります。秩父衆は兵数も多く、保有する鉄砲も多く、その後は鉢形北条軍の最精鋭部隊として武蔵から上州の地で戦うことになります。

ちなみに鉢形から逃れた上杉憲政は上州の伊勢崎に逃れます。しかし、今度は武田信玄に攻撃され、とうとう越後に落ちのびていきます。そして、越後の領主長尾景虎に上杉の姓と管領職を譲ります。これが上杉謙信です。そして、この長尾氏は最初に取り上げた長尾景春の同族です。こうして長きにわたって関東に君臨した上杉家は消滅しました。

また、「風土記稿」によると、北条滅亡後、秩父衆の頭領秩父孫次郎の次男は旗本にとりたてられ幕臣となったが、孫次郎自身は彦久保と姓を変え、旧阿熊村に帰農したとあります。

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丹党について、埼玉大百科事典には46の氏名をあげています。それを見てすぐに気づくのは、丹党の諸氏の姓がほぼ江戸時代の村落名と同じになることです。たとえば秩父郡を選んでみると次の14氏になります。

上中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
下中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
秩父 (児玉党にもある。ただ、北条氏邦麾下の秩父衆の頭領は秩父孫二郎という人)
 薄 (旧両神村の地区名。旧秩父郡の一村)
小鹿野(旧秩父郡の一村。現西秩父市)
横瀬 (旧秩父郡の一村。現横瀬町)
藤矢淵(旧秩父郡の一村)
野上 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
井戸 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
岩田 (旧秩父郡の一村。現秩父市)
三沢(旧秩父郡の一村。現皆野町)
黒谷(旧秩父郡の一村。現秩父市)
岩田(旧秩父郡の一村。現長瀞町)
山田(旧秩父郡の一村。現秩父市)

これらの村落の多くは、「風土記稿」を見ると、江戸時代の後半になっても人家数が100から200くらいの村です。この人家数は、山間部の村では戦国時代も江戸時代もあまり変わらず、平地部の村では戦国時代には人家数はもっと少なかったと思います。ですから、こういうことを考慮すると、戦国時代にそれぞれの丹党武士が動員できる兵力も、最大でも10〜20人程度の小さなものだったと思います。したがって、丹党といっても、大勢の兵を従える豪族というよりは、いったん事がおきると土地の若者や郎等を引き連れて駆けつける土豪というほうがふさわしいように思います。ただ、薄村の薄氏などは、村の面積も広く、人家数も多かったと思われますから、こういう村ではある程度軍隊らしい体裁を整えていたかもしれません。

丹党は丹治党の略で、丹治氏の末裔ということになっています。丹治氏は平安時代に武蔵の国司だった人です。ですから当然京都出身の高級官僚です。そして、この人の子孫が武蔵各地に開発領主として住みつき、その子孫の連合体が丹党ということになっています。

しかし、この説は一種の貴種流離で作られた神話で事実ではないと思います。ある村の領主が丹治氏の子孫で、隣の村の領主も、その隣の村の領主も丹治氏の子孫というのはどう考えても変です。実際は、自分で丹治氏の子孫だと称し、周囲もそうだと承認すれば丹党になるという一種の疑似血縁集団だったと思います。丹党を含む武蔵七党ぜんぶにそれらしい家系図もありますが、とても事実とは思えません。とはいえ、それでも一応血縁組織ですから宗家があります。それは大宮郷の中村氏になっています。

秩父を歩き回ればすぐにわかりますが、秩父には山に囲まれた小さい谷間が無数にあって、そこに小さな集落が散在しています。そして、それらの集落がいくつか集まって村をつくっています。この村の最有力者の家が丹党になったのだと思います。その実態はわかりませんが、想像してみると次のようだったと思います。

彼らは村内で領主のように振る舞っていました。広い土地を持つ地主ですが、山間狭隘の地形のため、土地はあちこちに散在していたと思います。そして、それを小作農民に小作させたり、奴隷身分の農民たちを所有して直接農地を耕作させていました。しかし、江戸時代以降とちがって、たぶん小作農より奴隷身分の農民の方が多かったと思います。というのも、丹党は地主であると同時に武士でもあります。村内農民を兵士として働かせるにはどうしても奴隷的農民でなければならないからです。あるいは逆だったかもしれません。こういう奴隷的農民を所有していたから、武士としても活動できたのだと思います。また、彼らは分家を持つ本家でもあったと思いますから、分家の人たちも動員できたと思います。

当然、村にはほかに独立した農民もいました。しかし、村内には、共有地である入会地の利用や宗教行事など村全体で動くことも多く、そういう時には、こうした農民は丹党の土豪的農民の指図にしたがうことになります。また、大きな戦争が起こり、自分の村だけでなく近隣の村全部が参戦せざるをえない場合には、こういう独立した農民も当然加わることになり、その場合は、この丹党土豪の指図に服することになったと思います。前に説明した、長尾景春のような武将たちの軍は、こういう人たちで構成されていたのだと思います。

