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後北条氏前の北武蔵

1.長尾景春

北条氏が入ってくる前の秩父は、非常に遅れていてたぶん鎌倉時代とあまり変わらなかったような気がします。このことは秩父に限らず、武蔵国全体にあてはまりますが、とりわけ秩父は古い時代の仕組みがそのまま残っていたような感じがします。そこで、ここではそういうことをふくめて、室町時代後半の、いわゆる戦国時代の北武蔵について考えてみます。

京都で応仁の乱が起こった1400年代の中頃、秩父をふくむ武蔵国もすさまじい下克上(げこくじょう)の時代でした。下克上というのは、下が上に克(か)つという意味です。当時の武蔵の権門や豪族たちにとって、最大の敵は家来であり、同族の身内であるというありさまで少しの油断もできませんでした。中世のイタリアでは、領主が人に会う時には、暗殺を警戒して体育館のような広間で相手を何十メートルも離して大声で会話したといいます。心理的にはほぼそれと同じでした。
私もこの頃の様子を本で読んでみましたが、同じような名前の人が何人も出てきて、その人たちの離合集散がめまぐるしく、何がどうなっているのかさっぱりわかりませんでした。その上、史実も断片的でまちまちです。おそらく正確なところはだれにもわからないのだと思います。
それでも、当時のことをおおざっぱにまとめると、ほぼ次のようだったと思います。

15世紀半ば北武蔵で動乱の渦中にいたのは、長尾景春という人でした。長尾氏は関東管領の山内上杉氏の執事になる家柄で、同族の中には越後の守護代の長尾氏もいました。ですから、長尾氏は武蔵に割拠する豪族というよりは、関東から越後にかけて、広い範囲に勢力をもつ権門でした。そして景春の父は関東管領の山内上杉家の執事でした。執事というのは、当主に代わって主家をとりしきる役職です。
景春の父はかなりの実力者で、越後守護であった傍流の上杉家から顕定という人を本家に迎え入れ管領にしました。管領になった顕定は、荒川が平野部にでる出口の寄居町の鉢形に住みました。この鉢形は戦国時代、北武蔵最大の要衝で、すべての政治軍事的事件はここで起こったといっても言いすぎではありません。

しかし、その後景春の父が亡くなると、顕定は執事の職に景春ではなく、景春の弟を任命します。そこで景春はこの人事に不満を持ち、主家の上杉氏に反旗を翻しました。具体的には主家の顕定を鉢形から追放してしまったのです。この時、山内上杉は同族の扇谷上杉と良好な関係にありました。そこで景春は顕定のほかに扇谷上杉とも戦うことになります。扇谷上杉はもとは弱小勢力でしたが、太田道灌を家宰にしてから急速に力をつけてきていました。そこで景春も道灌が駿河に出陣したすきをねらって謀反をおこしました。1476年のことです。

景春は長尾氏の嫡流で、しかも上杉家の主家にあたる古河公方が景春に加勢しましたから、上杉顕定にとって景春は強敵でした。この戦いは、長尾上杉一族も敵味方に分かれたばかりでなく、各地の土豪や豪族を巻き込んでの抗争になりました。戦局は、初めは景春の方が優勢でしたが、まもなく逆転し、戦上手の道灌が活躍すると景春はあちこちの戦いに敗れます。こうなると、味方であった古河公方の助けもなくなり、景春はとうとう秩父の日野城に追いつめられ降伏せざるをえませんでした。これが1500年の頃です。

しかし、景春の反抗はその後も続きました。さらに、景春の脅威が小さくなると、山内上杉と扇谷上杉との骨肉の争いが再燃します。顕定は策謀をめぐらし、扇谷の当主に道灌を殺害させるという事件が起こります。この間のいきさつはわかりませんが、その後景春は扇谷上杉と結んで山内上杉と争うようになります。

一方この頃、管領顕定の弟で、越後の守護だった上杉家の当主が、守護代の長尾為景(景春の同族。後の上杉謙信の父)に殺害される事件が起こりました。そこで、顕定はこちらでも戦争をはじめ、その戦いで戦死してしまいます。すると、景春は為景に呼応して上州でまたあらたに戦いを起こし、後継者の管領と戦いをはじめます。それが1510年の頃です。

この頃には、戦線は北武蔵の南端の川越や上州越後というように拡散し、北武蔵は主戦場ではなくなりますが、景春と管領家との抗争はまだ続くことになります。この頃には、景春もそうとう高齢だったはずですが、老いは景春から気力を奪うこともなかったようです。すさまじい執念でした。

2.室町時代の名家、権門

室町時代にこのように君臣同族間で対立抗争が起こるのは、関東に限らず全国的傾向です。その原因も一つではないと思いますが、最も大きい原因は、この時代は権力の上層になればなるほど政治軍事力が薄まるということにあったように思われます。

