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読書感想文

『火花』を読んで

 今回の課題図書は、又吉直樹著『火花』である。芥川賞で話題になっていたことは知っていたが、実際に読んだのはこれが初めてだ。
 私は一応、笑いの国とされている大阪出身である。いろいろな人からよく指摘されるところであるが、大阪は笑いに関して暗黙の了解みたいなものがある場所だという。私も実際にそう思う。
 会話をするときには「ぼけ」と「つっこみ」がいなくてはならない。ぼけられたらつっこまなければいけない。ただし、突拍子もないぼけに対して常識的でつまらない内容のつっこみをする者は最低である。会話にはかならず「オチ」が要求される。相手に指で撃つ振りをされたら、苦しむか死ぬふりをしなければならない。うっかり転んだところを誰かに見られたとして、恥ずかしいとか気まずいと思うよりもまずは笑いをとれる気のきいたことを言わなければいけない。もちろんごちゃごちゃとこんなことを一々頭の中で考えて生活しているわけではない。しかし、何かがしみついてしまっていて、子供のころから大阪の人間はそういう行動が自然にできてしまう。生活しているだけで漫才のような会話が成り立つ。気のきいた返し方ができる人間は年齢や性別は関係なく一目置かれる。
 余談だが、私はその辺のやりとりがうまくなくて、友人たちには大阪人のにせもの扱いをされていた。
 さて、父から聞いた話だが、父の職場である日、部下の女性職員がキャスターつきの椅子に座ろうとしたところ、椅子が後ろに滑って床に思い切り尻餅をついてしまい、どすんという大きな音と悲鳴ともに事務所中の注目を集めたという。しんと静まり返った事務所で皆に一斉に注目される中、彼女は一言「この椅子生きとるわ!」と叫んだ。余りに秀逸な言葉過ぎて、職場中の人間が笑ったそうだ。転んだ彼女ももちろん笑った。父のようにこの話を周囲の人に話して笑わせた人はたくさんいるだろうし、私のようにその話を聞かされて笑った人間もたくさんいるだろう。そうやって笑いをとれる人間は、すごい奴だと評価されるのが大阪なのだ。
 にせものの大阪人扱いされていても、一応はそういう場所で育ったので、何となくこの話に流れる雰囲気だったり、一見意味不明に思えるやりとりや笑いについて語るシーンは、ああ、こういうのはちょっとわかる気がすると思いながらこの話を読んだ。
 この話に出てくる神谷という芸人は、もとは大阪で活動していたという。お笑いをできる人は偉いという認識が無意識に皆にある土地、大阪。そして、ふだんから息をするように多くの人間が漫才的なやりとりをしている土地、大阪。神谷の持論の、全ての人間は生まれながらにして漫才師であるという持論は、大阪で活動していたことも関係しているのかもしれない。しかし、日常的に漫才のようなやりとりをしているといっても、実際に漫才師になるとかそれを飯の種にするというのはまた別である。
 大阪人の会話が長いとかよく言われるけれども、あれはその漫才師体質が一役買っていると個人的に思う。要するに彼らの会話は、自分たちだけが楽しいだらだらと終わりがない漫才のようなものだ。一般人の会話は、一応ぼけとつっこみがあって漫才として見られないこともない。しかし、それは内輪でしか通じない話だったり、「オチ」がないだらだらした応酬が続いているだけだったりして、楽しいのは結局話している2人だけであることが多い。漫才師は2人の会話を周囲の人間に聞かせなければならないし、みんなが笑えるようなことを言わなければいけないし、会話の切れだとか「オチ」も要求される。大阪の場合、観客は笑いには目が肥えている人ばかりなので、センスがない者は全く相手にされない。
 漫才師になることは恐ろしく難しい。そういう中で、どうして漫才師やお笑い芸人になろうという人がいるのだろうか。人を笑わせることにこだわるのだろうか。
 神谷という人は、この世界でしか生きていけないような人である。笑いというものに対して恐ろしい執念や哲学のようなものを持っているけれども、売れていない。反対に、一瞬だけ登場する鹿谷という芸人は観客に大受けしているシーンがある。
 神谷の会話や主人公とのやりとりから思うに、神谷の言葉は一般受けしなさそうだ。何というか彼自身の感性も笑いに対する姿勢も天然物なのに、その言葉は人工のものっぽいという奇妙な感じがする。主人公とのやりとりでも、神谷の言葉は果てしなく自分たちだけが楽しい大阪人の会話の延長のような印象を受けた。わかれば、あるいは主人公のようにはまれば楽しいかもしれないけれども、少なくとも私は楽しくない。おもしろいとは思わない。聞きたいとも思わない。笑わせたいと思っているのは伝わってくるけれども、聞いていてとても苦しくなる。
