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時間について

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時間 

1.破風山

秩父の市街地から荒川を渡るとなだらかな丘陵に出ます。ここは長尾根丘陵といって、今から五十万年前は荒川の川底でした。その川底が隆起して今の長尾根丘陵になりました。
その丘陵を横断するように道路が大きく孤をえがいて走っていて、その峠道を下りきると、突然目の前に大きな山が屏風のように目の前に広がります。破風山です。
山のふもとには、秩父には珍しく広い水田地帯が広がっています。広々とした水田の先に、破風山がまるで巨大な壁のように塞いでいる風景はなかなか迫力があります。
この山を最初に見たのは、十一月の紅葉の季節でした。山全体が茶褐色に染まるなか、ところどころ鮮やかな深紅と明るい黄色が、ちょうど海に散らばる島のように模様をつくる風景はたいへんきれいで、しばらく車を止めて眺めていました。いかにも秩父の秋といった風情でした。
しかし、その後、二三回この道を通りましたが、秋が終わるとともに、山の色彩もしだいに乏しくなり、杉かヒノキのくすんだ緑だけが目立つさびしい冬枯れの景色になっていました。
見慣れてくると、この山は意外と低い山であることがわかりました。地図で見ると、標高が626メートルとあります。麓が約250メートルくらいですから、山の高さは実質400メートルくらいしかありません。そういえば、山の中腹や頂上近くに、人家があるのがはっきり見えます。破風山が大きく見えたのは、山があまりに間近に迫っているためでした。さらに、破風山の麓から頂上を越える道があって、昔はこれが33番札所菊水寺から最後の札所34番潜水寺に至る巡礼道であったのもわかりました。
しかし、この山の景色に心うたれたのは、二月の末でした。木々が葉を落とし、ホウキを逆さにしたような木が寒々と立っているはずの山が、乳白色に輝いていたのです。
山が白いのは、木々の芽ぐみがすでにはじまっていたからでした。一本の木だけを見てもわかりませんが、山全体が新しい季節に向け動きはじめたのでした。高い尾根伝いに林立している木々の一本一本が、まるで子どもの産毛のように見えました。
破風山の樹木は、寒い冬をひたすら耐えていたのではなかったようです。木々の白さが精気となって、真っ青な冬空に発散していく様子を見ると、むしろ、冬こそが木々にとってもっとも活動の盛んな季節なのではないかとさえ思えました。
その後、折りにふれ、破風山を眺めるようになりました。コナラや赤松や杉など、広葉樹と針葉樹のまじる秩父の森は多様で、春の新緑、夏の深緑、そして秋の紅葉と、見るたびにその表情を変えていました。