一般的に、室町時代では身分が高くなると支配地域も広くなりますが、その代わり支配力が弱くなります。反対に低い身分で支配地域も小さくても、そこで強固な支配力を持てば、場合によってはこちらの方が有利になります。

たとえば、当時の関東で最高身分は公方(くぼう)です。公方は足利尊氏の子孫で、その支配地は関東全域です。しかし、よく見ると公方には、はっきりした自分の領地というのがなかったようです。というのも、関東はいくつもの国に分かれ、それぞれに守護大名がいて、そこでは公方よりも守護大名の支配力の方が強かったからです。つまり、公方は関東を支配するといっても、それは守護大名たちを間においた間接支配にすぎません。ですから、公方には、関東全域から徴兵して軍団を組織したり、直接徴税してそれを自己の財源にするというようなことはできませんでした。

この点は京都の足利将軍も同じです。たとえば八代将軍の義政は、官位をほしがる田舎大名たちを朝廷に斡旋して、そこから入る謝礼が大口の収入源でした。また、妻の日野富子にいたっては、京に関所をもうけて関銭をとったり、高利貸し、それから米を買い占めて相場でもうけるというように、およそ将軍夫人にふさわしくない利殖活動を盛んに行い、夫の義政より金満家でした。

それでも将軍の場合はこういう収入源がありました。しかし、関東にいた公方がどうやって財政をまかなっていたのかよくわかりません。

したがって、考えようによっては、公方より家臣の上杉氏の方が有利でした。上杉氏は室町幕府の創始者足利尊氏の実母の家です。上杉家は足利家の家臣というより縁戚です。その上、伊豆、上野、越後の三ヶ国の守護でした。ですから、この三ケ国を支配する上杉氏が、ほかの何人かの守護大名と結べば、公方は何もできません。後に、関東の将軍といもいうべき公方が、上杉氏の手で鎌倉から北関東の古河に追いやられたのも、優勝劣敗ということでは自然の成り行きでした。

しかし、公方のこういう姿は、実は関東管領の上杉氏にもあてはまります。関東管領というのは元々は公方をさす職名でした。ところがこの言葉には将軍の家臣という意味があり、鎌倉府の足利管領はこれを嫌い、公方という新しい称号を使いました。そして、関東管領の職名を執事であった上杉氏に与えたのです。すると、上杉氏もそれまで自分の職名であった執事の職名を自分の筆頭家臣に与えます。それが山内上杉の長尾氏であり、扇谷上杉の大田氏です。

一方、上杉氏は三代目になると四家に分かれます。嫡流があって残り三家が傍流なら、本家と分家です。しかし、四家とも対等意識を持ち、鎌倉の所在地で山内とか扇谷というようにお互い区別し、しかも四家の中でも多くの分家が生まれる状況になります。そして、上杉氏はそのたくさんある上杉家の間で、管領職とか守護職という役職を分けあうことになりました。その結果、総帥の上杉家には、管領という権威のみであまり実のない地位しかなくなってしまいます。それはまったく足利公方がおかれた状況と同じです。一言で言うと張り子の虎になってしまったのです。そうなると、主君の公方に家臣の上杉氏がいうことを聞かなくなったように、傍流の上杉諸家、それから執事をはじめとする家臣たちも、総帥の上杉家に遠慮せずに自分の都合で勝手に動きます。

したがって、戦国時代の関東は非常に流動的で不安定になります。関東の支配者は公方かと思うと、その中から上杉という実力者がでてきます。それでは上杉が実質の支配者かと思うと、今度はその中に長尾や大田という実力者の姿が現れてきます。このあたりはまるでロシア人形の、人形の中から小さな人形がいくつもでてくるマトリョーシカの人形のようです。

しかし、さらに大局的に見れば、公方、上杉諸家、長尾大田氏という名家は、明確な自領と軍を持たないということでは同じです。ここが、関東以西の戦国大名と決定的にちがいました。

たとえば、前にあげた長尾景春の反乱ですが、彼は北武蔵の各地で戦いを繰り広げています。しかし、その戦場を見ると地理的連続性がありません。ふつうは、ある場所で戦いそこで負けるとその後方に引いて戦線を整えまた戦うということになります。ところが、彼の戦いはある場所で負けると、そこからとんでもなく遠く離れたところでまた戦いをはじめています。ですから、景春の軍もあるまとまった軍団があって、それがそのまま移動して戦ったのではないと思います。

景春の戦いは、たとえば平野部の坂戸で戦うことに決めると、わずかの近臣を連れて坂戸に乗り込み、そこで兵を集めて戦うというようなやり方だったのだと思います。そして、坂戸の戦いがうまくいかないと、景春は軍を放棄して山間部の秩父日野に移動し、ここでまた兵を募って戦います。景春は最後に秩父の日野城に籠もりますが、この城も景春の持ち城ではなく、地元の土豪の城だったと思います。その際彼にしたがう兵士も当然地元でかき集めた農民兵でした。

