見トク、知ットク、納得(3+4=7)〜sports blog〜

阪神いきなり「貯金5」を達成!この勢いは本物か!?

Baseball Player

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]

イメージ 1

<広島の浅井が引退>
2006年10月14日(土) 23時0分 時事通信

 広島は、浅井樹内野手(34)が現役を引退すると発表した。同選手が球団に申し入れ、了承された。コーチに就任する見通し。

 浅井は富山商高からドラフト6位で1990年に広島に入団。パワフルで勝負強い左打者で鳴らし、代打の切り札としても活躍した。今季は若手の台頭もあり、14日現在で出場42試合、打率2割1分。通算成績は1069試合に出場して打率2割8分5厘、52本塁打、259打点。

―――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<来歴・人物>
 浅井 樹(あさい いつき 1971年12月14日)は、富山県富山市出身。富山商高では2年夏、3年夏に甲子園に出場するがいずれも1回戦で敗退。1989年ドラフト6位で広島東洋カープに入団し、1年目はアメリカに野球留学。守備に難があったため、スタメンに定着は出来なかったが、左の代打の切り札として通算代打率3割を超す驚異的な成績を残す。右の代打の切り札町田公二郎と共に形成する左右代打コンビは他球団からも恐れられ、全盛期が同時期だったことから「浅井と町田は他球団なら主軸を打てる」とまでいわれた。町田とともに「左キラー」としての地位を確立し、4割近い得点圏打率を残した。先発が左投手の場合は3番でスタメンを任されることも多かった。一般的にはパワーヒッターという印象が強いが、1番や2番を打ったこともあり、様々な打順をこなせるオールラウンドプレーヤーと言えるかもしれない。

 入団当初は一発狙いの豪快なスイングが持ち味だったが、代打のポジションに就いてからはホームランよりはむしろ状況に応じた巧打に徹することが多かった。センター返しや逆方向への流し打ちも非常に上手く、器用な一面ももっていた。生涯現役では町田と同じく規定打席には1度も達したシーズンは無かったものの、勝負強さは折り紙つきで、打率3割を5度記録している。また、ピンチの局面やサヨナラの好機にも強く、通算代打本塁打10本のうちの5本がサヨナラ本塁打である(うち1本が満塁本塁打)。また走塁技術に難点はあったものの足は速く、2005年には途中出場ながらも3試合連続で盗塁を成功させ、ときには代走要員として起用されることもしばしばあった。

 2004年FA権を取得した際、「選手である以上、他球団が自分に対してどういう評価をしているのか聞いてみたいという思いがある。だからFA残留を認めてほしい」と球団側に要請したが、球団側の対応は相変わらずで契約金や年俸の不用意な高騰を招くという理由で拒否した。結果、FA権は行使せず残留。バッティングフォームは独特で、「一本足振り子打法」と称されたこともある。2005年以降選手登録を外野手から内野手へ変更。

 過去にユニフォームの袖を短くまくりあげていた時があったが、これは筋肉を見せることで投手を威嚇するためであった。この仕草はチームメイトの森笠繁や田村恵が真似ていた。2003年に金本知憲が阪神タイガースに移籍したことにより、それまで不動とされてきた外野の一角を担う候補の1人に数えられたが、森笠の打撃開眼や2004年には嶋重宣がライトの定位置を確保してからは、めっきり出場機会が減った。

 2006年シーズンは6月末にメニエル病を発症したことと、ブラウン監督の若手起用の方針で構想外になっていた。一時は「今季ユニフォームを脱ぐのは考えられない」と現役続行に強い意欲を見せていたが、球団サイドがその代打で培った勝負強さと野球理論を評価してコーチとしてチームに残るよう打診し、本人も了承した。2006年10月14日に現役引退を表明、17年間の現役生活に終止符を打つ。引退試合となった現役最後の打席でセンター前ヒットを放ち、ファンを感動させた。

 引退セレモニーでは「カープが大好き。チームメイトもファンのみんなも大好き。今後はこの恩を少しずつ返していきたい」と涙ながらに語って有終の美を飾った。同期入団の前田智徳も「17年間一緒にプレーしてきた浅井を最高の形で送り出したい」として、この試合で本塁打を含む4安打を放ち、苦楽を共にした仲間の引退に号泣した。引退後はそのまま球団に残り、2軍打撃コーチに就任。

