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【平和憲法を守るのは在日の使命=故 金敬得弁護士の遺言】 在日を見れば日本の今が見える!

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오늘 바로 시작하자

지금 바로 시작하자.
단순하고 소박한, 그래서 마음이 편안한 인생을 산다는
원대한 목표를 향해 작은 변화를 만들어 보자.
오늘 바로 시작하자.
큰 그릇 속의 효모 하나가 밀가루를 발효시키는 것처럼
오늘 시작한 작은 행동이 내 모든 것을
변화시키기 시작할 것이다.

- 마리안 반 아이크 맥케인의《생각을 바꾸면
즐거운 인생이 시작된다》중에서 -

☆작은 변화로부터 새로운 인생이 시작됩니다.
30분 일찍 일어나기, 30분 일찍 출근하기, 하루 30분 이상 책읽기,
30분 이상 걷거나 달리기, 물 많이 마시기, 많이 웃기...
오늘부터 바로 시작해 보시면 어떨까요.
이 중 한 두 가지라도 시작해 보세요.
2007년을 승리의 해로 만드세요.
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今日 まさに 始まりです

今、ただちに始めてみましょう。
単純で素朴、そして心が安らぐ人生を生きると言う
大きな志に向かって小さな変化を作ってみましょう、
今日が、まさしく、その始まりです、
大きな器に酵母が一つ、小麦粉を発酵させる様に、
今日、始まった小さな行動が、私の全ての出来事を
変え始める事でしょう、

ーマリアン バン アイクの《考えを変えれば楽しい人生が始まる》の中よりー

☆小さな変化から新しい人生が始まります、
30分、早く起きること、30分早く出勤する、一日30分以上、読書をする、
30分以上、歩いたり、走る、水を多く飲み合い、より多く笑い合い・・・・
今日から、すぐに、始めてみてはどうでしょうか、
この中の、一つや二つでも始めてみませんか、
2007年を勝利の年にしてください、


 

겸손 謙遜

겸손


겸손은
자신을 낮추는 것이 아니라
자신을 세우는 것이다.
진정으로 용기 있는 사람만이 겸손할 수 있다.
겸손하게 행동하되 비굴하지 말라.
중요한 사람인 척하지 말고 중요한 사람이 되라.
자신은 행동으로 만족하고
그에 대한 얘기는 남들에게 맡겨라.

- 윤문원의《지혜와 평정》중에서 -

☆ 처음 시작했을 때의
첫자리로 돌아가 세상을 바라보는 것,
그때의 첫마음으로 자신을 돌아보는 것,
그래서 늘 한결같으면서 새롭고, 늘 용기가 넘치면서도
거만함과 교만이라는 잡초가 자라지 않게 하는 것,
그것이 겸손한 사람의 태도입니다.

謙遜


謙遜は
自分自身を見下す事ではなく
自分を立てる事である
真に勇気あるものだけが謙虚な態度をとれる
謙虚な行動をとっても卑屈にはなる必要は無い
重要な人の様に振舞わず、重要な人に成れ
自分自身は行動で満足し
それに対する話は人に任せろ

-ユン ムンウォン《知恵と平定》の中より-

☆最初は始めた時、
まず初心に戻って世の中を見直すこと
その時の初心を思い出し、自分自身を見つめなおすこと
そして、常に変わらぬ態度でありながらも、新しく、そして常に勇気がみなぎったままでも
偉ぶらず、傲慢と言う雑草が芽生えないようにすること
それが謙遜な人と言われる態度です

