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【平和憲法を守るのは在日の使命=故 金敬得弁護士の遺言】 在日を見れば日本の今が見える!

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韓国動乱勃発後に巻き込まれての悲劇と前後の心打たれる物語を、シルバー高知のメーリングリストで紹介された宮内治さんの作品を転載しました。
    
 千鶴子は一人娘である。明治から大正に元号が変わった1912年、高知市若松町で生をうけた。若松町の碑文には「父・徳治、母・はる」とある――。

 1919年、千鶴子が7歳の時、朝鮮総督府木浦市庁の役人だった父を頼って母・はるとともに海を渡った。暮らしは裕福だった。しかし、20歳の時、徳治が病で突然、他界した。はるは助産婦をしながら女手一つで千鶴子を育てた。

 母・はるは熱心なクリスチャンだった。その影響か、女学校を卒業した千鶴子は、教会の日曜学校でオルガンを弾くようになった。ある日、女学校時代の恩師から、「木浦の郊外で孤児院を経営している韓国の青年が日本語の先生を探している。行ってみてくれないか」と頼まれることがあった。

 それが尹到浩(ユン・チホ)との出会いだった。尹到浩はその孤児院の園長だった。千鶴子が訪ねると、尹到浩は遠くで作業をしている。背の低いやせた青年だった。丸坊主の頭に麦わら帽子をかぶり、わらじを履いて孤軍奮闘している。孤児院といっても、いまにも潰れそうなバラックである。障子も襖もない。殺風景な30畳ほどの部屋が一つあるばかりだった。むろん畳などあるはずはない。「かます」と呼ばれる穀物や石炭などを入れる粗末なむしろ袋が敷いてあるだけだった。

 千鶴子がとまどいがちに声をかけると、尹到浩がようやく振り向いた。その目は澄み、気力に溢れていた。千鶴子の胸は少しく高鳴った。

 その日から千鶴子の新しい生活が始まった。食うや食わずの40〜50人の子どもたちの世話に明け暮れるのである。最初は笑顔を見せなかった孤児たちも、千鶴子の献身的な奉仕に次第に心を開き始めた。子どもたちは当然に、千鶴子に母親を求めた。千鶴子は園児たちにとってなくてはならない存在となっていった。

 それは尹到浩にとっても同様であった。ある日、尹到浩は千鶴子に言った。二人でこの子どもたちの親にならないか、と。尹らしい朴訥な口調であり、最初、千鶴子にはよくその意味がのみこめなかった。しかし尹の顔が、異様に赤い。千鶴子にも異存はなかった。

 しかし当時の日本人の朝鮮人に対する差別感情は根強く、二人の結婚には誰もが驚いた。ことに内地の親戚筋の反対の声は強かった。それでも二人は愛のほうを選んだ。1939(昭和14)年、尹が31歳、千鶴子が28歳の時だった。母・はるだけは千鶴子の気持ちをよく理解していた。千鶴子の手を取り、「神の前では日本人も朝鮮人もない。誰もが兄弟姉妹じゃきにね……」と、励ましてくれた。(つづく)
         
 電気もガスもない凄まじい新婚生活だった。勿論、米などはめったに口にできない。二人だけのことではない。到浩も千鶴子も既に何十人という子持ちなのである。そのうえに園の子どもたちは裸足で園舎を出入りするし、朝、顔を洗うことすら知らない。生活習慣などまったく身につけていないのである。

 千鶴子はまず、人間は規則正しく食事しなければいけないことから教え始めた。そして、食前には神に感謝の言葉を捧げ、顔や手を洗うことを教えた。園には風呂はない。近くの海に出かけて皆で体を洗った。夜は間仕切りのない部屋である。かますの上で雑魚寝をした。バラック建ての孤児院は何時、風で吹き飛ばされるかわからない……。

 それに子どもたちはますます増えていくのである。木浦の周辺には無数の島々があり、いずれも寒村である。食いっぱずれた親たちが次々と捨て子のようにわが子を孤児園に託していく。尹到浩も千鶴子も決してそれを拒まなかった。

 それにしても園舎の改善は急務だった。尹到浩と千鶴子はつてを頼って総督府に窮状を訴え、やっとオンドルつきの2部屋が造築されるところまでこぎつけた。

 翌40年、長女・清美(チョンミ)、42年には長男・基(ギ)が誕生した。千鶴子はわが子と孤児を分け隔てはしなかった。実子たちも皆、園中で育てられた。

 45年、終戦。36年にも及ぶ日本占領から解放され、南朝鮮は独立して大韓民国となった。立場の逆転である。千鶴子は「このまま韓国にとどまりたい」と願ったが、世情はそれを許さなかった。千鶴子や母・はるはやはり旧支配者の日本人であるのだ。悩みぬいた末、千鶴子は夫や園の子どもたちに別れを告げて、年老いた母・はると一旦、日本に帰ることにした。

 千鶴子のお腹には三人目の子が宿っていた。辛い、切ない別れだった……。

 故郷である高知市も惨状を極めていた。戦禍に加えて南海大震災の追撃。気丈な土佐ッ子も「この世に神も仏もないか」と嘆いたものだった。しかし千鶴子には、日本占領下の朝鮮の暮らしに比べればなにほどのことかと思えた。物がなければないで何とかなる。それな皆、何とか食えるのである。帰るべき故郷、家もある。高知で親類や近所の温情にもすいぶん触れた。しかし千鶴子には、夫や園の子どもたちのことが何よりも辛かった。

