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★沖縄で「軍の強制による集団自決はなかった」というなら、このおばあさんは、どうして「発狂する」と言ったのでしょう? ★「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社=P150ーP153)
赤松元隊長は、住民329人が死んだ集団「自決」の下命人として、遺族がまとめた 戦記にその名をとどめてきた元大尉である。 その男が、戦後25年たった春ひょっこり沖縄にやってきた。 渡嘉敷島で行われる「自決」者たちの慰霊祭参列のためだという。 ところが、彼は那覇空港でたいそう手荒な出迎えを受けることになった。 「何しに来たか!帰れ」 「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」 「渡嘉敷島のあるおばあさんは、赤松がきたら発狂するから来てくれるな、と言って いるんだ」 「帰ってくれ。慰霊祭にでてもらいたくないし、あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」 男を取り巻いたのは教員、歴史家、キリスト教牧師、平和運動家ら50人。 「虐殺者、帰れ!」と書いたのぼりが立ち、抗議のシュプレキコールが夕闇迫る空港 ターミナルに響いた。 厳しい追及に男は終始口をつぐんでいたが、抗議の人たちの口から 「軍国主義」「日本の右翼化」という言葉が飛び出すと、 「わたしのところは平和だし、、、、わたしが来島したからといって、、、、」と切 り出した。 この一言が、取り巻いた人たちをいっそう刺激した。沖縄は戦後このかた他国の軍事 基地に圧迫され、事件・事故の絶える事がない,「平和」とはおよそ無縁の島である。 その人たちを前にして「私のところは平和だし、、、」と言ってのけるヤマトンチュ とは何だろう。 ・・・・・・ 「彼が島に来たら発狂する」老女さえいる渡嘉敷島の人たちがこの元守備隊長に求め ているのは、「以前のままの赤松」からの脱皮であり、久米島の人たち同様、真摯な 反省と謝罪、そして軍の論理の放棄である。 *****ここまで引用部分*************** ★『事実は打ち消せない』教科書自決強制削除 (琉球新報) 非戦通信より転載 |
人と文化 문화풍습
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大阪済州島研究会 次の通りに、第14回大阪済州島研究会を開催します。是非、ご参加お願いします。 日時:2007年4月21日(土)午後2時 発表者:山根 俊郎さん (神戸むくげの会会員)(尼崎市役所職員) テーマ:「韓国懐かし歌曲の中の済州島」 場所:★民団東成支部★ 大阪市東成区大今里西2−6−13 地下鉄、
千日前線・今里筋線、今里駅1番出口→東成区役所→民団東成支部 事務局電話06-6711-2004、090-2017-4531、 E-mailはcheju@nifty.com |
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靖国合祀 やはり国がかかわって
3月30日(金)信濃毎日新聞 戦犯の合祀は、日本人が戦争を反省していない証しと受け止められかねない面がある。そこに政府が関与することは、憲法の政教分離原則に照らしても問題が多い。 戦争犠牲者をだれもがわだかまりなく追悼できる施設の実現が、あらためて急務である。首相が引き続き、参拝に慎重でなければならないのはもちろんだ。 資料からは、厚生省が1958年ごろからしばしば、神社と合祀問題を協議していたことが分かる。厚生省は戦犯合祀を、神社に積極的に働き掛けてさえいる。 例えば58年4月9日の会合だ。BC級戦犯の合祀を「研究してほしい」と、厚生省は神社に求めた。69年1月31日の会合では、東条英機元首相ら、戦争指導者のA級戦犯について「合祀可」とする見解を両者で確認している。 世論の動向は気にしていたようだ。A級戦犯合祀を決めた会合の記録文書には「外部公表は避ける」と注が書き込まれている。 