無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

秩父の絹(4)

イメージ 1

7.秩父の特殊性

奈良時代の昔から、秩父は絹の産地でした。絹は「きぬ」とよみますが、元々「きぬ」は衣のことです。つまり、「きぬ」というのは、シルクをふくむ衣服全部を表すことばです。それが、いつのまにか、「きぬ」は絹に限定されるようになりました。

しかし、古代には衣服の素材は絹のほかにも、さまざまなものがありました。木綿はまだ日本に入ってきませんでしたが、麻や藤、葛なども衣服に素材でした。持統天皇の短歌に、「春過ぎて夏きたるらし 白妙の衣ほすてふ天の香具山」というのがあります。春が過ぎて夏が来たようだ、香具山の山里に真っ白な衣を干しているのが見える、という意味です。この歌の衣は絹ではなく、たぶん麻だと思います。
奈良時代の秩父も、絹のほかにこういう素材でも布を織っていました。江戸時代にも、麻のほか藤太布(ふじたふ)という藤の繊維で織る布がありました。山村の多い秩父には、栽培しなくても繊維の材料は豊富に自生していたと思います。

秩父の絹も、最初は養蚕の絹ではなかったと思います。たぶん、天蚕だったと思います。養蚕繭と天蚕繭のちがいは、蚕の餌のちがいです。蚕が桑の葉を食べると、白い繭を作ります。これを人為的に給餌し、蚕が作った繭を煮沸して中のさなぎを殺し、その繭から糸を紡ぐのが養蚕の絹です。この煮沸してさなぎを殺すというのが画期的なアイデアだそうで、これは、大昔の中国人が発明しました。これに対し、天蚕では、山蛾がクヌギの葉を食べて作った繭を採集して、糸を紡ぎます。養蚕の繭が白いのに、天蚕の繭は緑色になります。

天蚕の繭は養蚕繭より光沢がありますが、繊維が短いという欠点があります。それで生糸を作る際に、短い糸をつないで生糸にしますから、不揃いの太い糸になってしまいます。そのため、どうしても厚手の布になり、養蚕の絹布に比べ品質が劣ります。

秩父の絹は、最初から養蚕だったという人もいます。それは、それで根拠があります。秩父郡の南隣は、朝鮮半島からの移住者が集まってできた高麗郡(こまぐん)です。ここにはたぶん養蚕技術があったと思われますから、高麗の渡来人から伝わったというのです。しかし、前にもいったように、養蚕は多忙な仕事になりますから、どうしても専業になってしまいます。生活のすべてを自給自足する奈良時代や平安時代に、こういうことが可能かどうか疑わしい、と思います。

秩父の植生を見ると、ここは植物学では有名な中間温帯林です。クヌギやナラという落葉広葉樹の森が広がっています。天蚕の山繭も豊富に得られたと思います。人々は農作業の合間に、山に入り、繭を集めては糸を紡ぎ、絹を織っていたと考えるのが自然だと思います。

奈良時代や平安時代に、秩父で織られる絹は、「あしぎぬ」と呼ばれる、太い糸で織った粗製の布だったようです。その糸は、たぶん、繭から直接糸を引いて作った糸ではなく、ちょうど羊毛から毛糸を作るように、真綿の塊から、細いひも状に糸を引っ張り、指でこよりを折るようにして作った太い糸だったと思います。 
都の貴族たちの正装はおそらく、大陸からもたらされる高級絹織物でした。しかし、彼らの普段着、あるいは貨幣の代用となる大量の布が必要とされ、こういう「あしぎぬ」が求められたのだと思います。
奈良時代、秩父の人々が絹や麻布を織っていたのは、自分たちが着用するためではなかったと思います。食料が自給できない秩父では、織った布を売って食べ物を購入した、などというのは江戸時代になってはじめて可能で、原始経済に近い奈良時代にはありえません。

たぶん、税として収めることを中央政府から強要されたのだと思います。米を作らない秩父は、米納ではなく布の貢納を求められたのだと思います。そして、それに応えられる基盤が秩父にはありました。それは、豊富な原材料とともに人の多さです。

