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暁諭書
民に説き諭す言葉
ああ、この国の全ての人たちよ、みなの安心を望む、動揺し逃げ惑うには及ばない。今、私はたとえ他国の先鋒将であっても、日本を発つ前から既に、私はこの国を討ってはならないと心に誓った。それは、長い間、朝鮮の文物を慕い続け、行って直に見ることが宿願であり、この国の教えに浴してみたいという一途な思慕と憧憬の情からである。さて加藤清正の先鋒に選ばれて、鉾を差し軍を従えこの地に来はしたが、私は到底、礼と義の国を侵すことが出来ず、この国を害することは出来ない。もし、一人たりとも害するなら、私の平素からの信念に背くことになるばかりか、天罰を受けるであろう。私にどうしてその様なことが出来ようか。貴国は私を侵略するために来た異邦者と思わないでほしい。老人を安心させ子供を保護して、耕す者は畑へ行き、市場へ行くものは市場へ行け。私をこの国の人と同じように扱い、隠れたり避けたりせず、働く手を休めずに、安心して田畑を耕し、書を読んで、上は王と親を敬い、下は妻と子を扶養望む。そして私の軍の中の一人でも横暴な振る舞いや略奪や不品行を行えば、直ちに私に告げて欲しい。もしそんな者があれば軍律により処刑するであろう。安心し動揺せず、私の真実を入れて欲しい。 壬辰四月十五日
ー慕夏堂文集より抜粋ー
1592年、豊臣秀吉による朝鮮侵攻に参加した一人の日本人の武将が、朝鮮半島に足を踏み入れました。武将の名は、沙也可(さやか)と伝えられてます。秀吉の軍隊はポルトガル伝来の火縄銃で武装しており、刀と弓矢と盾で戦う朝鮮 軍を簡単に打ち負かし進撃。そんな戦闘のさなか、沙也可は配下の兵を率いて朝鮮側 に寝返ったとされています。
「この戦いには大義がない」と、彼は降伏文書で述べ、「私は朝鮮の文化と礼に 敬慕の念をいだいている。神聖なる王に仕えたい」 朝鮮国王・宣祖は沙也可の願いを聞き入れ、彼に金忠善(キム・チュンソン)という名を与えました。沙也可は朝鮮に鉄砲製造の技術を伝え、朝鮮軍は7年に及ぶ戦争の末、ついに豊臣軍を撃退しました。その後、沙也可は朝鮮の女性と結婚し、6人の子をもうけました。彼はそのまま、朝鮮の地に住みついた兵士の家族らに人の道を教えながら72歳で没したとされてます。その子孫の数は現在、7000人 にのぼるといわれ、子孫数百人が住む大邱郊外の友鹿里という村は、韓国では「サムラ イの里」として知られています。一族は先祖を誇りにしていると今も話してます。「平和を愛するヒューマニストだった、今も生きていたら、ノーベル平和賞を受賞しただろう」 と16代目の子孫は訪れた観光客に話してます。 残った自筆の書には、子供たちに「異郷の客として、栄達を望まず、儒教の教えに従って質素に暮らせ」と教えています。日本では、彼は卑怯な売国奴として黙殺されてきました。日本側は1910年に韓国を併合した後、沙也可に関する韓国の記録は偽物だと主張。1945年に韓国が解放されてからも、日韓の間に摩擦や論争が起こるたびに、全国に散らばって住む末裔は心を痛めてきました。最近は日本でも再評価され1999年には、中学校の歴史教科書も刊行されました。(時代が良かったんですね。)友鹿里には沙也可の墓のほかに、沙也可をまつる鹿洞祠、鹿洞書院、沙也可の遺品や壬辰の倭乱に関する図書などを備えた忠節館などがあります。韓国の中学3年の道徳の教科書にも沙也可の話が取り上げられています。今、友鹿里では「韓・日友好村」が建設され多くの人が村を訪れています。沙也可は日韓交流に尽くした人物と言えるでしょう。
黙殺されてた、沙也可を日本で”再登板”させた 司馬 遼太郎の功績は大きいと思います。この人物の評価や、真偽について語るためではなく、嫌韓、反日の嵐が吹き荒れる中、少しでも心が温まる話をと思い載せてみました。
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私は歴史は勝者によって塗り替えられるし、自国の都合の良い歴史に作られるのは当然と思っています。どのみち、互いが2次知識の中での話で、論理性があるかないかで、それの整合性がとわれると思います。
2006/9/7(木) 午前 0:11
秀吉が、多くの陶工を強制的に連れてきた、と言われますが、秀吉の朝鮮侵略を、正当化する学者は「陶工が進んで日本に来た」と言います。結局、歴史研鑽も立ってるスタンスで捉え方が違ってしまいます。ご意見ありがとうございます。
2006/9/7(木) 午前 0:15
陶工が自分で進んで来たかどうかは資料も無いでしょうしね。不明でしょうね。
2006/9/9(土) 午前 0:23
そうですね。
2006/9/9(土) 午前 0:31
少し別な角度から見ると・・・ 当時、既に東南アジアには日本人町がありました。ですから、相当数の日本人が中国、東南アジアと行き来していたと思われます。高い技術は中国などからも直接伝来してくる時代になっていたと思われます。ですから、技術輸入という面では、わざわざ、朝鮮の陶工を、つれてくる必要性は乏しかったと思いますが?