政府はこれまで「合祀作業にはかかわっていない」の一点張りだった。A級戦犯の合祀についても「神社側の判断」としていた。 今度の資料により、政府の弁明はますます根拠があやしくなった。 大事な疑問が残されている。神社がA級戦犯を実際に合祀したのは78年の10月である。「合祀可」としてからなぜ10年近くもかかったのか、決断は誰がしたのか、今回の公表資料からは分からない。 日本の政治の動きや米国の対日政策の変化と、合祀が関係していなかったか−。疑問はさまざま膨らむ。今後に残された課題である。 靖国の問題は戦後日本の歩みの足かせであり続けている。最近は小泉純一郎前首相の参拝をきっかけに世論が分裂、中国や韓国との関係は悪化した。米国などから向けられる目も決して好意的ではない。 解きほぐすには、厚生省はどういう判断で合祀にかかわり続けたのか、A級戦犯合祀はだれが決めたのか、解明される必要がある。政府は合祀にかかわるすべての資料を公開すべきだ。経過を明らかにする責任は神社にもある。 戦争への反省は、日本が世界で生きていく上で踏み外してはならない原点だ。分祀はできない、と靖国神社が言う以上、代わる追悼施設の実現を急ぐほかない。
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相撲と씨름(シルム)
相撲は韓国のシルムと同じ語源だと言われています。「sirumu」の中の”ru”が抜けて「siumu=シウムがスモウになったと言われています。 中国、日本と韓国の文化の起源、類似性を見るのには古代に遡るほどその語源が似てるとも言われています。 韓国語の”kurumu”は雲ですがこの場合も”ru”が抜けて=kumu=が”クモ”になったとも言われています。オクドウは煙突の(kuruduku)が変化したとか、調べれば限りがありません。 この場で語源説を唱えるつもりはありません。どちらが先とか、後とかの話をするつもりもありません。日韓の文化の近似値を感じてるからこそ、その文化を知れば知るほど「面白いな〜」と思う毎日です。 (奈良を韓国語の”国”だ、否、違う、とか言う話ではありませんので、その様なな肯定、否定のコメントはしないでください。) 「相撲」、一つをとっても、モンゴル相撲、朝鮮相撲、日本の相撲と、北方系の騎馬民族の伝来と言えるつながりがあります。日本の相撲の神様と言われる武内 宿禰(すくね)と言う名前がいかにも大陸、半島の名前と思えるのはその由縁だと思います。 最も伝統があるとされる”国技:大相撲”が東アジアで相撲の最も盛んなモンゴルの力士が大勢いるのも面白い限りです。色んな問題を内包しながらも、すでにモンゴル、中国、韓国、在日、東ヨーロッパ、アメリカ、大洋州の多くの他民族からなる相撲社会が、何かしら日本が国際化に向かう希望の明かりに様に思えるのは私だけでしょうか?
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''' 意外と知られていない、芥川賞受賞の在日作家、今は亡き李良枝
年始の慌しさに11日の父の法要と、相変わらずバタバタと時間だけが過ぎてしまいました。時間の合間に、一息と思い、出張や移動の最中、久しぶりに在日韓国人作家で、今は亡き李良枝の本を読みました。 処女作《ナビタリョン》と、記念すべき第100の芥川賞受賞作品《由熙》は、1992年、37歳で亡くなった・イ ヤンジャ(李良枝・Lee Yangji)、在日韓国人(二世)の作品です。
何気なく、図書館に週末出入りし、韓国語の詩集を読んでる時に、ふと思い立って全集を借りて読んで見ました。 若い頃、在日作家の芥川賞第一号受賞作家の《李恢成のうすを打つ女》も、同じく、芥川賞受賞作家、玄 月も在日、2世、3世の世代の違いがあると論評されますが、私は"同じ視点”としか見れない、それが私には(文学を語るレベルに無い)どうしても同じにしか、見えてこない分、新鮮に思えないのは事実です。 先ほどの《李恢成》は、『時代と人間の運命−エッセー編』(同時代社、1996)の中で、在日同胞文学者の若い世代の作家たち(第三世代の作家)の一人として、李良枝を紹介していました。 