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【平和憲法を守るのは在日の使命=故 金敬得弁護士の遺言】 在日を見れば日本の今が見える!

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       http://www.koryomuseum.or.jp/
       連休中、京都の高麗博物館で開催中の『朝鮮通信使』へ行ってきました。
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春の展覧会は朝鮮通信使来日400年を記念する特別展
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文禄・慶長の役(1592年〜1598年)により、日本と朝鮮との国交は一時断絶しましたが、1607年に徳川政権によって国交が回復しました。その際に来日した朝鮮通信使は日本文化のなかに大きな足跡を残していきました。朝鮮通信使の来日に際しては対馬宗家が両国の間を取り持ち、その外交を一手に引き受けました。日本と朝鮮が交わした外交文書は両国の体面を保つため、宗家によって偽装されるなど、歴史の裏舞台では壮絶なドラマが繰り広げられました。今回は偽造された国書を中心に高麗美術館所蔵の通信使関連資料のほか、他館より多数の出展をご協力いただき、このたびの展示といたします。通信使の一団としてやってきた画員が書き残した墨画や通信使の京都での行列の姿をあらわした「洛中洛外図屏風」、通信使を象った日本の郷土人形も見どころのひとつです。
江戸時代の日本と朝鮮との深いつながりを感じていただく貴重な機会です。一度、高麗美術館をおたずねください。
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       古代地図を逆さに向けて朝鮮半島と日本が隣接した地理や文化を研究員の方が説明してくれました。
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       日本全国に残る通信使の足跡。
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       http://www.mus-his.city.osaka.jp/ 
       5/26-6/25まで大阪歴史博物館でも開催されます。
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       1978年当時の朝鮮通信使展示会用チラシ

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『焼け跡から生まれた憲法草案』のNHK ETV特集を、6日(日)に、
再放送されます。とても分かりやすく感動的な番組でした。

★再放送 『焼け跡から生まれた憲法草案』

5月6日(日) 午後 10:00〜11:30
NHK総合

・敗戦後7人の日本人が議論の末に生み出した憲法草案
・天皇と国民の関係は
・新資料で描く憲法誕生の舞台裏
小泉・元首相はCIA工作員=2007年04月20日
2000年7月16日付琉球新報によると、1968年11月に行われた沖縄の日本「返還」後初の沖縄知事選挙(当時は主席公選と呼んだ)において、米国 CIAが自民党の知事候補に選挙資金を援助し、自民党を勝たせるように裏工作していた事実が報道されている。

この記事では、米国大使館から出された、自民党にCIA資金を選挙の裏金として渡すように指示した、
68年8月16日付の電文がスクープされている。

なお、この沖縄知事選挙で自民党幹部職員として選挙を担当していた金尚氏によると、CIAの代理人として沖縄でCIA資金2000万円の授受を担当していたのは、小泉純一郎・元首相である。
・・週刊文春2002年8月15日22日合併号。


CIA日本工作員=スパイ・・日本独立のための第19章
次期総裁候補の麻生外相も・・・2007年04月25日'''
1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。

日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。

ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。
ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。

世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは
属していた。

父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

[続きはここから]

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。

日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。

当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。

日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。

ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。

貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。

オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。

オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。


中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。

その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。

現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使ったドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。

石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。

ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。

オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。


当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。

ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。

ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。

ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。


ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。

同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。
(資料が残っていないため、この点は想像である。)


スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。

1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。

ブルームは、当時日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。

ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。

その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。

ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。

この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣・本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。


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長い文ですが時間がありましたらお読みください。決して、過去の出来事を賞賛したり、評価しようとするものではありません。今、この時だからこそ、一人でも多くの人に”教育”について、そして、在日の人々が何故民族教育に対してこれ程までに拘りを持つのか。それが決して思想信条では無い部分を知ってもらい、これから先を考えたくてアップしてみました。

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1945年8月15日の解放(終戦)後、南にはアメリカ軍が進駐し軍政が布かれます。又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり、在日が帰るに帰れない状況が生まれきました。4・3事件は、済州島ので20万の人口で3万とも8万とも言われる島民が犠牲になりました。済州島だけでなく麗水・順天等々で1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、それは、めまぐるしく情勢が変化します。

それでも帰国しようとした時、、当時の占領軍(GHQ)は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして所持金は10,000💲に限定します。連合軍の命令は1945年〜47年まで継続されます。日本へ来て、長年、差別と闘いながらコツコツと築き上げた財産を持って帰れない状況が続きました。日本に来た1世の中には生活の糧を求め、そして忌まわしき徴兵、徴用そして,動員で日本に来た人たちは、生活の土台が故郷にもないわけです。