 通算代打成績は490打数154安打.314 本塁打10本 打点91という高成績を残した(通算成績でも.285という高数字を残している)。


<略歴>
・身長・体重:183cm・90kg
・血液型:AB型
・投打:左投げ左打ち
・球歴:富山商高
・プロ入り年度・ドラフト順位:1989年・6位(広島東洋カープ)
・守備位置:内野手(一塁手)・外野手


<経歴・タイトル>
・初出場 1993年4月18日対読売ジャイアンツ(広島市民球場)
・初安打 1995年6月15日対横浜ベイスターズ(横浜スタジアム)
・初本塁打 1995年7月1日対読売ジャイアンツ(広島市民球場)

イメージ 1

 飯田哲也(1968年5月18日)、東京都調布市出身。現在は東京ヤクルトスワローズ二軍コーチ。ポジションは捕手〜二塁手〜外野手。右投げ右打ち。野村克也監督の象徴ともいえる選手で、ID野球はIIDA野球の略とまで言われた選手。


<来歴・人物>
 拓大紅陵高(千葉県)では3年次に春夏連続して甲子園に出場。春の選抜大会では1試合で3盗塁を刺すなど強肩の捕手として注目された。1986年にドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。3年目に一軍に上がり、捕手として22試合に出場。翌1990年に不動の正捕手となる古田敦也が入団したため二塁手に転向し、前年新人王の笘篠賢治からレギュラーを奪い、22盗塁を記録した。翌1991年には中堅手に転向。俊足強肩の1番打者として、その後の5回のリーグ優勝に大きく貢献した。1992年には33盗塁で盗塁王を獲得、1997年には初の打率3割を記録した。この間、1991年から1997年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。

 中堅手としての守備力は正に芸術的で、1993年の日本シリーズ第4戦8回表に見事なバックホームで二塁走者の生還を阻止したプレーは、日本の球史に残る名場面として現在でも語り継がれている。東京ドームで外野フェンスを蹴って(いわゆる三角跳び)ホームランボールを取りかけたこともある。また、ホームラン性の打球を捕球しようと外野フェンスによじ登る姿は、神宮球場の名物であった。

 1998年以降は自身の度重なるケガや真中満などの台頭もあって出場機会が減少。2004年にはわずか3試合の出場にとどまり戦力構想から外れたため、指導者への誘いも受けたが、新規参入した楽天に移籍し、現役を続行。2005年シーズン当初は低打率でパッとしなかったが、6月以降急上昇。徹底的に粘るしつこい打撃を見せ、まだまだ衰えていないところを見せ付けた。さすがに守備は往時の動きでなく、再三の故障で離脱も多かったが、打ではしぶとくファウルで逃げて投手を根負けさせる技術、左投手殺しの技術も冴えを見せ、沢村賞投手の杉内俊哉も打率5割超とカモにするなど更に巧味を増した。 2002年には、1994年から神宮球場に自費で少年野球選手を招待する飯田シートを設けた功績により、報知新聞社のゴールデンスピリット賞を受賞した。

 私生活ではヤクルト時代に大東めぐみとの交際を憶測されたことがあったが、目立った女性の話はこれ位で、2003年まで独身を通した。2004年正月早々にミス広島選出及びレポーター活動歴があった女性と結婚、挙式の立会い人を同期入団・同い年の内藤尚行が務めたことも話題となった。

 2006年9月16日の福岡ソフトバンクホークス戦で和田毅投手から3年ぶりの本塁打を、9月24日のヤクルト時代の宿敵西武ライオンズ戦では2本の適時打を放ち、パリーグのプレーオフ戦線をかき回す活躍で健在をアピールしたが、この活躍を置き土産に9月30日現役引退を発表した。10月1日の最終戦は1番中堅手で先発出場。9回には思わず涙する場面も見られた。裏の攻撃では、直前の打者のリックの、「飯田さん、頑張るから(必ず打席をまわすから)」との言葉に思わず涙が込み上げてきたと会見で語っている(残念ながらリックが凡退してゲームセットとなり、ネクストバッターサークルの飯田に打席は回ってこなかった)。 この年の10月19日、2007年からヤクルトの2軍外野守備走塁コーチに就任することが正式に発表された。


<タイトル・表彰>
・盗塁王1回 (1992年)
・ベストナイン(外野手部門)1回(1992年)
・ゴールデングラブ賞(外野手部門)7回 (1991〜97年)
・2002年ゴールデンスピリット賞
・オールスターゲーム出場 2回(1992〜93年)

