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BC級元戦犯常設展 在日韓人歴史資料館 (民潭新聞 07/5/16)
林 博史著 岩波新書 第2時大戦のさなか、連合軍の捕虜監視活動に携わったためBC級戦犯としてさばかれた同胞元軍属の全貌を伝える常設展示が、27日から在日韓人歴史資料館(姜徳相館長)で始まる。 開催期間中には韓国・朝鮮人BC級戦犯問題の存在を広く知らせる連続セミナーも開かれる。資料館では6月にリニューアルオープンを控えているが、今回の常設展をその弾みにしていきたい考えだ。 巣鴨プリズン出所後、精神分裂症が発症、以来44年間というもの記憶が止まったまま91年、千葉市の国立下総療養所で病死した元BC級戦犯、李永吉さん(78)の遺骨を抱える李鶴来さんの写真からは、かけがえのない仲間を失ったやり場のない悲しみと怒りが伝わってくるかのようだ。 半世紀以上の時間が経過、約20点のパネル写真に登場する人物の多くはすでに死亡した。 観覧者は無言の対話を通して元戦犯の訴えに耳を傾けることになる。大・小ガラスケースには受刑者が巣鴨プリズンで使用したタオルや刑死前にしたためた遺書などを収める。 展示史料はこの間、当事者が日本政府相手に訴えてきた謝罪と補償を声高に代弁するのが目的ではない。 しかし、「彼らが旧日本軍の捕虜政策の犠牲者だったことだけは理解してほしい」と関係者は語っている。 解放後、戦犯として処刑されたのは23人。このほか125人が有期の服役を余儀なくされた。 巣鴨プリズン出所後も戦犯の汚名を着たままでは帰国もできず、異国で辛酸をなめてきた。 自殺者が相次ぐなか、これ以上1人とて落伍者をだすまいと残る者たちで55年に結成したのが互助組織 同心会だった。 同進会では歴代の日本政府首相に謝罪と補償を訴え続けてきた。だが、韓日条約締結がなされるや「協定で権利はすべて消滅した」との姿勢を変えていない。 やむなく、条理に基づく救済を司法の場に訴えたが、99年に請求は棄却された。 ただし、付言で「適切な立法措置が期待される」と述べている。裁判でのこの間のやりとりはすべて公開される。オープニングセレモニーは27日午後2時から。
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在日歴史 재일역사
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大阪府の朝鮮人登録証 排外と管理の象徴 1952年公布の「外国人登録法」がもっぱら朝鮮人管理を目的としてつくられたことは周知の事実であるが、この露払いをしたのが46年11月30日に制定、翌日施行された「大阪府朝鮮人登録条例」である。この条例は、密航者の取締りとコレラの蔓延を防ぐという口実の下、大阪府下の朝鮮人を治安対象とし、警察が直接管理統制したものであった。 46年9月20日、GHQの承認を得た日本政府は、朝連(在日本朝鮮人連盟)に対して、すべての朝鮮人は所轄警察に自ら届け出、のちに「朝鮮人登録証」となる「居住証明書」の交付が義務付けられると通知した。 各種朝鮮人団体は「居住証明書」はかつて日本当局が在日朝鮮人の居住や活動を制限し、戦争動員にかりたてた「協和会手帳」http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41937818.html の再来であると、強い反対運動を展開し、実施は延期に追い込まれた。 しかし、米軍大阪軍政部法務課長であったカーナン少佐の、「『居住証明書』の交付に反対することは、軍政部の政策に反対することを意味する」という発言によって反対運動は封じ込められていった。米軍政部という強力な後ろ盾を得た大阪府当局は、「居住証明書」を「朝鮮人登録証」と改めて条例化しようとした。 これに対し朝鮮人三団体(朝連、建同〈新朝鮮建設同盟〉、建青〈朝鮮建国促進青年同盟〉)は団結し、大阪府朝鮮人弾圧反対闘争委員会を構成、徹底的な反対運動を行なったが、大阪府当局は機先を制し、「大阪府朝鮮人登録条例」(府令)を制定(11月30日)、『大阪府公報』号外として公示したのである。 翌日から在阪朝鮮人は警察に出頭し、届け出なければならなくなった。しかし、朝鮮人らはその後も反対運動を続け、施行から1カ月以内とされた申請期間内の申請者は全体の10%にも満たなかった。 「朝鮮人登録証」には、左右の人差し指の指紋押捺欄が設けられ、本人の顔写真を添付、氏名、職業、本籍および住所を記載し、所轄警察署を登録所とする旨の告示がついている。条例は、朝鮮人の居住、旅行、商工業活動に制限を加えた。 また、府条例は米軍大阪軍政部の「密入国朝鮮人の送還指令」と連動しているため、朝鮮人自ら非密航者であるという立証ができないときは、警察官の一方的な判断により強制送還という措置も取られた。 