2.季節による時間感覚

こういう風景の変化を眺めて思ったのは、昔の人々にとって、風景は一種のカレンダーの役割をしていたのだろうということです。たぶん、麓の農家は、白くなる山の姿を見ては、そろそろ田んぼの荒起こしをはじめようか、とか、緑深まる山の木々を見ては、ソバの種を蒔く時期になった、というようなことを判断していたのだと思います。
昔の暦はでたらめでした。昔の暦も一年は12ケ月でしたが、1ケ月がすべて30日にきまっていました。これでは一年が360日にしかなりません。一年経つと5日足りなくなります。二年経てば10日足りなくなり、三年経てば15日も足りなくなります。こうなると、季節とも合わなくなり、年内に春がくることもありました。それで「年のうちに春は来にけり」という古歌もあります。そこで、閏月(うるうづき)といって、時々臨時の月を1ヶ月丸ごと入れ、一年を13ヶ月にして調節していました。
昔の暦については、前に勉強したことがありますが、くわしい仕組みは理解できませんでした。しかし、どうも太陰暦で日々の暦をつくりながらも、大まかの所は太陽の動きで調節していたようです。
こういう昔の暦は大変使い勝手の悪い暦だったろうと思います。にもかかわらず、その暦を平気で何百年も使い続けていたというのは、暦を使うのはたぶん冠婚葬祭の日取りくらいで、そもそも暦というものにあまり頼らなかったからだと思います。日々の生活は、暦ではなく、季節の移り変わりの中に身を置くことで、自然に感じる時間感覚にしたがっていたような気がします。
こういう季節感をカレンダーにする時間観念というのは、現代の私たちとはだいぶちがっていたろうと思います。
春が終わって夏が来る。夏の後は秋で、秋の次には冬が待っている。そして、冬が終われば、また春がはじまる。こういう時間感覚は、時間というものを、回転する車輪のように考えています。つまり、ここでは時間が循環しています。ですから、時間は、未来から現在へ、現在から過去に流れていても、その未来も現在もかつて現れた過去の再現ということになります。ここには、物ごとは進化するとか、経験したことのない新しいことが起きるということはありません。非常に安定した時間がゆっくりと同じ速度で回転しているだけです。こういう時間が昔の日本人の時間でした。
その点、ヨーロッパ人は、時間というものを、川の流れのように直線的に考えます。過去である昨日とはちがう今日、今日とはちがう明日という未来があると考えます。
時差というのを最初に発見したのは、たしか16世紀のマゼラン船でした。この船は世界で初めて世界一周した船です。船長のマゼランは途中フィリピンで不慮の死を遂げましたが、残った船員たちは無事にスペインに帰国しました。ちなみにフィリピンという名称は、フィリップという当時のスペイン国王の名前にちなんだものだったと記憶しています。
以前、私は、マゼランとかコロンブスという人たちは、宝物の略奪だけが目的の国家公認の海賊だと思っていました。しかし、そうとばかりは言えないようです。
マゼラン船の船員たちは、この航海中、何のためかわかりませんが、一日も欠かさず航海日誌をつけていました。ところが、スペインに帰ってみると、日にちが一日ずれていました。それで、学者たちがいろいろ研究して、地球が一日に一回、回転しているのが原因だとわかりました。
こういうふうに、どんな過酷な状況におかれても、日々の出来事克明に記録し、現象を客観的に見つめるというのはヨーロッパ人特有の感覚です。その場合、どうしても欠かせないのは正確な時間です。
このことはマゼラン船だけでなく、たとえばロビンソン・クルーソーも同じです。彼も無人島に漂着してから、毎日、ナイフで木に刻みをつけて日にちを数えました。そして、彼はたった一人になっても、船に残ったわずかの道具を使ってさまざまなものを作り、島での生活を向上させる努力をしています。そして、その成果をはかる尺度はナイフで刻んだ暦でした。そこには、常に自らの意志で努力するたくましさと、努力することで、過去や現在とはちがう明日という未来を作る意志の力があります。
日本でも、平安時代の末期に、俊寛という僧が平清盛に反抗し、九州沖の喜界ケ島に流されました。ロビンソン・クルーソーと同じような境遇に追い込まれたことになります。しかし、彼は、ただ都恋しいの一念で赦免の船が来るのをひたすら待ち続けるばかりでした。そして、原始人のような生活を送りながら、結局失意のうちに島で生涯を終えました。これはこれで人々の哀れを誘い、物語のテーマになります。しかし、考えてみると、ロビンソン・クルーソーとは大きくちがいます。
時間を回転する車輪のように円で考えるか、水が流れる川のように考えるか。これは、単に時間感覚を表すだけでなく、人間の生きる姿勢そのものにつながります。
以前は、ヨーロッパ人のように考えるのが正しいとされました。たぶん、今もそうです。しかし、人類はこういう考えで、何百年も走り続け、そうとうに疲れてきたように思えます。

神話時代の秩父(2)

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3.无邪志と胸刺

日本武尊の東征後、「風土記稿」によると、武蔵国では知々夫のほかに无邪志と胸刺の二つの国が作られました。无邪志は景行天皇の皇子である成務天皇の時初めて国造がおかれたとあります。成務天皇という人は不明のことが多い天皇ですが、景行天皇の皇子です。それで、ウィキペディアの景行天皇を見ると、実在の人なら4世紀初めの人だろうとしています。すると、成務天皇は景行の皇子ですから4世紀半ば頃の人になり、无邪志を建国したのもその頃となります。