2006/9/9(土) 午前 0:32
そうですかね、色んな見方がありますから。
2006/9/9(土) 午前 1:22
感動のあまり、血がふるえました。この感覚を多くの人に味わっていただきたい、「血」に染み渡らせたい、と、願い、失礼ながら、転載記事を転載させていただきました。(まったけさまの処で)
2006/10/14(土) 午後 11:04
逸話なのか、偽りなのか、判断できませんが、私は、例え偽りの歴史時事だとしても、この精神を互いが誇れれば、善い、と、考えます。
2006/10/14(土) 午後 11:10
偽りではありません。司馬遼が500冊の書物を研鑽して、新たに、事実として書き上げました。歴史は勝者によって書き換えられる、そう信じています。当時、嘘で塗られれ歴史を作る必要が無かった。それだけです。ちなみに、後日わかりましたが、こかげさんは徹底した民族差別、民族排斥の嫌韓右翼でした。参考まで。
2006/10/15(日) 午前 2:21
転載、ありがとうございます。史実に基づいてます。ご安心を。私の友人がフールドワークで現地に行って、見てきてます。嘘、捏造記事はあげません。このサイトに行けば、嫌韓論者が、何を根拠に嫌韓記事を書きつらねてるかが判ります。参考にしてください。 戦えANTI→嫌韓たち!http://blogs.yahoo.co.jp/koreanpolice28/ <嫌韓対策委員会>
2006/10/15(日) 午前 2:26
<<こかげさんは徹底した民族差別、民族排斥の嫌韓右翼でした。 こかげさんのブログ、拝見しました。それは言いすぎです。私だったら、そんな言い方されたら傷つきます。
2006/10/15(日) 午後 8:21
そうですか?消しましたが、そんなコメントの連続でした、民族差別コメントの連続、それを違う、と言う視点はどこから来るんでしょうか?ここに残してるコメントではありません。普通ではこんな事、私はいいません。結局、近代化が出来なかった、犯罪が多い、日本が助けなければ近代化が出来なかった、。理路整然とそれを述べたとしても、まったく、他のnet右翼と同じです。
2006/10/15(日) 午後 9:09
市民連帯が目的で、国家や政府の代弁者でも、広告塔でもありません、ご理解ください、言いすぎなら?韓国人は、、、、だというコメントは言い過ぎでは?こんな話はやめましょう、彼の疲れ話は疲れました。
2006/10/15(日) 午後 9:09
ファピーさん、京都の耳塚に関する記事をアップするにあたってトラックバックに成功しました(ToT) /。やっぱり、天王山は明智光秀が制すべきだったと思いませんか(笑)。
2006/10/23(月) 午前 0:28
http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41541491.html
2006/10/23(月) 午前 5:23
やはり、今、このコメントをみました。mixiから入って、早々に、記事を転載させてもらったところです。やはり、こうして色んな角度で歴史の史実を研鑽して行くのはいいですね。百済寺までは行きましたが、耳塚はまだです。今度、みなでフールドワークしましょう。枚方の砲兵工廠後から、百済時、そして耳塚のコースで
2006/10/23(月) 午前 8:46
私は、親日、反日、嫌韓、親韓もどこかで繋がってると思います。net右翼や排他的名差別主義者を除いて、家族や社会、国を憂うるスタンスは、時代によって、価値感の評価は変化するでしょうが、歴史から学ぶ事の大切さですね。美談は美談として、虚実でとらえて夢!を無くすべきでないと思います。
2006/11/11(土) 午後 6:15
fwapyさんの記事で「沙也可」を知りました。
ある時、一冊の本が目に止まりました。
「沙也可」とは「雑賀=サイガ」の朝鮮読みです。
TBするやり方を忘れてしまいましたし、こちらの記事のアドレス掲示もせず、失礼しました。
2008/9/5(金) 午前 10:22 [ - ]
秀吉は、
・天正19年(1591年)3月から、九州の大名に命じて侵攻軍の基地として名護屋城(現唐津市)の建設を始めた。
・同年7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。
・同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島に朝貢と服属を要求。既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている。書状は、海外情勢に詳しかった商人原田孫七郎を使者としてマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに届けられた。原田はダスマリニャス返書を持って帰国。翌年の天正20年(1592年)ダスマリニャスの使節としてドミニコ会のフアン・コボ(Juan Cobo)が来日し秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した。
2013/7/13(土) 午前 9:56 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]
「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。
「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)
したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていた。
2014/7/27(日) 午前 9:06 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]