『為替と40余年』

森羅万象を映す“為替”と四十余年を貿易マンとして共に生きてきたが、定年後は違った観点から眺めたい

為替と一喜一憂

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1971(昭和46)年8月15日のニクソンショックの後の12月19日、戦後長く続いたブレトンウズ体制が崩壊し1ドル360円時代に終わりを告げた。日本は当初,円相場の上昇を防ぐべく米ドルの買い支えを行ったが,8月28日には介入を停止,8月末にはフランスを除く主要国はすべて固定相場制から離脱し、12月に米ドルの切り下げを含む多角的通貨調整で合意がみられた(いわゆるスミソニアン体制の成立)。

1945(昭和20)年12月27日、ブレトンウッズ体制が発効し、翌1946(昭和21)年12月18日、IMF平価設定の決定により、日本円は対ドル360円に決まって25年間続いた。円ドルは360円から308円に16.88%切り上げられた。<計算方法は(360−308)÷308=16.88%>

戦後,欧州及び日本の経済回復に伴い、英国が脱落、追って米国の経済力の相対的な低下や米国の国際収支赤字の拡大により,米ドルに対する信任も次第に揺らぎ始め米国経済が立ち行かなくなった結果の大幅なドル切り下げであった。円が308円を迎えてから2年でドルは10%再度の切り下げとなる。1973(昭和48)年2月14日から円は変動制に移行する記念すべき日であり、今日に至っている。 (『日本経済新聞社』・国立国会図書館・関西館)

360円から1995年の円高最高値79.75円まで思い出したくない局面も何度もあった。この間、「円高恐怖症」の病に罹り苦難の連続だった。 しかし、戦争と違って為替の変動で命までは取られることはなく、KKD(経験・勘・度胸)が据わったことも事実であった。戦争と言えば、平和ボケの日本にあて、在職中に何度も悲惨な戦争や紛争の経験をする事になったので、記録にまとめたいとと思っている。

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「外国為替はなぜ動くのか?」、「どうして動くか?」が分かればビジネスを行う上でも投資を行う上でも非常に有益である。その結果として、将来の相場が予想出来れば、取引のリスク管理は基より、利益を得ることが可能となる。為替の研究は古くからから行われている分野でありますが、森羅万象を映すのが為替と言われるように簡単には解き明かせない。

仮に為替の動く理論や諸要因を十分理解し、予想を試みたとしても、今日、明日、来週、来月の為替が予想通りに動く保証はない。あらゆる技術を駆使しても正確な予測が出来ないのが為替であると認識することが最重要と言えます。ただ為替変動の基本的な要因を理解せずビジネスを行ったり為替取引するとすれば、偶然性に賭けるギャンブルと同じことになりかねない。矢張り、基礎理論や変動要因を一通り理解した上で、ビジネスを、或いはFX取引を行うべきと考えている。

「為替君はなぜ動くのか?」を色々の観点から整理した。
1)為替の変動に関する理論や学説は沢山あります。古典的な理論であっても「温故知新」として、知っておいて損のしないテーマであろうと思います。中長期の事になるが、私の40年の経験から何度となく理論・学説の正しさを実感した。
2)為替の需給関係は、需要と供給が均衡する点で全てのビジネスの価格が決定されるので、為替にも当てはまると思っている。為替に於ける需給関係は何なのかも今後概観したい。
3)為替は経済活動であり、経済を構成する基礎的諸条件(ファンダメンタル)とは切っても切り離せられないものです。具体的にはどのような条件なのか実例も入れてブログにも投稿したい。
4)しかし、為替は以上の理論通りに動かない何者かが潜んでおります。為替を行う人間の心理的な要因が絡んでいると考えられる。相場の格言で、「噂で買って、事実で売れ」とか「でたら手仕舞え」と言われるが、為替も株も理論やファンダメンタルで解せない別の動きを形成するが、何故か?
なども今後の考察としたい。上記図は以上の要点である。