 日に日に大きくなるわが腹を見つめながら、やがて千鶴子は強く決意するのである。この子を生んだら、私は木浦に帰るんだ、と……。

47年、三人目の子を携えて千鶴子は再び木浦共生園の門前に立った。一年余の空白だった。目ざとい子が千鶴子を見つけた。「オモニが帰ってきた!」と叫び、園児たちは三々五々に数を増して、そこら中を駆け回った。やがて尹到浩が出迎えた。到浩は「千鶴子さん……」と、唸るように言った。後は言葉にならな
かった。今度は、千鶴子が言った。「私、今日から尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るわ……」尹到浩は眼を潤ませながら、しっかりと千鶴子の手を握りしめた。周囲では無数の子どもたちが眼を輝かしていた。

 しかし当時の韓国人の反日感情は殺気すら帯びていた。ある日、この木浦共生園にも暴徒たちはやってきた。「倭奴(ウエノム)をぶっ殺せ!」――
 尹到浩は「話せばわかる」と皆を諫めようとする。しかし、なかなか治まらない。千鶴子は恐怖に青ざめた。すると、園の子どもたちが暴徒たちの前に立ちはだかるように千鶴子を取り囲んだ。「僕たちのオモニに何をするんだ!」 千鶴子は思った。この子たちのためなら、いつでも命を捨てられる……。

 終戦から数年がたち、村人の暮らしもやや落ち着きを取り戻し始めた。村人たちも次第に千鶴子たちに心を開くようになった。木浦共生園が二十周年を迎えた年に、待望の講堂が完成した。その記念に、と村人たちがりっぱな記念碑までを建ててくれた。尹夫婦の長年の労苦がようやく実を結びつつあるかにみえた。

 ところが、1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発するのである。北朝鮮軍が突然38度線を突破して南下してきた。それは破竹の勢いであり、瞬く間に全羅南道にある木浦も席巻された。北朝鮮軍は日本人や日本への協力者を極端に嫌った。あちこちの町や村で「人民裁判」が行われるようになった。やがて北朝鮮軍が木浦共生園にも立ち現れた。千鶴子も銃口の前に立たされることになった。さすがの千鶴子も覚悟を決めた。日本がこの国にしてきたことを思えば……。

 夫の尹もクリスチャンである。共産軍に決して好まれてはいない。千鶴子を処刑するならば自分を先にしろ、と北の将校に迫った。と、そのとき、ユン・ハクジャは無罪だ、と叫んだ一人の村人がいた。「ユン・ハクジャはわれわれ貧民の仲間だ!」周りの村人たちも叫んだ。「そうだ! そうだ! もっと悪い奴をやれ!」 千鶴子は再び人々の愛に救われた――。「あの時、千鶴子は死んだのよ!」と、後に高知の親類の一人に語っている。彼女はこの時、一生を孤児たちに捧げると心に誓った。2004.7.2高新、伝えたい土佐の100人、言葉その言葉より、

 だが、それは束の間の平穏だった。翌51年1月、食糧の調達に出かけた尹が行方不明になってしまったのだ。北朝鮮軍に拉致されたのでは、との噂も流れた。ともかくも、尹はそれっきり木浦共生園に帰ってはこなかった。
 
 53年になって、やっと停戦になった。園の子どもたちも500人にふくれあがっていた。千鶴子自身にも四人の子がいた。周囲の人々は、けなげな千鶴子に心から勧めた。「子どもを連れて日本へ帰りなさい」。しかし、千鶴子は微動だにしなかった。「夫の20年の仕事、この木浦共生園は私の命なのだ」、と。

 千鶴子は子どもたちだけにはひもじい思いをさせたくなかった。リヤカーを引き、村人たちの家々を漬け物や残飯をもらい歩いた。詐欺師にだまされて園を乗っ取られそうになったこともあった。そのたび、千鶴子は果敢に闘った。子どもたちはそうした千鶴子をよく見ていた。大きな子は街で靴磨きなどをして園の会計を助けた。                     
 
 63年、千鶴子は韓国政府から文化勲章を授与された。65年には日韓国交が回復した。ようやく歴史に吹く風は南風になった。孤児たちの将来を憂う千鶴子は、かねてからの腹案であった職業訓練学校の設立に動いた。西走東奔し始めた。このとき彼女は「夫が帰るときまでと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と答えている、2004.7.2伝えたい土佐の100人、その言葉より

 しかし、長年の辛苦は千鶴子の体を確実に蝕んでいた。やがて千鶴子は病に倒れてしまうのである。千鶴子は「自分のために高い治療費をかけるのはだめよ。そのお金を園の子どもたちの進学資金に使いなさい」と、諄いほど指示していたという。

 皆の祈りもむなしく千鶴子の病状は悪化するばかりだった。やがて千鶴子は死を覚悟して木浦共生園に戻ってきた。周囲にとってそれは哀しい帰園だった。その10日後、愛しい子どもたちに取り囲まれながら'''千鶴子は静かに息をひきとった。1968(昭和31)年10月31日、奇しくも千鶴子57歳の誕生日だった――。

 悲報は韓国全国を駆けめぐった。国中に散らばった卒園生たちは号泣した。木浦市は初の市民葬とすることを決定した。葬儀には韓国全土から3万人が参列した。その日を、地元紙は、「木浦は泣いた」と報じた。'''

77年、千鶴子の長年の夢だった職業訓練学校がソウルに完成した。これまでたくさんの人材を世界各地に送り出している。韓国・木浦共生園は、長女・清美が引き継いだ。いまは孫にあたる妙齢の女性が園長を務められている。

