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慰安婦強制示す調書、東京裁判に各国検察提出 =asahi.com=2007年04月15日

 日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。17日に日本外国特派員協会で会見して公表する。裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。

 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。

 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあった。これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。

 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書。日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する。

 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えた。「抑留したのは彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」

 46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。

 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡した。さらに車で小さな収容所に運ばれた。同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(しょうろう)(brothel)」で働かされることを知ったという。

 「労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留された。時々一般の日本人が来た。私は常に拒絶したが無駄だった」

 フランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とある。

 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女(ぎじょ)として獣の如(ごと)き軍隊の淫楽(いんらく)に供した」と記す。東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」と認定している。

 一連の資料について林教授は「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」と話している。

追記:プレスクラブ http://www.videonews.com
■市民団体が慰安婦の軍の関与を示す資料を公表(2007年4月17日 東京・外国特派員協会)
 東京(4月17日)−日本の戦争責任資料センター(JWRC)は17日、外国特派員協会で会見し、従軍慰安婦の徴用に軍の関与があったことを示す資料が、極東国際軍事裁判(東京裁判)の証拠書類などから見つかったと公表した。
 研究事務局長の林博史氏は、東京裁判でオランダや中国、フランスの検察団から慰安婦に強制性があったとする証拠書類が提出され、判決でも証拠として認定されていた事実を指摘した上で、東京裁判の時点で慰安婦の強制性は既に明らかになっており、サンフランシスコ平和条約第11条で戦犯裁判の判決を受諾している以上、日本政府は従軍慰安婦の犯罪性と強制性を認めなければならないと述べた。
イメージ 2←4.3平和公園
イメージ 3
                  


                4.3慰霊塔→イメージ 1
 
제주4.3사건=今日は「済州島4・3事件」59周年記念日です。

PRFにもありますが、祖父がこの事件でゲリラ側司令官として銃殺刑に処せられて我が家で旧暦の1月22日、毎年の様に無念の死を遂げ亡くなられた祖父の法事が行われてすでに57周忌の歳月がたちました。。

済州「4.3事件」とは→東西冷戦下の1948年、済州で起きた武装蜂起事件。
 警察や本土から来た反共組織の横暴に不満を募らせた島民の一部が全域でゲリラ化した。韓半島の南半分だけで1948年5月10日に実施される選挙を「祖国を分断するもの」と反発、4月3日に島内の警察署を一斉に襲撃した。
 軍や警察による鎮圧は1957年ごろまで続き、当時の島民八万人のうち約3万人が虐殺されたといわれる。事件のあおりで多くの島民が日本に逃れた。
 韓国国内ではこれまで長い間、事件を語ることさえタブー視されてきたが、金大中大統領は大統領選前から事件の真相解明と「共産主義者」としてひとくくりにされてきた犠牲者の名誉回復を約束していた。                                   (2000.04.19 民団新聞)

沖縄戦の次に、アメリカ軍が本土より前に朝鮮半島の最南端に位置する済州島に上陸し、前線基地を沖縄と本土を挟んで構築するとの大本営の判断で47,000人の日本軍が朝鮮半島の朝鮮軍と中国に散在していた関東軍の混合部隊が小さな島に集結されました。そして世界一、巨大と思われる(現在、調査中)地下基地(壕)が突貫工事で作られました。結果として、アメリカ軍が上陸しなかったため、島に居た駐留軍が島内において、あらゆる収奪と事件を繰り返したと言われています。(前々回の大阪市選挙に出馬した元大阪城天守閣館長の渡辺氏の弁によれば「朝鮮半島の中でも、最も貧しい生活を強いられていた島で5万弱の日本軍が、終戦前夜どれ程残虐な収奪を島内で繰り広げたか、想像す出来ます。当時、駐留した自分の実兄が今も、その事についてだけは一言も口を開けないで居るのに心が痛みます。」と昨年の夏、述べておられました。
前置きが長くなりましたが、この時、「自分の島は自分たちが守るんだ!」と立ち上がったのが島の自警団の青年達で、この草の根の強固な島の民の連帯が後の4,3時事件に関連して大きな悲劇を生む原因にもなります。この様に朝鮮半島の全ての出来事が日本の植民地と、前後処理のアメリカの反共政策の産物として、朝鮮半島に大きな犠牲をもたらした事実を今、一度考えてみたいと思います。


