* 以前、岐阜飛行場のある各務原台地は”近世まで原野が広がっていて、人が住んだ形跡が あまりない”と聞いたことがありました。 * それがこの記事によってより詳しく知ることができました。 * 岐阜飛行場は、現在(航空自衛隊岐阜基地)毎年秋に航空祭が行われています。 ★1919年(大正8年)フランス航空団が飛行術指導で訪れた際、旧陸軍が撮影した 1冊のアルバムの中にある空撮写真 東西に延びる中山道周辺に建物が点在するのみ ★現在の飛行場(航空自衛隊岐阜基地)の様子 Google mapより 岐阜基地HPより 航空自衛隊岐阜基地 (岐阜県各務原市那加官有地無番地 地図) http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%B3%C6%CC%B3%B8%B6%BB%D4%C6%E1%B2%C3&lat=35.38812&lon=136.87102278&type=&gov=21213.111 << 記事内容 >> 黒船来航で原野”変身” * 現存する飛行場として国内で最も古い岐阜飛行場は1917年(大正6年)6月に開設され、 昨年90周年を迎えた。 * 各務原台地の4分の1にあたる4万平方メートルを占め、50年前から航空自衛隊岐阜基地が 置かれる。 * 飛行場の起源には、江戸末期に意外な理由があった。 * 飛行場の前進は、1876(明治9年)年に設けられた旧陸軍の大砲演習場。 飛行場南西の三井山(標高108M)を標的に、約3Km離れた場所から射撃訓練を していたという。(中略) * 各務原史をひもとくと、この地域を治めた旗本〈坪内嘉兵衛定 1809〜60〉が 嘉永年間(1848〜54年)、外国船打ち払いのための大砲稽古場にさせてほしいと幕府に 願い出た。 ペリーが来航したのが嘉永6年(1853年)まさに同じ時期である。(中略) * 坪内氏とは加賀守護、富樫氏の出自で、16世紀前半に尾張へ移った一族。 * 関が原の戦いで徳川方につき、鉄砲隊を率いて活躍。旗本として鉄砲頭の地位を与えられ、 現在の岐南町平島から各務原市前渡(まえど)にわたる6500石を本家と三分家が分けて 治めた。(中略) * 幕藩体制が揺らぎ。また諸外国の外圧が高まり、「ようやく自分の出番が来た」と 奮起した様子が史料から読み取れる。(中略) * 各務原台地は火山灰が積もった酸性土の土壌で、水の便が悪かった。 長良川を水源とする各務用水が1890(明治23年)年に完成するまで田畑は少なく まぐさ刈りの入会地としてしか使われていなかった。 |
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以前、しばしばこの近くを車で通ったことがあります。
上から見ると、こんな感じなんですね。
また、変なところに驚いたりするんですが、、なんに驚いたって・・・・130年も前の 大砲の弾が 3キロも飛んだなんて・・・・ビックリしません?