この条例は一見すれば、大阪府当局と大阪府警察部が行ったように取れるが、実際には日本政府の朝鮮人排外の意思を体現したものであった。 「大阪府朝鮮人登録条例」は、翌年に発令された 昭和天皇による最後の勅令http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/40099439.html である「外国人登録令」(47年5月2日施行)に向けた実験的取り組みであり、 朝鮮人管理の集大成ともいうべき「外国人登録法」(52年4月施行)制定のための周到な布石であったといえるだろう。 「協和会手帳」以来今日に引き継がれる外国人への排外と管理の枠組みを考えるとき、朝鮮人の集住地域である大阪府の「朝鮮人登録証」の歴史的意味がよく見えてくる。 ◆◇◆◇◆◇ (在日韓人歴史資料館研究員・尹義善) ■□
在日韓人歴史資料館 |
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世界の街角から MYCOMより 第3回ソウルでのある会合 =河内孝 2007/2/26= そのソウルで昨年暮れ面白い会合を持った。「一週間後に中国共産党の幹部が休暇でソウルに行く。ついては是非、韓国野党ハンナラ党の幹部を紹介して欲しい」と言う話が飛び込んできたのだ。 「野党の外交責任者」という注文に関心を引かれた。中国も支持率が10%以下に落ち込んだノムヒョン政権の状態を見て、今年暮れの大統領選挙をにらみ政権交代の可能性を感じているのだろう。そのときどのような変化が韓国外交政策に起こるのか、を瀬踏みしたいのだろう、と思った。 旧友に頼み、ハンナラ党党首のパククネさん(朴元大統領の令嬢)の側近の一人を紹介してもらった。偶然ながら、我々の会合の二日後、パククネ党首が北京を訪れる予定であることは、ソウルに入ってから知った。お互い都合の良いタイミングだったようで感謝されたのは、面映かった。 零下4度に冷え込みキムチチゲが旨くなる一夜、会合の場所は、ぐっとくだけた「全羅道郷土料理屋」を選んだ。毎日新聞が提携している朝鮮日報幹部が良く使うソウル市内の「高級居酒屋」で、上海出身の幹部は焼肉より海鮮料理を好むと思ったからだ。 こういう時にいつも思い知らされるのだが、中国人も韓国人も、「個人的な意見」と断りつつも率直に思いもたけをぶちまける。日本人は、えてして、「そちら様のご意見は?」とやってしまう。これでは相手が、「なんだ、お前は自分の考えはないのか」と馬鹿にして自分の言い分を長々と開陳するのを聞かされる羽目となる。同様に、欧米を含めて日本からの賓客に会った外国指導者がいつも漏らす不満の一つは、「役人の書いた作文を長々と読むなら役人と話した方がよい。時間の無駄になる」という点だ。 のっけから焼酎をがぶがぶやったこの席では、そんな心配は全くなかった。ハンナラ党の幹部がこう口火を切った。「中国が(北朝鮮が崩壊して)資本主義国と国境を接する事態を避けたいという気持ちは分かる。だから我々が政権を取ったら、仮に金正日体制が崩壊しても共産主義北朝鮮と平和共存する。見通しうる将来まで共産主義北朝鮮の存在を認める」。率直な発言に中国共産党幹部は、驚きを隠せないようだった。しかしこの段階では本音を見せない。「北朝鮮は独立国であり、われわれの友好国である。国の将来について内政干渉するつもりはない」。 私は意地悪くこう言った。「私から見れば今の状態は中国にとって決して悪くないのではないか。北を説得できるのは中国だけだ。6カ国協議のお座敷を提供できるのも中国だけだ。"核実験を怒っている"などと伝えられているが本当はまんざらでもないのでは」。 これには共産党幹部が本音で反発した。「我々が持っている北への影響力がさほど強くないことを認めるのは、あまり嬉しくはないのだ。状況をもて遊ぶなどとんでもないことだ」。そして興味深いエピソードを紹介してくれた。一昨年、金正日が中国政府の勧めで上海を訪れたとき、北朝鮮側は、「100%の安全保障」を求めたと言うのだ。あまりくどいので、「中国に滞在する限り120%の安全を保証する。しかし我々の領域外のことは責任を持てない」と答えたらやっと来た、と笑った。彼はその先のことは言わなかったが同席した全員が中国の帰途、特別列車が北朝鮮内に入った直後、なぞの大爆発事故があったことを知っていた。 彼は、このエピソードを紹介することで何が言いたかったのだろうか。推理(1) 金正日と軍部の関係が必ずしも良くない(あんな火薬量を調達して爆破させられるのは軍しかない)ことを示唆した。推理(2) 中国もいつでも「事故を起こすぐらいのことは出来る」ことを示唆した。本音は見えない。