ですから、こういう人たちにとって距離は問題としません、公方、管領、執事という伝統的権威があればどこにでも味方になってくれる土地の兵がいるからです。神出鬼没の行動が可能になります。
しかし、こういう軍は当然規律もなく士気も低かったと思います。戦争といっても死者がたくさん出るような激戦はなかったはずです。激戦になりそうだと思えば、優勢であっても加減するし、劣勢になれば勝手に逃亡してしまいます。場合によっては指揮官が最初に逃げ出すというようなこともあったと思います。

荒川と秩父往還(3)

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7.多摩方面との関係

このように秩父氏の進出先は荒川流域に限られているのがわかります。千葉は荒川水系ではありませんが、荒川の延長と見ることができます。また、東海道が現在のように神奈川と東京が直接結ばれたのはずっと後の時代で、平安時代になってからです。それまでは、今の神奈川の三浦半島の突端走水(はしりみず)から千葉に上陸し、千葉から東京に至るというふうになっていました。ですから、奈良時代までは千葉そのものが武蔵国の一部みたいだったと思います。

秩父の市街地のすぐ南は横瀬町です。この横瀬から正丸峠を越えると飯能市になります。この道は前に説明した吾野通りです。飯能市の隣は青梅市で、この青梅の先には昔の武蔵国の国府である府中市があります。

この正丸峠は今はトンネルで車で二三分で通れますが、昔は難所でした。しかし、正丸峠を越えなくても、その手前に生川沿いに道があります。この道で山伏峠を越えれば名栗村になり、名栗の先は青梅です。名栗村は今は飯能市の一部ですが、昔は秩父郡でした。ですから、秩父の武士や人々ももっと多摩方面との交流があってもよさそうな気がしています。それがまったく希薄なのです。

秩父の地理を見ればすぐわかりますが、秩父から山を越えてすぐ南に青梅市があります。ここは多摩川の上流ですから、秩父氏も荒川水系だけでなく多摩川水系沿いに相模(神奈川)方面に進出してもよさそうなのですが、それがまったくないのです。

多摩川は荒川と同じく秩父の大滝村が源流です。もっとも、急峻な奥秩父山系ですから、秩父では小さな支流がたくさん流れていて、多摩川が多摩川らしくなるのは東京都の青梅市あたりからだろうと思います。

ちなみに青梅は今は東京都ですが、明治のはじめは神奈川県でした。それが東京の水源確保のために東京都に編入しました。ですから、元々はこの辺りは相模国に属していたと思います。

また、現在でこそ東京の中心は昔の江戸ですが、奈良平安時代の武蔵国の国府は、今の府中市にありました。すると、秩父の支配者である秩父氏も、当然府中と頻繁に往来していたと思います。この府中は多摩川からそう遠くない所にありますから、当然秩父氏がこの方面に進出してもよさそうです。しかし、それがありません。この理由がどうにもわかりません。考えられるのは、相模国には秩父氏と同格の桓武平氏の三浦一族がいました。この三浦氏は秩父氏の祖、平良文の弟が祖です。ちなみに源頼朝が関東を勢力範囲にできたのは、神奈川を支配する三浦氏と東京埼玉を支配する秩父氏が服従を誓ったからでした。そこで、三浦氏と秩父氏との間には、荒川水系は秩父氏、多摩川水系は三浦氏というように暗黙の協定のようなものがあったのかもしれないということです。しかし、昔の武士は意外と身勝手で、自分さえよければ平気で親戚や一族を裏切ったりしますから、こういう協定がかりにあったとしても果たして実効があったかどうかはかなり疑わしいと思います。

8.古代の道

それと平安時代以前も考えておく必要があります。
昔から武蔵国は東海道になっていますが、実は奈良時代には東山道に属していました。東山道というのは、現在の北海道がそうであるようにその地方を示しますが、それと同時にそこに至る道のことでもあります。ですから、東山道というのは、岐阜から長野、群馬、栃木にいたる本州の内陸部のことであり、そこに行く道のことです。

ですから東山道には、奈良の都から岐阜や長野を経て武蔵に通る公道があったことになります。すると、武蔵でもっとも都に近い所は秩父になります。したがって、奈良時代以前は、秩父は関東の奥地ではなく玄関であったということです。また、東山道は後の中山道になり、この中山道は東海道の裏街道のイメージになりますが、古代には東海道以上に重要な道だったと思います。というのも、この東山道は群馬につながる道だったからです。