 また、「梅干しが食べたい」と、死の床でうわごとを言った母の思い(生涯を閉じた56才の誕生日を迎えた日かすかな声で、夫の行方が分からなくなってから、韓国では一度も口にしたことのない日本語であった;2004.7.2高新、伝えた土佐の100人、その言葉より)を知る長男・基(ギ)は、大阪で在日同胞のために、キムチが食べられる老人ホームをつくった。尹到浩と千鶴子の遺志はこうして二人の子どもたちや孫たちに受け継がれている。

 なお、標題とした「愛の黙示録」は95年に完成した日韓合作の初めての映画の題である。監督は金洙容(キム・スヨン)。千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)原作の伝記を中島丈博が脚本化し、千鶴子役を石田ゆり、尹到浩役を吉用祐(キム・ヨンウ)が熱演している。

「黙示録」とは、「新約聖書巻末の一書。小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰藉、激励し、キリストの再来、神の国の到来と地上の王国の滅亡とを叙述。ヨハネ黙示録。ほかに、正典に属さないユダヤ教・キリスト教の黙示録的な類書がある」と辞書にある。
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1/23に記事をアップしましが、http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/24338076.html

私が、在日なのに何故、「九条」に拘るか?平和は私の名前から由来してます。そして、昨年末亡くなられた、私の尊敬する師であり先輩だった金敬得氏の、この思いがあるからです。
在日第一号弁護士、故金 敬得氏が残した遺言は、今、日本に暮らす全ての市民に命をかけて語りたかった先輩のメッセージだったと思います。

在日韓国人の故・金敬得弁護士、《「平和憲法を死守するのが在日の使命」》と遺言
■故・金敬得弁護士:「海外同胞は平和憲法死守が使命」

以下は20061/25 日付の朝日新聞の抜粋です。

在日韓国人で初の弁護士で、海外同胞の人権運動に身を投じた故・金敬得(キム・ギョンドゥク)
弁護士(56)が、在日韓国人には日本の平和憲法を守る使命があるという遺言を残した。

「日本国憲法の平和主義は、植民地支配・侵略に対する反省の結果としてできた。在日韓国
人の存在は植民地支配によるものだ。ナショナリズムを克服するためには平和が何より重要 
だ。在日韓国人こそ、平和憲法の体現者だ。」 

胃癌で闘病生活を送ってきた故人は昨年10月、病床で事務室の職員にこのような内容を口頭
で残した。分量はA4用紙で8枚。

在日海外同胞である故人は遺言で、1976年に司法試験をパスしたが当時日本人にだけ入学
を承諾していた司法修習所が帰化を慫慂したことなど自分が経験した差別を紹介したうえで、
最近の日本社会の改憲の動きを批判的に指摘した。

金氏は、「韓国と日本、北朝鮮と日本の架け橋である在日は、平和憲法を東アジアに広げて
ゆく使命を持っている」と書き残した。

関連記事

萬物相】金敬得  2006/1/3朝鮮日報

▲金嬉老「清水署の小泉よ、忘れたわけではあるまいな。“この朝鮮人ヤローども。何をやってもだめな奴らだ”と侮辱したあの日のことを。その代価を払う時がやって来た。私の命と引き換えに答えてやろう」

  金嬉老(本名:権嬉老)の手帳には、貧困と差別の中、心の奥底に刻まれた憎しみが一杯にしたためられていた。彼はヤクザ2人を殺害し、人質をとった後、31年の受刑生活を送った。

▲力道山。本名金信洛(キム・シンラク)。シルム(韓国式相撲)で頭角を現わした彼は14歳になった1938年、日本人刑事が日本の力士に育て上げようと、日本に連れて行った。

 日本人の息子として入籍し、帰化した後、プロレスラーになった力道山は1963年、ヤクザに刺されるまで生まれ持った体格とカリスマで英雄になった。力道山の興行性を高めるため、日本の興行社は彼の履歴から朝鮮という文字を完全に抹消した。

▲先月28日に他界した金敬得(キム・ギョンドゥク)弁護士は巨大な差別を前に金嬉老式でも力道山式でもない、日本の中で韓国人として生きる道を先頭に立って開拓した人物だ。56年生まれの彼は人生の半分を徹底した日本人、半分を誰よりも熱烈的な韓国人として過ごした。

 彼は日本で生まれ育ち、司法試験に合格したが、帰化しなければ司法研修院の教育は受けられず、よって弁護士の資格も得られないとの通達を受けた。彼は「これ以上、差別から目をそむけず、むしろ堂々と韓国人として生きよう」と考えを改めた。

▲彼は1976年、朝日新聞の投稿欄で宣言した。「私はこれまで私の中の“韓国的なもの”を拒否して生きてきた。韓国語を学ぶこと自体も拒否し、道で母に会っても知らない振りをした。これからはこんな生き方はしない」

 アルバイトで母校早稲田大の庭掃きをしながら、司法当局と孤独な闘いを続け、ついには差別の壁に穴を空けた。3年後、金敬得は日本初の外国人弁護士となったのだ。

「日本の政策は、差別というフライパンに豆でも炒るかのように在日韓国人を入れ、負けて飛び出す人を1人ずつ同化させる政策に過ぎない」。彼の批判は強烈だった。

 従軍慰安婦の訴訟にはじまり公務員の国籍差別訴訟まで、韓国人の痛みが込められた裁判には常に彼がいた。胆道がんという重病をわずらったが、闘病生活さえ惜しんで走り回った。

