痩田肥利太衛門残日録

2004年10月、36年間のサラリーマン生活を終え、生きた証を残したいと2006年1月より始めたマンガ入り鶏肋日記です。

芸術

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60数年前のふるさと山形県小国町の町中を流れる横川は水量も豊富で泳ぎができ、カジカ(魚)やヒメマスが獲れました。

飯豊山麓から流れる横川は下流4km先で飯豊山から流れる玉川と朝日山麓から流れる川が合流し、荒川となり、新潟県との県境には旧(株)小国電興の水力発電の赤芝ダムがありました。会社は変わりましたが赤芝ダムは現在もあります。

実家近くより少し下流にある小学校の裏の横川には旧(株)小国電興の取水用堰堤があり、ヤツメウナギが獲れ、上流では鮎、イワナ、ヤマメ、ハヤなどが獲れました。

上流で子供の頃見た鮎の友釣りやいわなやハヤ釣りを思い出し、少し大げさに絵を作りました。

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[平家物語] ブログ村キーワード

小さい頃から母は平時忠の子孫である能登の時国家とは関係あるということを折に触れ、話してくれましたが知識も乏しく、平時忠がどれほどの人物であるかなどほとんど知らず、聞き流していました。3年前、野田市報に載った「平家物語を楽しむ会」の入会募集が目にとまり、母の言葉を思い出し、入会しました。

会は月1回ですがそれでも1年くらい経つと、平家物語に登場する主な人物や流れの概要がわかってきました。

ある日、解説していただいている武田昌憲先生(現在、尚絅(しょうけい)大学教授、熊本市)が能登の時国家を訪問した話をされました。先生とは親しくなっており、雑談しながらの帰り道、私はなにげなく、時国家と遠い親戚にあたると話しました。先生はちょっとびっくりされたので私もあわてて生前、母親が良く話していただけで詳しくは知りませんと言ってしまいました。

先生は長年、平家物語を研究されてきただけに先生の反応に私もその意味の大きさを感じ、なんらかの証拠を示さないとかつての私同様、他の人に理解してもらえないと感じました。母親から話を聞こうと思っても既に母は亡く、聞くこともできません。そこで父の死亡時、相続税申告書作成ために入手した戸籍謄本を基に祖父と母の実家や本家を含む概略家系図を作成しました。

一方、平家物語への興味も湧いてきて、吉川英治の新平家物語や歴史資料を読み、平家物語本の記述と史実を比較して知識を増やしました。平成22年1月より平家の台頭から滅亡までを毎月1回マンガと文をブログに書き、年末にその12枚のマンガを使いカレンダーにしようと思い、開始しました。

[平家物語] 祇園精舎

平成22年6月、父母の七回忌があり、山形県小国町の実家に帰ったとき、親戚や叔母に時国家との関係を聞き、家系図を修正・追加しました。叔母は時国家の現在の当主、25代健太郎氏の母親「あや子様」に山菜を送ったりして親交をはかっており、平成21年10月に能登の時国家を訪問したと話してくれました。

故時国家24代恒太郎氏の夫人「あや子様」の実家は上杉藩の米所と呼ばれた「米沢盆地」の山形県飯豊町にあり、豪農「渡辺六郎兵衛家」です。

あや子様の母親は酒田の本間様と並び、その昔、日本でも5本の指に入った「関の三左衛門」と呼ばれ、新潟県岩船郡関川村在住の豪商「渡邊三左衛門家」から飯豊町の「渡辺六郎兵衛家」に嫁いでいます。渡邊三左衛門は岩船と米沢を結ぶ米沢街道を利用し、上杉藩に塩と海産物を販売し、莫大な富を蓄積しました。そして、上杉藩に数千両単位で用立てしていたという記録もあります。

故24代恒太郎氏の姉が渡邊三左衛門家のあや子様の母親の弟に嫁いだ縁であや子様は24代恒太郎氏に嫁入りしました。

私の実家とあや子様の関係については私の祖父は「渡辺六郎兵衛家」から私の実家に婿入りし、私の母親は「渡辺六郎兵衛」の分家から私の祖父の養女になり、私の実家に入りました。私の父は戦前、飯豊町の小学校の先生をしていたこともあり、あや子様の弟を教えたことがありました。