奈良時代より前の大和朝廷のころ、関東地方で強大な力を持っていたのは、どうも群馬あたりの毛の国だったようです。(群馬を上野国、「こうづけ」といいますが、それは「上の毛の国」という意味です)
この毛の国は簡単には大和朝廷に服従しなかったようで、そのため大和朝廷にとって片時も目を離すわけにはいかない存在でした。したがって、この東山道は大和朝廷の時代から奈良時代にかけて、戦略的に非常に重要なルートになっていました。ですから、これに近接する秩父は、武蔵国でもっと都に近く先進的な地域であっただろうと思います。秩父が武蔵国中で一番早く開けたのは、おそらくこういう地理的利便性がもっとも大きかったのではないかと思います。

ある学芸員の方に、「古代の公道は規格があって、道幅が12メートルくらいありました。ですから、武蔵国でも群馬の新田から東京の府中に向かって幅12メートルの真っ直ぐな道が通っていました」と聞いた
ことがあります。私が信じられませんというと、「記録にそうあります。それに、東松山の先の吉見町で昔の古道の一部が見つかっています」ということでした。それを聞いても、私には今でも信じられませんが、実際はどうなのでしょうか。

また、大和朝廷時代よりはるか以前の縄文時代になりますが、関東地方で包丁ナイフ代わりに使われた石器は長野の和田峠で採取した黒曜石でした。この黒曜石は矢じりにもなりますから、縄文人にとってはどうしても必要なものでした。この和田峠は諏訪湖の近くにあります。すると秩父の小鹿野の先にある志賀坂峠の向こうは長野ですから、秩父は関東でももっとも地の利がもっともよい場所になります。この道はずっと時代は下りますが、明治17年の秩父事件でも政府に追いつめられた農民たちは、小鹿野町の志賀坂峠から十国峠を越えて長野に逃れました。さらにこの秩父事件では、秩父の農民たちは群馬や長野にもオルグを派遣し、そのため多くの群馬、長野の人々も加わっていました。ですから秩父と群馬や長野との結びつきは深いものがあったと思います。

荒川と秩父往還(2)

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5.旧三沢村広町と長瀞町

これまで説明しましたように、秩父と平野部を結ぶ道は、大別すると吾野通り、川越通り、熊谷通りの三ルート、そして熊谷通りは荒川沿いと釜伏峠越えの二本の道があり、すべて合わせると四本の道になります。

この四本の道を見ると、川越通りと釜伏峠越えの道が合流する場所があるのがわかります。それが旧三沢村の広町です。ここには、私も二三度行ったことがあります。「風土記稿」を読むと、江戸時代には月に一度市も立つ賑わいぶりでした。

しかし、その後川越通りはすたれ、釜伏の峠道も砂利道を舗装しただけの山道になってしまいました。旧三沢村地区の中でも、この広町だけは今でも人家は多いのですが、ひっそりした静かなたたずまいの集落になっています。丘陵が縦横に走り、箱庭のような変化に富んだ自然が広がっていて、春と秋の風景は格別美しいところです。さいわいなことに、ここは秩父にも長瀞にも近いのでさびれたという感じはなく、住むならこういう所がよいのでは、と思うような町でした。

また長瀞町は旧秩父郡の交通の要衝です。それで、ここは昔は月に6回定期市が立ち、多くの商人が活躍しました。

長瀞という地名は「風土記稿」を読んでも出てきません。ここは昔は野上郷といいました。それが、近隣の村が合併した時、村名をどうするかということになり、前の荒川村と同じように、どこの村からも不満がないようにと、荒川の岩畳で有名な見景勝地長瀞にちなんで長瀞町になりました。

この長瀞は熊谷通りの中継地だけではなく、長瀞から直接川越に出る道があります。この道は釜伏峠から降りてくる道と重なりますが、峠に向かう道に行かないで、そのまま進むと東秩父村の落合という所で川越通りと合流します。

長瀞町の荒川の対岸に鉢形という所があります。ここは長瀞町ではなく寄居町の一部ですが、実質長瀞町の続きです。

この鉢形には戦国時代に北条氏が作った巨大な城郭跡があります。この城は武蔵北部の押さえというより、北条氏の群馬攻略の拠点でした。鉢形城は豊臣秀吉の北条攻めで落城しましたが、秀吉は、この鉢形城攻撃に前田利家を指揮官として四万を越える大軍を投入しました。この史実はそう知られていません。しかし、その後の天下分け目の決戦、関が原の戦いが東西十万と八万の戦争だったことを考慮すると、長瀞の地理的重要さが推測できます。
このように長瀞町は秩父盆地と平野部の境界に位置し当時戦略的にも北関東の要衝でした。