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仕事は輸入から輸出に変っていたが、固定相場時代であるので今から思えば気楽なものであった。海外との取引であっても為替リスクが存在しない時代、信用リスクやカウントリーリスクも取引商社に「負んぶに、だっこ」で大変お世話になった時代でありました。したがって、メーカーは格好良く言えば輸出と言ってもマーケテイングに専念すれば良く、為替や代金回収で損することはなかった。

1970年初め米国向けの輸出担当に配属され、諸先輩の指導の下で仕事を教わったが、米国大手企業の視察団の観光案内、接待係、お酒を飲ませる役目、京都の花街の豪遊にもご相伴に預かるなど実に楽しい思い出が残っている。
ニッカの赤ラベルしか飲めない貧乏生活時代に、アメリカ人からジョニ黒ウイスキー、クロスの金ボールペンなど非常に貴重な土産を貰って気を良くしていた。 アメリカから据え付け研修などで技師が来日し、親しくなって「給与とボーナスは幾らか?」とを聞いたことがある。普通の技術者であったが、月給は1500ドル、ボーナスは歩合入れて1万ドル、こちらの月給は7万円前後の時代で換算すれば約200ドル、アメリカは実に豊かな国だなとびっくり仰天した。アメリカンドリームの時代と言われていたが、実態の米国経済は大変な事になっていた。

昔はお盆も夏休みもゆっくり年休を取れたが、休み明けで会社に行くと大事件が起こった。時は1971(昭和46)年8月15日(日本時間16日朝)、ニクソン米大統領はドルの金交換停止などを柱とするドル防衝と景気刺激及びインフレ抑制を目的として総合経済政策を電撃的に発表する大事件であった。日本ではドル防衛策及びその余波、加えて突然の中国訪問の発表を総称して,「ニクソン・ショック」と呼んでいる。ショックな事であったが、若い時代で、仕事の責任もなく悩みも苦労も覚えていない。多分、上司や取引商社の方々はご苦労なさったのではなかろうかと、その立場になって為替の厳しさを思うようになった。(新聞切り抜きは『日本経済新聞社』、国立国会図書館関西館)

当時、為替原論を勉強していたが、金本位が為替変動の基本理論の一つになっていたが、ドルの金交換停止でどんなことが起きるのであろうかと思っていた。8月15日のドル防衛策の発表から71年末まで水面下の各国の調整など続くことになる。

『ポンド暴落』

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初めての為替ショックに遭遇したのが1967(昭和42)年11月18日の英国ポンドの14.3%の切り下げであった。写真は41年前、日本経済新聞の11月19日の切り抜き、14.3%の大きな切り下げでありながら政府・日銀は“小幅、深刻な影響ない”としている。この頃、大英帝国経済は既に破綻をしており30%前後の切り下げ予測であったが、半分ぐらいで決着した経緯がある。4年後に米国ドルが辿る道程の予言でもあった。

七つの海を制した覇者として船舶関連の技術は歴史的に優れていたのであろう、英国から船舶用のエンジンの注油制御機器を輸入していた。支払いはポンド建て、切り下げ前は固定相場で1008円であったが、切り下げで864円(ポンド/2.4米ドル)となった。会社では上司が新聞を見て騒いでいた程度にしか記憶してない。問題はそこからで、2−3日後、英国のメーカーから一通の電報で「公平に判断して価格をポンド切り下げ分を値上げする、承諾せねば出荷をストップする」との通告受けた。どういう屁理屈(ヘリクツ)で公平と言ってきたのか電文の脈絡は忘却の彼方ながら、“in all fairness=公平”の熟語だけはいまだに覚えている。

さて、上司から「ビタ一文値上げは受けられない、出荷は予定通りして貰うように」とメーカーと交渉をしろと指示され、想い出に残る為替に絡む始めての交渉であった。
今や電話・電子メールで海外との取り引き交渉であるが、40年前の連絡手段は手紙(コレポンと言った時代)、電報であった。現在電子メールで取引先と連絡でき費用はただ同然であるが、当時の海外宛の電報は一語、数百円の高価な通信手段であった。祝電や弔電は今も利用しているが、40年前では海外との急ぐ連絡は電報しか方法はなかった。定額電報と言うのがあって、LT電報(Letter Telegram)で宛先、住所、発信者を含めて21語以内で内容を伝える必要があった。21語を超えると一語当たり追加料金が加算された。下手くそな英語で相手に解って貰うには100、120語数と費用がかさむ。

