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↑選挙ポスターの名前に心当たりはありませんか? 現厚生大臣の祖父で1930年当時、九州の若松市から出馬した時の選挙ポスターです。 よく見ると何か不思議な事に気がつかれませんか? 左に当時の朝鮮語(ハングル)で、 マスソエ(マスゾエ×)と日本読みする様に書かれてまます。 当時の選挙を管轄していた内務省が朝鮮人向けに投票に神経を使っていた様子が伺えます。 1930年当時、台湾、朝鮮人で内地(日本国内)に在住する成人男子で @3円以上の税金を納付してる者((極々少数で朝鮮人全体の約4%)に 対して国政選挙権が認められていた歴史的な事実です。 もう1枚の写真で黒く塗りつぶされた部分は戦後1945年10月23日閣議決定で、 議事録6、「内地在住ノ朝鮮人及び台湾人モ選挙権及被選挙権ヲ有スルモノナルコト」 とした閣議決定を隠蔽する書類です。 別に私個人としては立候補出来ない被「選挙権」に対する関心はさほどではあり
ませんが、永住外国人に地方参政権すら与えることを悪とみなしてミスリードし、先進国では5年以上の永住外国人に与えてる権利すら与えようとしない後進的な政策に対して「理屈」を持って未だに実施しようとしない政治風潮に対しては苦言を一言。 |
在日歴史 재일역사
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在日韓人歴史資料館開設3周年記念 13:30〜 15:15〜 9/21(日) 秋定義和(大阪人権博物館館長) 朝鮮史研究会から大阪人権博物館へ 姜徳相(在日韓人歴史資料館館長) 在日韓人歴史資料館開設の意味と今後の課題 9/27(土) 姜在彦(歴史学者) 在日歴史家として半世紀を語る 朴 一(大阪市立大学教授) 力道山ー海峡を越えた民 10/5(日) 水野直樹(京都大学教授) 資料から読む在日の歴史 鄭早苗(大谷大学教授) 太王四神記の時代ー4世紀末から五世紀の東アジア ◎会場:大阪人権博物館研修室 ◎参加費:1000円(学生800円)※(入館料は別途必要です) ◎申し込み(定員各72名) 電話06(6561)7173またはFAX06(6561)3572まで。FAXの場合は、参加希望の日付、お名前、参加人数、住所、連絡先を明記 してください
13:30〜 15:15〜
9/21(日) 秋定義和(大阪人権博物館館長)朝鮮史研究会から大阪人権博物館へ 姜徳相(在日韓人歴史資料館館長) 在日韓人歴史資料館開設の意味と今後の課題 9/27(土) 姜在彦(歴史学者) 在日歴史家として半世紀を語る 朴 一(大阪市立大学教授) 力道山ー海峡を越えた民 10/5(日) 水野直樹(京都大学教授)
資料から読む在日の歴史 鄭早苗(大谷大学教授) 太王四神記の時代ー4世紀末から五世紀の東アジア 大阪築港に上陸する朝鮮人(朝鮮総督府『朝鮮の人口現象』1927年より) |
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在日人権資料センターへの写真展示の準備を進める林えいだいさん(右)と朱文洪牧師 人権闘争や強制労働の歴史回顧 在日資料センター完成 小倉北区「苦難知り友好築く場に」 在日人権資料センターへの写真展示の準備を進める林えいだいさん(右)と朱文洪牧師 在日コリアンの強制労働や人権闘争の歴史を振り返る「在日人権資料センター」が、小倉北区の在日大韓基督教会小倉教会隣に完成、18日にしゅん工式が開かれる。田川市の作家林えいだいさん(73)が、同教会牧師として在日コリアンの権利獲得運動をリードした故崔昌華(チォエチャンホア)さんとの約束を30年越しで果たし、撮りためた写真約450点を同センターに提供する。 崔牧師は1970‐90年代、外国人登録証への指紋押なつ拒否運動を展開するなど在日コリアンの権利獲得に尽力。このため、同教会は在日の人権闘争の「聖地」とされている。 林さんは約30年前の崔牧師との「教会が改築されたら写真を提供する」という約束を、センター完成を機に実現。「朝鮮民族の苦難の歴史」と題して、35年以上かけて全国で集めた強制労働や強制連行に関する写真を常設展示する。当時の筑豊や長崎の炭鉱での朝鮮人労働者の生活を伝える写真なども並ぶ。 崔牧師が展開した指紋押なつ拒否運動の文書、裁判記録などを公開するとともに、写真や映像で振り返る。特別展も随時企画する。 センターは88年から日韓両国で集めた募金約5000万円で建設。鉄骨2階建てで1階約165平方メートルに資料を展示、2階は集会所として使う。 開館準備を進める林さんは「強制連行はなかったという人もいる今、写真を見て事実を事実として受け止めてほしい」。崔牧師の後を継いだ朱文洪(チュムンホン)牧師(52)は「在日コリアンの苦難の歩みを通して日本の歴史を正しく認識し、真の日韓友好を築く場にしたい」と話す。 一般公開は来年初めになる予定。資料提供も歓迎している。同教会=093(521)7271。
=2007/11/17付 西日本新聞朝刊=
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広島とならぶ被爆地長崎。原爆は人類に対する犯罪であり、挑戦といっていいでしょう。「原爆投下は戦争終結を早め、結果として多くのアメリカ人兵士のみならず日本人の生命も救った」という「原爆神話」は今日では完全に否定されています。原発も含めて、まさに「核と人類は共存できない」ものです。その意味で、被爆の実相を伝え、その悲惨さを世界に知らしめることは「長崎」に課せられた使命と言ってもいいかもしれません。 しかし、その被爆の実相を語り伝えてきたはずの長崎で、意識的に、無意識的に「語られず」「闇に葬られてきた」影の部分があります。それこそが戦後の日本が出発する際に、原点ともなるべき重要なものであったはずなのですが‥‥ それは朝鮮人被爆者の問題です。 原爆が投下された1945年当時、長崎県内には約7万人の朝鮮人が在住していたことが内務省警保局の資料により推定されます。そのうち約3万人が長崎市周辺に居住し、うち2万人が被爆、1万人が死亡したと推測されています。(『長崎県朝鮮人被爆者調査報告書・原爆と朝鮮人第1集〜6集』) しかし、この1万に及ぶと考えられる朝鮮人被爆死者は、「ナガサキの原爆」を語るとき、長い間、意識的・無意識的を問わず、言及されることがありませんでした。元の長崎市国際文化会館(原爆資料館)には「外国人被爆者コ−ナ−」がありましたが、そこではアメリカ人・オランダ人・イギリス人など捕虜収容所での被爆についての言及はあるにもかかわらず、最大の外国人被爆者である朝鮮人、または中国人の被爆者については完全に黙殺していました。 「建物の中に朝鮮人被爆者コ−ナ−を作って欲しい」と強く長崎市に迫ったのは当時市議会議員であった岡正治氏でしたが、実現されず、1996年にリニュ−アルされた「原爆資料館」でも、一部で朝鮮人被爆者の証言を展示するなどの改善はありましたが、深刻な事実を明らかにするというには程遠く、かろうじて「朝鮮人被爆者も存在した」と認知したにすぎません。 |