そんな中、祖国に帰ることを前提としながら、ともかく、「われわれの子女に朝鮮の民族の魂を宿らせよう。」そう思いつつも戦前は許されなかった母国語での勉強、日本学校に通わせたのが現実です。戦後になって「民族の歴史、特に言葉を教えなければならない。」そういう思いが爆発し、雨後の筍のように学校が出来始めます。1945年〜47年と、戦後3年の間に、国語講習所という名前でスタート。後日、正規の学校となって行きます。統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。中等学校7校、生徒数3,300人。青年学校が33校、生徒数1,800人、これだけの学校が日本全土に出来ました。初等学校566校、そのうちでも大阪だけで66校に達しました。(この中には韓国系の建国学校もあり、このデモにも参加し、閉鎖反対運動を反対繰り広げました。)
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【GHQと日本政府による弾圧と4.24阪神教育闘争】
 しかし、G・H・Qと日本政府は「朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない。」と通告してきます。韓国は軍政が布かれているから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう図式です。政府は、戦前の同化政策を継続使用とし、そんな状況下。1948年には、「朝鮮学校」という存在そのものが、「天敵」として見えてきます。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、最初に山□県の学校から公布されます。(吉田内閣、何とも皮肉な?)そして、神戸・1948年4月12日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言う理由。「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出ます。

在日が自分の言葉を取り返し、真のアイデンティーを探そうと大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がりました。神戸や岡山でも。朝鮮の学校のある所は全ての規模に膨れ上がります。
神戸では4月15日、在日代表たちが県知事と交渉する約束をしていたにもかかわらず、突然拒絶されたため、抗議の座り込みしていたところ、全員が逮捕された。続いて23日には民族学校の閉鎖が強制執行されます。
24日、同胞たちは兵庫県庁前で約一万人の集会を開き、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目が合意されます。同時に、警察に15日に逮捕された人々を釈放させる約束も取り付けました。集会参加者たちは要求を勝ち取った感激を味わいながら、帰路に着きますが、同日深夜、神戸軍政司令部は突如非常事態宣言を発し、合意文書の無効を宣言するとともに、3日間で1,732名を無差別逮捕しました。

大阪でも、4月23日、15,000名の在日同胞が、大阪市庁(現、大阪府庁)前に集まり、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求します。その時は、赤間文三が大阪府の知事でしたが、逃げてしまい、副知事が交渉を持ちます。その場で副知事は「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」まさに信じがたい論理で説明がなされます。本質的には同化政策を繰り返す意図です。今もその意図は変わらず、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」の不条理が続いています。(これが世にいわわれる阪神教育闘争の由縁です。)

これに抗議した、民族教育を支援しようとする市民や父母が逮捕され、留置され、翌24日には、それに抗議し、再び15,000名の群集が、前日逮捕された人たちの留置場前で釈放を要求して抗議のデモを行いました。その光景を見たた占領軍の神戸司令官アイケルバーガーは24日、非常事態宣言を出し戒厳令が近畿地区に布告されます。そして、戦車、装甲車を出動させ弾圧が開始されます。それでも”民族教育を守る闘い”に全大阪の在日同胞たちが結集し、その数45,000人が大阪市庁(現府庁)前の、大阪城公園に結集し、大阪支庁を取り囲んみます。警察も占領軍の指示によって8,000名が出動し、45,000名の市民とと対峙しました。

【少年、金太一君、警察の発砲で射殺】
整然と隊列を組むデモ隊は、手に武器を持たず、スクラムを組んで整然と隊列を組んでいました。府庁の3階まで座り込みをしていましたが、官憲が武力で鎮圧しようとしたため、一旦退去しようとしますが、警察は「5分以内に退去せよ!」と、それは挑発でしかありませんでした。45,000人が解散するにはそれ相応の時間を要しました。その最中、消防車のホースでデモ隊を蹴散らし、混乱に一層拍車をかけ、そこに私服警官の挑発分子が紛れこみ。時を見計らい、「デモ隊が暴れてる!」というデマを流し、デモ隊に発砲を始めます。
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そして、少年、金太一(写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去と葬儀)という16才の少年が後頭部を撃たれ亡くなります。この時、警察の弾圧で3000人ぐらいが逮捕されたと記録されています。

犠牲者は、金 太一(キム・テイル)少年が射殺され、神戸の教師パク・チュボム氏は獄中死します。そして重軽傷者数百名、裁判を受けて33人が国外追放となります。勿論、占領軍による軍事裁判です。この時、デモに参加した動員数は延べで120,000人といわれてます。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。そして、この崇高な民族教育を守ろうとした闘争を、日本政府は「破防法」として位置づけ、以降、朝鮮総連を「破防法指定団体」とし、日本政府からすれば、この時の朝連(総連の前身)のイメージをそのまま今日まで引っ張っています。