无邪志は知々夫の東にあり、たぶん今の東京の東部から埼玉の南部にかけての地域で、国府は今のさいたま市の大宮あたりだったろうといっています。そして、後にこの无邪志が核になり、国から郡に降格した知々夫と胸刺をあわせ武蔵国になったといっています。大宮は氷川神社がある古い土地で、また、无邪志の无はムと読みますから、この无邪志が武蔵になったというのはおかしくはありません。ただ、三国を合わせ武蔵国になったのがいつかはわかりません。

胸刺については、「風土記稿」ではどこにあったかわからないとしています。山岳地に知々夫があって、その東に无邪志があり、この二つをのぞくと国になりそうなのは多摩しかないから、胸刺はたぶん今の多摩地方ではないかと述べています。そうかもしれません。

しかし、そうすると秩父についで古い歴史を持ち、近くにさきたま古墳群がある比企地方がすっぽり抜けてしまうのが気になります。行田のさきたま古墳から出土した剣は471年に作られ、埋葬者は雄略天皇に仕えたとあります。雄略天皇は456年から479年まで在位した天皇です。すると、5世紀後半には比企地方の東側に巨大な古墳を作る人々がいたことになり、その人たちはもっと早くにここにいたはずです。

もっとも、さきたま古墳については、確かに巨大古墳群がありますが、肝心のその古墳を作ったと思われる人々の人家跡が見つからず、謎の多い遺跡ですのでここからあれこれ想像するのは無理があるようです。

「風土記稿」では、胸刺は応神天皇の頃の成立ではないかとしています。この応神天皇をウィキペディアで見ると、実在なら4世紀後半の頃かとしています。この頃ならたしかに武蔵国にもう一つ国ができてもおかしくないと思います。

また、この胸刺については、継体天皇(在位531〜535)の時国造の地位をめぐって同族の争いが起こり、これに大和朝廷と上毛野国が介入して、結局安閑天皇の在位時に大和朝廷が支援する人物が勝ったとあります。安閑天皇という人は在位が短く531年から535年までの人ですから、この頃の武蔵国はまだ武蔵にならずに三国が並立していたことになります。

4.上代の武蔵

以上のことをふまえて、弥生時代から古墳時代の武蔵を考えると次のことが言えると思います。
まず、ここは関東でも本当に人の住みにくいところだったと思います。

まず東京東部の多摩地方から、埼玉南西部の川越までは武蔵野台地と呼ばれる地形で、水がありませんから人は住めません。

また、大宮台地をのぞく埼玉東部や南部、それから東京の23区も人が住む環境ではなかったと思います。というのも、荒川は今は川越の東を流れていますが、江戸時代がはじまるまでは、さいたま市の東を流れていたからです。この川は今は元荒川になっています。
   
その上、この元荒川と平行して昔は利根川も流れていました。ですから、埼玉南部と東京区部は、荒川と利根川という二つの大河の氾濫流域でした。

ちなみに荒川と利根川が今の流路になったのは、江戸時代の初めです。徳川幕府が荒川を熊谷で締め切り、比企大里郡を流れる和田吉野川の河道に移したのが今の荒川です。また、利根川も流路を変え鬼怒川の河道に移し、直接太平洋に流れるようにしました。

したがって、奈良時代以前の昔の武蔵国を想像すると、人が住めるのは山岳地帯の秩父と、その外側の丘陵地帯の比企地方、それから湧出水がある大宮台地の周辺部。それから青梅あたりの山間部くらいしかなかったと思います。

