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7.秩父の特殊性
奈良時代の昔から、秩父は絹の産地でした。絹は「きぬ」とよみますが、元々「きぬ」は衣のことです。つまり、「きぬ」というのは、シルクをふくむ衣服全部を表すことばです。それが、いつのまにか、「きぬ」は絹に限定されるようになりました。
しかし、古代には衣服の素材は絹のほかにも、さまざまなものがありました。木綿はまだ日本に入ってきませんでしたが、麻や藤、葛なども衣服に素材でした。持統天皇の短歌に、「春過ぎて夏きたるらし 白妙の衣ほすてふ天の香具山」というのがあります。春が過ぎて夏が来たようだ、香具山の山里に真っ白な衣を干しているのが見える、という意味です。この歌の衣は絹ではなく、たぶん麻だと思います。
奈良時代の秩父も、絹のほかにこういう素材でも布を織っていました。江戸時代にも、麻のほか藤太布(ふじたふ)という藤の繊維で織る布がありました。山村の多い秩父には、栽培しなくても繊維の材料は豊富に自生していたと思います。
秩父の絹も、最初は養蚕の絹ではなかったと思います。たぶん、天蚕だったと思います。養蚕繭と天蚕繭のちがいは、蚕の餌のちがいです。蚕が桑の葉を食べると、白い繭を作ります。これを人為的に給餌し、蚕が作った繭を煮沸して中のさなぎを殺し、その繭から糸を紡ぐのが養蚕の絹です。この煮沸してさなぎを殺すというのが画期的なアイデアだそうで、これは、大昔の中国人が発明しました。これに対し、天蚕では、山蛾がクヌギの葉を食べて作った繭を採集して、糸を紡ぎます。養蚕の繭が白いのに、天蚕の繭は緑色になります。
天蚕の繭は養蚕繭より光沢がありますが、繊維が短いという欠点があります。それで生糸を作る際に、短い糸をつないで生糸にしますから、不揃いの太い糸になってしまいます。そのため、どうしても厚手の布になり、養蚕の絹布に比べ品質が劣ります。
秩父の絹は、最初から養蚕だったという人もいます。それは、それで根拠があります。秩父郡の南隣は、朝鮮半島からの移住者が集まってできた高麗郡(こまぐん)です。ここにはたぶん養蚕技術があったと思われますから、高麗の渡来人から伝わったというのです。しかし、前にもいったように、養蚕は多忙な仕事になりますから、どうしても専業になってしまいます。生活のすべてを自給自足する奈良時代や平安時代に、こういうことが可能かどうか疑わしい、と思います。
秩父の植生を見ると、ここは植物学では有名な中間温帯林です。クヌギやナラという落葉広葉樹の森が広がっています。天蚕の山繭も豊富に得られたと思います。人々は農作業の合間に、山に入り、繭を集めては糸を紡ぎ、絹を織っていたと考えるのが自然だと思います。
奈良時代や平安時代に、秩父で織られる絹は、「あしぎぬ」と呼ばれる、太い糸で織った粗製の布だったようです。その糸は、たぶん、繭から直接糸を引いて作った糸ではなく、ちょうど羊毛から毛糸を作るように、真綿の塊から、細いひも状に糸を引っ張り、指でこよりを折るようにして作った太い糸だったと思います。
都の貴族たちの正装はおそらく、大陸からもたらされる高級絹織物でした。しかし、彼らの普段着、あるいは貨幣の代用となる大量の布が必要とされ、こういう「あしぎぬ」が求められたのだと思います。
奈良時代、秩父の人々が絹や麻布を織っていたのは、自分たちが着用するためではなかったと思います。食料が自給できない秩父では、織った布を売って食べ物を購入した、などというのは江戸時代になってはじめて可能で、原始経済に近い奈良時代にはありえません。
たぶん、税として収めることを中央政府から強要されたのだと思います。米を作らない秩父は、米納ではなく布の貢納を求められたのだと思います。そして、それに応えられる基盤が秩父にはありました。それは、豊富な原材料とともに人の多さです。
これは、秩父に強力な武士団が生まれた理由とも共通しますが、秩父は古代から江戸時代まで、人口の多い所でした。江戸時代に、すでに約7万人の人口がいたと推定されます。
日本の人口は、奈良時代に約550万人、江戸時代には約3千万人です。千年で約6倍に増加しましたが、これはひとえに稲作の普及によるものです。平地で稲作が可能になると人口が急激に増えます。ところが米作を行わない秩父は、おそらく、奈良時代から江戸時代になっても、さほど人口は増えなかったと思います。つまり、秩父は、奈良時代の昔から人口が多かったのです。
機械のない時代では、布を織るというのは完全な手仕事でした。すると、たくさんの人手が確保できる秩父は絶好の布の生産地だったと思います。
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