 彼が生前、悔しく思っていたのは、毎年1万人ずつ増えていく海外同胞3世の帰化問題。その中でも血筋を隠すための「逃避性の帰化」だった。

 彼は、世界に類を見ない閉鎖的な日本の国籍政策と慣行が帰化を急がせているとみた。この強要される帰化の隊列が長蛇化すればする程、短くしてこの世を去った彼が惜しまれてならない。

キム・ヒョンギ論説委員 hgkim@chosun.com

在日問題と日韓関係の未来を考える


金 敬 得 (キム キョンドク) 


日韓関係と在日
  2005年は、戦後60年、日韓条約締結40年、日本が朝鮮の植民地支配に踏み込んだ第二次日韓協約から100年にあたる。
  1980年代以後、韓国大統領の訪日毎に、天皇や日本国総理による植民地支配に対する遺憾表明、反省発言が繰り返され、日韓新時代の幕開けが演出されてきた。しかし、日韓友情年とされた今年も、竹島や歴史教科書検定、小泉総理の靖国参拝等をめぐり、両国民の民族的対立感情が刺激されている。
  日本には外国人登録をした約60万人の在日コリアンが居住している。彼らの存在は、日本の朝鮮植民地支配に起因するが、その歴史も100年に達し、今日では、90%以上が日本出生者で占められ、4、5世誕生の時代を迎えている。日本社会は未だに彼らに対する差別を克服し得ていないが、国籍を韓国や北朝鮮に維持しつつ、日本社会に定住する在日コリアンは、日本と韓国・北朝鮮間の民族的対立感情を緩和し、相互の理解を深めるにつき、重要な架橋的役割を果たし得る存在である。

差別構造の完成
  日本の敗戦により植民地支配は崩壊し、日本は朝鮮の独立を承認した。
  日本政府は、韓国併合条約前の状態に朝鮮人の国籍を戻すとの原状回復の論理により、在日コリアンの日本国籍も喪失させたが、それは、広範な国籍差別をもたらし、民族性の回復とは逆の機能を果たした。在日コリアンは、戦後も創氏(通称名)の使用等、戦前と同様の日本人への同化の圧力下に置かれた。
  1965年の日韓法的地位協定により、永住権及び国民健康保険への加入が認められたが、就職差別や社会保障における差別は是正されず、国籍差別による同化政策は維持された。
  また、分断国家の一方である韓国のみとの協定であったことから、北を支持する人々などは協定に反対し、永住権の取得を申請しなかったため、在日コリアンの法的地位に分断がもたらされた。

日韓条約以後の差別撤廃
  1965年は、植民地からの解放年に生まれた在日コリアン2世が成人に達する年である。日本国憲法下の民主教育を受けた彼らは、就職差別や、社会保障差別の是正を求め、訴訟や社会運動を展開した。これは、国際人権規約(1979)、難民条約(1982)、女性差別撤廃条約(1985)、人種差別撤廃条約(1996)の批准とあいまって、国籍差別是正に結びついた。
  例えば、職業選択の分野では、日立製作所就職差別裁判の勝訴(1974年)、司法修習生の採用(1977年)、国公立大学の教授任用法案の成立(1982年)、国公立小中高校教員採用試験における全国的規模での国籍条項の撤廃(1991年)、地方公務員採用の拡大などが実現した。また、社会保障の分野では、住宅金融公庫法、公営住宅法、住宅都市整備公団法、地方住宅供給公社法に関する国籍条項の解釈変更(1980年)、国民年金法、児童扶養手当法、特別児童扶養手当法、児童手当法からの国籍条項の撤廃(1982年)が実現した(但し、経過措置の不備のため高齢者等の無年金という深刻な差別が残されている)。さらには、1980年代の指紋押捺拒否運動により、外国人登録法の指紋押捺制度も撤廃された。
  この時期の国籍差別の是正は、外国人登録上の「韓国」、「朝鮮」の別なく、在日コリアン全てに及んだ。日韓法的地位協定により、協定永住取得者と非取得者に分断された在日コリアンの在留資格は、「日韓外相覚書」(1991年1月)により、日韓法的地位協定当事、留保された協定永住3代目以降の在日コリアンに、子々孫々にわたる永住権が認められたことを受け、「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が制定され、特別永住に一本化された。

国籍法の改正
  1985年の国籍法の父母両系主義への改正の結果、朝鮮人男と日本人女の婚姻夫婦間に生まれた子どもは、日韓(朝)の二重国籍者となり、在日の外国人登録者数の減少をもたらした。
  また、同年の戸籍法改正は、日本人配偶者の氏を外国人配偶者の氏に、子どもの氏を外国人父又は母の氏に変更することを認めたことから、日本的氏名による単一民族イデオロギーの縛りが解かれ、本名での帰化が認められることになった。これらが影響してか、90年代に入り、在日コリアン帰化者の数は毎年1万人に増加している。
  在日コリアンが4、5世の誕生を迎える時代にあって、未だに彼らが国籍により差別される状況にあることは、明白な人権侵害であり、日本に対する国際的批判をかわすことは困難である。在日コリアンを国籍条項により差別、排除するよりは、日本国籍を積極的に付与し、国内問題に転化する方が、外国人差別の枠組維持のためには、得策と判断される状況が生まれたのである。