2008/1/28(月) 午後 10:35
十勝の歴史の始まりが、明治の10年過ぎからです。
その頃に大砲の演習場…歴史の違いを感じています^^
2008/1/29(火) 午前 8:58
kanoさん、歴史に関心のない普通の人なら、そうか自衛隊の飛行場の始まりはこうなのか、で済ませてしまうのでしょうが、なかなか、奥深くまで考えさせますね。多分、飛行場の滑走路など、造成工事のときに、考古学が発達していたら、面白い見方もできたかも。何分、各務原台地の4分の1も削ったのだから。この火山灰地は、いつの時代、どこの山が噴火したときに積もった灰で、どれくらいの厚みで積もっているのでしょう。きっと調査資料があるでしょう。そして、その台地のどの層に人々は住んだことがあるのかも興味を惹かれます。遺跡は破壊されたら調査する手がかりがなくなる。古文書が焼けたらお仕舞というのよりは、何らかの残滓は残るのでましでしょうが。各務原台地に更に興味が沸きます。先般の地図と、空港に関係も知りたいですね。
2008/1/29(火) 午後 0:18
歴史を紐解くと面白いですね。
今は元気のある町ですね。
2008/1/29(火) 午後 0:39
私は興味深いと思っていたことに戦後進駐軍は沖縄の前に那加に駐屯していたということです。
なぜか?調べたわけではないですがもしかしたらこのあたりのそれまでの国防という歴史に関係しているのかも?って記事を拝見し推測しました。
二次大戦中関市田原という場所に日本軍は基地空港を作ろうとしていたと亡くなった祖母から聞かされた事があります。実際に測量までしていたらしいですが終戦になったらしいです。
2008/1/29(火) 午後 8:25
こちらにも宇佐航空隊があったけど、こんな深く追求したこと
は無いです。歴史でも戦国時代は大好きです。
あ〜っ、金華山城をこの目で…^^;
2008/1/29(火) 午後 8:56
はるくん、近くを通ったことがあるのはなんだか嬉しくなりました。
え〜っと・・・射撃練習に3Km離れた三井山 *めがけて* 訓練したのだから、本当に3Kmも飛んだのでしょうか???本当に飛んでいたらスゴイですね!。想像で音が聞こえてきそうです。
2008/1/30(水) 午前 10:34
北おやじさん、十勝の歴史って明治に入ってからなのですね。
それまで本当に原野だったのですね。
2008/1/30(水) 午前 10:54
スーさん、なんだか元気のある町と広報していますね。公園が増えました。今年もまた公園ができます・・・・。
2008/1/30(水) 午後 8:48
赤影さんのコメント参考になります。
私も祖父や祖母にもっとこの頃の話を聞きたかったです
2008/1/30(水) 午後 8:51
ボンバーさん、戦国時代はよくNHKの大河ドラマに登場しますね
金華山の頂上にある岐阜城、私がやまのふもとで写した写真があります。かなりぼやけていますがよろしかったらご覧ください
http://blogs.yahoo.co.jp/g2lens_kaji3/26874196.html
2008/1/30(水) 午後 9:09
そうですか。すると、飛行場建設の時に、台地を削ってしまっている。縄文人、弥生人など有史以前の人たちはどこに住んでいたのでしょう。河岸段丘の広いところかな。飛行場の建設位置に、河岸段丘なり、自然の緩やかな台地はなかったのかどうか。各務原台地の歴史は、飛行場建設以前の土地の状況を検討しないと、判らないことになりそうですね。大規模な開発、すなわち大規模な破壊の恐さですね。
2008/1/31(木) 午前 3:41
kodaizinさんのいわれている意味がわかりました。いつもkodaizinさんが気をかけて大切に感じている部分ですね。
写真2枚目の滑走路を東に1,2Kmに県指定文化財の炉畑遺跡(縄文中期)があります。その南や滑走路南側は段丘面へと続いて行って、多くの遺跡が点在しています。
そういうこと考えると、岐阜飛行場を造ったとき本当に遺跡が全くなかったのかって疑問にも思えてきます。
2008/2/1(金) 午後 4:28
大規模な開発が行われると、もう、復元不可能ですし、今後、各務原台地の遺跡については、残念ながら、遺された遺跡を調べても、あくまでも、全体を語り得ないし、全体を語るときは想像の域をでないことになります。よしんば、飛行場の場所に、遺跡がひとつもなかったとしても、それも確定できないわけです。それをどのように補っいながら、台地全体の遺跡の展開を考えていくか、それは今後、考古学関係者に課された条件になります。遺跡発掘を1つ1つやって報告書を書くのも大切なのですが、それに加え、全体を見ながら、それぞれの時代の人々の生活のパワーを推し量らないといけない時代に入ってきていると思うのです。地道な表面採集をしないといけないと考古学の原則論を唱えても、この越後・蒲原でもなかなか理解できる人は少ないですね。
2008/2/5(火) 午前 3:49
もっとも、飛行場を建設したころは、日本で考古学的な発想がなかった時代ですから、誰を責めることもできないことです。役所の担当者と考古学に興味のある市民が今後、補足する詳細な調査を重ねていくことが重要だと思います。
2008/2/5(火) 午前 3:53