叔母はあや子様と年が近く、小学から女学校時代まで一緒で現在も親交が続いています。その叔母から子供の代で時国家との関係を絶ってしまうことのないようにまたあや子様は86歳と高齢なので早めに訪問したほうが良いと助言されました。武田先生からも平家と関係ある古文書など是非見せてもらうようにと時国家訪問を勧められました。

訪問時期は平家物語カレンダー完成後にしようと作成を続けました。1ヶ月遅れで平清盛が福原の大輪田の泊(現在の神戸港)に立つ姿を描いていた22年8月に「平清盛」が平成24年NHK大河ドラマになると発表されました。

[平家物語] 清盛の死:海外貿易拡大と平家安定の夢の挫折

平家物語と関係ある時国家も観光客が増えると思われ、少々焦ってきました。焦る気持ちと裏腹に作成がさらに、遅れ、12枚描き終わったのが平成23年の3月末でカレンダーを完成させたのが5月でした。

ようやく準備が整ったので、叔母からあや子様に連絡をとってもらい、訪問が実現しました。平成23年6月16日朝、羽田から飛び立ち能登空港に向かいました。飛行機の窓から、八百年余り前の壇ノ浦の敗戦後、捕えられた平時忠の配流地珠洲市や町野町地域を探しながら心が躍りました。

[平家物語] 壇ノ浦の合戦

11時能登空港着、バスで輪島市を経由して町野町の時国家に14時過ぎに着きました。遠いところから良く訪ねてくれたと大変喜ばれました。マンガ絵の平家物語カレンダーと事前に作成した渡邊三左衛門家・渡辺渡辺六郎兵衛家・時国家そして実家の家系を付け加えた関係図をきっかけにして話が弾み、祖父や母親の世代の話などを懐かしげに話していただきました。

ただ、残念だったのは平家に関する古文書がほとんど残っていなかったことです。時忠の配流後も、鎌倉幕府の監視や詮議が厳しく、平家に関する書類などを全て処分し、大谷(現在の珠洲市)の山の中で晩年を過ごしたそうです。

その子時国は源氏滅亡後、町野川のほとりに住居を構えたのが時国家の始まりだそうです。従って、平家の名残をとどめる唯一の証は代々引き継いできた部屋の飾りや定紋(平家の定紋:揚羽蝶)だけになったそうです。

両親が生きている間、親を顧みなかったことを悔やんでいました。しかし、今回の時国家訪問により、子供の代で関係を断絶することなく、維持でき、また、記録を残したことで少しは親孝行した気分になりました。

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[平家物語] ブログ村キーワード


1185年3月24日壇ノ浦の合戦で平氏は敗れ、多くの平家一門は入水し、最後を遂げる。入水したものの引き上げられた建礼門院、生き残った宗盛と清宗父子、平時忠・時実(ときざね)父子および女房・僧侶など多くの非戦闘員は捕らわれの身となった。

二位の尼は安徳天皇を抱いて神璽(しんじ)と宝剣とともに入水し、海の底に沈んだ。三種の神器のうち宝剣、は行方不明になったが神璽(しんじ、八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま])は源氏に回収され、神鏡(八咫鏡[やたのかがみ])は海底に沈む前に回収され、朝廷に戻った。

時忠は義経に対し、三種の神器返還に向けて奔走したことを強調し、義経に押収された文書の中に身を危うくする文書があり、頼朝の手に渡る前に取り戻すため、娘の蕨姫(わらびひめ)を義経に嫁がせるなど画策した。

一方、鎌倉の頼朝は源氏の勝利に導いた最大の功労者として朝廷や民衆にもてはやされている義経に危険を感じていた。そして、梶原景時から義経こそ最後の敵であると讒言され、しますます、不信感を募らせていく。

5月7日、義経は捕えた宗盛父子を連れ、鎌倉に向かうが5月24日、鎌倉手前の腰越で頼朝に逗留させられた。義経は頼朝に手紙を何回も出し、自分の潔白と忠誠を訴えるが宗盛父子だけを連行、義経は鎌倉に入りを拒否された。