時代錯誤の最高裁判決
  在日コリアンに対する国籍差別は、70年代以後改善され、現在は、公務就任権や地方参政権等、地域住民として地方自治への参与を求める権利が課題となっている。
  最高裁大法廷は、2005年1月26日、東京都の在日韓国人2世に対する管理職受験拒否を違憲であるとする東京高裁判決を破棄した。多数意見は、在日韓国人2世が管理職に就くことにつき、いかなる弊害が存するかについては全く言及せずに、国民主権を盾に、管理職に任用するか否かは行政裁量であるとした。しかし、少数意見は、「国籍条項は…特別永住者に対し、その資質等によってではなく、国籍のみによって昇進のみちを閉ざすこととなって、格別に過酷な意味をもたらしている」「一律に日本国籍を要件とすることが不合理な差別ではなく、違法でないといえるだけの合理性を明らかにしておらず…違法な差別をするものといわざるを得ない」と判示している。多数意見は差別撤廃の流れに逆行するとの批判を免れない。

在日の役割
  参政権の行使は、自らが所属する地域社会や国家に対する民主的参与の基礎であるが、在日コリアンは、戦後60年間、日本、韓国・北朝鮮のいずれからもその社会のあり方を決めるための一票を投ずる道を塞がれてきた。
  帰国をし、本国に住所を定めれば、地方、国政を問わず本国での参政権の行使が可能であり、日本国籍を取得すれば、日本での参政権の行使が可能となる。それは、帰国か帰化のどちらかを選択し、居住地と国籍の不一致を解消させることで実現するが、それは、本国国籍を維持しつつ日本に居住してきた在日コリアンの歴史性の否定につながりかねない。
  在日コリアンは、本国と日本を国籍や民族による差別のない社会としていくうえで、重要な役割を果たしてきた。日本における在日コリアンの地方参政権を求める動きは、韓国にも影響し、2004年1月に定住外国人の地方参政権が法案化され実施されたのは、在

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韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟→李朝白磁を近代日本に再び広め、そして朝鮮半島に眠る、、、
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淺川伯教の弟淺川巧と柳宗悦


その柳宗悦が、民芸運動を始めて、最初に注目した工芸品が「李朝の工芸」だったそうです。
柳宗悦は我孫子で淺川伯教が持ち込んだ李朝白磁に魅せられ、その後生涯で21回朝鮮半島を訪れました。現地で淺川伯教の弟淺川巧とともに朝鮮古陶磁をはじめ、民具、雑器などの調査収集活動を行ない、そのことがのちの民藝運動の原点となりました。古陶磁器収集に手持ち資産の大部分をつぎ込んだといわれてます。
その当時、朝鮮陶磁器といえば、「高麗青磁」が殆どで、「李朝陶磁」などに目を向ける人は殆どなく、
専門家たちからも、「堕落した陶器」と呼ばれていたそうです。
そこで、柳宗悦の力になったのが、先の淺川伯教の弟巧でした。
淺川巧は、当時の朝鮮に在住し、朝鮮の言語を話し、同じ服を着て、家でも朝鮮風の生活をしていたそうです。
当時の朝鮮といえば、日本に植民地支配されていた状況で、この国では稀有な日本人だったのです。
その淺川巧と肝胆相照らし合うことによって、李朝陶磁器の収集も進み、更には巧の発案によって、
朝鮮美術館構想が生み出され、1924年(大正13年)美術館開館の運びとなります。
しかし、1931年、巧急死、40歳でした。
宗悦の河井寛次郎に宛てた手紙に、「片腕をもぎ取られた思い」と痛切な叫びが見られます。


 コーヒーブレイク 野田隆稔先生の史話集より
 
【韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟】

 《生い立ち》

 淺川伯教(のりたか)は1884(明治17)年、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(平成の大合併で北杜市)に、父如作、母けいの間の第一子として生まれました。その7年後の1891(明治24)年1月、巧は生まれました。父如作は巧が生まれる半年前に、31歳の若さで病死しますが、巧には7歳上の兄伯教と4歳上の姉栄がいます。母けいが女手一つで家を守り、3人の子どもたちを育てました。
彼らが生まれた巨摩郡は甲斐駒(馬)の産地であったところから、つけられたといわれていますが、「こま」とつく地名は朝鮮半島の人々(主に高句麗から来た人)が住み着いた場所だといわれています。高麗、駒、狛の付く地名はそれに当たるといわれています。
母方の祖父千野真道が「巨摩郡は高麗人の住んだ所で巨麻と呼ばれた。我々には遠い祖先の血が流れている。高麗人の血が」と語ったことが『白磁の人』の中に書かれていますが、巨摩は高麗人の住みついたところと考えてもいいかもしれません。
(中略)
 師範学校に入学すると、キリスト教に入信します。母方の祖父千野真道が神官であったことからすれば、神道と正反対なキリスト教に帰依することは奇異な感じがします。伯教の影響を受けてやがて巧も入信します。キリスト教の影響は彼ら兄弟が差別なく朝鮮の人々に接することに現れています。

 1906年、師範を出た伯教は小学校の教師としての生活を始めます。1910年、この年は日韓併合があった年ですし、大逆事件が起きた年でもあります。日本が帝国主義に大きく踏み込んだ年でしたが、一方では『白樺』が創刊され、理想主義運動が動き出し、大正デモクラシーの胎動につながる年でもありました。伯教は『白樺』を購読し、白樺派に近づいていきます。1912年、ロダンに傾倒していた伯教は彫刻を習い始めます。