 対照的に鹿谷のほうは、その登場時の会話や振る舞いを読んで、私はまず、冒頭に述べた椅子に座り損ねて尻餅をついた彼女を思い浮かべた。一定の割合で、どんなときでも何も考えずにそういう気のきいたことが言えてしまう人間がいるのは確かだと思う。聞こうとはちっとも思っていないのに、ただの一言がすぱんと耳に入ってきて、それがはまってつい笑ってしまう。笑わせようとしているときも、していないときも、人を笑わせることが言える。そういう人間にはなろうとしてなれるものではない。
 それを思った瞬間、とても無慈悲で歴然とした差を感じて背筋が寒くなった。それでもこの世界から離れられない神谷だが、結局どうしてそこまで笑いということにこだわるのか、私には理解できない。どうして漫才師やお笑い芸人になろうという人がいるのだろうか、人を笑わせることにこだわるのだろうか。笑いというものに対する執念は一体どうして生まれるのか。結局その答えは私の中では見つからなかったし、考えたくもなかった。そういうところが、私がにせものの大阪人と言われる理由の一つなのかもしれない。

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 今回の課題図書は、奥田英朗著の『イン・ザ・プール』である。この方は直木賞受賞作家で若い人にも結構人気らしい。
 この本は次作の『空中ブランコ』とあわせて、高校生のときに学校の図書館で借りて一度読んだことがあったので、懐かしい気持ちで読み直した。恐らく内容が短編集で読みやすいこと、どちらかというとかた苦しくない中身から高校の図書館に置いてあったのかもしれない。
 内容は、とても医者とは思えない精神科医が心に起因する病気を抱えたさまざまな患者と出会うというものである。この医者自身は、患者に対して診察はするのだが、精神科医と聞いて誰もが思い浮かべるようなカウンセリングや治療はしない。ただ患者の話を聞いて感想や自分がしたいことを述べるだけで、本当にこれが医者なのかと患者から疑われもする。彼と接しているうちに患者は怒ったり呆れたり、その自由なところを少しうらやましいと思ったりしているうちに、最終的にはどこかで吹っ切れてしまうというような筋書だ。
 ここで注意したいことは、患者たちが抱える神経症状の原因となった環境や事象、ストレス要因が根本的に変わったということはほとんどないということだ。変わったのは患者の心の持ちようだけで、それもほんの少しだけのことである。行動が変わったといっても、今までずっと気にしていた何かをちょっとやめてみたぐらいのことだ。患者にとっては重大なことでも、こちらにとってはどうでもいいような小さなことだったりする。
 個人的なことだけれども、現実とは思っているよりもずっと何でもないものなのだといつも思っている。もちろん同じ場所で同じものを見たり聞いたりしても、人それぞれで考え方も思うことも、とる行動も全く違う。悩むこともたくさんあるし、これがなくてはだめだとか生きていけないとか、気になって仕方がないというこだわりもあるだろう。それがどんなにくだらなく見える思いや行動でも、その人にとっては大事なことで真剣なのだから、外からいろいろと言えることはない。やめろとかいけないことだなどとは言えない。
 しかし、どれだけ自分が考えていることや気にしていることがあったところで、得てしてそれらは何でもないものである。こんなことが言えるのは多分、人生でまだどうしようもないぐらい絶望するような事態に陥ったことがないからか、あるいは抱えるものが少ない気楽な身の上だからかもしれないが、かなり強くそう思う。毎日絶対にプールに行かないと苦しいとか、友達と四六時中連絡がとれなければ苦痛で携帯が手放せないとか、この話にあるような深刻なケースでなくても何かこだわったり当たり前のように続けていること、それをしないと決まりが悪いことがあったとして、ふと時間を置いたり何かのきっかけでそれから離れてみると、どうしてそこまで必死だったのかなと後で思うことは割と多いのではないか。
 別に本人が思うほど世間はこちらのことを気にしていない。気にされたとしても世間の大多数は自分とはかかわりのない人だし、自分の目の前にいる相手だってそれぞれの人生がある。幾ら自分が苦しくて、こう見せたい、こう思われたい、こうしたい、こうしてほしい、わかってもらいたい、我慢していることに気づいてほしいと思ったところで別に気になどされない。薄情かもしれないがそんなものだ。例えば現状がとても苦しかったとして、極端な例を挙げれば会社をやめてみたところで自分がいなくても会社は別に困らない、登校拒否をしてみたところでクラスメートは別にこちらを心配などしていない、こちらが苦しいとか心配してほしいと思って訴え、あなたのために何かしているのだとアピールしてみたところで、別に何かが変わるわけでもない。どうしたところであしたという日は来るし、それぞれの人生でそれぞれの時間は進む。現実とはどんなに苦しいことがあったとしてもその実は何でもないものばかりなのである。