そして奈良時代の日本の人口が600万人くらいしかいなかったことを考えると、それ以前の大和朝廷の時代には、武蔵国全体の人口も10万人くらいで、20万人はいなかったと思います。それでおおざっぱに言うと、弥生時代が終わる3世紀頃から300年間くらいの武蔵国には、人口15,6万人くらいの人が住み、その多くは西部の山間部に人口が偏在していたと思います。ただ、今のさいたま市あたりにもある程度の人々が住んではいました。そして、西の山間部でも、均等に人々が住んでいたのではなく、北に位置する秩父地方が異常に人口が多かったと思います。

いろいろ考えてみて、秩父は時代が昔になればなるほど、人々が生活するには非常に恵まれていたと思います。
弥生時代から大和朝廷の時代、日本列島に住む人々の生活はたぶん農業と採集だったと思います。そして、秩父の場合、稲作はほとんどせず、稗や麦粟の畑作が中心でした。洪水の心配がなく、山から小さな川がいくつも流れてくる秩父は、当時の農業技術では非常に恵まれていたと思います。
しかし、畑作だけなら秩父でなくともほかにも条件のよい所はあります。秩父がさらに有利だったのは山の幸に恵まれていたからです。

今では秩父の山岳地帯はふもとに杉やヒノキの林ですが、上の方にはコナラやクヌギ、カシワなどの広葉樹林や照葉樹が広がっています。地元の人に聞くと、ふもとの杉やヒノキは、戦後養蚕がダメになり、桑畑に杉やヒノキを植林したというのです。ですから、元々の秩父の自然はもっと広葉樹や照葉樹が多く、ドングリをはじめ木の実が豊富だったはずです。こういう木の実が人々の重要な食料になっていたと思います。
植物生態の上でも、秩父は中間林と呼ばれる独特の植生で、同じ山岳地帯でもよその地域とはちがっています。ですから、青梅方面や群馬や山梨の山岳地帯に比べて、秩父だけが早くから人口稠密地帯であったというのは不思議ではありません。







また盆地特有の閉鎖性もあり、よそに侵略することも、よそから侵略されることもなかった。
私は地理的にも昔は秩父

神話時代の秩父(1)

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神話時代の秩父

1.知々夫と知々夫彦命

大昔の秩父については、はっきりしたことはわかりません。というより、秩父を含む武蔵国のことがよくわかりません。今の埼玉・東京・神奈川の一部を武蔵といいますが、「風土記稿」でも、武蔵をどうして武蔵というかはわからないとしています。「風土記稿」はあらゆる文献を調べてさまざまに考証して、大昔の武蔵の姿を明らかにしようとしています。しかし、不明なことが多すぎるようです。そして、「風土記稿」の執筆者たちにわからないことは、だれにもわかりませんから、たぶんこれから研究が進んでも「風土記稿」以上のことはわからないと思います。

「風土記稿」では、秩父に関する最初の記述は第10代天皇の崇神天皇の時代です。この時天皇は四道将軍を全国各地に派遣し、北陸に派遣された将軍の大彦命が、服属させた土地の人を連れて帰還し、その中に秩父の人がまじっていただろうといってます。崇神天皇の頃、秩父は北陸道に入っていたともいっています。

そして、この崇神天皇の時に知々夫彦命が国造(くにのみやつこ)に任命されたとしているようです。国造というのは国の長官のことです。知々夫彦命というのは秩父でもなじみの人物です。しかし、留意すべきは、この知々夫彦命というのは個人名にみえますが、日本の古代史では、役職というのは天皇をのぞいてすべて血縁集団である一族に与えられますから、知々夫の国造も知々夫彦命という個人に与えられたのではなく、彼を長とする知々夫一族に与えられたのだと思います。また、国といい、その長官を国造といい、これは大和朝廷の支配下に入ったことを意味しますが、実際は、大和朝廷側は服属の意志さえ表示すれば、そこの自治権をそのまま認めたのだと思います。ですから、知々夫の人たちは被支配者の意識は非常に薄かったと思います。