ファイター秋山 成勲→国籍なんか関係ない! ヒーローズのライトヘビー級


『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう出ている。

《秋山 成勲(あきやま よしひろ、秋成勲、チュ・ソンフン、추성훈、1975年7月29日 - )は元柔道家の韓国系日本人総合格闘家。》

年末の大晦日、プライドの”男祭り”に出る秋山 成勲、セコンドにはオリックスの清原が付く。
TV朝ズマの、みのもんたが大のファンでも有名である。

大阪生まれの大阪育ち。高校も大学も大阪。彼は「在日韓国人」だった。
彼は、「在日」と言う言葉で想像されるようないわゆる「差別」とは無縁だった。彼が育った生野はもともと在日の人がコミュニティーを作ってすんでおり、そういう国籍の違いなど、あまりどうでもいい土地柄だった。彼自身もそれほど民族と言うものに強いこだわりをもっているわけではない。
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  私は、秋山の母親と親しい。K-POPも一緒に歌うし、時には、セコンドにたった清原の話も聞く。最近は有名人になり、なかなか会えないが、秋山はそんな母親やいい仲間たちに恵まれ、明るいキャラクターが売りでもある。帰化というのはとかく白い目で見られがちである。所詮自分の世界で勝てなかったから他の世界に流れて行っただろうと。自分の住む社会で認められず、本流に乗れなかったというのは在日から日本へ、柔道から格闘技に越境した事も、彼にすれば、結局は同じ事ことかもしれない。しかし、秋山という存在は、もともと国籍にも柔道にも縛られるほど小さくなかったのだと思いたい。彼が自分で最も輝けると思い、選択した道を、誰も否定できない。服を着替えるぐらいの感覚で国籍を変えた男である。柔道界を飛び出すのも、靴を履き替えるくらいにしか思ってないのではないか。

大阪生まれの大阪育ち。高校も大学も大阪。彼は「在日韓国人」だった。
彼は、「在日」と言う言葉で想像されるようないわゆる「差別」とは無縁だった。彼が育った生野はもともと在日の人がコミュニティーを作ってすんでおり、そういう国籍の違いなど、あまりどうでもいい土地柄だった。彼自身もそれほど民族と言うものに強いこだわりをもっているわけではない。

柔道がうまくても国際大会に出れない。そんな在日として生まれた父が実力で韓国の代表選手になり、韓国内の試合に参加した。そこで出会った女性と結婚し、生まれたのが秋山 成勲だ。彼は幼いころから父の影響で柔道に親しみ、頭角を現していった。しかし、高校ではi国籍上の問題で、日本の大会に出るには何かと制約があった。代わりに韓国代表に選ばれ、韓国国際で優勝している。大学卒業後は韓国にわたり、3年間釜山市役所で活躍した。しかし、韓国の講道館と言われる龍山大学出の審判員、偏った判定、在日という偏見で幾度と無く、勝ち試合が”負け”試合と判定され、自己葛藤と祖国に対する不信感は限界にきていた。しかし、モンゴルで開かれた国際大会で全て”一本勝ち”と言う偉業で個人優勝した彼は、韓国国内で不動の地位を獲得するようになった。そして挑んだ国内大会で、誰の目にも明らかな勝ち試合で又もや”敗者”となったのを機に、その大会の敗者インタビューで「こんな国はもう嫌いだ、私は日本代表になる」と爆弾宣言をする。その後、日本に帰化し、それまで国籍の壁で大会を制限されていた鬱憤を晴らすかのように連戦連勝し、ついにアジア大会81キロ級日本代表に選ばれた。

 
秋山が帰化後、初めて日の丸を胸につけて戦い、優勝したのは2002年の日本国際だった。
優勝直後のインタビューでは、ひたすら謙虚だった。あくまで私の推測だが、これまで韓国籍だった人間がいきなり日本国籍になり、日の丸を背負って戦う事に、色々雑音も入ったのではないだろうか。とにかく日本柔道界、および他の日本人選手にかなり気を使っているなという印象だった。
彼にとって国籍はあまり関係なかった。帰化についても「服を着替えるようなもの」とそっけない。彼にとって重要だったのは、「韓国人」ではなく、「柔道家」としての自分のアイデンティティーだった。柔道選手として自分がもっと輝くには、韓国代表より日本代表を目指したほうがいいと判断したのである。
2002年アジア大会の開催地は釜山。彼にとって因縁の地である。会場の体育館は釜山市役所時代の合宿所の真向かい。かつての本拠地で彼は見事に優勝を飾った。彼の髪の毛は金色に染められており、無国籍性にいっそう拍車がかかっていた。彼は日本の秋山?在日のヒーロー?彼はアジアチャンピオンの秋山成勲、それ以外の何者でもなかった。彼に国籍は関係なかった。
しかし力だけで背負えるほど日の丸は軽くなかった。彼には組み手のうまさと絶妙だった一発の技の切れにはかけたが、絶えず有利な組み手で相手を追い込み、試合をコントロールするうまさがあった。アジアを制した秋山が次に狙ったのは当然、世界である。アジア大会が因縁の地、釜山であったとすれば、翌年の世界選手権開催地は秋山の血と骨をはぐくんだ血縁の地、大阪である。