 しかし、裏を返せば好きなように周囲の視線を気にせず振る舞ったところで、意外に大丈夫だということでもある。もちろん良識だとか、道徳や法律などを守ることはある程度必要だろうし、この話の精神科医ほど突き抜けては困るだろう。そこら辺の線引きが難しいけれども昔に比べていいところは、いろいろな性質の人がいるということは普通のことだという認識が当たり前になってきたことかなと思う。そんなわけで、こちらが気にしているほど世間の目は優しくないかわりにきつくもない。うまくいかない相手もいるだろうし、優しくしてくれる人も中にはいるだろう。苦しいと思った仕事に見切りをつけてもっと自分に合った仕事を見つけることに注力したっていいし、気が進まないおつき合いも行きたくなければ行かなくても構わない。不義理だ非常識だと多少いろいろ言われたところで特に何もどうにもならない。突き詰めて考えれば、確かにいろいろなことが世の中にあるけれども、それはただの事象でつまるところいいことでも悪いことでも何でもない。
 そんな中で、これをしなければ自分はだめになるとか、誰かに嫌われるかもしれないから我慢しなければならないとか、確かに他者に対する思いやりは必要だけれども行き過ぎた制約を自分に課してこちらが苦しくなっていたらもったいないのではないか。知らないうちに自分を押さえつけて苦しくなっていることがあるのではないか。ほんの少しだけ身軽になれるかもしれない要素があるのではないか。
 この話を読むとそういう気分が少しクローズアップされて、わずかながらもこちらの心の持ちようも変わるのではないか、そう思えるところがこの話の人気の理由かなと少し思った。

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 今回の課題図書は、梶山三郎著『トヨトミの野望』である。
 完全に余談ではあるのだが、今回、初めて私は読書感想文のために本を買った。今まではずっと近くの図書館を利用していたのだが、今回はそれができなかった。図書館の端末で調べてみた結果、貸し出し待ちの予約件数が何と14件も入っていて、これではとても期日までに借りることはできないため、結局買わざるを得なかったのである。
 それだけ社会的に注目されている本であることがうかがえるので、興味津々で読み始めた。経済にそれほど詳しくない人でも、トヨトミ自動車のモデルは日本の自動車メーカーを代表するあの企業だなと絶対に気づくだろう。登場人物も明確なモデルが特定できるほどの書かれ方をしているそうだ。
 さて、この話であるが、経済に明るくない私でも相当わかりやすく、世間で話題になった事件だったり過去の経済事情をかみ砕いていろいろなことが書いてある。しかもおもしろい。あのとき実はこんな事情があったのだと思わず納得してしまいそうな、裏での根回しだったり時代錯誤なお家事情だったり、妙に生々しい描写ばかりで、人々が話題にするのもわかる気がする。
 個人的には、ある程度の事実がモデルだとして、よくできたフィクションだと思う。なぜかというと、この話はすごくあらすじがわかりやすくはっきりしているからだ。仕事柄、不祥事の後始末だったり事件の検証作業の一端にかかわることがまれにあるのだけれども、結局何がどうしてそうなったのかだとか、誰がどんな思いでどういう行動をとったのかだとか、後から真実を検証することは難しいといつも感じている。たとえ自分のことであってもそのとき何があったのかは思い出せないほうが多いし、その当時考えていたことを後から思い返すと必ず無意識のうちにゆがんでしまう。同じことを経験したはずの当時者同士で認識が食い違うことも珍しくない。また、団体ともなると往々にして構成員が一枚岩ではないため、あのとき本当は何が起きていたとか、この団体はどういう思惑で行動していたのだとか、その行動原理や組織内の動き、命令系統ですら意外に整理できず明確にならないものである。そういうわけで、もちろん失敗を繰り返さないためにも検証はとても重要だけれども、誰もが納得する明確な形で真実を明らかにするというのはまず不可能なのではないかと実は思っている。
 検証作業やヒアリングの中で、誰が何をしていたのか、どういう思いでいたのかを正確に引き出すだけでも至難のわざなのに、さらにそれを整理することは非常に難しい。ノンフィクションの取材でも似たようなものではないか。仮に全員分の正確な証言がとれたとして、それをこの話のようにわかりやすく理路整然とまとめようとしても、特にこの現代、関係者の数も情報量も昔とは比べ物にならない中では、一人の人間の処理能力を超えていて不可能だと思う。それこそAIの力をかりたいところだ。