これは、秩父に強力な武士団が生まれた理由とも共通しますが、秩父は古代から江戸時代まで、人口の多い所でした。江戸時代に、すでに約7万人の人口がいたと推定されます。
 
日本の人口は、奈良時代に約550万人、江戸時代には約3千万人です。千年で約6倍に増加しましたが、これはひとえに稲作の普及によるものです。平地で稲作が可能になると人口が急激に増えます。ところが米作を行わない秩父は、おそらく、奈良時代から江戸時代になっても、さほど人口は増えなかったと思います。つまり、秩父は、奈良時代の昔から人口が多かったのです。

機械のない時代では、布を織るというのは完全な手仕事でした。すると、たくさんの人手が確保できる秩父は絶好の布の生産地だったと思います。

秩父の絹(3)

イメージ 1

6.昔は秩父でも養蚕は平地の副業

秩父というと絹のイメージがあります。ブランドとしての秩父絹。ゆるやかな斜面に広がる桑畑。そして、生糸を紡ぎ絹布を織る秩父の女性たち。こういうイメージが自然に浮かんできます。実際、養蚕と絹織りで忙しそうに働く秩父女性の話は良く聞きます。しかし私は、織物と繭を作る養蚕は、もう少し整理して考えた方が良いように思います。

絹織物といえば京都の西陣が有名です。しかし、西陣には桑畑はありません。それは当然で、西陣の職人たちはすでにできあがった生糸を仕入れ、それで絹織物を織っているからです。同じように北関東や東北では、農家は広い畑に桑を植え、養蚕を営みましたが、仕事は繭を作ることだけです。できあがった繭はそのまま売り、それで養蚕農家の仕事は終わりです。農家の中には、売り物にならないクズ繭で生糸を紡ぎ、絹を織っていたところもありますが、それはあくまで副業でした。

ところが秩父だけは、はるか古代の昔から、あたかもすべての農家が、養蚕から織物まで一貫して行っていたような印象があります。それが先の秩父の絹イメージになります。しかし、これは大きな誤解で、実際はちがっていたように思います。

私はいろいろ考えたりてみましたが、結論的には、江戸時代までは秩父の主力は生糸作りと織りで、養蚕はふつう考えられているほど盛んではなかったと思います。

秩父の絹織りについては、「風土記稿」にも出てきます。秩父の村々の記述には「生業は畑仕事。農隙に、男は山仕事で女は絹織り」と決まり文句のように書いてあります。しかし、養蚕については、そのことを記載している村とそうでない村があります。全体的に、山間地の村は養蚕の記述がありません。
ですから、たぶん、山岳地の村では、繭を購入して絹織りの仕事はしても養蚕はしなかったと思います。養蚕は平地の村で女性たちが副業として行っていて、そういう村でも男たちは養蚕の仕事に従事することはなかったと思います。

全体的に見て、江戸時代までは、養蚕は秩父ではそれほど盛んではなかったような気がします。秩父を歩いていていつも思うのですが、秩父には耕地が少ないということです。桑の木は乾燥を好みますから、気候的には雨の少ない秩父には適しています。また、平らな土地でなくても桑の木は育ちますから、水田とちがい桑畑にできる土地も広がります。しかし、それにしても土地が狭すぎます。

その狭い農地を養蚕にあてると、毎日食べる食料を自給する畑はどうするのかという問題が出てきます。農家にとって、最優先は自家で食べる食料生産の畑です。すると、養蚕に当てられる農地というのは相当小さくなるはずです。

秩父の農家はほとんどが畑作です。当然、あちらの畑には麦や稗を植え、こちらの畑では豆を植えている、というように一年中とぎれなく畑仕事があります。しかも、山間部ではたぶん焼き畑も多かったと思います。すると家から離れたところにも畑ができます。農家は畑の面倒だけで手一杯になるはずで、とても養蚕にまで手を広げるのはむりだったような気がします。

養蚕は非常に忙しく、蚕が桑を食べる時期はその世話で、夜も昼もない、飯を食うのも立ったままということになることを考えると、ほかの農作業と両立させるのは無理だと思います。さらに絹織りの仕事もあります。前に説明したように座繰りも高機もない江戸時代では絹織りの仕事は、長時間で密度の濃い労働です。とても養蚕にまでは手が回らなかったと思います。

