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天皇があまりにも幼いため、天皇に代わって政治を行っていく人が必要でした。それが摂関政治です。858年に即位した清和天皇は9歳、次の陽成天皇も9歳です。本当にこの人たち以外に天皇になれる人はいなかったのかしら。二人とも親がすぐに死んじゃったの?天皇の兄弟とかいなかったのかなあ…どうも怪しい。すでにここから藤原氏の陰謀が感じられます。
天皇は神様ですから、ものすごい権限が摂政・関白にはあったわけですよね。国政を全面的に運営できる。でも摂政・関白は人間ですから、「袖の下」は受け取るし、政治も自分たちの家族でカバーしちゃって、思いのままでした。自分の地位を揺るがすような危険人物が出てきたら大宰府へ左遷したり、言いがかりをつけて戦争を起こしてたたきつぶしたりしました。
天皇に政治ができなければ、そりゃ誰か他の人がしなければいけないのですが、それでも藤原氏の摂関政治は、自分ら一族の発展が大前提のようで、「お国のため、国民のため」という考えは全く見られません。
ずっと前になりますが聖徳太子も摂政として推古天皇を助けていました。でも聖徳太子は庶民に人気があったし、海外へ進出していこうとする大きなビジョンがありました。それとはぜんぜん違う。(時代も違うし聖徳太子は伝説的人物だから、比較することは難しいかもしれませんが…。)
現に、摂政・関白を置かず、天皇が中心に政治を行った10世紀前半の醍醐天皇と村上天皇の時代は、公平な人事が行われ、文化・芸術もさかんになりました。だから天皇が政治に口を出したほうが、争いも少ないし、国民のためにもなる。
今の天皇も「国民の象徴」だけではなく、もう少し政治に参加したら、派閥を超え、国民重視の政策が生まれるかもしれない…とちょっと思いました。
写真:北野天神
菅原道真を大宰府に左遷させた後、天皇の息子が死んだり、御所に雷が落ちたりして、「これは道真の怨霊の仕業」と、道真の霊を祭るために建立。今度行ってみよ。
参考文献:
詳説「日本史研究」 −摂関政治−
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「日本史Bマイナス」
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天皇には絶対的な権力があります。自分が天皇になるには天皇と奥様の間から生まれてきた皇太子でなきゃいけません。…でもそうでなかった場合どうするか。
9世紀初め、天皇との「個人的な結びつき」で自分の地位が上がったのです。そして天皇の座も目前になったのです。
ではどんなふうにしたら天皇と仲良くなれるかと言うと、まずは教養です。とても賢いことあるいは政治の仕方をよく知っていることでした。それで偉くなった人には菅原道真がいます。いえ〜い、庶民のアイドル菅原道真!!
菅原さんには毎年お世話になっております。うちからちょっと行った所に「岩津天神」という菅原道真を祀った天神様があり、私は中学3年生の高校合格祈願からず〜と、現在はぜんぜん受験とは無縁な身分なのですが、それでもなんかやっぱり常に賢くなりたいと思い、毎年初詣に行っています。
今日の私があるのも菅原様のご利益のお蔭、と私の努力のたまものであると思っております。(やっぱ、人間、努力が一番でしょ。)
話がそれました。
天皇のように偉くなれるもう1つの方法は、天皇の父方か母方と親戚になることです。
そんな中天皇にちょっと人気があった藤原冬嗣は自分の娘(順子)を天皇と結婚させ、その子供(良房)を皇太子に強引にさせちゃった(承和の変)。その後も良房の娘が天皇と結婚。そしてその子供をまたすぐに皇太子にさせちゃう。そんなこんなで天皇家と藤原氏は親戚同士で結婚だらけ。これじゃ誰が誰のおじさんで誰がおばさんになるのかわからない。
それと同時に「教養ある人」は「うざい」ので、できるだけ都から遠ざけることになりました。そのため我らが菅原道真は左遷です。ひどい話です。
平安時代は「天皇や皇太子のお嫁さん」になるのはシンデレラストーリーだったのかしら?現代では誰も何とも思いません。…むしろお気の毒だと思います。
参考文献:
詳説「日本史研究」 −藤原氏北家の発展−
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866年3月10日に朝堂院という天皇らが儀式を行う宮殿(?)の門が放火されました。(応天門の変)