 一方、巧は1906年、山梨県立龍王農林学校に入学し、甲府市郊外で、教職に就いた兄の伯教と同居を始めます。伯教の影響を受けてキリスト教や白樺派に傾倒していきます。

 《兄弟、朝鮮に渡る》 

 1913年、伯教は朝鮮の美術品の研究をしたいため、母けいと共に朝鮮に渡ります。

 その年、伯教は三枝たか代と結婚します。たか代は梨花女子専門学校と淑明女学校で英語の講師をして、生活を支えます。
伯教は教師をしながら、彫刻の制作(1920年、『木履の人』が帝展=現在の日展に入選します)に当たる一方、その当時、見向きもされなかった朝鮮白磁に注目し、研究を始めます。

 兄を敬慕し、その影響を強く受けている巧も朝鮮行を決意します。1914年、大館の営林署を辞め、朝鮮に渡ります。伯教や巧のような資格を持っている者は専門分野の職にすぐ就けます。巧は5月に朝鮮に渡り、7月には朝鮮総督府農商工部山林課に就職し、朝鮮国内の植林業務に従事します。

 巧が山林課に就職した当時の朝鮮の山は乱伐され、はげ山状態に荒れていました。清やロシアによって乱伐されたといわれていますが、日本がそれに輪をかけました。1908年、統監府の管理下にある韓国政府に「森林法」を公布させ、持ち主がわからない山を「無主公山」として国有化させ、それを日韓併合後総督府のものにし、日本人や親日派の朝鮮人地主に分け与え、軍用材の供給地にして山林を乱伐したのです。これは林野の入会権を農民から奪い、農民を疲弊に追い込むことになりました。

 日韓併合後の1910年、総督府は土地調査事業を行い、朝鮮の農民から土地を収奪していきますが、そのモデルは森林法にあったといえます。

 巧は朝鮮に住むためには朝鮮語を覚えることが必要だと考え、山林課の朝鮮人雇員から朝鮮語を習います。3ヶ月でほぼものにしたといわれています。

  『白磁の人』では朝田政歳妹みつえとなっています。年齢も3歳下になっています。『白磁の人』と『朝鮮の土となった日本人』に食い違いがあるのは気になりますが、ここでは指摘するだけに留めて置きます。本文は高崎説で書きました。

  柳宗悦(むねよし1889〜1961)は白樺派で、民芸運動を起こした人と知られていますが、高校の日本史で、「柳は三.一独立運動で『反抗するも彼らより一層愚かなのは圧迫する吾々である』と、日本の朝鮮支配を批判した数少ない日本人だ。京城において道路拡張のために景福宮(キョンポックン)の光化門(クァンファムン)が取り壊されようとしたとき、これに反対し、移築保存させた人だ」ということを習いました。光化門がなんであるかさえ解りませんでしたが、良心的な日本人がいるものだと思ったことを覚えています。柳の朝鮮文化保護に影響を与えたのが淺川兄弟だったのです。

 1917年、巧とみつ江の間に、長女園絵が生まれました。
 巧が発明した養苗法に「露天埋蔵法」というのがあります。採集したその山の中に自然の状態をつくって埋め、翌年の春、種子を掘り出して苗床に蒔くというもので、当時としては世界的な発明であったといわれます。巧はそれを幾つかの論文に残しています。巧は朝鮮文化の保護者として名を残していますが、このように科学者としても業績を残しています。

 順風満帆の巧の人生に不幸が見舞います。妻のみつ江は園絵を生んだ後、体調がすぐれず、甲府で療養していましたが、1921年、薬石効なく亡くなります。葬儀のあと、園絵を淺川政歳に預けて、朝鮮へ一人で戻りました。
巧は失意の中、山の植林に力をいれながらも、柳が提案した「朝鮮民族美術館」の設立の準備に当たります。仕事の面では充実していたけれど、精神的には一番辛いときでした。

 伯教は学校を辞め、朝鮮陶磁の窯場の調査に全力を尽くします。彼の研究で、朝鮮陶磁の歴史が明らかになっていきます。さらに、高麗青磁を復活させるために、朝鮮人の陶工たちを援助します。伯教の指導のもとにで、高麗青磁を復活させた人は池順鐸(チスンタク)で、韓国陶磁器界の巨匠といわれるようになります。

 韓国へ行くと、青磁が土産物として売られていますが、その基礎を伯教が作ったといっても過言ではありません。

 一人暮らしの巧に、再婚話を持ってきたのは柳でした。巧は再婚することはみつ江に申し訳ないという思いがありましたが、柳の「園絵さんをいつまで、預けておくのか、再婚して一緒に暮らしたらどうか」という説得に、子煩悩な巧は折れます。
 1923年、巧は大北咲子と京都で結婚し、園絵を連れて、京城に戻ります。園絵も咲子になれて、温かい家庭を取り戻します。しかし、またもや家庭に不幸が見舞います。咲子との間に生まれた次女が生後、数時間で亡くなったことです。

 巧は伯教が焼いてくれた小さな白磁の鉢に遺骸を入れ、白木の墓標に『天使の人形の墓』 と記し埋葬しました。

 次女の死産という痛手を抱えながら、巧は林業試験所の仕事をし、休日を利用して、陶磁器の研究を続けると共に、あらたに木工芸の美に魅かれ研究を始めます。巧は研究をするとき、チョゴリ・パジを着用し、達者な朝鮮語をしゃべりましたから、彼に接した朝鮮人の中には巧が日本人であることを知らない人もいました。