 この本を書いたのは自動車業界関連のジャーナリストらしいという話で、確かに知識と立場がある人間でなければこういう話は書けないと思う。しかし、その引き出した話は相当整理されたと思うし、多分、書く途中で切り捨てたり、簡略化、誇張などをしている部分は相当あると思う。この話を書くに当たって全部調べたことを書いたとしたら、きっとわけがわからない、読んでもつまらない話になったはずだ。確かに事実がモデルなのだけれども、適度にデフォルメされてわかりやすく、しかし真実っぽく生々しく見える。結果的にとてもおもしろいというすごい話である。
 では、そんな話の中で一番伝えたいことは何なのか。かなり日本の自動車産業や経済界を皮肉ったような話が目立つけれども、単純に家族経営はだめだとか経営者が無能だったらどんなに大企業でも沈むとか、そういうことではない。
 筆者自身も述べていることだそうだけれども、日本の自動車産業は今、危ないということ、世界の波に乗りおくれればどこにも未来はないということだと思う。もしかしなくても自動車産業だけに限らないかもしれない。現在、個人の力では処理どころか認識すら不可能なほどの金も物も情報もあふれている世の中である。大きくなれば大きくなるほど、その流れに敏感でなければ生き残れない。世界の後を追うだけでは、そして過去の実績で手にした場所で安心しているようではだめなのだ。
 結局最後には、日本でしか絶対に起きないような結末が待っている。創業者一族の旗のもとに結集して新しい時代の先陣を切り、大きな夢を実現させるという、まるで戦国時代のような文句の終わり方である。ばかみたいだと笑えるかもしれないけれども、それを力にして今までさまざまなことを実現してきているのは確かな話で、現在に至るまでそのDNAはずっと受け継がれてきているので単純には笑えない。
 日本人が世界で戦うとして、どういう方向でモチベーションを上げ、危機に遭っても踏ん張ろうと思うのだとか、どういうときに最も底力を発揮するのかと言われたら、このやり方は確かにほかの国にはできなさそうだ。少なくとも一企業でこんなことが起こるのは日本ぐらいだろう。時代錯誤のサムライ、ハラキリ、カミカゼだとか何だとかやゆされそうだけれども、日本人は腹をくくってからが正念場で、それまでの火つきは悪いがよくも悪くも開き直ってからが勝負で、危機管理にしても外交にしても情報戦にしても、予想外の動きを見せる。トヨトミもまた同じように、そうなるかもしれないという可能性がこの話の結論では示唆されているように見える。
 現代の誰もがはっきりしない世の中、自分に都合のいいことばかりを見て停滞し、ガラパゴスになって取り残されているのでは未来はない。さっさと真実を見据えて腹をくくれ、行きつく先は天国か地獄か知らないけれども、このままだとただジリ貧で沈むだけだ。自分たちが頑張ろうと思ったら、武器はもうそれしかないだろう。そういう危機感をリアリティーこの上なく持って伝えている非常に怖い話だなというのが、最後に思ったところである。

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「友情」を読んで

 今回の課題図書は、武者小路実篤著『友情』である。
 タイトルこそ友情であるが、主人公と親友の友情と同じくらい大きな柱となるテーマは、ヒロインをめぐる恋の模様となる。
 冒頭に、作者のメッセージで「失恋するものも万歳、結婚する者も万歳と云っておこう」とあるので、どちらかというと友情よりも恋のほうが主軸なのではないかと感じてしまう。調べると、実際にこれから結婚したり失恋したりする若い人を祝福し、また、力づけたくて書いたという実篤の言葉があるそうなので、友情も恋もひっくるめて若い人たちの心と力をうたった、若い人たちのための小説なのだろう。
 さて、この話の最初の感想は、若い青春とはこんな感じなのかなあとぼんやり思ったぐらいである。特に恋愛のことについては、ここまで強烈に誰かを好きになったり好かれたりしたことがないからか、主人公がヒロインに対する思いをつづっているところなどは、何でそう思うのか、好きだと思えるのか、そこまで思い詰めるのかと考えながらほとんど読み流してしまった。
 だけれども、よくわかることもそれなりにある。ヒロインが、主人公とは死んでも結婚しないと述べるところである。どれだけ好かれても、優しくされ、尽くされても、いい人だと思っても、絶対にこの人は恋愛的な意味では好きになれないという場合があるということだ。いい人なのにどうしてかと言われても、神経の問題としか言えないとヒロインが述べているが、本当にそうである。そういう心の気持ちがあることはとてもよくわかる。