明治末の頃になると、春夏のほかに、秋、晩秋、晩々秋というように養蚕農家は一年に五回も繭を作るようになります。しかし、これは幕末になって、秩父が養蚕に特化してからのことで、江戸時代では春夏の年に二回です。それで、養蚕をする農家も、春と夏に養蚕をし、夏の養蚕が終われば、女性たちは絹織りに精を出し、12月の秩父の絹市に間に合わせるというのがふつうだったような気がします。

つまり、秩父の一軒の農家を想定してみると、養蚕をやれば蚕の世話で忙しく、畑仕事などやれないということになり、畑で生活するとすれば、畑仕事が忙しく養蚕どころではないということになります。したがって、どちらか一方が主でもう一つは副ということになります。すると、やっぱり畑仕事が優先しますから、養蚕はふつう思われているほど盛んではではなかったと思います。たぶん、養蚕を専業的に行っていたのは、横瀬町や長瀞町の平地の村だけだったと思います。

秩父が養蚕に本格的に力を注ぐようになったのは、江戸時代の末期からです。その理由は二つあると思います。

ひとつには繭が高値で欧米に輸出されるようになり、有力な農業商品になったことです。そのため、秩父にかぎらず、全国的に農家では養蚕を手がけることになりました。

そして、秩父の場合、もうひとつ理由があったと思います。それは明治になると、秩父の農家が織るような素朴な絹布はもう商品価値がなくなったのだと思います。絹織り物は町の近代的織機を備えた町の工場だけで生産されるようになり、江戸時代のように、農家が農作業の合間に織るような絹織物はまったく売れなくなったのだと思います。絹織りの仕事がなくなった秩父では、今まで養蚕などしなかった山村でも養蚕をやるようになりました。

養蚕は、昔は割りのよい仕事で高収益が見込まれました。しかし、外国では日本ほど盛んではありません。その理由について、ある学者が、「養蚕は目の回るような忙しい仕事で、これに耐えられるのは勤勉で忍耐強い日本人にしかいない。外国の農民は、あんなに苦労するなら、貧しい暮らしのほうがましと考えるからやらない」と言っています。そういう意味で、養蚕業は日本人にあった産業でした。

しかし、少々無責任ですが、客観的に見れば秩父に限らず、日本では養蚕は大正時代でやめるのがよかったようです。というのも生糸の価格がもっとも高かったのは、幕末から明治までだったからです。その後は下がる一方で、昭和になると生産費もまかなえないところまでいきました。ただ、商工業なら赤字になればすぐに撤退しますが、農業の場合はそう簡単に転換ができません。そこで生活が成り立たなくなっても養蚕を続け、一種の飢餓輸出の様相を帯びながらも戦後もしばらく続きました。

これは、戦前の植民地経営なども同じで、植民地を持ってもそこから上がる収入よりも植民地経営にかかる経費の方が大きかったようです。ですから、植民地を持つのはまったくの持ち出し経営で、おまけに相手の国からは恨まれましたからよいことは一つもありませんでした。

しかし、こういう農業とか植民地経営というのは、経済というよりは政治ですから、いくらダメだとわかっても行き着く所まで行くしかないという面もあるようです。それが戦前の場合、悲惨な農民の生活と侵略戦争という形で現れ、それが昭和という時代を暗いものにしているという気がします。

秩父の絹(2)

イメージ 1

4.織り

江戸時代の絹生産ですが、製糸は手や指で糸にするという原始的な手法だったことはすでに説明しました。では織りの方はどうかというと、生糸から布を織るのも、「居座り機(いざりばた)」といって素朴な織りでした。この織り方は、座ったまま、左手で縦糸の束を引っ張って持ち、右手で横糸を通して織っていきます。ですから、これも織り手の技術がはっきり出てしまいます。ちょうど手編みのセーターが、編む人の上手下手で、編目の出来栄えもちがってくるのと同じです。

しかし、江戸時代に、農家の副業として織る秩父の絹織物は、あまり品質がよくなかったと思います。
秩父市の市街地に、絹の博物館があります。そこで話を聞いたことがあります。そこでまず思ったのは、「秩父の農家の主婦が、夜、暗い囲炉裏の灯を頼りに細々と織る絹織物では、とても江戸や京都の上流階級の人たちが着る呉服はできない」ということです。