6.秩父の武士の動き

吾野通り、川越通り、熊谷通りと、秩父の主要道を見てみると、秩父盆地から平地に出る道はすべて荒川水系にあるのがわかります。

この秩父と荒川との緊密な関係をはっきりと示しているのは、平安時代の武士の動きです。
秩父は武蔵武士発祥の地です。秩父には、平安時代に平良文という桓武平氏が根拠をさだめ、その後秩父氏と称して代々宗家の地位を占め、威をふるいました。そして、この傍流が各地に進出しました。この平氏を良文流といいます。

しかし、この良文流平氏のことを考えていつも疑問に思うのは、その進出方向が荒川の流れとぴったり合致していて、それ以外には進出していないことです。主な良文流平氏は次の通りです。
河越氏
埼玉県川越。鎌倉時代に宗家の畠山重忠が滅ぶと、ここに宗家の地位が移りました。川越氏は将軍の外戚になりましたが、あまりに力を持ちすぎたため、北条氏の策略で勢力をそがれてしまいました
江戸氏
東京。今の都心の支配者。その後大田道灌の支配になり、家康が入府するまでは寂しい田舎。
葛西氏
東京。後に葛西氏の分家が宮城に進出し、東北の戦国大名になりました。しかし、豊臣秀吉に睨まれて滅亡し、その領地は伊達政宗のものになりました。
千葉の平氏
良文の孫に忠常という人がいて、ここを拠点に京都に政府に反乱を起こしました。この事件はかなり有名で、以前は高校の教科書にも必ず載っていました。

荒川と秩父往還(1)

荒川と秩父往還

1.荒川
 
秩父盆地を流れる大きな川が荒川です。この川は西の大滝村に源を発し、盆地の入り口の荒川村では流れの速い奔流になり、秩父市の町中にくると広い川幅をゆったりと流れる美しい川になります。

私は、荒川村から流れてくるから荒川というのかと思っていましたが、事実は逆で、村と村が合併し新しい名前をつけるときに、どの村からも不満が起きず、全国的にも有名だからというので荒川村になりました。

 秩父盆地には、このほかにも北西の別の山から流れてくる赤平川と吉田川があり、この二つの川は秩父市の東部で荒川と合流します。その後、荒川は外秩父の山あいを流れ、熊谷を通って、関東平野を南下し東京湾に流れていきます。

埼玉東京の平野部の地図を見ると、元荒川とか古利根川という名称の川があります。これは昔の川筋です。熊谷から下流は平地のため、台風で洪水が起きるたびにめまぐるしく川筋が変わりました。また、徳川家康の江戸入府以来、幕府の治水工事で計画的に流れが変えられました。平野部の荒川流域の古い農家には、最近まで舟が備えつけられていました。それは荒川が氾濫するとこの舟で避難するしか方法がなかったからです。その意味でもこの荒川は平野部の人々にとって文字通り荒ぶる川でした。

しかし、秩父盆地の荒川ははるか昔から変わっていないと思います。ここの荒川には堤防らしい堤防はありません。川は階段状になっている盆地の底の底を流れています。だから、どんな大雨が降っても洪水になることはなかったと思います。

こういう荒川ですが、では荒川が秩父盆地に住む人たちにどんな恵みを与えてくれかというと、何もなかったと思います。秩父盆地の荒川を見ると、これほど生活に役にたたない川はないのではないかと思います。

盆地の底を流れていますから、ここから取水して農業や生活につかうことは不可能です。水運で舟を走らせるにも、秩父の下流には長瀞という岩場がありますから、この難所を舟が走ることは不可能です。長瀞では今も川下りの観光がありますから、水運に利用できないことはないかもしれませんが、それは険しい登山道を生活道路にするようなものでとても無理だったと思います。

川は昔から水運に利用されてきました。たとえば全国的に内陸にもかかわらず塩のつく地名が大きな川のそばに数多くあります。それは昔は川が塩の道でもあったからです。しかし、秩父の荒川では、こういう利用はできなかったと思います。

強いて考えれば、台風の大雨でも盆地が水で溢れないようスムーズに排水してくれることぐらいだったと思います。ここの荒川は海抜200メートルしかありません。ふつう秩父というと山国のイメージがありますが、意外と低地です。盆地の底を流れる荒川は、周囲の山岳地に降る雨をすべて集め、平野部へと流していきます。

2.秩父の先

秩父では 、荒川の水運が使えないので陸路が発達しました。秩父往還とよばれる道です。秩父は険しい地形ですが、地理的に見ると、山梨や、長野東南部、群馬南部方面から東京方面を往来するには、ここを通るのが最短距離になるのがわかります。もっとも、小鹿野町の志賀坂峠の向こうの長野県や、吉田町の土坂峠先の群馬には大きな町がありませんから、もっぱら山梨とを結ぶ道です。するとこの道はやっぱり荒川沿いになります。今の国道140号線です。