上司に原稿を赤鉛筆で添削を受けるが、苦労して作文した原文は殆ど姿をとどめない。それでも40ー50語にしかならないが、恐る恐る語学達人の先輩に21語の簡潔明瞭な電文にする特訓指導を受けた。いよいよ21語の最終電文が完成したら、次は電報局に電話で、間違いの無いように<AmericaのA>、 <BombayのB>,<ChinaのC>などと一字一句を伝えるのが日課であった。2−3回の交渉を経て、ポンド暴落による価格交渉であったが、結果は双方7%を負担する痛み分けの決着であったと記憶している。ポンド暴落によって、輸入ビジネスであり痛み分けしても7%を余計に儲かった計算になる。

40余年の貿易マンとして、為替変動で7%も儲かった事は後にも先にも1967年のポンド暴落事件以外は記憶になく最初で最後であった。ポンド(GBP)はその後も切り下げを繰り返し、変動率も大きく、現在は200円前後、高金利通貨ながらハイ・リスク通貨で有ることは今も変わっていない。

為替と一喜一憂

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メーカーの「貿易マン」として輸入や輸出の仕事に40余年携わり、常に外国為替と向き合ってきた。団塊世代の一人として日本の高度成長と共に生きたが、40年前は円は固定相場、米ドルが360円、英国ポンドが1,008円の時代であった。このレートを経験した現役組はだんだん少数派となったと思っている。為替と一喜一憂、為替にまつわる40余年の経験を、時代を追って備忘録としてまとめてみた。外国為替は、日本の経済史であり、私に与えてくれた数々の思い出の一小間、「自分史年表」の大切な素材でもある。

先週財務省が発表した外貨準備高は1兆ドルを突破した。1960年台、日本の国際収支は赤字、外貨準備高もマイナスであり、当時政府は最高輸出会議で、毎年の輸出目標(1965年度は85億ドル、66年98億ドル、67年度112億ドル)を設定し、「経済白書」は“輸出の一層の伸長、貿易精神の高揚、輸出重視の経済成長”を重要政策として掲げていた時代であった。社会人となって最初の仕事は「輸入」であったが、そんな時代では輸入は大切な外貨を費やす国策に逆らう肩身の狭い仕事と思っていた。

主な仕事は、外国から輸入機械の支払い(輸入為替)手形台帳を点検し、決済日には銀行に電話をしてレートを聞き円貨決済書類を作成すると言った毎日であった。ソロバンは出来たがたまに「一円計算間違いだゾ」とこっぴどく上司から叱られた。電卓もPCもない時代で、工場の開発技術者が使っていた手回し式の計算機をおねだりして買って貰ったが、オモチャのように計算機を使うのが実に楽しかった。円ドルの為替レートは固定相場であったが、日々+/-0.75%変動するので361円25銭などと計算機のノブをセットし、右手でハンドルを回し、左手で手形金額を一桁ずつ動かすとウインドウに計算結果がでる仕組み、「ガチャガチャと得意」に成って仕事をしていた。 輸入する機械は科学機器、産業機器、航空機器の部品などだったが、南極調査隊が持って行く 雪上車のターボチャージャー(過給器)などハイカラなものもあったが、輸入担当時代に扱った通貨は米ドル、英国ポンドやドイツマルクであった。ドイツマルクはEU統合で1999年に姿を消した。数年後に念願叶って、輸入から輸出の仕事を中心に携わり遮二無二、定年まで「貿易マン」として働き続けた。銀行マンや為替デイラーと異なり、貿易マンとしては正に実需の仕事で、実需の裏付けのない相場を張る事 (法律や社内ルールにより)は禁止されていたが、為替に首根っこを押さえられ、為替と苦楽を共にする過去であったと振り返っている。
現役時代の強烈な印象が残っている「為替との出会い」のシーンを何点かピックアップしていきたい。為替の温故知新の積りで拝読戴ければ幸いである。

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