宗盛は頼朝の前に引き立てられ対面するが平家統率者とも思えないような卑屈な態度に周囲から失笑を買う。義経は鎌倉入りを果たせず、6月9日、再び、宗盛父子を連れ、京へ向かった。宗盛は途中の近江の藤原宿で子清宗と共に斬首され、都に晒された

一の谷の合戦で捕虜になった平重衡(しげひら)は伊豆に拘留されていたが鎌倉から南都(奈良)の大衆(だいしゅ)に引き渡された。覚悟はきめたものの、東大寺大仏殿などを焼き打ちした大罪を思い、来世の3悪道(地獄、餓鬼、畜生)に行く恐れに思い悩んでいた。

法然上人との面会を許され、告白し、出家しなくてももっぱら南無阿弥陀仏の名を唱え、改心すれば、極楽浄土に行くことができると教えさとされた。そして、念仏を唱えながら、心やすらかにした重衡は大衆によって木津川の川辺で斬首された

源氏よる平家一門の残党狩りは厳しく、幼児も例外なく粛清するという苛酷なものであった。殺伐たる残党狩りも下火になり、世間も落ち着きを取り戻した1185年7月9日、突然、大地震が京を襲った。神社仏閣、貴族や民衆の家のほとんどが崩壊した。京だけでなく遠国も近国も同様で大地が裂け、山が崩れ、海岸では津波が起こり、甚大な被害を受けた。平家一門の怨霊であると人々は恐れ、おののく。

東北地方太平洋沖地震と平家物語巻第十二「大地震」について
http://blogs.yahoo.co.jp/futoritaimon/62268440.html

地震の復興もままならない中の9月、捕虜となった公卿平氏などは処刑が免れ、それぞれ遠国に配流された。9月23日、時忠は配流先である能登にむかって旅たった(巻第十二「平大納言被流」)。

時忠は赦免される日を願ったけれど、再び京の土を踏むことはなかった。時忠は赦免される2ヶ月前の1189年2月24日、63歳でその生涯を閉じた。配流された人々は4月に京に召し返され、嫡子時実(ときざね)はその後、公卿まで昇進した。

8歳のわが子安徳天皇と一緒に死ぬことがかなわなかった建礼門院(女院、清盛の娘、高倉天皇の正室)は4月25日に京に戻され、女院が中宮の地位にあった時から側に付き添っていた大納言佐の局(だいなごんすけのつぼね)と阿波内侍(あわのないし)と東山の麓のさびれた僧坊に住むことになった。そして5月1日、出家した。まだ29歳という若さだった。

僧坊に住んで間もない、7月9日に大地震に見舞われ、土塀は崩れ、僧坊はあちこち壊れ、傾いてしまい、気落ちしてしまった。平家一門の菩提を弔うため、9月末に大原山の奥にある寂光院という野寺の近くに仏所と寝所を備えた庵室を造り、移り住んだ。

こうして昼夜・朝夕の御勤行(おつとめ)、念仏にはげむ月日を過ごしていた。こうしたわびしい生活を送っていた頃、花も散り青葉になったかと春の名残を惜しまれる1186年4月20日過ぎ、突然、後白河法皇が女院の庵を訪れた。

後白河法皇と対面した女院は数奇な運命を語る。「現在の苦しみは、後生菩提のためを思えばかえって喜びであり、肉親の愛も善知識(教えを説いて仏道へ導いてくれるよい友人、指導者、知識)である。」さらに、「自分は行きながらにして六道をまのあたりに見た。」

天皇の母として栄華の中にあった生活(天上界)、1183年(寿永2年)都落ちし、西国をさまよう中で、盛者必衰を知り、愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)を知った日々(人間界)、食べ物にも困る流浪の生活、四方海に囲まれのどの渇きに苦しんだ日々(餓鬼道)、一の谷合戦以後、続く目の前で繰り広げる殺し合い(修羅道)、壇ノ浦で母(二位の尼)と子(安徳天皇)を目の前で失い、残された人々の悲痛な叫び(地獄道)、皆が竜宮城にいると知った夢(畜生道)

