ユウジの雑記

哲学にあこがれています。

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またまた出ましたカントの邦訳今回は中山元先生の『道徳形而上学の基礎づけ』(光文社)ですね。宇都宮芳明先生の邦訳(以文社)が人気なのかなーっと思ったのですが、まだまだわかりやすい訳を追求するのですね。
 中山先生の翻訳は翻訳の部分と同じくらいの解説があります。宇都宮先生の翻訳に注釈がついて凄いとおもったのですが、中山先生の本文に対応する解説も詳しいですね。(原文も注釈も解説も私は理解できないのですが)
 中山先生の本をぱらぱらとめくると(理解できないからぱらぱらめくるしかないです)、「才能を放置する人の例-­­自分自身の不完全義務」というところがありました。カントの見出しにしては、分かりやすいなーと思ったのです。でもマイナー文庫のドイツ語原文には見出しがなかったです(私の誤解ならごめんなさい)。後からわかったのですが、中山先生が理解しやすいように小見出しをつけたと凡例に書いていました(ちゃんと読まない自分が情けない)。
 ここの見出しに書いている部分を見ると、私や横浜市民N(若葉幹人ワカバカント)さんと同じ人間を扱っているのかなーと「誤読」しています。
 哲学を勉強することはいいことだとします。また哲学を勉強するために語学を勉強して哲学書原文を読んで理解することが大切だとします。でも私やよこはましみんかんとさんは面倒くさい地味な語学の勉強や原文を少しずつ読んで理解するように才能を伸ばすなんて、まっぴらごめんで、派手にブログから「カントは・・・」はなんて、知ったかぶり(高校の倫理は評定2だけど家に倫理の教科書がある。)をする自然の本性に従うのです。これはカント先生によればいけないことなのですね。
 えっ!お前は語学の才能はないから、才能をのばすことできないので、自分自身の不完全義務にはならない! 
 たいへん申し訳ありませんでした。
翻訳も原文も少しでも読めるように努力したいでのすが、妄想の世界でがんばります。

真理の表現方法?

私へのコメントをしていただくかんと横浜市民Nさんの真理を開示する方法が凄いです。コメント欄に色々と罵倒・屈辱表現を使い私に真理を開示する彼独自の「哲学的手段」を駆使していました。凄いです。圧倒されました。ある種の禅問答ですかね。私は「プーさんと哲学者」だけでもお手上げなのです・・・。 
 それからかんと横浜市民Nさんははジェンダーに関心があるためか、プラトンの「饗宴」に同性愛が出てくるということで、ホモ野郎という表現を使い私にもっと深く関わりを持つべきだと助言してくれます。ジェンダー論が従来の価値に隠蔽されたものを抉り出した手法で、ジェンダー論に関心を持ちながらあえてそれをひっくり返す表現を使うところが凄いですね。
 私ももっと勉強しなくてはいけないと反省している次第です。

あーーーー!もっと前に知っていれば・・・!

 長谷川三千子先生の、日本語で哲学する?という著作を読ませていただいてすごく感銘を受けたのですが、ヘブル語聖書(旧約聖書)の創世記に関する著作があるとは思いもよりませんでした。でも創世記のヤハウィスト本文 を思想・哲学的に読み込むのは凄いです(多くの方がそう思ったと思います。)。
長谷川は先生はヘブル語聖書学(旧約学)における歴史・文献学的批評を土台にしながら、オリエントの考古学、オリエント神話学を取り入れてヤハウィストの創世記の思想を説得力のある議論を展開しています(もちろんヘブル語聖書学(旧約学)からは反論も大いにあると思いますが)。
 私は歴史文献学批判や考古学、神話学を土台にしてヘブル語聖書(旧約)を思想・哲学的に解釈することに魅力を感じます。

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横浜市民Nさん学問奮闘記のブログ:「放送大学の関係で、ある文献を読まなければならなくなったために、今日はとある哲学書を読んで電車に乗りました。」

横浜市民Nさんは、通勤前や通勤途中で、哲学書を読んでいるのですね。凄い!その日は仕事の疲れであまり読めなかったそうですが、普通は読めるのですね(三木清の高弟ですね。)!ここでは憎いことにある哲学書と書いて、どの哲学書か明かさない。勝手に想像して、カント『純粋理性批判』(なぜなら、光文社文庫を彼は持っています。)あるいはヘーゲル『精神現象学』(これも彼は平凡社の文庫で持っています。)はたまたハイデガー『存在と時間』そうでなければレヴィナス『全体と無限』でしょうか?いやいやもしかしたらアメリカのクワインの著作か?ウィトゲンシュタインか?
 横浜市民Nさんは岩波の高校倫理からの哲学シリーズを娯楽で読んでいます(私はそれも読めないです)。
 ああ!私も頑張って交通機関を利用するときは「くまのプーさんの哲学」をどうどうと持ち込んでプーさんの哲学議論に果敢に取り組みたいと思います(私の能力ではたちうちできない恐れは120%ですが)。万が一にも(怒らないでください)プーさんが読めたら、キティちゃんの哲学(出版されているのかな?)に挑戦するつもりです。

3・11以降手に取る本も前とは少し違ってきているような気がします。
フランクルの本はいまでも読んだりしますが、神義論に関する本で、バート・D・アーマン『破綻したキリスト』それとは対抗するブランティガ『神と自由と悪と』を見たり(精読は能力欠如でできないです)、無神論でドーキンスの『神は妄想である』、ダニエル・デネット『解明される宗教 進化論的アプローチ』、スティーブン・ジェイ・グルード『神と科学は共存できるか』、ホーキンス 『グランドデザイン』、それと対抗するA・Eマグラス、J・Cマグラス『神は妄想か?』A・Eマグラス: Dawkins’ God、 John Lennox: God’s Undertaker. Has Sceincne Buried God? Jhon Lennox: Gunning for god. (英語の本は買っただけで読めないです!)見たりしています。また哲学書としてエリオットソーバー『進化論の射程』、Dennett & Plantinga Science and Religion なども傍に置いています(=積読)。

前から、新約学やヘブル語聖書学(旧約学)などに興味がありました。そのせいで『聖書』を相対化してみるようになりました。その次は哲学的問題である神義論にふれるようになり(特に3・11以降。もちろんアウシュヴィッツや広島・長崎 9・11・十字軍etc.)、不可知論や非重複教導権の原理(NOMA)に親近感を感じたのですが、ドーキンスはそれを許しません。彼にとっては、まだ生ぬるいのです。それにキリスト教やユダヤ教にとって難問である神義論も神の全否定にはならないのです(全知全能で善そのものである神は存在しなくても、神は存在できるから)。

 私は幼稚な頭で、ドーキンスの神存在論駁に関する哲学的議論の部分と他の学者(デネット、ブランティカ ソーバー)などの本と比べてみようと思っています(本当は比べる能力がないです。)。
 でもドーキンスが分厚い本で一神教を批判しても、信者の皆さんはドーキンスの本は読まないでしょう(教会で読まないように言われたり、ましてドーキンス流の批判的な質問は教会や牧師や司祭にしてはいけないと言われたりするのかしら。誤解ならば私の偏見と憶測ですのでごめんなさい。)。
 「創世記のとおり神が世界を作られた。処女マリアから生まれたイエスは十字架刑から復活した。」を文字通り信じ切るのは信者の方にとっては容易いのでしょうか?私が信者なら苦悶していると思います(だから信者ではない!という声が聞こえます。ごめんなさい。)。
私が愛読するブログのバイブルパワーなどは、神と神の聖書に対する絶大なる信頼を置いているのみると、無神論(科学)と宗教はうまく両立できるのかしら。


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