その大会でまさかの敗退、そして秋山は、総合格闘技の世界に身を投じた。K‐1へ。

 
秋山とHERO'Sスーパーバイザーである前田日明は共通点が多い。二人とも在日コリアンとして大阪に生まれた。
どちらかというと差別とは無縁な暮らしを送り、日本にも愛着を持っていた。そして自分の夢を実現する手段として、日本に帰化した。自らの所属する世界では「異端児」と言われ、いろいろな雑音を実力でねじ伏せてきた。そして自分の輝ける場所を求め、秋山は柔道界を、前田は新日本プロレスを飛び出し、新しい世界へと身を投じた。彼らにはそれぞれ二度の「越境」歴がある。

                    《年末が近づいたんで、8月の記事を再度アップします。》
 
                                                                                                                           

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人民大衆の味方、正義の弁護士  布施辰治弁護士(1880(明治13)年〜1953(昭和28)年没
  大正・昭和期の弁護士、社会運動家。
2004年10月12日、日本の植民統治からの独立を訴える朝鮮人運動家らを弁護したことから、外国人で始めての「建国勲章」を受章した、日本人シンドラー・故 布施辰治の話です。

受賞は、1919(大正8)年の「3・1独立運動の直前に東京で独立宣言を発表した「朝鮮青年独立団」の関係者や、関東大震災後の朝鮮人暴動のデマの中の1926(大正15)年に大逆罪(金子文子。神奈川県生まれの無政府主義者で、朴烈の妻。大逆罪で逮捕され死刑判決を受け、のち無期懲役に減刑されるが、4か月後獄中で縊死(いし=首をくくって死亡)・朴烈(パク ヨル)が、天皇を暗殺すべく爆弾の入手を画策したとされる「でっち上げ」事件に問われた朝鮮人運動家らの弁護に当たったことなどが受賞の理由です。


布施が少年時、漢学塾に通っていた頃、日清戦争から帰った村民に「オレは朝鮮軍を追撃した。普通の百姓が集まっただけのものだった」と聞いて朝鮮人に同情を感じた(「ある弁護士の生涯」)という。また、併合後の大正初期、「朝鮮の独立運動に敬意を表す」という一文を書いて検事局に呼ばれたというが、これは原文もなく、時期も明らかでない。しかし、これらの挿話のなかに早くも朝鮮に対する関心と同情がみてとれる。

立身出世を求めず、清貧を重んじて哲学を学ぶために」上京、1902(明治35)年に明治法律学校(現・明治大学)卒業後、司法官試補(現・検事)となり宇都宮地裁に赴任する。しかし、親子心中をはかって自首した母親を殺人未遂で起訴することに忍びず、また法律の社会的不備を痛感し、新聞に「桂冠」を発表し、「虎狼(ころう=貪欲で残忍な人のたとえ)の為なる我が職を」辞任、弁護士となる。
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以後、トルストイの影響から人道主義の立場を貫き、社会運動擁護のために、東京市電値上げ反対騒擾(そうじょう)事件(1906〔明治39〕年)、東京市電ストライキ事件(1911〔明治44〕年)、米騒動(1918〔大正7〕年)、天誅(てんちゅう)事件、釜石鉱山・足尾銅山・八幡製鉄所ストライキ事件(1919〔大正8〕年)、暁民共産党事件(軍隊赤化事件=1021〔大正10〕年)、第1次共産党事件、関東大震災の時に起きた亀戸事件(甘粕事件)、朴烈(ぼくれつ) 大逆事件(1926〔大正15〕年)、朝鮮共産党事件、台湾農民組合騒擾事件をはじめ、各地の小作争議、労働争議の弁護・救援にあたる(1910〔明治43)年の明治天皇の暗殺を計画したとされる大逆事件に際して、被告幸徳秋水の妻、管野スガの弁護を申し出たが、筆頭弁護士磯部四郎(19231〜1954〔明治19〕年大審院判事に就任)から「君は法廷の発言で問題を起こしそうだ。あぶなくて弁護させられない」とことわられている。