あまりにも凄惨な平家一門滅亡の話に法皇はただただ驚き、憐れみ涙が止まらず、お供の公卿や殿上人も涙で袖を濡らした。

そのうち、寂光院の鐘の音が響き、今日も暮れたと知らされ、夕日が傾くと法皇は名残り惜しくは思われたが、涙をこらえ御所にお帰りになった。

その後も女院は念仏に明け暮れる静かな生活を送るがやがて病気にかかり死期が近づいてきた。阿弥陀如来の手にかけた五色の糸を持って「南無西方極楽世界の教主阿弥陀如来、必ず極楽浄土へ引き連れて行ってください」と言って念仏を唱えたので大納言佐の局と阿波内侍は女院の左右につき添って、今が最期という悲しさに声を出して泣きだした。

西に紫の雲がたなびいてなんともいえないすばらしい香りが室内にみち、音楽が空の方から聞こえてくる中、1191年(建久2年)2月中旬、静かに往生を遂げた。

一方、頼朝と義経の対立は最悪の状況を迎える。頼朝は義経追討を決意し、1185年10月1日、討手「土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」を送る。土佐房昌俊は義経邸に夜襲をかけるが失敗、殺された。

次の討手に頼朝の弟範頼(義経の兄、のりより)を命じるが、辞退しながらも頼朝に忠誠を誓う手紙を百日間に千枚を送るが1185年10月、殺されてしまった。(他の文献玉葉1193年(建久4年)8月)

11月8日には頼朝の力を恐れた後白河法皇は手のひらを返し、義経・行家追討の院宣を下した。義経は朝廷の敵となってしまった。1186年5月行家は殺されたが義経は行方知れずになった。

1187年秋に平泉の奥州藤原氏の秀衡(ひでひら)の元に逃れていたことが判明し、1187年10月秀衡が死ぬと頼朝はあとをついだ泰衡(やすひら)に圧力をかけ、1189年閏4月、義経を殺害させた。(享年31歳)そして、7月には頼朝は奥州藤原氏に総攻撃をかけ、滅ぼしてしまった。

苛酷な平家残党探索はつづき、次々と捕えられ、子供であれ容赦なく処刑された。そして、遂に平家嫡流、維盛の子で12歳の六代御前が北条時政に捕えられた。乳母(めのと)の女房が頼朝から信頼されている高雄の文覚上人に六代助命を願った。

文覚からの連絡もなく、時政が鎌倉に向かい出発した。1185年12月16日、時政は駿河の国の千本松原で決意し、処刑を下そうとしたその寸前で頼朝からの赦免城が届き救われた。

六代は出家し、熊野参詣をして亡き父維盛を弔い、そして平家一門の菩提を弔う平穏な日々が続いた。1199年1月13日頼朝が死去した後、文覚は後鳥羽天皇に譲位をせまる謀反を画策したということで壱岐に流罪になった。文覚の後ろ盾をなくした六代は源頼家の命で捕えられ鎌倉まで連行され、1199年2月5日、田越川(神奈川県逗子市)で斬首された。それ以来、平家の子孫は永久に絶えてしまった。(享年30歳余り)

それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。

平家物語 完

【参考】
二位の尼:時子、平時忠の姉で清盛の正室、徳子の母、安徳天皇と共に入水
徳子(とくし):建礼門院、清盛の娘、高倉天皇の正室、安徳天皇の母
安徳天皇:(第81代天皇、高倉天皇と徳子の子、満1歳3ヶ月で即位、8歳で入水)
大納言佐の局(だいなごんすけのつぼね):北の方、平重衡(しげひら)の妻
阿波内侍(あわのないし):保元の乱当時、後白河天皇側についた後鳥羽上皇の側近「信西」の娘

【六道輪廻】
生き物はすべてこの世にうまれて、そして死んでいくが、一つの生き物が死ぬと、別の生き物に変わるという仏教の考えを輪廻といい、生まれ変わる世界は天上界、人間界、餓鬼道、修羅道、地獄道、畜生道の六道に別れているという。