「風土記稿」によると、武蔵の最初の国は秩父だとしています。秩父の支配者を知々夫彦命といい、この人が知々夫の国造に任命されたとあります。「風土記稿」では、大和朝廷がこの人の名をとってこの地を知々夫としたのか、それとも、ここが知々夫なのでその地名をとって支配者を知々夫彦命としたのか、そのどちらかだと思われるが確かなことはわからないとしています。

ここで注意すべきは、国造に任命された知々夫彦命を八意思金命(やごろもおもいかねのみこと)の十世の孫としていることです。八意思金命というのは、天照大神が天の岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から出てくるように知恵をしぼった神です。

というのも、秩父と同じくらい歴史が古いはずの群馬栃木の毛野国(けのくに)の始祖が崇神天皇の皇子の豊城命とされているからです。いろんな歴史の解説本を見ると、毛野国は東国最強の国家でした。そのため、毛野国は大和朝廷に対抗し、大和朝廷の東国政策はほとんどがこの毛野国対策だったようなのです。しかし、崇神天皇の頃に知々夫彦命が八意思金命の十世の孫とされ、毛野国の始祖が崇神天皇の皇子とされたということは、記紀神話が確定した天武天皇の頃には、中央の人々には秩父の方が群馬や栃木より歴史が古いと認識されていたということになります。

ただこの崇神天皇自体がはっきりしません。まず、実在の人かどうかが疑わしいですし、かりに実在したとしても、日本書紀によると、この天皇は在位が紀元前97年になり、弥生時代の中期になってしまいます。インターネットのウィキペディアで見ると、実在の可能性の方が高いとし、3世紀から4世紀初めの天皇だろうとしています。確かにこの時期であれば、秩父についても、国造を任命できるような成熟した社会体制があったということも納得できます。

2.日本武尊

そして崇神天皇の孫にあたる景行天皇の時、武内宿禰が東国を巡察し、この報告で当時の東国の風俗が「椎結文身、茹毛飲血」だったとあります。椎は金槌のつちと同じつちで、たぶん頭頂部で結ぶ髪型。文身とは入れ墨。茹毛飲血は狩猟生活ということです。ですから、当時、秩父を含む東国の人たちは、髪型も独特で、顔やからだに入れ墨を施した独特の風俗で、狩猟採集の経済であったのがわかります。つまり、簡単にいうと後のアイヌの人たちと似たような生活風俗だったということになります。

そして、武内宿禰が東国を巡察した後、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征がはじまります。
秩父には日本武尊にまつわる伝説が多くあります。おそらく、秩父の伝説はこの日本武尊と平将門、畠山重忠の三人ですべて網羅されると思います。中でも日本武尊の伝説は多く、たとえば、三峯神社は景行天皇の時日本武尊が伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の二神を祭ったのがはじまりであるとか、武甲山は日本武尊が武具をおさめたからこの名がついたという説があります。

しかし、日本武尊については、日本書紀と古事記とではちがいます。日本書紀では、日本武尊は茨城から北武蔵を通って碓井峠に至り、そこから長野、山梨に行っています。すると、今の中仙道のルートを通り、秩父は通らなかったことになります。無理に考えれば、秩父の出牛峠から群馬に行く道がありますが、遠回りのうえ山道です。やはり秩父を通らずに中仙道のルートと考えるのが自然です。

しかし、古事記では、日本武尊は武蔵から山梨に出て、そこから長野に行っています。すると、武蔵から山梨に出るには、秩父の三峯を通り雁坂峠から山梨の塩山に抜ける道しかありませんから、こうなると日本武尊は秩父を通ったことになります。秩父をひいきする私としては古事記説の方が都合がよいと思っています。

日本武尊は景行天皇の皇子とされています。ウィキペディアでは記紀では2世紀の人だが、一般的には4〜6、7世紀の、複数の大和の英雄を合成した架空の人物とする津田左右吉らの説が有力としています。したがって、前の崇神天皇を3,4世紀の人、日本武尊を5,6世紀の人とすると、3世紀後半から6世紀くらいまでの秩父の姿が何となく想像できます。

神社(2)