1948年4月3日の武装蜂起

島民は追いつめられた状況のもとで、白色テロルから身を守るためには自ら立ち上がらざるを得ないと思い詰める、緊迫した雰囲気が漂いはじめます。そして、1948年4月3日、左派勢力に率いられた「武装隊」による、警察署や右翼事務所などへの襲撃が行われます。4月28日には武装隊・金達三(キムダルサム)と済州島出身の兵士を中心とした国防警備隊第9連隊長・金益烈(キムイッリュル)との間で休戦協定「4・28協商」が結ばれますが、警察や右翼青年団が仕掛けた

吾羅里(オラリ)放火事件(この放火事件の第一号が私の本籍地、すなわち本家です。)をきっかけに水泡に帰してしまいます。

この4・3蜂起は、数十人の死者などを出したものの、解放後の南朝鮮各地で繰り広げられていた反米武装闘争と比較して、とりたてて規模が大きいものではありませんでした。

しかし、反共国家成立を急ぐ米軍政は、1948年5月10日に実施された、南朝鮮単独政府樹立のための代議員選挙が、済州島の2選挙区では民衆の抵抗によって、投票率が50%に満たず無効となると、警察、国防警備隊(のちの韓国軍)、右翼の増援部隊を投入し、過酷な鎮圧作戦に乗り出します。


報復と「焦土化作戦」

済州島民衆に対する強硬弾圧の方針は、1948年8月15日に成立した大韓民国政府(李承晩(イスンマン)初代大統領)に引き継がれ、11月には戒厳令が済州島一円に宣布される一方、いわゆる「焦土化作戦」が展開され、島民への無差別な殺戮が繰り広げられていきます。
1948年10月に海岸から5キロ以上離れた地域に居住をしていた人々はすべて海岸地域に疎開をさせ、これに従わない者はゲリラとみなし殺害する方針が立てられます。
1948年11月17日に済州島全域に戒厳令が出され、時を同じくして、「焦土化作戦」と呼ばれる大量殺戮作戦が実行にうつされます。
疎開命令が届かず、中山間の村に残っていたために、村が焼き討ちされ全員が殺害された事件もありました。また疎開したものも無事ではなく、18歳から40歳までの男はみんな殺害されました。女性への陵辱・殺害、子供たちの殺害も起きています。
また、「焦土化作戦」のため村そのものがなくなってしまったところも存在しています。


朝鮮戦争まで続く虐殺

1949年の春には「武装隊」はほぼ壊滅状態となり、大規模な討伐作戦は、ひとまず終わりを告げます。しかし国家権力による島民の虐殺はなおも続きます。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発しますが、その直後から国民補導連盟や漢拏山(ハンラサン)に避難した人々が、予備検束され、殺害される事件がしばしば起こりました。また、朝鮮本土の刑務所に収監され、北朝鮮との連携を恐れて虐殺された人もいます。
その後、1953年には対遊撃戦特殊部隊が投入され、ゲリラ残余勢力をほぼ根こそぎにし、翌年の9月21日、漢拏山禁足地域の全面開放が宣布されて、6年6ヶ月に及んだ流血事態は、ようやく幕を下ろすことになりました。

【対岸の『国家の品格』のありように想う】
民主化や、人権を声高に叫ぶ韓国ですが、つい二十数年前までは、200万人とも言われる自国民を(朝鮮戦争以外)の場で、良民虐殺とまで言われる殺戮をしたとさえ言われています。

しかし、韓国、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、昨年の4月3日のスピーチで、この様に述べていました。
「誇らしい歴史であれ、恥ずかしい歴史であれ、歴史はありのままに伝えるべき」とし「国家権力による誤りは必ず正すべき。」と述べていました。