人は死んでから13仏よって7日ごとに裁かれ、生まれ変わりるが決まらない場合、つぎの7日に裁かれ、遅くとも49日までにはどの世界に生まれ変わるか決められると言われている。
http://blogs.yahoo.co.jp/futoritaimon/38830545.html

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「真説 歴史の道第24号 平時忠 平家流転」、(株)小学館、2010年8月24日

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[平家物語] ブログ村キーワード


1185年(元歴2年、文治元年)2月21日の屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平氏本軍は平知盛(とももり)の陣がある長門の国の彦島(関門海峡)に退却した。

平氏は瀬戸内海各地の水軍を持ち、淡路・讃岐から長門・北九州までの制海権をにぎり、海上の戦闘能力では源氏をしのいでいたが、この屋島の大敗で、これまで平家に属していた熊野水軍の熊野別当湛増(たんぞう)など次々と寝返り、形勢が逆転してしまった。

瀬戸内海の水軍を味方に入れた源氏は840隻の軍船を擁し、長門の国に向かった。

追い詰められ平氏は1185年3月24日、彦島を出て500隻余り軍船で源氏に決戦を挑んだ。正午過ぎ、平氏最後の戦いとなる壇ノ浦の合戦が始まった。(軍船の数:本文は資料4、資料1では源氏3000隻、平氏1000隻)

始めは西から東に流れる潮流の乗った平氏軍が優勢であったが、戦いが長引き、午後3時過ぎになったとき、潮流が逆流しはじめ、たちまち、形勢が逆転した。

さらに、源氏は水手(かこ、ごぎ手)・かじ取りを弓で射殺する作戦にでたため、舟の進退の自由が効かなくなり、壇ノ浦に追い詰められ、陸上の弓勢(ゆんぜい)と挟み撃ちにあい、平氏軍は次々と討たれていった。

そして、決定的な敗因は阿部民部重能(しげよし)の源氏への寝返りであった。ほかの有力武将も次々と源氏に寝返っていく。大型の唐船に雑兵(ぞうひょう)を乗せ、兵船に平宗盛など将軍を乗せ、敵を欺く作戦も漏れてしまった。

平氏の敗戦は決定的になった。二位の尼は神璽(しんじ)を脇に、宝剣を腰にして、山鳩色の御衣に角髪(みずら)を結ったわずか7歳の安徳天皇を抱いて入水した。建礼門院徳子(とくし)も後に続くが引き上げられる。三種の神器のうち、神鏡は海中に沈む前に源氏に回収された。

【参考、資料1巻第十一「先帝身投」】
【(安徳天皇は「尼ぜ、私をどちらに連れて行こうとするのだ」と仰せられたので、二位の尼は幼い君にお向かい申して、涙をこらえて申します。

「まず東にお向かいになって、伊勢大神宮にお暇を申され、その後、西方浄土の仏菩薩方のお迎えにあずかろうと思いますので、西にお向かって念仏をお唱えませ。この国は粟散返地(ぞくざんへんち)といって、悲しいいやなところでございますから、極楽浄土といって結構なところにお連れ申しあげますよ)と泣きながら申しました。

幼帝は山鳩色の御衣に角髪(みずら)をお結いになって、御涙をはげしく流されながら、小さくかわいらしい御手を合わせ、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお暇を申され、その後西にお向かいになって、お念仏を唱えられたので、二位殿はすぐさまお抱き申し上げ、「波の下にも都がございますよ」とお慰め申し上げて、千尋もある深い深い海底にお入りになりました。

悲しいことだ。無常の春の嵐が、たちまち花のような帝(みかど)のお姿を吹き散らし、情けないことだ、六道をめぐる人間の生死の荒い波が押し寄せ、海の荒波が天子の御身体を海中にお沈み申し上げた。