私は最初絹織物というのは、生糸を縦にたくさん並べ、そこに横糸を交互に通していけば織物になると思っていました。しかし、そう簡単なものではありません。まず生糸をそのまま織っても、それではくすんだ白の布地にしかなりません。ですから生糸を染色し、色のちがう糸を組み合わせなくては模様が出ません。また、白地の布を染めるやり方もありますが、これはこれで高度の技術が必要で、では、その染色をどうするかという問題が起きます。

複雑な模様の布地を織るには、素人の私などには理解不能な、もっと複雑な操作が必要になります。さらに、高級な絹織物にするには、細い糸と太い糸を巧みに組み合わせたりもします。こういうふうにして、風合いというか肌触りというか微妙な感じを大事にします。博物館の人はそれを「ザックリしている」とか「シャキシャキしている」いうような、素人の私にはわからない、織りの世界の言葉を何度も使って説明してくれました。織物というのは、想像以上に複雑で繊細です。高級布地の織りは、農家の主婦が農作業の合間にやれる仕事ではないと思いました。

秩父の農家が織る絹織物は素朴な織りで、白地の布か、横麻物といって縦糸に生糸を使い横糸に麻糸を通す織物でした。それは、安価な着物か、着物の裏地、あるいは着物以外に使う布で例えば旗に使うような布であったと思います。

秩父の絹織物に秩父銘仙という高級布があります。しかし、こういう染めと織りに工夫した絹織物が織れるようになったのは、やはり明治になり、秩父に研究所ができて外国人技術者が指導するようになってからです。彼らの指導を受け、町場に専門の織物工場ができてはじめて可能になりました。それまでは、農家の女性が織る織物でしたから、都会の上流階級が身につけるような絹織物は無理でした。

5.商売が好きでない秩父人
それと秩父の人たちはどうも商売が上手でないというか、経済的に上昇志向に乏しいような気がします。
江戸時代には絹のほかに綿織物も盛んに織られ、全国各地に産地がありました。たとえば地場産業として綿織物の著名な産地は三重の松坂木綿でした。三重県が産地になったのは、伊勢湾で大量に取れる魚が綿花栽培の肥料になったからです。

しかし、商売上手の三重県人ですから、綿花を栽培してそのまま綿で売るようなことはしません。当然、織物にし、販売にも乗り出します。その場合、三重の人は徹底した高級化路線でブランド化します。粗悪な綿花を排除するのはもちろん、織りについても産地丸ごとに細かい指導と規則を作りました。なかでも一番嫌ったのは、不出来の織物が安物として出回ることでした。厳重に検査し、不良品は思い切って廃棄し市場に出回らないようにしました。
 
こうして、徹底したブランド化で高級品のイメージが定着すると、この松坂木綿を武器に、三重の人は江戸の乗り込んできます。近江商人とならぶ伊勢商人の誕生でした。近江商人は特定の商品にこだわらず、商売になりそうなものは何でも扱いましたが、伊勢商人は呉服商に集中しました。しかも、江戸に店を構えても経営にたずさわるのは郷土三重出身者だけ、江戸で雇うのはもっぱら雑用の仕事をする人という徹底ぶりでした。それで「江戸名物。伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれるまでになりました。

ところが秩父ではこういう経済戦略というのがなかったように思います。三重では、綿花ができるなら木綿も織ろう、木綿が織れるのなら自分たちで売ろう、木綿ばかりでは利が薄い、やっぱり売るなら絹織物で高級呉服店になろう、と段階をふんで進化していきました。その点、秩父ではひたすら生糸をつくり、素朴な織りをいつまでも続け、あとは外からやって来る商人に買い上げてもらうだけでした。

秩父は江戸時代にはめずらしく貨幣経済が発達した農村地帯でした。だから、ふつうならこういう環境にあれば、どうすれば利益が増大するかという経済感覚も発達するはずです。にもかかわらず、秩父の人たちは、ただ絹がたくさん売れればよいとことで満足していたような気がします。

こういう経済感覚の乏しさは、明治以降になっても変わりませんでした。有名な秩父銘仙も、実は八王子銘仙や桐生銘仙に比べブランド力が落ちていました。それで、秩父の織物業者や絹商人たちは、ブランド力を高める工夫よりも八王子や桐生との競合を避けるようになります。具体的には、高利益をもたらす東京や大阪の上流階級への売り込みはあきらめ、地方の中小都市の中産サラリーマン階層に焦点を絞るというやり方です。すると、商売は低価格を武器にいきおい薄利多売になります。確かに生産量は増え、地域には活気が出てきましたが、利益としてはさほどでもないということになってしまいました。