ふつう秩父往還というのは秩父の主要道路のことを言いますが、もともとはこの山梨と秩父を結ぶ道のことである、というのを本で読んだことがあります。この道は山梨の人々が雁坂峠を越えて秩父の三峰神社に参詣する道で、秩父往還という名称も山梨の人が使っていた、というのです。そして、この三峰神社も秩父方面からの参拝者より山梨からの方が多く、そのため神社の表参道も山梨方面から参拝するようにできていたというのです。

確かにこの道は、秩父からいくと大滝村の急峻な山道を歩き、さらにはその先には雁坂峠という難所を越えるきつい道になります。それに、風土的に秩父も山梨も似たところで、秩父にある物は山梨にもあり、秩父にない物は山梨にもありませんから、両者が相補うという関係にはなりません。ですから、秩父の人々が物産を求めて雁坂峠を越えて山梨にいくということはあまりなかったと思います。

また、山梨といえば甲州商人が有名です。しかし、甲州商人が活躍するのは幕末からで、それ以前は山梨の人々も、外の世界に足を広げるというはしませんでした。ですから、山梨の人も経済的な目的で秩父に来るということもなかったと思います。

一般的に町とか村は、そこで行き止まりという所は、外の世界の人から見るとなんとなく異質の世界に思えてしまいます。その最たるのが秩父で、秩父というと秘境めいたイメージがありますが、それは秩父の先には人の住む町がないと考えられているからだと思います。港町なども実際は地の果てで行き止まりの町です。しかも人々は海岸の狭い土地に密集して住んでいて、いかにも窮屈そうに生活しています。しかし目の前の海が世界中につながっているというので開放的なイメージになり、この点が秩父とは大きくちがいます。

3.秩父往還

それはともかく、この秩父往還は実質的に秩父の先に道はなく、秩父が終着点でした。そして秩父往還は秩父と平野部を結ぶ道が発達しましたが、この道は三つありました。

ひとつは、秩父から南に正丸峠を越えて飯能方面に出る道です。今の国道299号線です。昔は吾野通りとよんでいました。飯能には入間川が流れていて、この川は川越で荒川に合流します。しかし、この道は正丸越えが難所の上、高麗川という川の川沿いの道になります。この道は道というより、川岸の歩ける所を歩くというような道でしたから、距離的には最短コースでしたがなかなか利用しにくい道だったと思います。

もう一つは、秩父から東南の旧三沢村から粥新田峠を越え、今の東秩父村の山岳地を通って川越に出る道です。これを川越通りといいます。川越に出れば、吾野通りと同じく荒川に出ます。また、川越は平野部ですから鎌倉街道はじめ、東京方面と結ぶ道はいくらでもありました。この通りは距離的には吾野通りより長いのですが、緩やかな山道で江戸時代にはもっとも使われていました。東京方面から秩父札所に出かける人たちはほとんどこの道を利用していました。

ただ、巡礼者にとって、川越通りの魅力は、途中に坂東札所の慈光寺があり、ここに参拝できるというのも大きかったと思います。札所は、秩父の札所より坂東三十三か所の方が格式も高いです。慈光寺は秩父の札所よりも大きな寺で、深山幽谷にある荘厳な寺でいかにも札所の寺という感じのする寺です。

秩父と関東平野の平地を結ぶ三つめの道は、荒川に平行して走る道で熊谷に行く道です。ふつう秩父往還というとこの道をさすようです。熊谷には中山道が通っています。しかし、道は東京に通じればよいというものではありません。群馬方面との連絡も大切でしたから、この道は秩父往還の中でも最重要の道でした。川越通りが発達する前にはこの道がよく使われていたと思います。

秩父市から中仙道のある熊谷に通じるこの道を熊谷通りとよんでいます。この熊谷通りには二つありました。

ひとつには、秩父からひたすら荒川に沿う道で、皆野町、長瀞町を通って熊谷に行きます。これは今の国道140号線になります。この道は秩父から皆野までは荒川の右岸になります。ですから、皆野町の親鼻という所で荒川を渡り、左岸の道にでることになります。

しかし、このルートはもうひとつあります。それは秩父からさっきの旧三沢村の広町という所から東進し釜伏峠を越えて寄居町に出る道です。そして、ここから長瀞町に出るのです。しかし、熊谷通りは皆野町で荒川の左岸になりますから長瀞町の波久礼という所で渡船します。

このように熊谷通りは二つあります。それで、この二つの道ですが、一般に徒歩の場合は釜伏峠からの波久礼で渡河する道、荷駄を扱う運送業者などの場合は荒川沿いの道だったと思います。というのは、釜伏峠越えは距離的には短いのですが、急な山道で馬が歩くのには不向きですが徒歩なら可能だからです。

4.昔の道と今の道について

ここで話は少しそれますが、昔の道と今の道の関係について話しておきます。これまで熊谷通りは国道140号とか、吾野通りは国道299号と言ってきました。しかし、正確にいうと、これらはそのまま昔の道ではありません。だいたいの道筋です。