【大阪市との民族教育に関わる覚書】

1949年10月19日、正式に朝鮮学校閉鎖命令が出て、警察隊が朝鮮学校に押しかけ、ガラスを割ったり戸を潰し突入してきますが、父母や子供たちは一緒に抱き合って学校を死んでも守るんだと闘いますが、結局、閉鎖の赤紙を貼られ、ついに朝鮮学校は閉鎖されます。
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しかし、この最中に大阪市と覚書と言う形で協定を結びました。その後も交渉は続き、1948年5月3日に文部大臣と、朝鮮連盟(朝鮮総連の前身前身)との間で次のような覚書が交わされます。

閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。

朝連が推薦する教員を認める。

国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。

認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。

この覚書が、今日、現在日本学校の中にある「民族教室」の基礎となっています。


しかし、4・24の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じました。

戦後、子どもたちが自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような在日の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができました。民家の空室や工場、そして倉庫の片隅などを作り替えて教室にしまし。そこに自分たちの作った机や椅子、黒板が持ち込まれました。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まり、いわば寺子屋ができあがったわけです。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあり、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行けなかった現状でした。だから子どもたちは喜んで朝鮮語の講習会へやってきました。

こういうバラックみたいな学校で勉強すると「朝鮮学校、ボロ学校」そういうように言われたらいしいです。それでも、学校で勉強し、民族性守ったのもつかの間、ついに66校あった学校が全て閉鎖されました。ただ一つ、大阪市内の西今里公立朝鮮中学校だけが(現本庄中学校向かい)、その分校としてありました。今は、中大阪朝鮮中級学校となっています。その西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでした。講師で朝鮮人の先生が数人。その頃になれば日本の先生が授業してたと当時を振り返ってお年寄りが話されています。

故金太一氏の母親の話
「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」


【朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へ】
生野区には、在日韓国・朝鮮人が75%在籍しているという学校があります。その学校では在日の子供たちが大多数を占めています。学校名は御幸森小学校(みゆきもり)です。コリアンタウンがある近くにある学校です。その子達は富士山は習っても、白頭山は知らないんです。ウリマルを全然知らんない、それこそ、日本人でもない、韓国・朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいます。


この阪神教育闘争は、「朝鮮人は解放された国民ではないとする占領軍の極東戦略の一環として、朝鮮学校閉鎖の弾圧が行われた。」と言う事です。これと相前後して朝鮮戦争が起き、日本における朝鮮学校は、彼らにとって『眼の中の棘』でした。「同時に、過去の同化政策を一向に恥じない日本政府によって、朝鮮人子女教育

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4.19民主革命(사일구=サイルグ)韓国は戦後、朝鮮戦争を経験し、そして建国の父と言われた李承晩政権の、不正、腐敗選挙を国民自らの力で打倒した歴史を持っています。そして常にその先頭には学生がいました。
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           民主党、副大統領候補 張勉の演説に集まった20万人の群衆
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           学生と市民が一つになってデモが全国に広がる
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           官の強制による日曜登校反対の慶北高校によるデモ    
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           国立4.19記念墓地
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           4.19国立記念墓地内にある祭壇に飾られたデモの犠牲者(小中学生も)
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        4.19の引き金、拷問によって殺害された学生の死体(水中から引き上げられた) 
  

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう記載されていました。

四月革命(しがつかくめい、4월 혁명、4·19 혁명)とは、1960年4月に起きた民衆デモにより当時第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命、4.19(サイルグ、사일구)とも言う。

目次 [非表示]
1 四月革命にまで至る経過
2 1960年の大統領選
3 馬山暴動と4月19日の蜂起
4 註

[編集] 四月革命にまで至る経過
1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(85歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年の選挙では、与党民主党の大統領候補・申翼煕が遊説中急逝し大統領は与党の李承晩候補が棚ボタ勝利となったものの、副大統領選挙については弔い票などを集め約20万票差で野党・民主党の張勉候補に奪われ、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、大統領権限の強化と張勉副大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。

[編集] 1960年の大統領選
1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領には張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[3]。

[編集] 馬山暴動と4月19日の蜂起
3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、学生と市民が大統領選の無効を主張して暴動を起こした。この暴動は鎮圧されるものの、4月11日に暴動に参加して行方不明になっていた学生が変死体で発見され[4]、反政府機運が高まった。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告、デモ隊への発砲で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。それでも事態は収拾することなく4月24日には李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[5]という悲惨な結果となった。

この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。

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