私の周りの多くの犠牲者家族が「これで、やっと国家に対する”恨”ハンがはれたと。」と号泣してたのが印象的です。

そして2006年4月3日、大韓民国政府は「済州(チェジュ)4,3事件犠牲者・第58周忌の慰霊祭」において国家としての公式な謝罪をしました。

【なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか 済州島4.3事件の記憶と文学】金石範・金時鐘
四・三事件という名称は、1948年4月3日の済州島武装蜂起に由来するが、47年3月1日の済州邑で独立運動記念集会後のデモに軍政警察が発砲し、十数名の死傷者を出した日に始まり、54年9月21日漢拏山に布かれた禁足令が加除されるまでの6年間にわたる長期の事件だった。その間に朝鮮戦争が勃発している。
済州島という孤島が、「アカの根城」とみなされ、アメリカ軍の後押しで、韓国警察と、北朝鮮から南下した反共グループによって、壊滅的弾圧を受け、始めは島民の支持を受けて、優勢だった抵抗勢力が次第に追い詰められ、ほとんどが虐殺されるばかりか、一般の村人たちも、協力者として集団処刑されるという悲劇が、長期間継続した裏には、米ソの綱引きと、南北分割体勢を前提とした、外交の駆け引き、「反共」を旗印にした大韓民国の国威昂揚としてのデモンストレーションの意味もあったようだ。
この事件に限らず、朝鮮半島の戦後の混乱のすべてが、日本の植民地支配の影響/遺恨/悪縁を引きずっていることはいうまでもない。在日問題ももちろんその延長縁上にある。

本書の編集に関った唯一の日本人関正則の編集後記の一部

日本の植民地支配と米ソの冷戦に身を引き裂かれ、終にいずれの国家にも帰属することなく、統一朝鮮に祖国を幻視しつつ、「日本語」ぶんがくにディアスポラとしての自らの歴史と思想を構成した二人の文学者。その対談の中で通奏低音のように響いているのは、こうした逆説と不条理に身をねじるように搾り出される、「不在」と、「在日」「離脱」と「残留」とのねじれた意味の問いかもしれない。植民地支配から「解放」されたはずの人びとが、なぜ解放された祖国で生きることができず、植民者の国家で、しかも再び差別の下に生き延びなければならなかったのか。植民地を解放したはずの「解放軍」は、なぜ植民地支配の同盟者と結託し、解放された人びとを殺戮したのか。戦後の「ねじれ」をいうならば、日本の戦後の内部ではなく、まさにこうした朝鮮半島と日本列島のはざまにこそ、それは指摘されるべきだったのではないだろうか。

在日朝鮮/韓国人の本音の代弁?

金時鐘  四・三事件というのは、アメリカのいう正義とか自由とかの本質を明かす歴史的事件でもあるんですよね。第二次世界大戦以後のね、米ソの二大超大国が角突き合わせる中で、アメリカ軍と民衆の側がね。限られた地域で衝突したのは済州島しかないんですよね。それもひと月やふた月のことじゃなくて、実質二年近くもかけてね。これはもうそのまま、アメリカの戦後政策というのかな、うちの国をめぐっての戦後処理、これは日本も含まれますが、「反共」という「大儀」のためには手段を選ばないアメリカの、残忍な体質をもっとも露呈した事件だとおもいますね。それに日本とのしがらみもアメリカの占領政策とからんで四・三事件をより残酷なものにしている。ぼくたちは当然、帝国主義日本の植民地統治から解放された戦勝国に準ずる国民であったにもかかわらず、国を分割されたり、思想信条を規制されたり、拘束されたり閉じ込められたりね。民族受難を強いられたのは戦争犯罪国の日本ではなくて、ぼくたち朝鮮人のほうなんだよな。