イメージ 1

 野村克則(1973年7月23日)。大阪府豊中市生まれ。東京都出身。父は南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした野村克也、母はタレントの野村沙知代。血液型は、B型。右投げ右打ち。


<来歴・人物>
*入団前〜ヤクルト時代*
 堀越高から明治大学へ進み、2年(1993年)秋の東京六大学野球で首位打者(山下圭と同率)と打点王の二冠を獲得、ベストナインにも選ばれる。大学時代の背番号は父・克也の現役時代と同じ19番だった。1995年のドラフト会議3位指名で、克也が監督を務めるヤクルトスワローズに捕手として入団。登録名は「カツノリ」。しかし、不動の正捕手であった古田敦也の壁は厚く(それでも古田の控えとして1997年25試合、翌年の1998年も25試合に出場している)、2番手捕手の座までが精一杯であった。


*阪神時代*
 若松勉監督が就任した1999年は1軍出場なしとなってしまい、金銭トレードで2000年に父・克也が監督をしていた阪神タイガースに移籍。初年度の2000年には43試合、さらに2001年には52試合出場。サヨナラタイムリーを打ってヒーローになるなど、矢野輝弘に次ぐ控え捕手としての地位を固めつつあったが、2001年限りで克也が監督を辞任して以後はなかなか出場機会に恵まれなかった(明大の先輩である星野仙一監督が就任した2002年は11試合出場、チームが18年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした2003年は1軍出場なし)。


*巨人時代*
 2004年、金銭トレードで堀内恒夫監督が就任した読売ジャイアンツに移籍し本名の「野村克則」として新たな活動の場を求めるも、阿部慎之助の存在で出場機会に恵まれず、出場が3試合に留まりわずか1年で戦力外通告を受けた(巨人はこの年のドラフトで当時克也が監督を務めていた社会人野球シダックス野球部所属野間口貴彦の獲得を目指しており、克則の獲得は克也へのアピールだったという噂がある。なお、野間口は狙い通り巨人に入団した)。戦力外通告を受けたときは阪神・巨人からブルペン捕手・2軍バッテリーコーチといったポストの誘いを受けたが、それらを断って現役続行を望み、2005年の12球団合同トライアウトでは2打席連続ホームランを打つなど好アピール、田尾安志監督の東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団するに至った(この時の経緯はTBS『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で紹介された)。同時に登録名をカツノリに戻した。


*東北楽天時代*
 楽天での1年目は4月17日の対日本ハム戦でプロ初のクリーンナップとなる5番を打ったりもしたが、結局6試合の出場にとどまる。その年のオフに克也が楽天監督に就任し、三度克也と同じユニフォームを着ることになった。この件に関して克則の楽天入団は克也の働きかけか、という噂が立つ事があるが、今回はヤクルト・阪神の時と異なり、先に克則が入団し、後から克也が入ってくる形になっている。また、トライアウトから克則の採用を決めた当時の監督は田尾安志であり、当時シダックス監督であった野村克也の影響力が働いたとは考え難い。

 2006年シーズンは藤井彰人に次ぐ2番手捕手として、藤井がリード・打撃共に不振に陥ると、代わりにしばしばスタメンでも出場している。この件については、相変わらず親の後ろ盾を指摘する声があるが、レギュラーの藤井は外偏重のリードや打撃の好不調の波に問題を残し、河田寿司ら若手も順調な成長はあれ、欠点が目立ちまだ一軍で通用する能力ではないという事もあり、現状の「絶対的なレギュラーと二番手捕手の不在」という、球団の編成事情が少なからず影響している。また、藤井がシーズン後半辺りから急激に防御率などを向上させた事から、併用が何らかのプラスをもたらしたという見方もある。

 2006年のオールスターゲームの球団ノミネートに藤井彰人をおしのけて、初選出された。しかし、ファン投票での選出は無かった。

 2006年シーズンは元々の弱肩に加え、身体能力の衰えもあり盗塁阻止率が1割を下回り、得意と言われている打撃も指を脱臼していたためとはいえ、かろうじて1割を越える程度と不振が続いていており、楽天ファンからもブーイングを受けるほどの有様だった。当初、2007年も選手として現役続行することを表明、戦力外にはならなかったものの、最終的に自ら引退を決意した。現役最後となる10月1日の対ロッテ戦(フルスタ宮城)では、スタメンマスクをかぶりフル出場。この試合ではロッテ野手陣(平下、西岡、サブロー、青野、根元2)に6個の盗塁を許すなど、選手としての限界が来ているのは明白であった。