 
 布施辰治の朝鮮観を示す一文
「日韓の併合は、どんなに表面の美名を飾って居ても、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略であったと思う。故に日本の資本主義―各世界の資本主義が未だ倒れないで、愈々断末魔の暴威を振ふ今日、資本主義的帝国主義で侵略せられた朝鮮民衆の愈々搾取せられ、益々圧迫せらるるのは当然の帰結でせう。……、特に朝鮮民衆の搾取と圧迫に目立つのは、舞台が舞台である事とあまりに美名の下に併合した併合が、其の実のあまりに非道い鮮やかな対照の残虐を暴露してゐるからだと考へます(後略)」

そして、「私は此の意味に於て、朝鮮民衆の解放運動に特段の注意と努力とを献じる要ありと信じます」と結んだ。布施辰治の生涯は、朝鮮民衆にとり、まさにこの決意を実現するための困難をきわめた実践の連続であったと言える。彼はこの後、4回にわたり朝鮮本土に渡っている。義烈団事件、宮三面事件、朝鮮共産党事件等でそのすべては朝鮮独立を闘って捕えられた独立闘士や、大地主や東拓のために土地を奪われた小作人たちの苦境を救うためのものであった。

 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の問題での、激しい抗議活動、そして虐殺事件の真相調査活動、併せて犠牲者追悼会で
「殺されたものの霊を弔ふの前に、先づ殺したものを憎まねばならぬ、呪はねばならぬ。そして其の責任を問ふべきものである。」と官憲と日本人を糾弾する追悼演説を残してる。


布施は、神戸三菱・川崎両造船所の労働争議において警官隊が抜剣し、労働者を刺殺する等の労働争議弾圧(人権蹂躙事件)に対する調査団活動が契機となって、1921(大正10)年に結成された弁護士団体「自由法曹団」に加入。1901〔明治34〕年明治法律学校卒業後にアメリカに遊学、幸徳秋水ら社会主義者と知り合う。大正期に東京で起きた社会主義者の事件のほとんどを弁護、

また「米国伯爵」を自称して、反語・皮肉・暗喩(あんゆ。隠〔いん〕喩=「…の如し」「…のようだ」などのたとえの形式をとらない比喩〔ひゆ〕)などを駆使して権力を愚弄(ぐろう)するとともに権威を揶揄(やゆ)し続けことから、「奇言・奇行の人」といわれる)とともになる。


'''権力の布施に対する集中的な弾圧であった。布施の弁護士活動が天皇制権力にとって邪魔(目障り)だったのである。

「借家人の借家権は、家屋その他の焼失とともに消滅する」と主張、「焼跡にバラックを立てる権利はない」との論調に対して、布施は、「借地が焼けても借家人と家主との関係は切れていない。〈当時の東京市民のほとんどの〉借家人は焼跡にバラックを建てる権利がある」と主張して弱い立場の借家人を擁護する論陣をはった)。公娼廃止〔廃娼〕運動の団体として「廓清会〔かくせいかい〕が1911(明治44)年の東京の遊郭吉原が全焼したのを契機に組織され、機関誌「廓清」を発行した)運動にも加わり、『法廷より社会へ』『法律戦線』などを刊行、「弁護士の戦線を拡張して法廷の戦士より社会運動の闘卒を任ずる自己革命の告白」を行い


「自己改革」の証しとして
1、取扱う事件を冤罪者の事件や富者の専横に苦しむ弱者の事件、さらには筆禍舌禍事件や無産階級の社会運動を迫害する事件に限定すると共に、
2、弱者のために無料法律相談を行い、
3、社会時事講演を継続的に行う』ことを明かにした。


第2次世界大戦の敗北で弁護士資格が回復された(1945年12月、弁護士活動再出発の祝賀会が母校の明治大学記念館で催される)布施は、自由法曹団再建に際して顧問に就任、戦後の弾圧事件(世にも不思議な3大事件の)三鷹(みたか)事件(弁護団長)、松川事件や血のメーデー事件などの弁護活動を精力的にこなした。