秩父の人たちが熱心だったのは、祭りなどの行事や歌舞伎浄瑠璃といった文化方面で、秩父の外に活動の場を求める経済人というのは出なかったようです。

たぶん気質もあるし、風土的なものによるのかなという気がします。

それはともかく、江戸時代、秩父の女性たちは、毎晩夜遅くまで生糸を作り、絹を織っていました。それが、秩父夜祭りでにぎわう絹市に運ばれ、人々の生活を支えていました。

秩父と絹(1)

イメージ 1

秩父と絹


1.秩父夜祭り

十二月二日三日は秩父神社の大祭で秩父夜祭りの日です。みごとな彫刻をほどこし、金箔や漆で彩色した屋台が市内を練り歩き、寒気の夜空に華麗な花火が打ちあがる秩父夜祭りは、大勢の観光客を集め、秩父の人たちの誇りになっています。

それにしても、十二月という時期はずれに行われるのが、当初、私には不思議でした。調べてみると、以前は十一月に行われているのがわかりました。それが、明治時代になって太陰暦から太陽暦に変わり、十二月になったようです。太陰暦の十一月は今の十二月ですから、祭りの時期そのものは、今も昔も同じということになります。

この祭りは秩父神社の例大祭で、祭りそのものは、秋の収穫を祝う霜月祭と、武甲山の男神と秩父神社の女神が神婚をあげる儀式としての妙見祭が習合したものです。それが、この祭りの日に、今の秩父市の市街地である秩父大宮で、一年で最大の絹市が開催されるようになりました。そうして、各地から大勢の商人を集め、盛大な絹市にするためのイベントになりました。祭りで気分が高揚すれば、ご祝儀相場で生糸や絹も高値になり、取引も活発になるという期待がありました。

絹市の取引は十八世紀の天明年間に二万七千両という記録があります。これは米高に換算すると約二万八千石になります。

旧秩父郡の三分の一は忍(おし)藩領で、忍藩では秩父大宮をふくむ秩父領を約9千石としていました。秩父郡全体は約で三万石です。租税は金納になっていましたが、江戸時代の標準税率である五公五民で計算してみると、秩父の納税額は約1万五千石です。ですから、秩父の人たちは、一年間に納める租税額の二年分をこの絹市で得ていたことがわかります。もっとも、この絹市には秩父だけでなく、寄居町や群馬あたりの農家も参加していたと思いますし、生糸や絹生産にかかる諸経費もありますから単純にはいきませんが。

2.秩父の生糸と織り

絹織り仕事でよく知られている機器に、製糸では座繰り(ざくり)、織りでは高機(たかばた)があります。

座繰りというのは、繭から糸を引き出し、大きな糸車で巻き取って生糸にする器具です。座ったまま、糸車をぐるぐる回すのでこの名がつきました。簡単な作りですが、今までのやり方に比べはるかに効率的です。

高機の方は、有名な民話劇の「夕鶴」に出てくる機織り機です。織り手が椅子に座り、ピアノを弾くような姿勢で、縦糸に、舟の形をしたヒで横糸を通し「パタン、パタン」と織っていきます。
しかし調べてみると、この座繰も高機も、実は明治になって発明されたものでした。ですから、その前の江戸時代にはありません。江戸時代までは、生糸作りも織りも道具らしい道具もなく、ほとんどが文字通りの手仕事でおこなっていたようです。ですから、繭から糸を作ったり、絹を織るのには熟練を要するばかりでなく、たくさんの人手が必要でした。

3.生糸作り

私も知らなかったのですが、繭から直接糸を引いても、その糸は非常に細くて、そのままでは絹糸にはなりません。煮えた鍋に繭を入れ、いくつかの繭から一本ずつ細い糸を引き出し、その細い糸を何本かねじるようにして太い1本の糸にしていきます。これが生糸、つまり絹糸です。

昔はこの生糸を作るのは大変難しかったようです。江戸時代にはさっきの座繰りの器械がありませんから、手のひらや指を使って絹糸を作っていました。とくに糸をねじる作業、これを「撚(よ)り」といいますが、この撚りをかける際に唾をつけるのがポイントでした。そこで、唾は若い女性のが最適というので、昔はこの生糸作りは若い女性たちの仕事でした。