 現役最後の試合の後、同じく引退する飯田哲也とともに引退セレモニーが行われた。また、現役引退後に同チームの二軍バッテリーコーチに就任することが発表されたが、実績の無い人間が抜擢された(前述の様に巨人退団時にもコーチ就任の話は来ていたことがあるが)として来シーズンのチーム成績に注目が集まっている。

 プロの野球選手としての能力は残念ながら水準以下である。それでも長きに渡って、プロに在籍していられたのは、努力家でチームメイトにも友好的な本人の人柄と偉大な父親の影響が大きい。事実、戦力外となるたびに野村が監督を務める球団に移籍を繰り返すなど、批判的に見る目もある。だが、楽天時代には特に明治大学の後輩にあたる一場、辻竜太郎の練習に付き合い、食事をおごる等よく面倒を見ていた。2005年に一場が二軍落ちを経験し、落ち込んでいた時などはほぼ付きっきりであったという(一場は後のカツノリの引退セレモニーで涙を流した)。

 2005年のトライアウトで一度解雇された小倉恒の獲得を父克也に進言している。ヤクルト時代等にも二軍選手を度々克也に推挙しているところを見るに、選手を見る目は父親譲りであるようだ。その後、小倉は楽天のリリーフエース、ストッパーとして素晴らしい成績を残している。


*現在*
 2006年10月9日、球団より新設された二軍育成コーチ(バッテリー担当)に就任することが発表された。背番号は73に決定。なお登録名は「カツノリ」ではなく本名となった。育成コーチについては他に永池恭男が野手担当、高村祐が投手担当となった。


<通算成績>
222試合 356打数 66安打 打率.185 4本塁打 17打点 盗塁1

イメージ 1

<横浜・万永が今季限りで引退>  2006年10月6日(金) 18時31分 時事通信

 横浜は、万永貴司内野手(32)が今季限りで現役を引退すると発表した。万永は中山製鋼から1994年に横浜に入団。今季が13年目で、通算517試合に出場して打率2割3分7厘、5本塁打、35打点。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 万永貴司(1972年7月7日)はプロ野球・横浜ベイスターズに所属していた元プロ野球選手で現在は同球団のコーチ。内野守備のスペシャリスト、球場でも私生活でも、内野を共に守る事の多い種田仁と仲が良い。


<略歴>
1992年 日本生命の補強選手として出場した都市対抗野球で優勝。
1993年 ドラフト6位で中山製鋼所から横浜ベイスターズに入団。
1995年 プロ入り第1号ホームランを今中慎二投手から放つ。
1997年 プロ野球脱税事件に関わり、翌年の開幕から4週間の出場停止処分を受けた。
2006年9月30日 今季13年目での引退が明らかになり、10月6日に正式発表。10月9日の対広島戦が引退試合になった。最終打席はマイク・ロマノの前に三振に倒れた。
2007年 横浜の2軍、湘南シーレックスの内野守備走塁コーチに就任。


<プロフィール>
・出身地:兵庫県
・身長/体重:170cm/75kg
・血液型:A型
・投打:右投右打
・球歴:姫路工高−中山製鋼所−横浜(93〜)
・指名順位/年度:6位/1993年
・守備位置:二塁・三塁・遊撃


<個人記録>
・初出場:1994年8月9日の対巨人戦に代走で。
・初安打:同上、香田勲男投手から。
・初本塁打:1995年8月1日の対中日戦で今中慎二投手から。
・初打点:初出場と同じ。
・初盗塁:1995年4月20日の対阪神戦で。


<アマチュア時代の戦績・記録>
1990年:全国高等学校野球選手権大会兵庫県大会5回戦敗退
1992年:都市対抗野球優勝(日本生命の補強選手。中山製鋼所としての出場ではない)
1993年:都市対抗野球ベスト8(同上)

イメージ 1

<巨人>大西外野手が現役引退を表明
2006年10月4日(水) 18時33分 毎日新聞

 大西崇之外野手(35)が現役引退を表明。95年に中日に入団し、今季から巨人でプレー。「35歳までプロでやれるとは思っていなかった。(現役生活は)100点です」と振り返った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<来歴・人物>
 大西 崇之(おおにし たかゆき、1971年7月2日)。ヤオハンジャパンから1994年ドラフト6位で中日ドラゴンズに指名され入団。入団当初は「非力な選手」という印象で大きな期待はなかった。しかし、持ち前の走力、守備力、肩は既に一級品であったことや星野仙一監督好みのガッツの良さで一軍に顔を出し始める。4年目の1998年から代走・守備固めとして数多く起用され95試合に出場。翌年から出場機会が減少し年齢的にも成長は望み薄かと思われたが、2002年から課題だった打撃が急成長。プロ入り初めて3割をマークし、後半はほぼレギュラーを手中にした。翌2003年も勢いは衰えず、打席数を増やしながら2年続けての3割キープ。ここに来てよもやの急成長を見せ付けた。5月にはホームランを連発するなど意外な一面も見せた。ここ一番での勝負強いバッティングはチームになくてはならない存在になった。

