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後北条氏前の北武蔵
1.長尾景春
北条氏が入ってくる前の秩父は、非常に遅れていてたぶん鎌倉時代とあまり変わらなかったような気がします。このことは秩父に限らず、武蔵国全体にあてはまりますが、とりわけ秩父は古い時代の仕組みがそのまま残っていたような感じがします。そこで、ここではそういうことをふくめて、室町時代後半の、いわゆる戦国時代の北武蔵について考えてみます。
京都で応仁の乱が起こった1400年代の中頃、秩父をふくむ武蔵国もすさまじい下克上(げこくじょう)の時代でした。下克上というのは、下が上に克(か)つという意味です。当時の武蔵の権門や豪族たちにとって、最大の敵は家来であり、同族の身内であるというありさまで少しの油断もできませんでした。中世のイタリアでは、領主が人に会う時には、暗殺を警戒して体育館のような広間で相手を何十メートルも離して大声で会話したといいます。心理的にはほぼそれと同じでした。
私もこの頃の様子を本で読んでみましたが、同じような名前の人が何人も出てきて、その人たちの離合集散がめまぐるしく、何がどうなっているのかさっぱりわかりませんでした。その上、史実も断片的でまちまちです。おそらく正確なところはだれにもわからないのだと思います。
それでも、当時のことをおおざっぱにまとめると、ほぼ次のようだったと思います。
15世紀半ば北武蔵で動乱の渦中にいたのは、長尾景春という人でした。長尾氏は関東管領の山内上杉氏の執事になる家柄で、同族の中には越後の守護代の長尾氏もいました。ですから、長尾氏は武蔵に割拠する豪族というよりは、関東から越後にかけて、広い範囲に勢力をもつ権門でした。そして景春の父は関東管領の山内上杉家の執事でした。執事というのは、当主に代わって主家をとりしきる役職です。
景春の父はかなりの実力者で、越後守護であった傍流の上杉家から顕定という人を本家に迎え入れ管領にしました。管領になった顕定は、荒川が平野部にでる出口の寄居町の鉢形に住みました。この鉢形は戦国時代、北武蔵最大の要衝で、すべての政治軍事的事件はここで起こったといっても言いすぎではありません。
しかし、その後景春の父が亡くなると、顕定は執事の職に景春ではなく、景春の弟を任命します。そこで景春はこの人事に不満を持ち、主家の上杉氏に反旗を翻しました。具体的には主家の顕定を鉢形から追放してしまったのです。この時、山内上杉は同族の扇谷上杉と良好な関係にありました。そこで景春は顕定のほかに扇谷上杉とも戦うことになります。扇谷上杉はもとは弱小勢力でしたが、太田道灌を家宰にしてから急速に力をつけてきていました。そこで景春も道灌が駿河に出陣したすきをねらって謀反をおこしました。1476年のことです。
景春は長尾氏の嫡流で、しかも上杉家の主家にあたる古河公方が景春に加勢しましたから、上杉顕定にとって景春は強敵でした。この戦いは、長尾上杉一族も敵味方に分かれたばかりでなく、各地の土豪や豪族を巻き込んでの抗争になりました。戦局は、初めは景春の方が優勢でしたが、まもなく逆転し、戦上手の道灌が活躍すると景春はあちこちの戦いに敗れます。こうなると、味方であった古河公方の助けもなくなり、景春はとうとう秩父の日野城に追いつめられ降伏せざるをえませんでした。これが1500年の頃です。
しかし、景春の反抗はその後も続きました。さらに、景春の脅威が小さくなると、山内上杉と扇谷上杉との骨肉の争いが再燃します。顕定は策謀をめぐらし、扇谷の当主に道灌を殺害させるという事件が起こります。この間のいきさつはわかりませんが、その後景春は扇谷上杉と結んで山内上杉と争うようになります。
一方この頃、管領顕定の弟で、越後の守護だった上杉家の当主が、守護代の長尾為景(景春の同族。後の上杉謙信の父)に殺害される事件が起こりました。そこで、顕定はこちらでも戦争をはじめ、その戦いで戦死してしまいます。すると、景春は為景に呼応して上州でまたあらたに戦いを起こし、後継者の管領と戦いをはじめます。それが1510年の頃です。
この頃には、戦線は北武蔵の南端の川越や上州越後というように拡散し、北武蔵は主戦場ではなくなりますが、景春と管領家との抗争はまだ続くことになります。この頃には、景春もそうとう高齢だったはずですが、老いは景春から気力を奪うこともなかったようです。すさまじい執念でした。
2.室町時代の名家、権門
室町時代にこのように君臣同族間で対立抗争が起こるのは、関東に限らず全国的傾向です。その原因も一つではないと思いますが、最も大きい原因は、この時代は権力の上層になればなるほど政治軍事力が薄まるということにあったように思われます。
一般的に、室町時代では身分が高くなると支配地域も広くなりますが、その代わり支配力が弱くなります。反対に低い身分で支配地域も小さくても、そこで強固な支配力を持てば、場合によってはこちらの方が有利になります。