1949(昭和24)年11月12日には、3,000人(うち在日朝鮮人800人)を超える人々が参加した「布施辰治誕生70年記念人権擁護宣言大会」が明治大学記念館で開催されたが、その4年後の1953(昭和23)年9月13日、73歳11ケ月の権力との戦いの生涯を閉じた。


同年9月24日、壇上に布施の言葉「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために.」が掲げられた「告別の会」が東京・日比谷公会堂で開かれ、2,000人を超える大衆が参列したとされる。



参考文献

布施柑治著『ある弁護士の生涯』(1963・岩波新書) 
布施柑治著『布施辰治外伝―幸徳事件より松川事件まで』(1974・未来社) 
自由法曹団編『自由法曹団物語 戦前篇』(1976・日本評論社)その布施の朝鮮観(韓国)と実践行動の一端をみることにしたい。


 布施は文子の骨を引き取り、朝鮮の朴烈家の墓地に埋葬する。朝鮮人の心と一体化した文子の心情に、布施は己れの心をダブらせたものであろうか。

 

 日本敗戦は復活した布施弁護士に大活躍の場を与えることになる。日本人関係の事件としては、三鷹事件や松川事件などの弁護人にもなるが、朝鮮人聯盟に関係するものとして、神戸朝鮮人学校事件、国旗事件、深川事件、朝聯・民青解散事件、東京朝高事件、台東会館事件などの弾圧事件の弁護を引受けて在日朝鮮人の権利よう護に尽力するのである。

 かつて私は少なからぬ先輩たちに布施辰治の話を聞いたが、一致した評価は、「布施弁護士ほど朝鮮人が頼りにした人物はいなかった」であった。なぜか今、義の人布施辰治がいれば。

参考
1923(大正12)年4月号の「赤旗」(雑誌)の「無産階級から見た朝鮮解放問題」
         反骨の在日詩人 金 時鐘/ 詩人は「魂の技士」

一昨日、書いた李政美のコンサートで偶然、前の席に詩人の金 時鐘先生がおられました。77歳、3年ぶりにお会いしましたが、元気そのものでした。

先生は在日社会だけではなく、日本の文学界でも有名な方です。
その波乱万丈の半生と反骨精神は人間として尊敬するに値する方です。

以下の文は、2年前のある講演会で重い口を開いて語った講演内容を抜粋したものです。
時代背景や、組織の部分で、理解できない部分があるでしょうが、詩人、金時鐘の”人なりきを”垣間見てください。
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詩人は「魂の技士」だ。芸術は政治に優先するという決まりがあった。
・・・・結婚式のスピーチも決まっていた。
反米、反日の言説だ。偉大なる首領様と同じになるのが主体である。民戦時代(昭和20年終戦後)はマルクスレーニンに忠実であるのが主体だった。総聯は金日成が主体。
馬鹿みたいに同じことを書いたビラを書かされた。いやになる。ヂンダレ(山つつじ=同人雑誌)もちゃんと書くようになった。今読んでもその時書いていることは的確だ。入院生活が終わるころ、金時鐘ヂンダレ一派を排除せよ!という命令が出る。

組織(総聯)からの圧力で消された詩集もある。印刷寸前まで行っていたが消された。
70年に「新潟」という詩集を出した。原稿は59年までに出来上がっていたが圧力で出せなかった。朝鮮総聯の圏外へ出た。62年にも作家同盟をつくろうとしたが圧力で消された。

ものを書いて発表するときには総聯の査閲のもと発表しなくてはいけなかった。一切書いてはいけないに等しい。大阪外大の非常勤にも呼ばれたが、それも止められた。よう発狂せずに生きたと思う。
第2世文学論も総聯により組織回収された。文書で自己批判ができないなら口頭で自己批判をしろと本国からも人が来た。
「詩をするものに得心のいかないものに負いってはいけないのです」と答えた。

帰国事業の「地上の楽園」宣伝も批判をやらかしてしまった。「地上の楽園への渇望が風船のように膨らまして見るのではなく現実的に生きろ!日本と同じ苦労を北でもしろ」と小さく書いた。
1平方メートルあたりに1トン以上の爆弾が落ちて何も無いところに「地上の楽園はありえん」と書いたのだが、「帰国事業阻害の策謀」といわれた。
ヂンダレも終わり、「カリオン」という雑誌をつくった。4人で始めたが始まる直前に一人が抜けた。カリオンでは梁石日が勇ましかった。その分私がひやひやした。