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5.末社

このように、各地の村々に神社の末社が多いのには、神道特有の性格もあると思います。
まず、神道には体系だった教義というものがありません。この世の中はどのようにできているのか、という世界観や、だから人間はどのように生きていかなくてはならないかという倫理観がありません。
強いてあげれば神話ですが、それは国家のはじまりと経過を歴史風に説明しただけです。また、神道が強調する徳目は、清らかな心、つまり正直ですが、では正直とは何か、とかんがえると非常に曖昧模糊としています。中身がありません。空っぽですから、仏教でも道教でも迷信でも、なんでも入れることができる融通性があります。ですから、さほど宗教心がなくても、抵抗なく受け入れることができます。
また、中央の大神社の末社になっても、寺とちがって、神社は横のつながりも縦のつながりもありません。本社へ納める上納金や本社への奉仕活動という、わずらわしい拘束がありません。神社の運営は、村の氏子の一存でなんでも決められます。村には、すでに末社があっても、それをそのままにして、新規に別の末社を設置することも可能です。これを勧請(かんじょう)といいます。こういう気楽さもあって、村は末社や祠だらけという様相になったのだと思います。

6.神社神道

中央地方の有力神社の祭神は、ほとんどが古事記、日本書記の神話に出てくる神です。たぶん、祭神が記紀神話の神でないのは、渡来人を神とする神社か、坂上田村麻呂などの偉人英雄を神とする神社くらいで、あとはすべて、古事記、日本書記の神話に出てくる神です。
古事記、日本書紀は八世紀の初めに成立しました。私は、記紀の神話や初期の天皇については、これら史書が編纂された際に、相当が創作されたのではないのか、と思っていました。しかし、これら大神社はこの時にはすでにあり、祭神も今の祭神でしたから、古事記日本書記に合わせて祭神が決まったというのではなさそうです。
ただ、記紀神話は、やはり、元々は奈良盆地か大阪南部の小権力にすぎなかった大和朝廷だけの神話だったと思います。そして、機内以外には、その地方なりの神話があり、祭神もいたと思います。それを、大和朝廷が自分たちの神話の神を祭神にするよう働きかけたのだと思います。
それは、「風土記稿」には、秩父神社について、この神社は政府の命令で建てた国造神社だから、元々は知々夫彦命を祭る神社ではなかった。大己貴命(おおなむちのみこと)を祭るよう命じられた神社であった。そして、最初は大己貴命を祭っていたが、後に祖霊である知々夫彦命も祭るようになったのだろう、と言っています。
おそらく、こういうやり方だったと思います。秩父神社は、どういうわけか、自分たちの祭神を上手に祭神にしましたが、他の有力神社は、中央政府から与えられた記紀神話の神をそのまま受け入れたのだと思います。
地方の神は、記記神話の神のように、人の姿をした人格神ではなかったかもしれません。また、境内や社殿という建物もなかったかもしれません。しかし、ともかくその土地の人々から敬われる神がいて、その後、社殿という建物を建て、古事記日本書記の神を祭るようになったのではないか、という気がしています。
たぶん、日本人の宗教意識の根底は神道かな、という気はしています。しかし、日本人が持つ、元々の神の観念と、いわゆる神社神道とはそうとうな開きがあると思います。そして、そういう神の観念をすべて神社神道で整理しようとすることで、神道そのものがますますわかりにくいものになってしまったという印象を持っています。

神社(1)

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神社

1.神道はわからない

日本の文化については、いくら考えてもよくわからないというのがいくつもあります。その最たるものが、神道だと思います。私もあれこれ考えてみましたが、どうにも理解できないというのが正直の所です。たぶん誰が考えてもわからないと思います。
神道が日本人の精神の根幹をなしているのはまちがいないと思います。しかし、その正体となると、ちょうど深い海の底の岩盤みたいです。海に底があるのは確かですが、その姿はだれも見たことがありません。私たち一般人は、海岸から海を眺めて、海の底はどうなっているだろうと考えます。それにたいし、神道家という専門家は、船に乗って沖に出て、船の上から海底をのぞきます。しかし、これだって海岸から見るのと大してちがいません。結局、だれにもよくわからないというのが本当の所だと思います。

