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新編武蔵風土記稿と江戸時代の知性
新編武蔵風土記稿
私は、秩父の風物が気に入り、よく秩父に行くようになりました。そのうち、ただ行ってボウッと暇つぶしするだけでは能がないと思い、郷土史のたぐいの本を少し読むようになりました。すると、「新編武蔵風土記稿」という書物からの引用がひんぱんに出てくるのに気づきました。地名の由来とか、史実に関する記述になるとだいたいこの本が元になっています。それで、この「新編武蔵風土記稿」とはどんな本なのか興味を持ち、市立図書館でさがしました。そこで「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の書物で全二百六十五巻からなる膨大な地歴誌であるのがわかりました。
「新編武蔵風土記稿」は、冒頭に編纂の経過と目的が書いてあります。それによると、「新編武蔵風土記稿」は林大学守衡という人が提案して、徳川幕府の事業としてはじまりました。この人は、徳川家康の学術顧問であった林羅山の子孫で、今の文部科学大臣と東大学長を併せたような人です。編纂は文化7年()から約二十年かけて行われました。対象地域は武蔵国。今の東京、埼玉、神奈川の一部です。
この書物は題名からわかるように、一種の資料集のスタイルをとっています。冒頭の記述によると、どんな内容をどういうスタイルで編纂するか大いに迷った、とあります。奈良時代の「風土記」を参考にしたが、現存する「風土記」を読むと国によって出来不出来が大きい。多分、奈良時代の「風土記」も、地方に資料集として提出させ、いずれ都の学者の手でできちんとした「風土記」の成史を作成するつもりであったのだろうと述べ、そこで、この「新編武蔵風土記稿」も、集められる資料は全部集め、漏らさず記載したから、後世の人が成史として完成してくれることを期待するとあります。そこで「風土記」とはせず「風土記稿」としました。もうすぐ江戸幕府がつぶれるというのに、なんとも優雅な仕事でした。
ついでながら、この「武蔵風土記稿」後、執筆者たちは「相模風土記稿」に取り組みました。こちらは「武蔵風土記稿」の経験を生かし約半分の時間でできました。幕府がつぶれなければ、もっとあちこちの風土記を作るつもりだったのかもしれません。
執筆者たちは、とにかく徹底して調べています。たとえば、秩父関係でいうと、城峰山の群馬県側に、神泉村という小さな村があります。そこに「矢納」という小集落があります。これについても、昔、日本武尊が社に矢を納めたからこの地名がついた、とか、平将門に矢を献上したからこの名がついた、と二説を紹介しています。そして、両方ともとても本当とは思えないが、土地の人がそう言っているから一応ここに載せておくとあります。さらに、江戸からの距離、村の位置を説明し、戸数百十七、生業は畑作と山仕事と養蚕。水田はなく陸田ばかりで焼畑もある。産品は絹煙草干し柿、というようにこと細かく記述し,村内にかかる山と川から、村の神社仏閣まですべて網羅しています。神社についても、建物がある神社はもちろん、村人の誰かが建てた小さな祠まで漏れなく記載してあり、その詳細さにはただ驚くばかりです。
また、吉田町には万葉歌碑があります。これについても、その由来と碑が絵図入りで掲載してあり、本の図では実物の大きさがわからないだろうからと、碑の寸法まで書いてある徹底ぶりです。
この書物が、いったいなんのために編纂されたのかはわかりません。目的は、一応奈良時代の「風土記」の江戸時代版ということになりますが、それでは非常にあいまいです。最初は、今の国勢調査のようなもので行政の資料にするためだろうと考えました。しかし、それにしては、政治や経済以外の記述が多すぎます。
「新編武蔵風土記稿」は、まず武蔵国の概略を述べ、ついで郡ごとの説明があって、それから村ごとの記述があります。ところが、武蔵国の総説には、国の歴史のほか、たとえば武蔵野や隅田川という語が使われている著名人の短歌を、万葉集をはじめ平安鎌倉の歌集をすべて調べあげて載せています。中には個人の歌集のようなものまであります。
また、秩父郡についていうと、秩父市の市街地である大宮郷(江戸時代にはこうよんでいました)に関する記述は、寺社分を除くとわずか1ページです。ところが、民戸わずか27戸の奥秩父の中津川村については5ページを割くという熱の入れようです。推測ですが、大宮郷は、田舎に行けば、どこにでもある賑わいのある町。しかし、中津川村は、日本中どこをさがしても他にはない、ということだと思います。実際、この村に行くには谷沿いの崖道を蟹のような格好をしなければならないとか、人々は焼畑の生活で、焼畑のやり方はこうだと、非常に細かく記述しています。
おそらく、執筆者の中で一番文章の上手な人が秩父郡を受け持ち、そうでない人たちは都内や平地の平凡な農村を割り当てられたように思います。中津川村や同じ秩父郡の浦山村を担当した人は、さぞかし楽しかったろうと思います。