まだ、十歳たらずで海底の水屑(みくず)となってしまわれた。十善の帝位にある方のご運のつたなさはなんとも申しようもないほどである。】

そして、武将が次々と入水する。長老格の教盛(のりもり)・経盛(つねもり)兄弟はじめ、資盛(すけもり)・有盛・行盛が入水、教経(のりつね)は義経を追いかけ戦いを挑むが逃げられ、源氏の武士三人を道連れに入水する。知盛(とももり)は戦のありさまを最後まで見届けてから入水する。

宗盛と清宗父子は入水する様子もなく、呆然としているのだった。これを見た侍たちはあまりにも情けないので側を通り過ぎるようにして宗盛を海へ突き落した。これを見た清宗もすぐさま海に飛び込んだ。宗盛は「清宗が沈むなら私も沈もう、清宗が助かるなら、私も助かろう」、清宗は「父が沈むなら私も沈もう、父が助かるなら、私も助かろう」と互いの思って泳いでいるうち、源氏の熊手に引っかけられ生け捕られてしまった。

公家平氏の時忠・時実(ときざね)父子はいとこの信基とともに降伏し、女房・僧侶など多くの非戦闘員とともに捕らわれの身となった。

この後源氏は戦後処理に入るが、頼朝は平家を根絶やしにするため、生き残った平家一門に対し、幼い子供も容赦なく処刑するという過酷な命令を下すことになる。

【参考】
二位の尼:時子、平時忠の姉で清盛の正室、徳子の母
徳子(とくし):建礼門院、清盛の娘、高倉天皇の正室、安徳天皇の母
安徳天皇:(第81代天皇、高倉天皇と徳子の子、満1歳3ヶ月で即位、7歳で入水)、山鳩色:青みのある黄色(黄緑)、角髪(みずら):髪を中央から左右に分け、両耳のあたりで束ねたもの
高倉天皇:第80代天皇、後白河法皇と滋子の子)
滋子(しげこ):建春門院、公家(くげ)平氏の平時忠・時子の異母妹、後白河天皇の譲位後の妃

【三種の神器(天皇の象徴)】
1. 宝剣(ほうけん、草薙剣[くさなぎのつるぎ])
2. 神璽(しんじ、八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま])
3. 神鏡(しんきょう、八咫鏡[やたのかがみ])

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「真説 歴史の道第24号 平時忠 平家流転」、(株)小学館、2010年8月24日

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[平家物語] ブログ村キーワード


1184年(寿永3年、元歴元年)2月7日の一の谷の合戦で大敗北に帰した平氏は舟で屋島に落ち延びたが水軍を持たない源氏は追撃することができなかった。

そこで、頼朝は都周辺、山陽・九州の掃討に努め陸地の勢力確保を図るため、平氏の支配地域である伊賀・播磨・美作・備前・備中・備後そして九州や四国土佐の豪族に下文(くだしぶみ)を送り、平家追討に加わることをすすめた。

頼朝ははじめ、義経を総大将とし、攻撃の準備をさせていたが京都にいる義経と鎌倉の頼朝の間に意思疎通がうまくいかず、頼朝は義経を疎むようになる。一方、後白河法皇は義経の朝廷を敬う態度を気に入り、義経を信頼するようになり、頼朝は義経の頼朝に対する忠誠心を疑うようになる。

1184年8月6日、後白河法皇は義経を左衛門少尉検非違使に任命した。頼朝は自分の許可なく任官したことに激怒し、平氏追討軍の総指揮官を解き、義経の兄の範頼に総指揮官を任命した。

こうしている間、一の谷の敗北から半年の月日は流れ、平宗盛を総大将とする平氏は屋島を根拠地にして、平知盛(とももり)は関門海峡の彦島に陣地を築き、中国と九州を遮断して東は淡路・讃岐から西は長門・北九州までの制海権を握り、勢力を盛返し始めた。

9月2日、京都を出発した範頼軍は長門の国の平知盛の陣地を落とすため、山陽道を西に進軍したが瀬戸内海の制海権は平氏軍に押さえられ、不慣れな西国の国々で兵糧枚の調達も思うに任せぬ状況に陥りながら、1185年(文治元年、元歴2年)正月、ようやく戦果もないまま長門の国に到着した。