大納言の伴義男が調査し、「左大臣の源信が犯人だ」と突き止めました。ところが、摂政の藤原良房は、清和天皇にこっそり会って「源信はそんな悪い人間ではありませんよ」と伝え、無実にさせます。それどころか、放火を見ていたという目撃者が現れ、「放火の犯人は伴義男親子だ!」と言うのです。うまく出来すぎの結末です。
どんな裁判をしたのかわかりませんが、その目撃者の発言が決定打となり、伴義男さんは島流し。「よくぞ本当の事を言ってくれた」と、天皇は藤原良房に対し大喜び。その後良房は出世街道まっしぐらです。
実際、誰が火をつけたのでしょうか。伴義男が源信を犯人と言ったこともあやしい感じがします。貴族間の内部抗争が続いていたので、大伴氏にとって源氏がうっとおしかったかもしれない。しかし良房が取った行動はあきらかに「このどさくさに紛れて伴義男をきゃふんと言わせよう」という態度がみえみえです。
私が推理した真犯人は、町の名もない子供です。政治的魂胆など何もなく、たまたま門に火がついちゃったのです。それを貴族たちは自分の都合のいいように話しをでっちあげ、願わくば、自分らは偉く、他の貴族は没落を望んだのです、きっと。
この事件をきっかけに藤原氏は天皇と仲良くなり、天皇から政治運営を奪ってしまいました。
写真:応天門が炎上しているようす
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昨夜「世界一受けたい授業」を見て思ったんだけど、今は保健体育、家庭科、生物、音楽、理科などが人気の主流ですよね。生活に密着している内容だからテレビでウケが良いのかもしれませんが…。
そして現代は「ものづくり」、「理科のおもしろい実験」、「IT産業」など理数系が時代を引っ張っていっている。文学部卒業生の就職口は広く浅く、あいまいで、筋が通っていない。だから不景気だと首を切られやすい(私の勝手な推理)。
以前言語学の教授が「言語学のクラスは人気がないからなくなるかもしれない」と言っていました。つまり現代は文系は役に立たない時代なのだ。
ところが、平安初期は宗教と漢文学が中心の世界だったので、文化系花盛りでした。
歴史(『六国史』の成立)、漢文学や漢詩、儒学や中国の史学などなど…すごい!
ま、机の前に座って難しい本を読みながら、頭に入れて組み立てるのが勉強だったんですね。
習字も人気でしたが、これだって文学的「静」の作法です。
私も平安時代に生まれてきたらもっと就職口があったかもしれない。
…いえ、いえ、私の身分では勉強する機会すら与えられなかったでしょう。やっぱり今の時代に生まれてよかった。
写真:風信帖(空海書)
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私は中学生、いや高校生くらいまで神社と寺院の区別ができませんでした。だってどっちもお祭りのときに綿菓子屋があって、金魚すくいもできたから。(非常に限られた経験しかない。)だから本堂に向かって手をたたくのか手をたたかないのかいつも迷ったことを覚えています。
やれやれ、最近「鳥居」を探し、あれば手をたたく、なければ手はたたかない、ことを学びました。
平安時代の始めにも同じような現象があったようです。あまりにも私のような人間が多くなったので、「一緒にしてもいいんじゃない?」と、神社の境内に神宮寺を立てたり、寺院の境内に守護神を鎮守として祭ったり、そうかと思えば神前で読経までしたそうです(神仏習合)。これは私以上にいいかげんですなあ。さすがに私は神様の前でお経は唱えない(…知らないから唱えられないけど。)
そんな時代になっちゃったから、もっと真剣に宗教を考える人たちが出てきたのでしょうか。最澄と空海です。2人とも遣唐使で唐の仏教を学び、帰国すると山に登って修行をしました。一般市民の仏教とは区別して、密教というのですから、そりゃ難解で、秘密なのです。手をたたいて頭を下げるかどうかの程度では済まされません。きっと。
山川出版社「詳説 日本史研究」−平安新仏教−
写真:金剛界曼荼羅 (密教では宇宙の中心の神は大日如来だと考えたので、それを中心に仏教世界が描かれています。)キルティングの模様のようできれいだったから載せました。(最後まで宗教に無関心ですみません。)
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