思うに、この「新編武蔵風土記稿」は、当時の幕臣の中の、学問好きな武士たちが、単純に知的好奇心を満足させるためにはじめた事業だと思います。簡単に言うと、都会の教養人の暇つぶしというか遊びです。好きなことを遊びの気分でやるのだから、熱が入ります。編纂者たちには、非常におもしろい仕事だったと思います。だからこそ、これだけのすばらしい書物が完成しました。
この「新編武蔵風土記稿」は完成後、将軍に献上され、正式文書になりました。しかし、書物として刊行されることはありませんでした。その後、明治政府に引き継がれましたが、徳川幕府を否定する明治政府は当然のように無視し、内務省の倉庫でほこりをかぶっていました。ところが、埼玉県の大里村出身者に根岸武香という貴族院議員がいて、この人が内務省に圧力をかけ、明治十七年に刊行させました。当時の製本技術では八十冊にもなる大作でした。この根岸武香という人もユニークな人ですが、その父親はそれに輪をかけた傑物でした。この父子をとりあげるのも面白いのですがここでは省略します。
江戸時代の学問
昔の出来事や書物について疑問が出てきて、自分なりに少し研究してみようとすると、まず問題になるのが江戸時代です。この時代の人たちはよほど暇だったと見え、これらの疑問についてはほぼ研究しつくしてしまいました。ですから、史実や文献に疑問が生じても、江戸時代の文献を調べるとだいたい答えが書いてあります。
万葉集なども、すでに平安時代に万葉仮名が読めなくなってしまい、長らく幻の歌集でした。ところが、江戸時代になると契沖という人が出てきて解読してしまいました。歴史の研究もさかんで、有名な前方後円墳も、四角が前で円が後ろということになっていますが、こう決めたのは江戸時代の人たちでした。どちらが前でどちらが後ろかというのは重大な問題ですから、江戸時代の人たちも懸命に調べました。しかし、いくら研究してもわかりません。それで、結局有名な学者が出てきて、「たいした根拠もないけれど、四角は前で円を後ろにしよう」ということで落ち着いたのだと記憶しています。そして、江戸時代の研究でもわからないのだから、その後はだれが研究してもわかるはずがないというので、今でもこの名称が使われています。
日本語の文法もほぼ研究しつくされました。たとえば、動詞に「射る」という動詞があります。上一段に活用するのですが、ア行かヤ行かはわかりませんでした。段がわかっても行が不明では文法になりません。それで江戸時代の人たちもさんざんの頭を悩ませたのですが、これも結局誰かが「これはいくら考えてもわからない。射るのは矢だから、ヤ行にしよう」というのでヤ行の動詞になったという話を聞いたことがあります。乱暴と言えば乱暴ですが、辞書を引くと「射る」は今でもヤ行になっています。
とにかく、江戸時代の研究は「ものすごい」の一言に尽きます。規模がちがうのです。現代では、歴史や文学の研究は大学の先生くらいしかやりません。ところが、江戸時代は、学者はもちろん町人や田舎の農民までやっています。一種の人海戦術です。現在の天文学では、学者は高性能の望遠鏡で遠くの星を観測し、アマチュア天文家は少々性能が落ちるが、愛用の望遠鏡で一晩中近くの空を見張って、どんな星の動きも見逃さない体制ができています。ちょうどあんな感じです。とくに文献については、江戸時代ですべて研究済みといってよいと思います。ですから現代の私たちがいくら熱心に研究しても何も出てこないと思います。めぼしい鉱脈はすべて掘りつくされてしまいました。
新しい発見があるとすれば、考古学の分野だけだと思います。江戸時代の人たちは、文献とか伝承については微に入り細をうがって研究しますが、どういうわけか、地面を掘って物証を探しだすという荒っぽいことはしませんでした。こういう手法を導入したのは、明治になって日本にやってきた外国人です。モースが貝塚の跡を発掘したのが考古学の最初だということはだれでも知っていることです。
江戸時代の人たちが考古学をやらなかったのは、学問の後進性というのではなく、知性のちがいだと思います。
例えば、江戸時代は医学も進み、杉田玄白が最初に人体解剖をしました。しかし、考えてみると、あれも西洋の医学書に書いてあるのが本当かどうか確かめただけで、研究というものではなかったと思います。
彼の本を読んでも、オランダ語の医学書の解読の苦労はよくわかりますが、肝心の解剖については、恐る恐るやったような印象を受けます。だから、その後も玄白が人体解剖を何度も重ねて、西洋流の医学研究に情熱を注いだということはありませんでした。
それに、玄白のオランダ医書の解読の苦労も、ちょうど万葉集や古事記を解読する国学者のようで、とても自然科学者の研究という感じはしません。
要するに、人間の体を切り刻んで真実を探求するとか、地面を掘って過去の事実を力ずくで引っ張り出すということは、江戸時代の人たちの知性では考えられないことだったという気がします。
江戸時代の人たちは、趣味で学問に打ちこんでいました。それと、研究それ自体に面白さを感じるというより、研究対象そのものに愛着を感じ、対象と自己と一体化させる傾向があります。そういう点で、対象を突き放して客観的に分析するというヨーロッパ流の学問にはなじまなかったのだと思います。
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