初めての為替ショックに遭遇したのが1967(昭和42)年11月18日の英国ポンドの14.3%の切り下げであった。写真は41年前、日本経済新聞の11月19日の切り抜き、14.3%の大きな切り下げでありながら政府・日銀は“小幅、深刻な影響ない”としている。この頃、大英帝国経済は既に破綻をしており30%前後の切り下げ予測であったが、半分ぐらいで決着した経緯がある。4年後に米国ドルが辿る道程の予言でもあった。
七つの海を制した覇者として船舶関連の技術は歴史的に優れていたのであろう、英国から船舶用のエンジンの注油制御機器を輸入していた。支払いはポンド建て、切り下げ前は固定相場で1008円であったが、切り下げで864円(ポンド/2.4米ドル)となった。会社では上司が新聞を見て騒いでいた程度にしか記憶してない。問題はそこからで、2−3日後、英国のメーカーから一通の電報で「公平に判断して価格をポンド切り下げ分を値上げする、承諾せねば出荷をストップする」との通告受けた。どういう屁理屈(ヘリクツ)で公平と言ってきたのか電文の脈絡は忘却の彼方ながら、“in all fairness=公平”の熟語だけはいまだに覚えている。
さて、上司から「ビタ一文値上げは受けられない、出荷は予定通りして貰うように」とメーカーと交渉をしろと指示され、想い出に残る為替に絡む始めての交渉であった。
今や電話・電子メールで海外との取り引き交渉であるが、40年前の連絡手段は手紙(コレポンと言った時代)、電報であった。現在電子メールで取引先と連絡でき費用はただ同然であるが、当時の海外宛の電報は一語、数百円の高価な通信手段であった。祝電や弔電は今も利用しているが、40年前では海外との急ぐ連絡は電報しか方法はなかった。定額電報と言うのがあって、LT電報(Letter Telegram)で宛先、住所、発信者を含めて21語以内で内容を伝える必要があった。21語を超えると一語当たり追加料金が加算された。下手くそな英語で相手に解って貰うには100、120語数と費用がかさむ。
上司に原稿を赤鉛筆で添削を受けるが、苦労して作文した原文は殆ど姿をとどめない。それでも40ー50語にしかならないが、恐る恐る語学達人の先輩に21語の簡潔明瞭な電文にする特訓指導を受けた。いよいよ21語の最終電文が完成したら、次は電報局に電話で、間違いの無いように<AmericaのA>、 <BombayのB>,<ChinaのC>などと一字一句を伝えるのが日課であった。2−3回の交渉を経て、ポンド暴落による価格交渉であったが、結果は双方7%を負担する痛み分けの決着であったと記憶している。ポンド暴落によって、輸入ビジネスであり痛み分けしても7%を余計に儲かった計算になる。
40余年の貿易マンとして、為替変動で7%も儲かった事は後にも先にも1967年のポンド暴落事件以外は記憶になく最初で最後であった。ポンド(GBP)はその後も切り下げを繰り返し、変動率も大きく、現在は200円前後、高金利通貨ながらハイ・リスク通貨で有ることは今も変わっていない。
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