範頼軍の士気は衰え、不満が続出した。次々に入る範頼の窮状を訴える手紙を受け取った鎌倉の頼朝は、ついに範頼支援部隊として、義経を指揮官に起用し、出撃を命じた。

1185年1月10日、義経は屋島の陣地を落とすため、京都を出発した。

2月17日、摂津の国渡辺まで進軍、舟をそろえ出航しようとしたが北風が吹き、出航延期になる。猪突猛進型の義経と退却も考慮する梶原景時との間に舟に逆櫓(さかろ)を設置するかしないかで口論になり、二人の仲は険悪になった。(巻十一「逆櫓(さかろ)」)

義経はその夜、遭難を危惧する船頭たちを脅し、5艙で嵐の中を強引に出航した。

2月18日、明け方阿波の国勝浦に到着、讃岐の国屋島の軍は手薄という情報をつかみ、そのまま強行軍、屋島に到着するやいなや平氏の陣に火をかけ、攻撃した。突然の急襲に源氏の大軍が押し寄せたと勘違いした平氏軍は大混乱に陥り、急いで舟に乗り、沖合に脱出した。

2月19日、平氏は義経軍がわずかな兵力であることを知り、平氏軍は平教経(のりつね)を中心に巻き返しにでる。

奥州平泉にいた義経が挙兵したとき藤原秀衡(ひでひら)に命により義経に仕えてきた佐藤三郎兵衛(びょうえ)嗣信(つぎのぶ)、四郎兵衛(びょうえ)忠信兄弟の兄の佐藤嗣信は義経を射落とそうと平教経の矢を防ごうと身代わりになり射ぬかれ戦死した。(巻十一「嗣信の最期」)

(佐藤嗣信、忠信兄弟は現在の福島市飯坂町出身である。平氏は出身の伊勢(三重)を中心に西国の武士からなっているのに対し、源氏は武蔵七党といわれる八王子の横山党、日野の西党など武蔵七党や相模を中心とした関東・東北の武士からなっている。)

夕暮れになり、戦(いくさ)が中断したところで平氏は一艘の舟に美女を乗せ、扇の的を立て射落としてみよと挑発した。義経に命じられた下野の国(栃木県)の那須与一宗高は「南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮大明神、那須の湯泉大明神、願わくばあの的の真ん中を射させ給え、射損なったら自害覚悟である、この矢外させ給うな」と念じると、風が弱まり、その瞬間、矢を放つと見事に扇の要の一寸上に命中、扇は空に舞い上がり、大空にひらひらひらめき、春風にもまれて海に散った。(巻十一「那須与一」)

与一の妙技に感激した平家の侍が踊りだしたが再び与一がでて射殺したため、戦(いくさ)が再開され、源平双方から武者がでて力比べとなった。敵の錣(しころ)を引きちぎって力比べに勝利したのは平氏の上総悪七兵衛景清だった。(錣(しころ):兜(かぶと)の左右から後方に垂れて首を保護するもの)

ふたたび、戦になり、源氏は馬で海に入り攻撃した。義経は自分の弓が流され、危険を冒して取り戻した。重臣たちは大金をはたくような高価な弓とはいえ、命を張るほどのものでないのにと申したところ、義経は源氏の大将とあるものがこのような弱い弓を持っているのかと敵に馬鹿にされるのが耐え難いので命がけで取り戻したのだ」と話した。この話は部下たちは大いに感心した。(巻十一「弓流し」)

2月21日、義経軍は志度の浦に逃れた平氏軍をさらに攻撃し、ついに平氏軍は四国から撤退を余儀なくされた。

1185年2月22日、梶原景時が大軍を率いて四国に渡ってきたときには、平氏はもぬけのからで既に、義経が四国を制圧していた。

(注)年代や内容は参考資料、歴史書と文学「平家物語」によって若干異なる。年代や内容は主に歴史書を土台にして文学「日本古典文学全集「平家物語」の内容の一部を追加して作成した。

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史大系3 貴族政治と武士」、井上光貞他、山川出版社、1995年11月5日
5.「平家物語」、石母田正、岩波新書、1966年12月10日

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