金石範  日本語は戦前、鞭と脅迫によって覚えさせられたものだ。それは戦後一旦、否定されたはずのものだった。ところが今度は、日本にやって来て再び日本語を使って詩を書くとなった時、時鐘にとっての日本語の意味は、心理的にもずっとおった人間とは違う要素をもってくるんじゃないかと思う。そこに見えるのが論理性である。私の言う論理性というのは、意志の力だ。時鐘の詩は意志だ。意志は必ず論理性を持っている。構想的な力です。

金時鐘  ぼくは、在日の関係では自分が主人公になってはならないんです。たとえウリマル(母国語)の蓄えが浅かろうと、日本で生まれ育った朝鮮人たちが、在日を生きる主人公ですよ。「在日を生きる」というのは、そういうことを言っているんだ。あれはぼくが言い出した言葉です。
そうして自分の言葉とは何かを必死で考えるようになりました。ぼくは「在日朝鮮人語としての日本語」というい言い方をしています。在日の古い世代の使っているのは「日本語」ではないんです。「在日朝鮮人語」としての日本語なんです。そういうことが表現の世界で復権できれば、という思いを「在日を生きる」中で考えたりしてきている。それで世に受けない生活ばかりやってきているわけです。

沖縄と同じく、本土の戦争の犠牲、そしてリゾート地とされるチェジュ島、ドラマ「オーリン」でも有名です。そんなパラダイスの島にも、日本→アメリカ、そして間接的ではあれソ連の陰が深く関与した血塗られた歴史があったことを語り次いで・・・
沖縄タイムス 2007年3月30日(金)朝刊 31面
パラオ虐殺 県人犠牲/1944年 ハンセン病施設 機密保持たてに旧日本軍
 アジア・太平洋戦争中、旧南洋群島のパラオで、日本軍がハンセン病患者を虐殺した事件があり、沖縄県出身男性も犠牲になっていたことが、三十日までに分かった。ハンセン病問題を研究する藤野豊富山国際大助教授が三月上旬、パラオ共和国を訪問、被害者と同じ療養所にいた生存者の証言で確認した。藤野助教授は「強制収容された島の近くに、日本軍の軍事機密とされる海域があった。患者が逃走したため、米軍の捕虜になると情報が漏れると殺害した。沖縄戦の住民殺害と同じ構図だ」と指摘した。(編集委員・謝花直美)
 コロール市在住の男性、オデュ・レンゴスさん(86)の証言で、県出身男性が虐殺されたこと、氏名や教師だったことも分かった。一九四四年にパラオの大空襲後、隔離されていたゴロール島から逃走した。藤野助教授が入手した南洋庁文書には「沖縄人一人アリタルモ昭和十九年七月二十五日空襲以降所在不明」と記録されていたが、氏名は判明していなかった。

 藤野助教授の聞き取りでは、レンゴスさんは患者が逃げた理由を「日本陸軍に食糧を奪われ、島で生活できなくなったため」と説明。逃走した患者十六人はバベルダオブ島のグラスマオ村に潜んでいた時に日本兵と警察に捕まった。

 レンゴスさんらは、その場に穴を掘るように命じられた。それが自らを殺害し埋める穴と気付き、慌てて逃げたが、逃げ遅れた二人は殺害された。

 その後、患者らは散り散りになり、レンゴスさんは偽名を使いながら地元民や親せきを頼りながら逃げ続けた。しかし、沖縄出身と朝鮮半島出身の二人は、ゴロール島に戻ったところを日本軍に殺害された。レンゴスさんはその事実を地元民の警察官助手から聞いた。

 降伏後、南洋庁が米軍に提出したハンセン病患者に関する報告では、逃走患者中、十人が「嘉留島守備隊長ニ引渡シ同島ニ収容セルガソノ後ノ消息不明」と説明。しかし、レンゴスさんの証言では戦後に生存していたのは四、五人、残りは虐殺されたと見られる。

 藤野助教授は「ゴロール島の対岸には、日本海軍基地があった。四四年には陸軍守備隊が駐屯し、軍事上の重要性をさらに増した」と指摘。情報が漏れることを恐れ、虐殺が起きたとみる。三十日には、厚生労働省に戦争犯罪として調査するよう要請する予定だ。
日本軍「強制」は修正=沖縄戦の集団自決−高校教科書の検定結果・文科省 (時事通信)