絹糸は、この撚りが生命です。撚りの上手下手で生糸の品質がぜんぜんちがってきます。細くしっかりした糸を作るには非常に熟練を要し、おそらく、秩父の女性たちは、子どもの時からこの仕事を厳しく仕込まれていたと思います。また、完全な手仕事ですから、一晩根を詰めて糸作りをしても、その量はそれほど多くはなかったと思います。しかし、一人が作る糸や織る布地が少なくても、秩父にはこの仕事に従事する人は大勢いましたから、秩父全体としてみれば、膨大な量の生糸が作られ、絹布が織られていたと思います。

また、機械を使わない手仕事ですから、均質な絹糸にはならなかったと思います。当然上物といっても限界があります。ですから、これは秩父に限らず、一般的に国産の生糸というのは、明治の頃まではあまり品質がよくなかったようです。

話はそれますが、江戸時代に日本は鎖国をして、貿易は長崎に限定していました。江戸時代の最初は、港は長崎のほかに平戸もあり、品物も自由に貿易できました。すると、国産生糸に比べはるかに質のよい中国の生糸が大量に入ってきました。一方、当時日本には輸出するものがありません。結局金や銀で買うしかありません。そのため、日本からは大量の金が流出し、困りはてた幕府がやむを得ずにとったのが、生糸の輸入を制限し、貿易港も長崎一箇所に限定する貿易策でした。

そして、生糸の輸入を制限した後も、江戸時代の日本の生糸の質は変わらなかったようです。ところが、幕末になって日本からの輸出が急増します。しかし、これについては、当時ヨーロッパでは、蚕の病気が広って生糸不足に陥り、日本産で穴埋めしたという事情があった、ということを聞いたことがあります。明治政府もそこは十分承知していて、」品質向上に努め、政府自らが製糸工場を立ち上げ、外国人技術者を招聘しました。これが、その後生糸が日本の基幹輸出品になりました。

川を渡る

イメージ 1

川を渡る


1.昔は徒渉

秩父を車で走っているとよく橋を渡ります。荒川と赤平川という大きな川が盆地の中央を流れていますから当然です。それで、最初は気にもとめませんでした。しかし、ある時ふと、昔の人はど
うやって川を渡っていたのだろうか、と気になりました。それで、「風土記稿」で調べてみました。

すると、村内の小さな川では土橋を利用していたのがわかりました。土橋というのがよくわかりません。たぶん丸太を何本か並べて橋にし、そのままでは歩きにくいというので、その上に土をかぶせたので、土橋とよんでいたのかなと思います。

しかし、こういう橋を土橋とよぶなら、一つの村には土橋がたくさん必要になるはずですが、橋の数は多くて十五くらいしかありません。これでは少なすぎます。それで、いろいろ考えてみました。結論としては、人々はおそらく川を歩いて渡っていたのだろうということです。
川を歩いて渡るというのは、なんとなく乱暴なような気がします。それなら冬の寒い時にも歩いて渡るのか、となりますが、たぶんその通りだったと思います。冬でも、人々はがまんして歩いて渡っていたのだと思います。

川とか道にたいする観念が、どうも昔と今とではちがっていたような気がします。たとえば、皆野町に風布村という山村があって、ここに「いろは川」という風流な名前の川があります。「風土記稿」によると、川筋に沿って左右に人家がある、それで人々は、川の水うち際を歩いて道にしているが、反対岸の家に行くときには、川の瀬を渡渉する、この瀬を数えると四十八あるので「いろは川」という、とあります。つまり、ここではふつうの道はなくて、川そのものが道になっていたのだと思います。

川を歩いて渡るというのはごくふつうのことで、荒川とか赤平川などでも、徒歩で渡れる浅瀬があれば歩いていたと思います。荒川も、秩父は川の上流に位置しており、そのため浅瀬が多く、渡渉できるところはあちこちにあったような気がします。

荒川というのは荒々しい川という意味だと思いますが、荒川がその荒々しさを発揮するのは、平野部に入ってからで、秩父盆地では浅瀬の多いおとなしい川です。また、からだの弱い巡礼者などを目当てに、土地の若者が有料で背負って渡していたこともあつたと思います。