たとえば、当時の関東で最高身分は公方(くぼう)です。公方は足利尊氏の子孫で、その支配地は関東全域です。しかし、よく見ると公方には、はっきりした自分の領地というのがなかったようです。というのも、関東はいくつもの国に分かれ、それぞれに守護大名がいて、そこでは公方よりも守護大名の支配力の方が強かったからです。つまり、公方は関東を支配するといっても、それは守護大名たちを間においた間接支配にすぎません。ですから、公方には、関東全域から徴兵して軍団を組織したり、直接徴税してそれを自己の財源にするというようなことはできませんでした。
この点は京都の足利将軍も同じです。たとえば八代将軍の義政は、官位をほしがる田舎大名たちを朝廷に斡旋して、そこから入る謝礼が大口の収入源でした。また、妻の日野富子にいたっては、京に関所をもうけて関銭をとったり、高利貸し、それから米を買い占めて相場でもうけるというように、およそ将軍夫人にふさわしくない利殖活動を盛んに行い、夫の義政より金満家でした。
それでも将軍の場合はこういう収入源がありました。しかし、関東にいた公方がどうやって財政をまかなっていたのかよくわかりません。
したがって、考えようによっては、公方より家臣の上杉氏の方が有利でした。上杉氏は室町幕府の創始者足利尊氏の実母の家です。上杉家は足利家の家臣というより縁戚です。その上、伊豆、上野、越後の三ヶ国の守護でした。ですから、この三ケ国を支配する上杉氏が、ほかの何人かの守護大名と結べば、公方は何もできません。後に、関東の将軍といもいうべき公方が、上杉氏の手で鎌倉から北関東の古河に追いやられたのも、優勝劣敗ということでは自然の成り行きでした。
しかし、公方のこういう姿は、実は関東管領の上杉氏にもあてはまります。関東管領というのは元々は公方をさす職名でした。ところがこの言葉には将軍の家臣という意味があり、鎌倉府の足利管領はこれを嫌い、公方という新しい称号を使いました。そして、関東管領の職名を執事であった上杉氏に与えたのです。すると、上杉氏もそれまで自分の職名であった執事の職名を自分の筆頭家臣に与えます。それが山内上杉の長尾氏であり、扇谷上杉の大田氏です。
一方、上杉氏は三代目になると四家に分かれます。嫡流があって残り三家が傍流なら、本家と分家です。しかし、四家とも対等意識を持ち、鎌倉の所在地で山内とか扇谷というようにお互い区別し、しかも四家の中でも多くの分家が生まれる状況になります。そして、上杉氏はそのたくさんある上杉家の間で、管領職とか守護職という役職を分けあうことになりました。その結果、総帥の上杉家には、管領という権威のみであまり実のない地位しかなくなってしまいます。それはまったく足利公方がおかれた状況と同じです。一言で言うと張り子の虎になってしまったのです。そうなると、主君の公方に家臣の上杉氏がいうことを聞かなくなったように、傍流の上杉諸家、それから執事をはじめとする家臣たちも、総帥の上杉家に遠慮せずに自分の都合で勝手に動きます。
したがって、戦国時代の関東は非常に流動的で不安定になります。関東の支配者は公方かと思うと、その中から上杉という実力者がでてきます。それでは上杉が実質の支配者かと思うと、今度はその中に長尾や大田という実力者の姿が現れてきます。このあたりはまるでロシア人形の、人形の中から小さな人形がいくつもでてくるマトリョーシカの人形のようです。
しかし、さらに大局的に見れば、公方、上杉諸家、長尾大田氏という名家は、明確な自領と軍を持たないということでは同じです。ここが、関東以西の戦国大名と決定的にちがいました。
たとえば、前にあげた長尾景春の反乱ですが、彼は北武蔵の各地で戦いを繰り広げています。しかし、その戦場を見ると地理的連続性がありません。ふつうは、ある場所で戦いそこで負けるとその後方に引いて戦線を整えまた戦うということになります。ところが、彼の戦いはある場所で負けると、そこからとんでもなく遠く離れたところでまた戦いをはじめています。ですから、景春の軍もあるまとまった軍団があって、それがそのまま移動して戦ったのではないと思います。
景春の戦いは、たとえば平野部の坂戸で戦うことに決めると、わずかの近臣を連れて坂戸に乗り込み、そこで兵を集めて戦うというようなやり方だったのだと思います。そして、坂戸の戦いがうまくいかないと、景春は軍を放棄して山間部の秩父日野に移動し、ここでまた兵を募って戦います。景春は最後に秩父の日野城に籠もりますが、この城も景春の持ち城ではなく、地元の土豪の城だったと思います。その際彼にしたがう兵士も当然地元でかき集めた農民兵でした。
ですから、こういう人たちにとって距離は問題としません、公方、管領、執事という伝統的権威があればどこにでも味方になってくれる土地の兵がいるからです。神出鬼没の行動が可能になります。
しかし、こういう軍は当然規律もなく士気も低かったと思います。戦争といっても死者がたくさん出るような激戦はなかったはずです。激戦になりそうだと思えば、優勢であっても加減するし、劣勢になれば勝手に逃亡してしまいます。場合によっては指揮官が最初に逃げ出すというようなこともあったと思います。
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