 支配民族として、朝鮮人を低く見ていた日本人でありながら、朝鮮人の視線で接する巧は朝鮮の人々の信頼を集めます。

 陶磁器の研究は『朝鮮陶磁名考』に、木工の研究は『朝鮮の膳』となって結実します。

 巧は生まれてから病気らしい病気はしたことがなく、健康に自信を持っていました。仕事、研究に睡眠時間を削って無理をします。

 1931(昭和6)年、その無理がたたって、風邪を引きます。「風邪くらいで、休むわけにはいかない」と一日休んだだけで林業試験場に出勤します。雨の中を歩き回り、風邪をこじらせてしまい、40度近い熱をだし倒れます。3月27日のことでした。医者から「急性肺炎」と診断されます。咲子の止めるのも聞かず、高熱をおして柳から依頼された『朝鮮茶碗』の原稿を書きあげます。これが絶筆になります。

 巧の症状は「峠を越えた」という医師の診断があり、病床に詰め掛けた人たちがほぉとした直後に急変します。意識が混濁する中、「責任がある・・・」と繰り返して叫んだといわれています。「何についての責任なのか」、試験場関係者は「未完の仕事」だと思ったかもしれないし、美術関係者は「巧の研究」かもしれないと思ったかもしれない。臨終の席にいた安部能成(ヨシシゲ。思想家、教育者。戦後の幣原内閣で文部大臣を務め「教育基本法の骨子」を作った)は「朝鮮とこの国の人たちへの責任だと感じた」と書いています。

 葬儀は4日、雨の中を、キリスト教の様式で行われました。柳たちの弔辞が読まれ、巧みの好きな賛美歌409番「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがる 見はやすけし」が歌われました。巧は白いチョゴリ・パジを着て、重さ150キロの二重の棺に納められました。出棺のとき、巧の死を聞きつけた多くの朝鮮の人たちが見守りました。

 「彼の死が近く村々に知らされた時、人々は、群れをなして別れを告げに集まった。横たわる彼の亡躯を見て、慟哭した鮮人(侮蔑語ですが、原文通りにしました)がどんなに多かった事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であった。棺は申し出によって悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余りにも申し出の人が多く応じられない程であった。その日は激しい雨であった。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまま、鮮人の共同墓地に葬られた。」(柳宗悦『淺川のこと』)という、柳の文にそのときの様子が見事に描かれています。

 参考文献 
 『白磁の人』江宮隆之 河出書房
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朝鮮をこよなく愛した柳宗悦

最初に柳 宗悦が残した言葉の一説です。(昨今の嫌韓の人たちに捧げる言葉?)
「私は想う、或国の者が他国を理解する最も深い道は科学や政治上の知識ではなく宗教や芸術的な内面の理解であると思う。言い換えれば経済や法律の知識が我々を他の国の心へ導くのではなくして、純な愛情に基く理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている。?H4>「我々日本人が今、朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。中略」

李朝工藝から民藝運動へ
柳は、李朝陶磁に惹かれ、李朝の工芸品の美しさに引き込まれていきますが、これらの作品はみな無名の工人によって造られた物であることを思い、民族の工藝の伝統は日本にもあると着想し、日本の工芸へと、自身の目をむけていきます。後に木喰仏(もくじきぶつ)を見出し、それを探し求める旅は、同時に日本民芸運動への旅ともなり、1936年(昭和11年)10/24の「日本民芸館開館」へと繋がっていくことになるのです。

大正10年雑誌《白樺》1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用

イメージ 3ポジャギ(李朝鮮の伝統的パッチワーク )

(「これは骨董ではない」晶文社より)
「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」

柳は消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとしてほしかったのでしょう。
名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美は宿ると記してます。


 柳宗悦(1889〜1961)は日本民芸運動の創始者、日本民藝館の開設者です。20歳の時、神田の骨董店ではじめて朝鮮白磁を見て、その芸術の優秀さ、美に魅せられ、72歳でこの世を去るまでの生涯を、朝鮮を愛しつづけた日本の良心を代表する数少ない知識人の一人であります。

 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べています。

柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績を残しました。その業績を大別して書いて見ます。

 
一、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行ないました。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判しました。

 1919年(大正8年)、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きます。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモですが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこないました。しかし独立運動は、ソウルのパゴダ公園を中心に、朝鮮全土に広がりました。この時、軍による弾圧によって死者は韓国全土で約6,670人、負傷者は14,600人、投獄された者、52,730人にのぼったといわれています。
日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していました。
「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発しました。

「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」

 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」

 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判します。

 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」

 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」

 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、終戦の日まで常に監視されます。

 
二、朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。

 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといわれていました。それにたいして柳は、

 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』)

 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』)

 柳はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしています。

 
三、に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存しました。

 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになったといわれています。
1922年「改造」9月号に『失われんとする朝鮮建築の為に』と題する文章引用
「一つの芸術の失われんとする運命に対する追惜と、王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り壊されることについて、東洋古建築の破壊に対して胸を締め付けられる想いを感じている」と、嘆く柳宗悦の文章でありました。


 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫っりますが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」と言う言葉を守ります。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されています。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設します。今も、一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されています。

 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行ないます。

以下は1921/5/5の東亜日報の記事には
「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」と記されています。
 
大正10年雑誌「白樺」1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用より。
ポジャギ
《これは骨董ではない》晶文社より
「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」

消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとして、名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美はやどる。この美に反応する心の韻律をもち、豊かな共鳴の心を持つならば、あらゆるものに宿る美を感ずる事ができる。

柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられますが、当時、植民地となった、まさに暗黒の時代であった朝鮮にあって「民族」を否定され、日本の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきでしょう。

 今も尚、蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で人間としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、異国の民や文化に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本の友は、依然として今日も貴重な存在であると思います。