これは秩父だけでなくどこでもそうだと思います。たとえば関東各地には鎌倉街道とよばれる道が今も残っています。鎌倉時代に作られたとされ、「いざ鎌倉」という時の道です。松並木があったりしていかにも古道のように見えますが、しかし、今の鎌倉街道は鎌倉時代の道をそのまま拡幅舗装したのではないと思います。たぶん江戸時代のころにあった道をあちこちつなぎ合わせて、後になって、おそらく明治か大正に作られた道だと思います。

私は最初、昔の秩父郡の道を地図の上で再現するということをやろうとしました。そして、実際に少し進めていますが、たぶんどんなに労力をかけても正確に再現するのは無理だと思っています。というのも、昔の道は町中も町以外の道もすべて変わっているからです。

昔の道の特徴は二つあります。ひとつは道幅が狭いことです。幹線道路でも道幅が二メートルくらいしかありません。それとできるだけ最短距離で通じるように道ができていることです。

ですから、近現代代になって、道路を整備するようになっても、昔の道をそのまま利用することはなかったと思います。町中の道の場合は、例えば二メートルの道を自動車が通行できるように拡幅するとなると、道沿いに密集している人家が立ち退かなくてはなりません。そのことは非常に困難ですし、そんな面倒をかけるより、それと並行する道を新しく作った方がはるかに簡単です。ですから、昔からの町では大きな道路に平行して走る路地のような道があれば、それが昔の道です。そうして、そういう所はだいたいさびれた所になっています。こういう所を歩いてみると、町というのがどのように変わっていくのかがよくわかります。

それと、昔の道は最短距離で通じるように道ができています。ですから、どんな急傾斜の地形でも直線の道だったりします。それは徒歩ではそのほうがよいからで、道によっては、人はともかく馬は無理という道もあります。例えば、先の熊谷通りの道がそうで、ちょうど神社の参道に男坂と女坂があるように、徒歩は釜伏峠越え、荷駄馬は荒川沿いの道というように分かれます。すると、徒歩向きの直線的な山道は拡幅舗装しても自動車は走れませんから、近代になるとすべて廃棄されるか、釜伏峠越えの道のように、道として残っていてもめったに車の走らない細い山道になってしまいます。川越通りの粥新田峠あたりの道も、江戸時代にあれほどにぎわっていたはずなのに、今では一部はハイキングコースとして残っているにすぎません。

昔の道と今の道のこういう関係は全国どこでも同じだと思います。イタリアのローマ郊外にはアッピア街道という道があります。この道は古代ローマ帝国が作った道です。現在もほとんど昔のままで自動車が走っています。しかし、日本の場合、こういう昔ながらの道は神社仏閣の参道をのぞくとまったくないと思います。