2.神仏分離

神道が複雑なのは、ひとつには仏教との関係があります。神社の中に寺があったり、寺の中に神社があったりします。こういう神仏習合といいます。
そもそも、元々の神社には建物はありませんでした。社殿という建物をつくり、そこに、にいわゆるご神体なるものを祭るという形は、本尊の仏像を金堂に安置する仏教の寺院を模倣したものです。そういう意味でも、神道は深く仏教の影響を受けています。
秩父というより、埼玉県でももっとも古い秩父神社は、江戸時代には妙見社とよばれていました。妙見というのは仏のことで、社は神社のことです。すると、妙見社というのは、仏のいる神社ということになり、どう考えても変です。それで、明治になって、神仏分離が行われ、秩父神社にもどりました。もどったといっても、秩父神社ははるか昔は、知々夫神社と書きました。秩父郡も知々夫郡でした。それが、奈良時代に、国の名を含むすべての地名は、二文字にするという法律が出て、知々夫郡は秩父郡になりました。しかし、神社は地名ではないのでそのままだったのです。  なら?
神と仏をきちんと分けようというのは、まだ穏健な考えでした。明治維新のイデオロギーは神道でしたから、神道家も張り切っていて、廃仏棄釈ということも考えました。廃仏棄釈というのは、字の通り、仏教を廃止し釈迦の教えを捨てる、ということです。それで、旧秩父郡南東部の飯能市の部分、昔は吾野領といいましたが、ここではいくつか寺が消滅してしまいました。
しかし、この廃仏棄釈はすぐにやめたようです。これはまったくの推測ですが、神道家たちも寺や仏像が壊されるのはともかく、墓まで壊されるのを見て恐怖したのだと思います。頭では神仏分離ができても、心の中は神仏混淆でした。日本人には、ゲーテのファーストのように「悪魔に魂を売ってでも」という非情さはありませんから、すぐにやめたのは妥当なことでした。


3.一つの境内に複数の神社

神社がわかりにくいのには、一つの神社にいくつも神が祭られていることがあります。神社の中には、それが神社ようになって、神社の集合体のような所もあります。
たとえば、「風土記稿」を見ると、秩父神社には八十の神が祭られています。私は、秩父神社は古代秩父の支配者であった知々夫彦命を祭っていると思っていました。確かに、この神も祭られていますが、「風土記稿」を見ると、ほかに東照宮、天照太神、日御崎、豊受太神の独立した社殿があり、さらに七十五の神が一棟にまとめて祭っています。「風土記稿」は、その七十五すべての祭神を列記しています。その中には、鹿島大神宮とか伊射波明神社とか、聞いたことのある神もあります。しかし大半は、地名としては知っていても、神社としてはまったく知らないものばかりです。このように、主祭神でなく、いわばつきあいで他社の神を祭るのを摂社といいます。
「風土記稿」では、秩父神社の筆頭は、知々夫彦命ではなく東照宮です。東照宮というのは徳川家康のことです。江戸時代ですから、当然といえばそれまでですが、当時荒廃していた秩父神社に、五十七戸の社領を与え復興させたのが家康です。家康のそういう功績に感謝する意味をあったと思います。しかし、今は、東照宮はもちろんも、知々夫彦命以外の神にも社殿はなく、祭神は知々夫彦命と八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)の二神です。この八意思兼命というのは、神話で、天照明大神が天の岩戸に籠もった時に、大神を外にでてもらうため智恵をしぼった神で、「風土記稿」では、最初に知々夫国の国造に任命された知々夫彦命は八意思兼命の10代目の子孫ということになっています。
こういう様子は、他も同じです。秩父の霊峰武甲山にも、山頂に御岳神社があります。しかし、この山には、ほかに熊野権現社など十一の神社が掲載されています。秩父神社では八十の神社を管理するのは同じ神主ですが、「風土記稿」は、武甲山では別々に神主がいるので、それぞれ独立した神社にしたとあります。しかし、武甲山そのものがご神体のようなものですから、信仰ということを考えれば、武甲山自体で一つの神社という気もします。また、「風土記稿」では、山頂の神社は、御岳神社でなく、蔵王権現社になっています。