 文部科学省は30日、主に高校2年生以上が来春から使用する教科書の検定結果を発表した。日本史で、太平洋戦争末期の沖縄戦の際、日本軍による強制で住民が集団自決したとする記述すべてに検定意見が付き、各教科書会社は「日本軍により」という部分を削ったり、「自決した住民もいた」という表現などに修正したりした。理科や数学では、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が倍増した。

 沖縄戦の集団自決を扱ったのは6社8点。うち5社7点に「実態について誤解するおそれのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。

 2005年度(主に高校1年生対象)は申請段階から今回意見が付けられたような記述がなかったが、04年度は「日本軍に…『集団自決』を強制されたりした」と記述した中学の歴史教科書が合格している。

 文科省は「以前から(命令や強制はなかったとする)反対説との間で争いがあり、軍の命令があったと断定するのは不適切で、今回から意見を付けた」と説明している。


「歴史曲げずに伝えて」=沖縄の集団自決生き残り男性−教科書検定

3月30日18時0分配信 時事通信

 「文部科学省には、歴史を曲げるようなことをしてほしくない」。沖縄戦の集団自決で軍の強制があったとする記述に文科省が検定意見を付けたことについて、集団自決の生き残りである中村一男さん(73)=沖縄県座間味村=は30日、こう語った。

 座間味島で沖縄戦を体験したのは10歳の時。日本軍から手りゅう弾を渡され「米軍に捕まったら体のあちこちを切り刻んでじわじわ殺される」と聞かされた。「自決しろとはっきり言われたか記憶にないが、暗に自決しろと言っているのと同じだ」と振り返った。別の家族が手りゅう弾で自決するのも見たという。

 中村さんは「うやむやにするのでなく、歴史は歴史として後世に伝えなければいけない」と静かに話した。

 一方、命令を出したとされる元陸軍少佐梅沢裕さん(90)は同日、大阪市内で取材に応じ「(修正は)とてもうれしい。強制などとんでもない」と興奮気味に話した。 
日本占領下のインドネシアで慰安所を経営し、BC級戦犯として有罪判決を受けた後、獄死した男性について、厚生省(当時)と靖国神社が1967年に合祀(ごうし)を決めていた。

靖国神社が、占領下のアジアで慰安所を経営していた一般人の合祀を決定していたことが判明したのは初めて。

☆靖国神社 慰安所経営者も合祀 国会図書館資料初公表 (中日新聞)



資料によると、このうち「法務死亡者(一般邦人)」として、「櫻クラブ経営者。(訴因、婦女子強制売淫刑10年受刑中病死、り崎ろ第233××号)」とされる人物が記載され、「合祀する」と判断されていた。

(略)

財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」


が1998年末にまとめた「『慰安婦』問題調査報告」






(日本占領下インドネシアにおける慰安婦 〜 オランダ公文書館調査報告)



(インドネシアにおける慰安婦調査報告)

は櫻クラブを「一般邦人向けの慰安所」としており、日本軍は慰安所の「設置や規則に関与していた」が「軍が組織として設置したり、将兵たちの使用目的のために設置されたわけではなかったようだ」と記述している。

  ◇

国立国会図書館が28日公表した「新編
靖国神社問題資料集」はA4判で約1200ページ。靖国神社の内部資料のほか、米オレゴン大が所蔵する連合国軍総司令部(GHQ)の調査担当者が収集した資料、中曽根康弘内閣当時の閣僚参拝に関する懇談会資料などがまとめられている。

★安倍首相とも縁がある松岡洋右


が苦学しながら修学したことで有名な、米国のオレゴン大学



が連合国軍総司令部(GHQ)の調査担当者が収集した資料を所蔵していることにも留意しておきたい。


--
はなゆー

http://alcyone.seesaa.net/
転載元:peace_community

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