《柳宗悦の文化賞授与》
1957.11(67歳) 文化功労賞
1960.1(71歳) 朝日文化賞
1984  (没 後)韓国政府より宝冠文化勲章

[編集] 著作
手仕事の日本(岩波文庫) 南無阿弥陀仏(岩波文庫)茶と美(講談社文庫)民芸四十年(岩波文庫)
工芸への道(講談社文庫) 美の法門(岩波文庫) 柳宗悦茶道論集(岩波文庫)
柳宗悦妙好人論集(岩波文庫)柳宗悦随筆集(岩波文庫)工芸文化(岩波文庫) 蒐集物語(中公文庫)
朝鮮を想う(筑摩書房) 柳宗悦全集(筑摩書房) [編集] 外部リンク

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 【内容(「CDジャーナル」データベースより)】
 ひと度耳にすればいつまでも記憶に残るノドが特徴の新井英一によるパリ録音盤。取り上げられたナンバーは,ソ連時代の伝説的シンガー,ヴィソツキイと,パリを代表するシャンソン歌手たちのもの。見事にこの街の持つ雰囲気にとけ込んだ歌声を聞かせる。
 【内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)】
  “反体制”という言葉は、この国の若者の間ではほとんど死語になってしまったようだ。選挙は粉砕するものではなく、参加するものなんですね。新井英一がロシア(当時はソ連)で本物の“反体制”を全うしたヴィソーツキイの作品を歌っている。しかも終焉の地、パリでのレコーディング。さらにセルジュ・ゲンスブール、ジョルジュ・ムスタキ、ジャック・ブレルの作品も歌っている。気分的には日本海を渡り、シベリアを越え、ウラルの大地を突っ走り、西欧文化の最深部に到達したというところだ。これは決してアナクロではない。生きることの重みを実感した者にとって、それぞれ表現方法は異なっても、いつかはやらなければならない“人生のけじめ”なのだ。抑え気味に歌うことで、彼の唄の説得力はいや増す。彼の唄声が艶やかに、温かく響く。バックのミュージシャンも実に巧くサポートしている。言葉とメロディが合体し、それが歌われることで生まれる圧倒的なパワーに音楽の“重さ”を感じる。 (平原康司) 1998年09月号【amazon.co.jp,新井英一『オオカミ狩り』オーマガトキより引用】
 このアルバムの13曲のうち5曲が、ヴラジミール・ヴィソツキー(1938-1980,旧ソ連)の作品である。
 ヴィソツキーは、詩人・俳優・シンガーソングライターであったが、生前には1冊の詩集も1枚のレコードも出すことを禁じられていたにも関わらず、彼はヒーローであった。彼の歌を収録したテープは人の手から手へ渡され、ソ連中に広まった。
  真実の詩と情熱と勇気そしてギターをかかえ、しわがれ声で歌うヴィソツキーは一人でソ連の全体主義体制と立ち向かい42歳で夭折した。
 日本では、ヴィソツキーに関するCDを容易に探すことができない。しかし、このアルバムによって、ヴィソツキーの叫びを新井英一の歌声を通して聴くことがきる。
 新井英一は、以前からミュージシャンの間では「知る人ぞ知る存在」で最初に見いだしたのは内田裕也と言われている。新井は、朝鮮人の父と日朝混血の母を持ち、若き日のアメリカ放浪以来、自らを「コレアン・ジャパニーズ」と名乗っている。彼の曲がニュース番組『筑紫哲也 NEWS23』のテーマソングになったり、アルバム『清河(チョンハー)への道』が日本レコード大賞アルバム大賞を受賞してから、その名を知られるようになった。
 しかし、新井の音楽の原点は朝鮮半島や日本だけではなかった。
 このアルバムは彼の音楽の原点の一つでもあるシャンソンの都・パリで録音されている。新井には、パリへソ連経由で向かおうとしたが、国境の壁が新井を阻んだという過去がある。
 祖国・ソ連で、歌うことが非合法化されたヴィソツキーは、ロシア系フランス人でフランス映画界の重鎮である俳優マリナ・ヴラデイを妻とした縁から、パリで彼の歌声を録音されており、現在に伝わっている。
 この『オオカミ狩り』は、パリとその街に住む人々が演出したヴラジミール・ヴィソツキーと新井英一の共演のアルバムである。
参考文献
 野村進『コリアン世界の旅』講談社,1996年
 マリナ・ヴラディ(著),吉本素子(訳)『ヴィソツキー あるいは,さえぎられた歌』リブロ・ポート,1992年

まったけ日記172ー「ロシアの魂」ヴラジミール・ヴィソツキー
まったけ日記173ー『ヴィソツキー あるいは、さえぎられた歌』−
ヴィソツキーのCDを入手するには
新世界レコード社(輸入盤)
http://www.shinsekai-trading.com/index.htm
http://www.shinsekai-trading.com/cdi-visotuki.htm
オーマガトキ(国内盤)
http://www.shinseido.co.jp/omagatoki/
http://www.shinseido.co.jp/omagatoki/catalog/artistsort.html
■ ヴィソツキーのCDを購入を考えていらっしゃる方へ。新しくロシアで製作されたCDは、オーケストラやバックバンドがアレンジされているものがあります。ヴィソツキーの本来の歌うスタイルはギターのみです。おそらく、生前のヴィソツキーはギターでしか歌うことができなかったのだと思いますが…。
京都亀岡国際秘宝館・本館  http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html

転載元転載元: 『京都・亀岡国際秘宝館』館長のまったけ日記


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