 しぶとい打撃を身につけ、守備力も堅実でスーパーサブとしての確固たる地位も確立する。30での台頭で、レギュラーにもグッと近づいた。しかし2004年はオープン戦でこそ好調だったが、開幕を井上一樹に奪われると一転不振。肝心の打撃で低迷し一度は抜き去った井上や英智に印象を食われた感が強い。但し、この年の日本シリーズの第2戦で立浪の同点ホームランを呼ぶきっかけとなった内野安打を放っている。2005年は開幕から長らく二軍生活が続いたものの、一軍昇格後は代打として活躍し得点圏打率4割以上と良績を残した。しかし、控え選手は川相昌弘、渡邉博幸、井上一樹、柳沢裕一と高齢化したこともあり若返りを計りたい落合監督の戦力構想から外れ、トレード要員となり巨人の原辰徳監督の強い要望で同年オフに金銭トレードで巨人に移籍。背番号は00番。

 また、98年横浜優勝時の大魔神・佐々木主浩に、その年唯一の本塁打を浴びせたのが、この大西である。ちなみにその年の佐々木の防御率は0.64なので、本塁打を打ったことは本当に素晴らしいことである。

 過去には代打でかなりの好成績も残している。子供のような顔立ちをしておりベンチではムードメーカー的役割もこなす。妻は女子プロゴルファーの坂上晴美。

 2006年10月4日に引退を表明。「体が小さいし、プロ入りした時この年齢までやれるとは夢にも思わなかった。完全燃焼した」と述べた。2007年からは巨人のスカウトに転身。


<略歴>
・身長・体重:176cm、73kg
・投打:右/右
・出身地:大阪府東大阪市
・血液型:AB
・球歴・入団経緯:東大阪リトルリーグ → 大阪桐蔭高 → 鹿児島商工(現:樟南) → 亜細亜大学(中退) → 天城ベースボールクラブ → ヤオハンジャパン → 中日ドラゴンズ → 読売ジャイアンツ
・プロ入り年度・順位:1994年(6位指名)


<通算成績>(2004年シーズン終了時)
・654試合 打率.279(打数974打数272安打)18本塁打 96打点 46盗塁


<エピソード>
 リトルリーグ時代のチームメイトには種田仁,大阪桐蔭高等学校の1つ先輩に今中慎二,転校した鹿児島商工高等学校には吉鶴憲治,中退した亜細亜大学の3つ先輩には小池秀郎,とプロ入り前は後に中日でともにプレーする選手とチームメイトだった。

 2000年5月6日の中日-横浜戦で中日の立浪和義が橘高淳球審のストライク判定に不服を唱えて揉み合いになり、暴行を理由に退場処分を受けた。この際に(止めに入った大西に橘高の手が当たった、或いは判定に加えて橘高が「この二流選手が!」と発言したなどの理由が言われている)大西が激昂し飛び蹴りを叩き込んで肋骨を骨折させるという事件を起こした。その結果、当時の星野監督、立浪とともに制裁金・出場停止処分を受けることとなる。審判を負傷させたためか、大西への処分は最も重いものだった。

 このとき観戦していたファンから送られてきた「子供が見ていたんです!」という主旨の手紙を、自戒の意味を込めて大事に保管しているという(2003年の中日スポーツコラム・ドラ番記者より)

  中日ではナゴヤドーム4階席に控え選手にも拘らず、大西シートがあった(2005年シーズンまで)

 2005年オフに巨人に移籍。背番号は同シーズン限りで現役を退いた後藤孝志が付けていた00番に決まった。その際、それまで接点のなかった後藤に電話をし「先輩の背番号に恥じないように頑張りたい」と話したらしい。

 中日時代のチームメイトにして外野レギュラーの座を争った井上一樹とは同級生。高校時代は鹿児島県大会で戦った間柄である。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]


.
g13**8420*2
g13**8420*2
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事