ですから、丹党の武士団は強制的に狩り出された兵士ではなく、有力武将たちに頼まれて参戦したのだと思います。したがって戦場でどの程度の真剣さで戦うかは彼らの自由意志です。当然軍隊としての強固な規律は期待できなかったと思います。

しかし、こういう丹党の武士団を考えると、今度は彼らが戦争に参加する動機というのがよくわかりません。というのも、上杉と長尾の戦いも見ればわかりますが、当時の北武蔵での戦いの多くは役職や待遇をめぐる争いです。戦国時代特有の領地をめぐる戦いではありませんから、戦争に勝っても恩賞として領地がもらえるということはなかったはずだからです。それに、かりに戦争に勝利し、たとえば丹党のだれかが、恩賞としてある村の領地をもらっても、それは武蔵七党のだれかの領地であり、そこの村の人たちがおとなしく新しい領主の支配に服することなどありえません。ここが平安末の源平の戦いと大きく違うところです。

平安末の源平の戦いは東西日本の争いでしたから、戦争に勝てば相手の領地を恩賞としてもらえる期待がありました。事実、頼朝は気前よく、西日本の平家領を武蔵武士に恩賞として与えました。しかし、戦国時代の北武蔵の戦争は内部抗争でしたから、源平の時のように恩賞として領地をもらったり、負ければ領地をとられたりということはなかったはずです。ですから、土地の土豪にすぎない武蔵七党の人たちの動機というのがわかりません。

私もいろいろ想像してみましたがよくわかりません。考えられることは次のことくらいです。
ひとつには同じ丹党仲間の動向だと思います。上杉や長尾という有力武将が各村に参戦の要請がきても、丹党の土豪たちは10人くらいの兵しか持っていませんから、単独で判断することはなかったと思います。ほかの村の有力土豪たちが相談して、何となく方針が決まるのだと思います。そして、そういう大勢にしたがって、参戦したり見送ったりするのだと思います。

そしてもうひとつは名誉です。うまく勝ち戦で活躍すれば、上杉家中、あるいは長尾家内で相応の地位を与えられるだろうという期待です。その地位が得られても実益はあまりないのですが、そういう名誉は土豪たちには大変魅力的だったと思います。

そもそも、この丹党というのも、外敵から共同して立ち向かう同盟というものではなかったと思います。それよりも、村の土豪たちがお互いに村での領主的立場にいることを認め合うものだったと思います。
それと丹党の分布を見ると、奥秩父の両神あたりから、外秩父のさらに外の飯能、日高、越生あたりまで非常に広範囲に及んでいます。これはたぶん婚姻範囲だと思います。丹党の土豪たちは村では領主的立場にいましたから、村内で通婚することはできません。同じくらいの家格の相手と結婚しなければならないということもあって、範囲が広がったのだと思います。そして、こういう婚姻を通じてさらに同族のつながりを深めていたのだと思います。

ですから丹党には頭領というべき存在はいません。先にあげた秩父大宮の中村氏が宗家になっていますが、これはほとんど名目だったと思います。これはほかの武蔵七党についても当てはまると思います。
武蔵七党の頭領ということでしいてあげれば、関東管領の上杉氏ということになると思います。権威だけは重々しく、実質的な力を持たないこの名家は、丹党の土豪たちにとって非常に都合のよい存在でした。たぶん納税の義務はなく、せいぜい寄進、つまり臨時的な寄付くらいですむからです。戦争に参加を命ぜられてもさほどの強制力などなかったからです。

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しかし、戦争のこういう姿は,室町時代には全国的に見られたとですが、武蔵国はとくに顕著だったと思います。

戦国時代というと、戦争につぐ戦争で日本中が荒廃したイメージがあります。しかし、中国の戦国時代や中世ドイツの三十年戦争の頃の様子を見ると、これらの国でははげしい内戦で人口が激減してしまいました。ところが日本の室町時代では、むしろ人口が増加しています。ということは、この時代は確かに戦争
が多く、世の中は混乱しましたが、それは社会の上層だけのできごとで、ふつうの人々にとっては案外生きやすかったのだろうと思います。

足利公方や上杉管領、長尾という人たちは、ちょうど吹き流しの鯉のぼりのようなものでした。中身がありません。うまく風にのれば勢いが出て、大勢の兵が集まりますが、パタリと風がやむと見るも無惨ということになります。しかし、なにかのきっかけで風が吹くと、また勢いよく泳ぎ出すというわけです。そこで、こういう古い時代の戦争は、内容に乏しい、したがっていつまでも決着のつかない戦争が延々と続くことになります。

当時の北武蔵の戦争はすべて小規模の戦いだったと思います。室町時代も後半になると、上杉、長尾というような旧勢力は、その活動の領域が北武蔵に限られます。そして、この狭い地域での争いですから動員できる兵力も小さくなります。

