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時間
1.破風山
秩父の市街地から荒川を渡るとなだらかな丘陵に出ます。ここは長尾根丘陵といって、今から五十万年前は荒川の川底でした。その川底が隆起して今の長尾根丘陵になりました。
その丘陵を横断するように道路が大きく孤をえがいて走っていて、その峠道を下りきると、突然目の前に大きな山が屏風のように目の前に広がります。破風山です。
山のふもとには、秩父には珍しく広い水田地帯が広がっています。広々とした水田の先に、破風山がまるで巨大な壁のように塞いでいる風景はなかなか迫力があります。
この山を最初に見たのは、十一月の紅葉の季節でした。山全体が茶褐色に染まるなか、ところどころ鮮やかな深紅と明るい黄色が、ちょうど海に散らばる島のように模様をつくる風景はたいへんきれいで、しばらく車を止めて眺めていました。いかにも秩父の秋といった風情でした。
しかし、その後、二三回この道を通りましたが、秋が終わるとともに、山の色彩もしだいに乏しくなり、杉かヒノキのくすんだ緑だけが目立つさびしい冬枯れの景色になっていました。
見慣れてくると、この山は意外と低い山であることがわかりました。地図で見ると、標高が626メートルとあります。麓が約250メートルくらいですから、山の高さは実質400メートルくらいしかありません。そういえば、山の中腹や頂上近くに、人家があるのがはっきり見えます。破風山が大きく見えたのは、山があまりに間近に迫っているためでした。さらに、破風山の麓から頂上を越える道があって、昔はこれが33番札所菊水寺から最後の札所34番潜水寺に至る巡礼道であったのもわかりました。
しかし、この山の景色に心うたれたのは、二月の末でした。木々が葉を落とし、ホウキを逆さにしたような木が寒々と立っているはずの山が、乳白色に輝いていたのです。
山が白いのは、木々の芽ぐみがすでにはじまっていたからでした。一本の木だけを見てもわかりませんが、山全体が新しい季節に向け動きはじめたのでした。高い尾根伝いに林立している木々の一本一本が、まるで子どもの産毛のように見えました。
破風山の樹木は、寒い冬をひたすら耐えていたのではなかったようです。木々の白さが精気となって、真っ青な冬空に発散していく様子を見ると、むしろ、冬こそが木々にとってもっとも活動の盛んな季節なのではないかとさえ思えました。
その後、折りにふれ、破風山を眺めるようになりました。コナラや赤松や杉など、広葉樹と針葉樹のまじる秩父の森は多様で、春の新緑、夏の深緑、そして秋の紅葉と、見るたびにその表情を変えていました。
2.季節による時間感覚
こういう風景の変化を眺めて思ったのは、昔の人々にとって、風景は一種のカレンダーの役割をしていたのだろうということです。たぶん、麓の農家は、白くなる山の姿を見ては、そろそろ田んぼの荒起こしをはじめようか、とか、緑深まる山の木々を見ては、ソバの種を蒔く時期になった、というようなことを判断していたのだと思います。
昔の暦はでたらめでした。昔の暦も一年は12ケ月でしたが、1ケ月がすべて30日にきまっていました。これでは一年が360日にしかなりません。一年経つと5日足りなくなります。二年経てば10日足りなくなり、三年経てば15日も足りなくなります。こうなると、季節とも合わなくなり、年内に春がくることもありました。それで「年のうちに春は来にけり」という古歌もあります。そこで、閏月(うるうづき)といって、時々臨時の月を1ヶ月丸ごと入れ、一年を13ヶ月にして調節していました。
昔の暦については、前に勉強したことがありますが、くわしい仕組みは理解できませんでした。しかし、どうも太陰暦で日々の暦をつくりながらも、大まかの所は太陽の動きで調節していたようです。
こういう昔の暦は大変使い勝手の悪い暦だったろうと思います。にもかかわらず、その暦を平気で何百年も使い続けていたというのは、暦を使うのはたぶん冠婚葬祭の日取りくらいで、そもそも暦というものにあまり頼らなかったからだと思います。日々の生活は、暦ではなく、季節の移り変わりの中に身を置くことで、自然に感じる時間感覚にしたがっていたような気がします。
こういう季節感をカレンダーにする時間観念というのは、現代の私たちとはだいぶちがっていたろうと思います。
春が終わって夏が来る。夏の後は秋で、秋の次には冬が待っている。そして、冬が終われば、また春がはじまる。こういう時間感覚は、時間というものを、回転する車輪のように考えています。つまり、ここでは時間が循環しています。ですから、時間は、未来から現在へ、現在から過去に流れていても、その未来も現在もかつて現れた過去の再現ということになります。ここには、物ごとは進化するとか、経験したことのない新しいことが起きるということはありません。非常に安定した時間がゆっくりと同じ速度で回転しているだけです。こういう時間が昔の日本人の時間でした。
その点、ヨーロッパ人は、時間というものを、川の流れのように直線的に考えます。過去である昨日とはちがう今日、今日とはちがう明日という未来があると考えます。
時差というのを最初に発見したのは、たしか16世紀のマゼラン船でした。この船は世界で初めて世界一周した船です。船長のマゼランは途中フィリピンで不慮の死を遂げましたが、残った船員たちは無事にスペインに帰国しました。ちなみにフィリピンという名称は、フィリップという当時のスペイン国王の名前にちなんだものだったと記憶しています。
以前、私は、マゼランとかコロンブスという人たちは、宝物の略奪だけが目的の国家公認の海賊だと思っていました。しかし、そうとばかりは言えないようです。
マゼラン船の船員たちは、この航海中、何のためかわかりませんが、一日も欠かさず航海日誌をつけていました。ところが、スペインに帰ってみると、日にちが一日ずれていました。それで、学者たちがいろいろ研究して、地球が一日に一回、回転しているのが原因だとわかりました。
こういうふうに、どんな過酷な状況におかれても、日々の出来事克明に記録し、現象を客観的に見つめるというのはヨーロッパ人特有の感覚です。その場合、どうしても欠かせないのは正確な時間です。
このことはマゼラン船だけでなく、たとえばロビンソン・クルーソーも同じです。彼も無人島に漂着してから、毎日、ナイフで木に刻みをつけて日にちを数えました。そして、彼はたった一人になっても、船に残ったわずかの道具を使ってさまざまなものを作り、島での生活を向上させる努力をしています。そして、その成果をはかる尺度はナイフで刻んだ暦でした。そこには、常に自らの意志で努力するたくましさと、努力することで、過去や現在とはちがう明日という未来を作る意志の力があります。
日本でも、平安時代の末期に、俊寛という僧が平清盛に反抗し、九州沖の喜界ケ島に流されました。ロビンソン・クルーソーと同じような境遇に追い込まれたことになります。しかし、彼は、ただ都恋しいの一念で赦免の船が来るのをひたすら待ち続けるばかりでした。そして、原始人のような生活を送りながら、結局失意のうちに島で生涯を終えました。これはこれで人々の哀れを誘い、物語のテーマになります。しかし、考えてみると、ロビンソン・クルーソーとは大きくちがいます。
時間を回転する車輪のように円で考えるか、水が流れる川のように考えるか。これは、単に時間感覚を表すだけでなく、人間の生きる姿勢そのものにつながります。
以前は、ヨーロッパ人のように考えるのが正しいとされました。たぶん、今もそうです。しかし、人類はこういう考えで、何百年も走り続け、そうとうに疲れてきたように思えます。
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