「第三世代の作家たちが何よりも切実さを感じて書く作品世界とは、おまえとわたしの次元、、主に個人的な精神世界を反映したもの」「こうした潮流は何よりも在日同胞生活の変化からくる構造的矛盾の反映」「何年か前に夭折した李良枝がそうです」と。 (私には言語明瞭、意味不明。もっと目線を下げて批評して欲しいと思います・・・。) 《由熙》は韓国に留学した在日韓国人の由熙が大学を中退して日本に帰るところから話が始まり、回想で話が組み立てられます。視点が由熙の下宿先のオンニ(お姉さん)にあるため、全体に客観的で抑制の利いた文章になっています。由熙は韓国社会に馴染むことが出来ずに、下宿先を転々とし、舞台となるこの下宿で初めてオンニとアジュモニ(おばさん)という信頼できる韓国人に出会い心が交流するのですが、結局は韓国を去ることになってしまいます。 《由熙》では由熙の日本での生活が語られることはありません。だからどうしても《ナビ・タリョン》の延長として読んでしまいます。 由熙は韓国を愛そうとし、ハングルを愛そうと努力します。もちろんそれがウリナラであり、ウリマルであるからです。しかし彼女はどうしてもそれが出来ない。 多分日本でハングルを勉強してたときはそうでもなかったのでしょうが、韓国ではそこにいる人とつきあわなければならない。雑踏と騒音の中でも足が竦んでしまう由熙。 書くことは完璧なのに、発音が一向に上達しない、努力さえ出来ない由熙。カセットでテグム(大琴)を聴きながら448枚もの日本語の文章を書き綴り、ハングル文字を読むことも書くこともせず、 ある時は、日本語の朗読をしていた由熙。 夜中に独りで人事不省になるまで酔い、涙と洟にまみれながらノートに書いたハングル文字。 オンニ(お姉さん) 私は 偽善者です 私は 嘘つきです ウリナラ(わが国) 愛することができません テグム(大琴) 好きです テグムの音はウリマル(韓国言葉)です 試験でウリナラ(わが国)と書かなければならなかったのに、どうしてもそれが書けなかった。 手が凍り付き、どうしても前に進むことができない。 時間があれば、”由熙”を、是非一度、ご一読ください。 著者・李良枝のプロフィール
1955年、在日韓国人二世として静岡県に生まれる。 9歳のとき、父母が日本に帰化したため、こどもの自分も帰化していたことを15歳にして始めて知る。 韓国語を学び、伽や琴併唱(カヤグムピョンチャン)の第一人者朴貴姫(パククィヒ)先生に師事するものの、韓国語の発音をうまく歌にのせることができず伽や琴を断念するが、韓国巫俗伝統舞踊を踊る金淑子(キムスクチャ)先生の舞踊に魅せられ師事。 1964年両親が日本に帰化。田中淑枝(たなかよしえ)が本名となるが、良枝の字を使う。未成年のため、自動的に日本国籍を取得(当時、16歳の長兄は日本帰化に反対していた)。両親の不仲は、別居から離婚裁判へと進む。何度か家出を繰り返し、京都へ。観光旅館にフロント兼小間使いとして住み込む。旅館の主人のはからいで、京都の高校に編入、日本史の教師との出会いを通じて自分の血である民族のことを考え始める。 上京後、韓国の伽椰琴、巫俗伝統舞踊に魅了され、20歳で伽椰琴(カヤグム)と出会い、25歳のとき韓国に留学。 そのころ、「冤罪事件」として知られる丸正事件の主犯とされた李得賢氏の釈放要求運動へ参加し、ハンガーストライキを行う。 27歳のとき、ソウル大学に入学、このころから小説を書き始める。
27歳ではじめての小説「ナビタリョン」を発表。
1988年,34歳で発表した「由熙」で芥川賞を受賞。両親の離婚成立。小説「由煕」で第百回芥川賞受賞。出雲市や富士吉田市にて韓国巫俗伝統舞踊発表会開催。 ソウル大学卒業後、梨花女子大学舞踊学科大学院へ入学。 出雲、富士吉田、ソウル等での踊りの公演を行う。 大学院単位取得後、日本で小説執筆等に専念。1992年5月22日、急性心筋炎のため、逝去。享年37歳。 【単行本】 かずきめ 1983年講談社 刻 1985年講談社 由熙 1989年講談社 石の聲 1992年講談社 【全集】 李良枝全集 1993年講談社 【文庫】 ナビ・タリョン 1989年講談社文庫 由熙/ナビ・タリョン 1997年講談社文芸文庫 |
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