ずっと後に徳川家康が関東を領有します。その時の武蔵国全部の石高は確か80万石でした。また、江戸時代の幕府領、川越藩、忍藩、前橋藩松山領という領地をあわせても、北武蔵の石高は多く見積もって半分の40万石です。そして、江戸時代の藩を動員可能兵力で見ると、10万石でだいたい1500人くらいです。すると、この地域の動員数は6千人くらいにしかなりません。戦争という非常時を考慮しても、この地域で一度に調達できる兵力は1万人を越えることはなかったと思います。それが敵と味方に分かれ、しかも戦場を限定しての戦いですから、長尾上杉の戦いなどは、どう考えても500人以下の戦闘だったと思います。ですから、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島のように、1万人を越える軍団の激突というような華々しい戦いというのはまずありえなかったと思います。

話は少しそれますが、後に、両上杉と古河公方が8万人を越える連合軍で、北条氏が守る川越城を囲んだという史実は信じられません。おそらく、その10分の1くらいの8千人でも多すぎます。また、この時の北条軍が1万人強で、城には3千人の城兵が籠もっていたとされますが、狭い平城の川越城を考えと、これだけの城兵が1月以上籠城するのはとても無理だと思います。ですから、こちらの方ももっと少なかったろうと思います。

一般的に、当時の北武蔵の戦争というのは、農作業が終了した秋に集められた200人前後の農民兵が敵味方に分かれて小競り合いをくりかえすというものだったと思います。

もっとも、これらの戦争は、軍事的決着をつける戦いではなく、当事者の政治地位を決める戦争です。ですから、戦争自体は地味でもそれなりに高度な政治戦でした。それはある意味では、近代戦争の理論家クラウゼビッツが、「戦争とは政治の一つの手段である」と言ったように、細かい駆け引きと複雑な合従連衡を組み合わせた神経戦でした。

3.北武蔵の後進性と丹党

北武蔵が古い伝統勢力の争いの場になったのは、一言でいうとこの地域が後進地域だからでした。足利公方、関東管領、その執事という高位の人たちは、元々は鎌倉にいて関東全域を統治するはずでした。それが北武蔵や上州、下総北部(古河公方は茨城の古河に逼塞します)に移るのは、ちょうど池の魚が干上がるにつれだんだん隅に集まるように、新興勢力の北条や武田という戦国大名に追いやられたからです。古い勢力には生きのびる場所はここしかなくなっていました。逆にいうと、この地域は古い伝統勢力が昔ながらのスタイルで活動できる素地がまだ残っていたということです。

鎌倉、室町前半までは中央(ここでは鎌倉ですが)の政治権力は社会の表層にとどまっていて、社会を作っている底まで足を下ろして支配することはしませんでした。しないというよりできなかったのだと思います。それはたぶんあまりに岩盤が固すぎたからです。岩盤とは具体的にいうと村落です。この村という人々の生活単位の機能があまりに強すぎて、権力者が直接人々を支配することができなかったのだと思います。それが、室町時代後半の戦国時代になると、関東以西では権力がまがりなりにも、直接人々を支配ができるようになりました。それが戦国大名です。ところが、北関東では戦国時代になってもこれが実現せず、古い仕組みが残ることになったのだと思います。

北条氏が支配する前までの武蔵には武蔵七党とよばれる武士団が各地にいました。この武蔵七党は、ある歴史上の人物の子孫たちの同族組織です。ですから、あくまで同族間の横のつながりで君臣という縦の関係ではありません。そして、地理的にまとまった地域に分布しています。

武蔵七党は数え方によって、党の名がちがったりするくらいですから、その実態はよくわかりません。また、鎌倉時代まではどの党も同じような活動をしていたと思いますが、時代が下ると、地域によっては実質解消してしまったのもあると思います。

おそらく平野部の党は早くになくなったと思います。たとえば猪俣党の藤田氏は今の長瀞あたりを勢力とし、領地も広く後に北条氏邦を女婿としています。こうなると、ほかの猪俣党の諸氏とは力がちがいますから、おそらく対等の関係ではなく実質的に主君になっていたと思います。また、横山党の成田氏は行田の忍に城を構え、後に鉢形城の北条氏邦や八王子城の北条氏照と共に前線司令官の役割をしています。たぶん戦国時代の早い時期に、豪族というよりは小さな戦国大名に成長していたと思います。こうなると、とても武蔵七党の武士団の一人ということにはなりません。

しかし、秩父盆地から西の秩父郡では、土豪たちが狭い山間地にそれぞれが割拠し、独立意識も強かったと思いますから、その中から藤田や成田のような大きな勢力が成長するはずもなく、鎌倉時代あたりの古い党意識が室町時代後半の戦国時代になっても続いていたと思います。
そこでこの武蔵七党について、旧秩父郡をとりあげてその姿をまとめてみます。旧秩父郡の大半は丹党です。

丹党は今の皆野町あたりから秩父市の全域と小鹿野町の旧秩父郡に分布しています。しかし、秩父郡の東の高麗郡や入間郡にも丹党がいます。秩父郡でも、吉田氏(旧秩父郡の一村。現秩父市)、大淵氏(旧秩父郡の一村)、金沢氏(旧秩父郡の一村)、阿佐見氏(旧秩父郡大宮郷にこの姓の割役がいました)は児玉党に入っています。これらの四村は赤平川の北岸にありますから、児玉党に入るのは理解できます。先にいったように武蔵七党は地理的にまとまっているのが特徴です。


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