2.渡し舟

しかし、歩いて渡るばかりではなく、当然、渡し船という手段もありました。荒川や赤平川には、この渡し場があちこちにありました。おもしろいのは「風土記稿」で渡し場とあるところを今の地図で見ると、すべて橋がかかっていることです。逆に言うと、現在橋がかかって入るところは、昔は渡船場だったということになります。

渡し場はどこでもよいということにはなりません。川の流れが速すぎてもいけませんが、反対にあまり浅くても船は運行できません。また、川を渡っても、荒川や赤平川には、岸から平地の道に出るのに切り立つ崖のようなところが多いのでこういう所も不向きです。すると、渡し場になるところは意外に少なかったと思います。

私は最初、道の先に大きな川があれば、そこに渡し場ができると考えました。しかし、たぶん逆だったろうと思います。渡し場になる場所は限られていて、渡しに向いている所にまず渡し場ができます。そして、この渡し場に向かって、両岸から道が自然にできて、それがしだいに大きな道になり、いわゆる街道になったのだと思います。

船は、たぶん高瀬舟のような底の浅い船だったと思います。年配者の話では、荒川には戦後まもない頃まで渡し舟があったそうです。その渡し舟は、渡し守が魯や櫂で漕いで渡すのではなく、川に綱が張っていて、その綱を舟に乗ったまま手で手繰りながら渡るやり方だったそうです。確かにこのやり方の方が手軽で合理的です。江戸時代の昔もこの渡船法だったかもしれません。

3.橋

船で渡るというのは、いかにも面倒です。それで橋をかけることが考えられます。しかし、台風などで増水すると、せっかく橋をかけても簡単に流されてしまいます。そこで、荒川や赤平川では、冬から春にかけての渇水期だけ、橋をかけるということが行われていました。「風土記稿」には、秩父大宮の荒川と吉田町の赤平川に、それがあったとあります。  

しかし、この橋はおそらく有料だったと思います。渡し舟が有料なのに、橋だけ無料というわけにはいかないからです。それに、橋をかける費用や維持費が必要ですから、タダということはなかったと思います。場合によっては、橋の通行料が村の収入源になっていた可能性もあります。すると、橋があっても、人々の多くはやっぱり歩いて川を渡っていたのだろうと思います。

ただ、「風土記稿」を読むと、荒川には一ケ所だけ恒久的な橋がかかっていたのがわかります。それは「武ノ鼻橋」です。ここは、秩父駅から長尾根丘陵に向かう大きな道路の先にある橋で、今は秩父公園橋という大きな鉄橋が架かっています。鼻の字がつく場所は、荒川にはほかにもあって、流れが大きく曲がり、川岸がちょうど顔の鼻のように突き出た所を鼻と呼ぶようです。感じはよく出ています。
武ノ鼻橋は「風土記稿」によると、長さ三十五間、幅五尺とあります。メートルに直すと、長さ約六十メートル、幅一メートル七十センチの橋ということになります。

長さが六十メートルは、川の流れの幅とほぼ同じです。ですから、この橋は、河川敷をまたぐ今の橋のイメージとはだいぶちがい、橋は水が流れる所だけがちょうど歩道橋のような作りになっていて、人々は河川敷まで降りてきて階段を上って橋の上に出て、橋の向こうでまた階段を降りる、というような構造かなと思っています。しかし、幅が一メートル七十センチしかありませんから非常に不安定で、台風の大水にはとても耐えられそうにありません。たぶん、よく流されていたように思います。


4.おんぶ

「風土記稿」を読むと、孝行者というのがあります。当時はまれに見る親孝行な人は、役所から表彰されていました。内容は決まっていて、自分は質素な食事で我慢しても、親にはおいしいも物を食べさせた。珍しい催事や寺社への参詣によく連れて行ったというものです。いつの時代も、年寄りの楽しみはこの二つだけというのがわかります。それはともかく、その記述に、親を負ぶって出かけるとあります。最初は、こういう叙述は大げさな決まり文句だと思っていました。しかし、当時の道の悪さや川を越える困難さを考えると、足腰の弱った年寄りが遠出するには、こういうやり方しかなかったかもしれません。啄木の短歌に「たわむれに母を背負いて」というのがありますが、昔の人にとって、子どもや老人を背負って歩くというのは、子どもかわいさや親孝行でもなんでもなくごくふつうの日常行為だったような気がしています。


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事