日本人の宗教意識


日本人の宗教意識

1.霊魂

鎌倉時代の歌人、式子内親王の恋歌に「魂の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば忍ることの弱りもぞする」という有名な短歌があります。わが命よ、絶えるなら絶えてしまえ、このまま生き永らえれば、人に知られないよう秘めている私の恋心が明らかになってしまうから、という意味です。
この「魂の緒」というのは生命のことです。昔の日本人には、人には魂というのがあって、魂はひもで結ばれ体内にとどまっている、と考えました。そして、このひもが切れて魂が抜け出ることが死という現象だと考えました。確かに、死んだ人間を見れば、人間を人間たらしめている何か大切なものがなくなって、不謹慎ですが、まるで蝉の抜け殻のような印象を持ちます。また、生から死への生理的変化は、たぶんに心臓停止にともなう肉体の発作的運動なのでしょうが、いかにも魂が抜け出るようにも見えます。そういう意味で、昔の日本人が、霊魂の存在を認めたのは自然のような気がします。
昔の日本人は、生きている限り、だれもが魂を持っていると考えました。その意味では、魂はかけがえのないたいせつなものです。
しかし、また、この魂とか霊というのは、その人自身のことでもないようです。むしろ、魂というのは、その人にとって、自己の内部に巣くう他者のイメージもあります。確かに、死は不意に訪れるものであり、生きている人間が自由に決められるものではありませんから、魂は厄介な他者でもあります。
源氏物語の中に、若い源氏が、新しい愛人を荒れ果てた屋敷に誘う場面があります。この愛人は夕顔という女性ですが、二人が眠っていると、源氏の夢の中に、別の愛人の生霊が現れます。「私をかえりみず、このような人を愛するのはなんとも恨めしいことです」と言って夕顔にとりつき、死なせてしまいます。この女性は六条御息所(ろくじょうみやすところ)といって、先の皇太子の未亡人で、教養も気品もある女性です。
六条御息所は、自分の霊が睡眠中に体内から抜け出して、このような恐ろしい行為に及んでいることは、最初、まったく知りませんでした。後、そのことを知り、自分でもコントロールできない霊の存在に恐れおののきます。彼女は、その後一人娘が伊勢神宮の斎宮になったのを機に、娘とともに都を離れます。しかし、六条御息所の霊は、彼女の死後も、今度は死霊となって長くこの世に存在します。そして、源氏の最愛の妻、紫の上が死ぬ時にも現れ、老いを迎えた源氏に大きな打撃を与えます。
このように、霊とか魂というものは、その人の内部に宿り、生きている間はもちろん、死後も、その人の意思とは無関係にさまざまの人に不幸をもたらしたりします。こういうのを、昔の人は祟り(たたり)とよびました。したがって、生きている人間は、人間の内部に存在するこの霊魂というのを恐れざるをえません。
生きている人間が死ねば、霊魂が離れてしまいます。というより、霊魂の離脱が死を導きます。すると、では離脱した霊魂の行き先はどこなのか、ということが問題になります。
奈良時代以前、天武持統朝の歌人、柿本人麻呂の短歌に「秋山の黄葉を茂み惑ひぬ妹を求めむる山道知らずも」という短歌があります。秋の山には、もみじの木々がうっそうと生い茂っているので、さまよっているであろう亡き妻を会いに行こうにも、その山道もわからないことだ、という意味です。この人麻呂の短歌には、死者の霊魂は不滅であり、具体的には、人の死とともに深い山中に入っていくという考えがあります。
また、記紀神話に、イザナギが亡き妻のイザナミを訪ね黄泉(よみ)に行くという有名な物語があります。この場合の黄泉とは地下の世界で、たぶん墓の中です。しかし、ここにも、霊魂がこの現実の世界に存在し続けるという観念があります。
昔の日本人には、霊魂は不滅であって、常にこの世に存在し続けるという観念がありました。これが仏教やキリスト教という、外国の宗教と決定的なちがうところだと思います。
神道というか、日本人の宗教意識が、仏教やキリスト教とちがう最大のものは、日本人の想定する世界が、この現実の世の中一つだけだということだと思います。例えば、キリスト教では、死後の世界として天国と地獄があります。仏教でも極楽と地獄があります。仏教やキリスト教では、この世とあの世というように二つの世界をもうけています。したがって、人間は、生きている者はこちらの世界、死者はあちらの世界というように住み分けることができます。また、悪人も、地獄という隔離された別世界に閉じ込めることができますから、わりと平気で悪人と善人とを区別します。
ところが、日本ではそういうことができません。世界がこの世一つしかありませんから、生きている人も、死者も、そして霊や魂も、すべてこの世でなんらかの折り合いをつけて生きていくしかないということになります。そこはすべての存在が認められる世界です。

2.精霊

さらに日本人の宗教観を複雑にしているのには、自然界に精霊を認めていることです。気まぐれで、それでいてすさまじい破壊力をもたらす自然は、確かに人間の力を超越した、ある種の意志の存在を感じさせます。その代表は雷で、雷とは神鳴り、つまり神の力の発現だと昔の人は考えました。
こういう力の前に、人々はただ己の無力さを思い知るだけです。それを予知することも、人間の都合で変更してもらうこともできません。ただ、恐れひれ伏すしかありませんでした。
また、はるか遠くの高みにそびえ立つ、高峻な山々は、確かに人々に、神聖にして侵すべからざる神の領域の存在を予感させます。
この神の領域にはじめて入ったのが、修験者とよばれる人たちでした。彼らは神の前では人として振る舞い、人の前では神として振る舞うというヌエ的存在ですが、彼たちの預言は、神に対する昔の人々の意識を増幅させました。
私は、以前、うっすらと春霞にけむる武甲山を見たことがあります。地にはうように家が立ち並ぶ街の向こうに、武甲山の黒い輪郭がくっきりと浮かび上がりました。山の稜線が、鋭い線になって縦に走り、天空に屹立する武甲山には、確かに聖なる精気を内包する山に見えました。
この精気は、神社神道の神とはちがうように感じました。また、霊とか魂とかいう、人間界に存在して、常に人間を煩わせるものともちがいます。精霊という表現がぴったりよさそうです。
たぶん、昔の日本人には、この世の中は、私たち生きている人間のほかに、死者、霊魂、自然の精霊と、さまざまなものが混在する世界でした。そして、この中で、もっとも弱い者なのが私たち生者です。つまり、生きている人は、死者や霊魂の理不尽な力の前に、息を潜め、ひっそり生きていくしかないということになります。ここに、私たち日本人の生きる姿勢というのが決まります。
たぶん、人として生きることは、神の恩寵でもなく、それは


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