4.村の神社

それと神社がとらえどころがないのはもう一つ理由があって、それは膨大に存在する神社の数です。神社には、鎮守とよばれる社殿のある神社のほか、石を神社にかたどった祠のようなものまで入れると、日本にはどのくらいの神社があるかは、誰もわからないと思います。
「風土記稿」では、その神社を残らず調査して掲載しています。私も、それが、どのくらいあるか、せめて秩父郡だけでも数えてみようとしましたが、あまりの煩雑さにすぐにあきらめました。
村の神社には、村民持ちと寺持ち、個人持ち、それから管理の所在がはっきりしない神社もあって、まさに八百万の神といったところです。しかし、「風土記稿」は丹念にそれらを調べ、例祭のあるものには、その日にちも記載しています。驚異的な粘り強さです。
秩父は祭りが多いことで知られています。これも数えたことはありませんが、たしかに例祭のある神社が多いのがわかります。昔の秩父では、春と秋は、どこかで毎日祭りがあったのではないか、と思うほどです。
現在の神社は、明治の合祀令でだいぶ整理されました。ですから、「風土記稿」以上の調査は、もうできなくなりました。「風土記稿」から、江戸時代の秩父の村を想像すると、おそらく、どの村でも少し歩くと必ず神社か祠があるといった状況だったと思います。
それはともかく、風土記稿」の旧秩父郡の村落神社を見て、まず気づくのは、そのほとんどがが、中央や地方の有力神社の末社であることです。これは、たぶん秩父だけでなく全国的に同じだと思います。
神道関係の本にはきまって、神社の神には大別して、氏族集団の祖霊を祭る氏神と地域の神をまつる産土神(うぶすなのかみ)がある、と書いてあります。そして、両者は元々別の神であったが、平安時代に区別がはっきりしなくなり、両者は融合してしまったと解説しています。
ところが、「風土記稿」で旧秩父郡のどの村の神社を見ても、産土神らしい神を祭る神社一つもありません。唯一、産土神らしい雰囲気がするのは、実は秩父神社の氏神である知々夫彦命くらいです。ですから、神道の解説本と実際はだいぶかけ離れているように思います。
秩父に多い末社は、次の神社です。
諏訪社
八幡社
愛宕社、
熊野社
村々に大神社の末社ができたのは、室町時代あたりではないか、という気がしています。その原動力になったのは、たぶん御師(おし)とよばれる人たちの活動です。御師とは御祈祷師の略です。
御師はもともと神社と信者の間で活動するブローカーみたいな人のことです。彼らは、平安時代に、貴族の信者に代わって参拝したり、信者が参拝するのを手伝ったりしていました。ですから、神職でもあり、俗人でもありました。ところが、しだいに地方に出かけていって信者を組織化するようになりました。
有名なのは伊勢神社と熊煮神社の御師です。ここの御師は、今の旅行業者そのものでした。地方の村人に働きかけ、伊勢参りの旅行を組織していました。そのため、常設の集団宿泊所も経営していました。人々が自由に旅行できなかった当時、御師の主催する参拝の旅行は人々にとって安心できるパック旅行でした。
たぶん、こういう御師のような人が、村の集落に入り、末社として神社を造るよう働きかけていたのだと思います。こうして神社を建てるのを分祠といいます。
御師の中には、これを職業にしている人もいれば、生業を別に持ってはいるが土地の有力者もいたと思いますから、その裾野は大変広かったと思います。
昔は秩父神社も、多くの末社があったようですが、江戸時代の後期にはすっかり数を減らしてしまいました。たぶん、中央の大神社や諏訪大社といった有力神社に侵食されたのだと思います。


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