梁石日(北野たけし主演の”夜を駆けて”の原作者)がたまたま空手をやっていて飲み屋でよく喧嘩をした。梁石日がケンカを起こして私が捕まるというケースもあった。

私は、17歳で朝鮮人になり、皇国少年から火がついたように国語の勉強をはじめた。「(ハングルの)あ」すら書けない状況だった。2年で国語を呼び戻した。
梁石日らは朝鮮語を一切知らない(生まれが日本)。日本に来ると大知識人になった。みんなが知らないから。関西の花形活動家になる。

ヂンダレ批判が厳しくなり、しんどくなり、朝鮮民報に反論を書きたいと言ったが、「社会民主主義新聞ではなない」と断られた。東京の中央の文学界のメンバーと公開討論会をさせてもらえることになった。
2時ごろからはじめてずいぶん遅くまでやった。東京のメンバーも潜水艦組み(不法入国)。東京か大阪に闇舟がついたかの違いだ!と言ったら「本当にそうや」と言われた。そうゆう形の思想統制だった。

金日成パルチザン記が出回る前に韓雪野の「歴史」という本が大ヒットになった。
15年ほど前までは朝鮮学校の副教材にも使われていた。その中の金日成の伝記がナポレオン物語とまったく同じだった。そして金日成の写真が昭和天皇の写真とまったく同じだった。

2つの嫌疑書に組織部はふるえあがってヂンダレをたたくことになる。しかしそのようなことがなければ私は一番に北へ帰っていただろう。北へ帰ることが夢であった。もし帰っていれば3回くらい処刑されていたかもしれない。そのことがあってまだ命を長らえている。

在日という意識は国の意識を持っているのだからすぐれた活動家になる。たくさんの若い世代に出会う。
感性や思考の対象が私と違う。知らない祖国への憧れは持っていても言葉も文化も知らない。私の仕事は日本語訳だった。読ませたいものを訳した。ものを考える感触は日本と本国では違う。

80年代までも総聯は「日本に住むことは一過性だ」と言っていた。しかし一度住めば動けないことは理の当然。45年の時も60万人が日本に残った。さっと動かせるものではない。朝鮮語だけで書けということは、在日を抹殺することだ。
本国と隔絶をしえなかった世代に「2世文学論」を書いた。在日の特殊性は本国と同じでは語れない。54年には「在日を生きる」という言葉を用いた。
日本で住むということは南北を同視野における。

日本では立場が違っても『ひとつどころを同じく生きる』ことができる。
思想や立場が違うからといっても同じ家で暮らす。南でも北でもありえない状況が日本ではある。日本では対立していても同じ屋根の人なのだ。
在日の実存を生きるを、「在日を生きる」と表現した。

拉致の悲劇が お互いを見つめなおす契機ともなれば   金時鐘
「もともと捨てられるだけの『国』にありついたことのない種族」の原・祖国ではないのだ。58年に早くも「在日を生きる」(「在日の実存を生きる」と言いたかったとのこと)と言った金時鐘のまなざしがあった。玄界灘に漂う魂の原点から、原・祖国への想いを押し上げ、搾り出した「私が日本で朝鮮人でありつづける限り、『朝鮮』は必ず私の祖国となってくれよう」との言葉は、「在日を生きる」彼の精神の核だ。
そこに、彼の詩作の日本語にこだわるべき「日本語の根拠」があり、努力して獲得した朝鮮語を教壇に立って日本人生徒に伝え教える「朝鮮語の意味」がある。「わたしの日本語は日本への報復でもある」がかかえる、歴史と時間と「恨(ハン)」と愛がある。「在日こそ、南北を等距離に見られる位置にいる。」

「強制連行に見られるような民族受難を強いられた私たちは、拉致家族の悲嘆が骨身にしみてわかる。その悲嘆に誠実に向き合えば、必ず日本人も、何百倍もの悲嘆が朝鮮人にもあることに思い致してくれる。拉致の悲劇は互いを見つめ直すきっかけになる。そう信じた。」(02.11.22「朝日新聞」)