しかし、私はこの話を聞いた瞬間、満州事件の遠因となったとなった日本軍部による列車爆破、張作霖事件を思い出した。彼らは少なくともあの当時と同じような緊張感のなかで様々な駆け引きを続けているのだ。 ひるがえって日本。拉致問題の非人道性を訴えるのは当然だ。しかし、これが進まないと核も何も話し合わない、という安倍政権のスタンスは、こうしたしたたかな連中には通じないだろうな、と思った。ちなみに韓国の友人のアドバイスは、「三方一両損」だった。 米国は、「ならず者扱い」を控え話し合いに入る(入ったようだ)。韓国は北に過剰な期待を持たせる太陽政策を改める。そして日本は、拉致問題の解決を主張しながらも核問題などについも話しあう姿勢を見せる。これは、今の世論の雰囲気では不可能だろうか。
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チョット生き抜き? 会社でもらった世話チョコは抜きにして、娘からもらった世話チョコ(オヤジ可愛そうやから)と、心の温まる友人からのetc..でした。食べるのもったいないな〜
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東京の在日朝鮮人留学生らが起草/3.1運動に影響
独立宣言を起草した留学生と2.8独立宣言書 2.8独立宣言とは、1919年2月8日、東京の在日朝鮮人留学生たちによってなされた朝鮮独立宣言のことです。 宣言書には、日本の朝鮮植民地支配の不当性と民族自決の要求が掲げられており、もし日本がこの要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣言するという堅い決意が表明されていました。 言論活動に限定されていた留学生運動が直接的な独立運動へと発展した契機は、米大統領ウィルソンの民族自決14ヵ条原則の発表と、これに刺激を受けた在米同胞代表が独立を提訴するためパリ平和会議に派遣されることになったという記事でした。 これに素早く反応した学生たちは19年1月6日、新年雄弁大会の場で、今が独立運動を進める適当な時機であると判断して「朝鮮青年独立団」を結成、独立宣言大会の準備にかかります。独立宣言書を早稲田大学学生だった李光洙が起草し、独立団の委員であった宋継白が宣言書を携えて朝鮮本土に伝え、運動資金を集めてきます。この資金を使って「独立宣言書」と「民族大会召集請願書」が印刷されます。 2月8日午前、独立団の委員たちはこれらの印刷物を国会議員、各大臣、各国大使、公使に郵送します。午後には東京神田のYMCA会館においておよそ400人の男女留学生が集まり、大会が開催されました。開催が宣言され学生たちの演説の後、白寛洙が独立宣言書を感動のあまり声を震わせながら読み上げました。すると参加者は激しい興奮に包まれ、会場には拍手と「大韓独立万歳」の喚声が鳴り響きました。しかしこの大会は、その場を監視していた警官の弾圧にあい、多くの学生が検挙され幕を閉じます。 2・8独立宣言は本国の学生や民衆に大きな刺激を与え、その直後に起こった3・1独立運動に大きな影響を及ぼしました。 2 . 8 독립선언 1919년 2월 8일 토요일 오후2시 일본도쿄 기독교청년회(YMCA) 한인회관 1층 강당에 조선인 유학생 600명이 모였다. 분위기가 심상치 않았다. 장내에는 비장감이 감돌았다. 강단 뒤에 큼직한 견포 한 장이 걸려있었다. 거기에 “조선 청년독립단은 우리 2000만 민족을 대표하여 정의와 자유를 쟁취한 세계 모든 나라 앞에 독립을 성취할 것을 선언한다”로 시작되는 글이 적혀 있었다. 최초의 독립선언문이었다. 침략국가 수도에서 거행된 독립선언식은 이렇게 열렸다. 개회 선언은 백남규가 했다. 이어 송계백의 긴급동의로 조선독립청년단이 발족됐다. 백광수가 독립선언서를 낭독한 뒤 서춘이 연설하기 위해 등단할 때 일본 경찰이 진입했다. 일경은 집회를 강제 해산시킨 뒤 대표자 9명을 현장에서 체포했다. 그러나 제국의 포악한 권력이라도 조선의 독립정신과 애국심까지 체포하지는 못했다. 일제의 수도에서 계속 독립운동이 일어났고 이것이 도화선이 돼 마침내 국내에서 3.1독립운동이 거국적으로 일어났다. 이 막후에 신앙과 역사의식이 투철한 여성들이 있었다. 2.8 독립선언 직후 송복신, 김마리아, 차경신, 황에스더 등이 일경의 감시를 피해 독립선언서를 몸에 지니고 국내로 들어와 애국지사들에게 전달한 것이다. 민족의 자존심과 독립심, 역사의식을 깨운 2.8 독립선언은 신앙심 깊은 애국청년들에 의해 이루어졌다.
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