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済州島虐殺60年で式典 韓国 韓国の済州島で開かれた「4・3事件」の慰霊祭で、献花し犠牲者の冥福を祈る遺族ら=3日(共同) 韓国の済州島で1948年4月3日に起きた武装蜂起を契機に島民数万人が軍や武装勢力に虐殺された「4・3事件」の発生から60年を迎えた3日、同島で遺族ら約1万人が参列し慰霊祭が開かれた。 日本からも、当時大阪などに逃げた経験を持つ済州島出身の人を含む約140人が慰霊のため島を訪れた。 12歳の時に事件が起きた東京都大田区の高良順さん(72)は、乳児を背負ったままの女性も含む多数の遺体が通学路脇などに横たわっていた惨状を振り返り「島では長い間『死者は暴動を起こしたアカ』と言われてきたが、罪のない人が犠牲になった虐殺だと後世に伝えられる時代になったと実感している」と話した。母親の親戚(しんせき)が一家皆殺しにされた大阪市生野区の金茂錫さん(79)も「殺されたこと自体を口にも出してもらえなかった気の毒な犠牲者のために祈ってあげたい」と述べた。(共同) ◇ 4・3事件 韓国・済州島で1947年に警察がデモ隊に発砲したのを背景に、左派勢力が朝鮮半島の南北分断体制の固定などに反対し48年4月3日に武装蜂起した。軍などは54年までの鎮圧作戦で住民多数を左派の同調者と見なし虐殺、左派も非協力的な住民を処刑した。長年犠牲者は暴徒扱いされたが2000年に政府が調査を開始。盧武鉉前大統領は03年、事件が公権力の過ちで虐殺だったと認め謝罪、犠牲者の名誉回復を図った。死者は2万5千−3万人と推定される。(共同)
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ゼミの勉強で知ったのですが、この済州島の一件で日本に韓国人が逃げ込み、在日社会の形成の1つの要因となっているようですね。在日の中には済州島には帰りたくないと思っている人もいると本で読んだのですが、実際はどうなんでしょうか。
2008/4/20(日) 午前 0:00 [ さとぱい ]
こんなにむごいことされてようやく謝罪や犠牲者の名誉回復ですか。苦労に次く悲惨な事件でしたね。言葉も出ないくらいです。
お気に入り登録ありがとうございます。
2008/4/20(日) 午前 10:23
米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授
戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める 同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。
日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。
2011/4/24(日) 午前 9:27 [ 役に立つマネジメントシステムって ]
太平洋戦争後の韓国においては済州島四.三事件、保導連盟事件における何の落ち度も無い韓国民による韓国民の大量虐殺、韓国国民防衛軍における何の落ち度も兵隊の大量餓死や兵糧横領事件などの多くの不条理がありました。
兵糧横領の金を李承晩大統領も受け取っており李承晩大統領は窮地に立たされましたが、韓国民の不満をかわすため李承晩ラインを宣言し島根県竹島を強奪することにより、国民の不満の目をそらせました。
島根県の竹島は未だに、韓国に不法占拠されたままです。
毎年大阪市生野区で済州島4.3事件に関するイベントが開催されています。
是非参加してみてください。
往時の歴史を国際的に共通な歴史認識とすることが、アジアの平和と繁栄に繋がると思います。
2012/2/19(日) 午前 11:21 [ 環境のよい不動産が好き ]
2003年に名誉回復がされたということですが、韓国政府に補償を求める動きにはなっていないでしょうか?公権力による虐殺であれば、遺族には相当額の支払いがされる筈だとおもうのですが・・・。
2013/5/4(土) 午前 9:50 [ 匿名 ]
1259年に高麗がモンゴル元朝に服属すると、済州島はモンゴルの直轄領となり、大規模な馬牧が設置された。
1271年、珍島でモンゴル・高麗連合軍に敗れた金通精率いる三別抄がそれ以降済州島に移って抗戦を続けた。
三別抄は島民を巻き込みながらゲリラ戦を行なったが、1273年4月、金方慶と洪茶丘率いる高麗軍によって三別抄は壊滅した。同年モンゴルは済州島に耽羅総管府を設置した。
1274年10月モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする連合軍が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航し、対馬・壱岐の島民を殲滅し、博多を襲った。
2014/7/13(日) 午後 0:54 [ 元寇を学び日本を護る ]
済州島四・三事件の背景
日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。
この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。
1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。
1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。
この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。
島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装
2018/4/29(日) 午後 2:15 [ 在日の違法行為を咎める ]