うちの国はずっと中国の一省のような弱小国だった。今でも超大国の同意なしに統一することは有り得ない。会ってはいけない人と会い、言ってはいけないことを言える関係が実質な統一だ。
在日で一緒に動くことが大事。ワンこコリアンフェスティバルも私の提言が含まれる。おまつりばかりでさびしいが言葉が寝付いていかないといけない。15年くらい前に若い人と語った。「8.15、3.1には全国からキャンプをしに若い人がリュックを背負ってやってきて飲んで語ろう」という夢を語った。
そのワンコリアンフェスティバルも大きい動きになった通じ合うことを重ねれば南北統一の前に統一ができるんだ。言葉の問題ひとつにしても努力が足りない。中国人は中国語を守っている。

在日ならではの言葉の感覚もあり、日本語で最初に濁音が来る単語はうまく発音できない。その言葉の差異を感じているのが在日だ。自分の国にないものをかかえている。在日は本国に似せているわけじゃなく本国に持ち込めるものを生産するのも在日である、と50年ほど前に書いた。

金時鐘の半生
街に万歳(マンセー)!の歓喜の声渦巻く、1945年8月15日・十六才の夏、日本の敗戦と故国の解放を、虚脱の中「皇国少年」の自己解体として迎え、突然「与えられた」祖国にとまどいながらもやがて学生として光州で南労党と出会い、十九才の時「四・三事件」に関与して死線をさまよい殺戮の済州島を脱出、49年6月兵庫県須磨に密航した元・南労党予備党員のあの詩人。「日帝統治」「分断」「在日」の、その幾重もの痛切を一身に刻み込んで「在日」を生きる詩人、金時鐘(キム・シジョン)その人だ。

「クレメンタインの歌」こそは、母国語を棄てた少年期の彼と朝鮮語とを繋ぐ歌であった。日本敗戦のあと「海行かば」や「児島高徳の歌」を歌っては何日も涙を流したという彼…。やがて、ひとりでに口を衝いて出た歌、かつて父が口ずさんでいた歌によって「かようにも完成をみていた皇国臣民の私が、朝鮮人に立ち返るきっかけを持ったのはたったひと筋の歌からであった」という。それがこの「クレメンタインの歌」なのだった。

(金時鐘「クレメンタインの歌」1979)
   내 사랑아 내 사랑아
   ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)
너의 사랑은 쿠레멘타잉
   ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
늙은 애비 혼자 두고
     ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)
영영 아저 갔느냐
     ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)'''

  釣り糸を垂れる父の膝で、小さいときから父とともに唄って覚えた朝鮮の歌だった。父も母も、つかえた言葉で、振る舞いで、歌に託した心の声で、私に残す生理の言葉を与えてくれていたのだ。ようやく分かりだした父の悲しみが、溢れるように私を洗って行った。言葉には、抱えたままの伝達があることも、このときようやく知ったのだ。乾上がった土に沁む慈雨のように、言葉は私に朝鮮を蘇らせた。

「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった父の思いこそ、在日する私の祈りの核だ。」「後ほどアメリカの民謡だということを知って、少々がっかりしました」

「誰が唄いだして、誰がこの歌詞を書いて私にまで伝わって来た歌なのかはしりませんが・・・」
 「どうであろうとこれは私の“朝鮮”の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌。私の言葉。この抱えきれない愛憎のリフレイン」(金時鐘「クレメンタインの歌」1979)

日帝支配末期、使ってはならない「朝鮮語」だけの生活を貫き通し、民族服禁止に従わず悠然と町を出歩き、そのくせ「朝日」「毎日」を黙って読み、ぎっしり日本の本のつまっている部屋を持ち、無職の釣り人を通した父。解放されるまでついぞ日本語を使わなかった父。その父が「四・三事件」で彼が追われるようになると、あるだけのコネと、なけなしの財をはたいて日本へ密航させる。「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった」

父に、金時鐘は当然その後会っていない。永く反共軍事独裁国家であった父の住む地に戻ることは死を意味した。「金大中が大統領になったおかげで数年前、韓国を訪れることができ、親の墓を死後四十年数年ぶりで探すことができた。全くの特別配慮であり、朝鮮籍のま

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