 理由は特になくて、主人公がヒロインでなければ結婚するのは絶対に嫌だ、彼女ほどのすばらしい女性はいないと思ったのと同じぐらい深い気持ちで、この人とは恋愛はできない、いい人だと思うけれどもそういう意味では好きにはなれないと思う直感めいた何かを感じることが確かにある。
 だからこそヒロインが後半に出てくる主人公のことをめちゃくちゃに書いていても、そちらのほうの気持ちはすごくわかるなあと思う。どうしても好きになれない相手というのは、今までの人生でないこともなかったからである。では、どうして主人公の友人のほうを反対に理由もなく熱烈に好きなのか、その気持ちがわかるかと言われると、それはぴんと来ない。しかし、人を好きになるには理由は当人もわからないものだろう。
 作中の描写から、主人公はいい人だと周囲に評価されているようだ。考え方だったり行動だったりを見ていると、私は彼のことが好きになれないし、いま一つ彼に共感できないが、友人は主人公のことをなぜか人柄も才能もすごく買っているようである。どうしてそこまでこの2人の間に強い友情があるのか、わからないと言ってしまえばそれまでであるけれども、他人に対し、どうしてその人と仲よくするのか、あの人が嫌いなのかとあれこれ聞いたり考えたりするだけ余計なお世話である。
 余談だが、現代においては人の脳や心の研究も進み、人間はフェネチルアミンというホルモンが脳内で分泌された瞬間、恋に落ちるという仕組みが解明されているそうだ。ちなみにこのホルモンは覚醒剤と組成がほぼ同じらしい。出会ってすぐに恋に落ちるという現象は、脳内でフェネチルアミンが分泌された状態であると言いかえることができる。
 もちろん、友情を初め、その他の感情だったり行動だったり、何もかも突き詰めてしまえば脳内のホルモンバランスのかげんが原因であることは言うまでもない。しかし、そこまでわかっているけれども、結局何がきっかけでそのフェネチルアミン初め脳内のホルモンの分泌が促されるのかはいまだにはっきりわかっていない。10人の人間に出会ったとして、なぜこのうちの一人にだけ脳が反応してフェネチルアミンを出す、いわゆる一目ぼれという現象が生じるのか、大勢の中から一人だけに友情を感じるのか、いろいろ研究されてはいるものの、そのメカニズムはいまだに謎の部分が多いそうだ。
 そういうわけなので、どうしてもこの人がいい、とヒロインや主人公が恋をしたり、友情を感じたりしていても、なぜかと言われたところで答えられない。好きになるときはどうしようもなく好きになるし、嫌いなものは嫌い、好きになれないものはどう頑張ったところで好きになれない。うまくいかないときはうまくいかないし、ついているときはついている。
 自分でもどうにもならないことに腹を据えて向き合うかもしれないし、逃げ出して忘れようとするかもしれないし、人それぞれいろいろあるだろうけれども、結局なるようにしかならないものだ。
 主人公が最後に送られた仮面をたたき割った後の最後の独白を読み終えた後、個人的にはここからどうなるのかなと少し気になった。しかし、冒頭の実篤の自序を改めて見れば、結婚がうまくいかなかったから悪いことだとか、友情が壊れるとか、そのようなことは書いていない。主人公のその後、もしもの可能性を幾つか述べた上で「失恋するものも万歳、結婚する者も万歳と云っておこう」と結んでいる。
 結局自分の気持ちも他人の気持ちも思うようにならないことのほうが多い中で、どうやってもなるようにしかならないのだなというのが、この話を読み終えて、最後にとても強く思ったことである。
 

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 今回の課題図書は、ジョルジュ・ローデンバッグ著『死の都ブリュージュ』である。19世紀の詩人が書いた作品なので、かなり古い。年代的に言えば、日本だと福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書いたころぐらいではないだろうか。ちなみに19世紀というと、リラダンというフランスの作家がSF小説の『未来のイヴ』を発表しているが、その作品には何とアンドロイドという言葉が出てくる。物すごい想像力である。ほかにはジュール・ヴェルヌが原子力潜水艦ノーチラス号の活躍する『海底二万里』を書いたのもたしか19世紀なので、日本が文明開化でにぎわっているころには、西欧ははるかその先に向かって想像力を働かせていたのだなという感想しか出てこない。19世紀だから古い作品だといっても油断できないはずだと思って読んでみると、やはり相当怖い作品だった。
 最愛の妻を亡くした主人公が妻にそっくりなダンサーの女性に偶然出会い、徐々に彼女にのめり込み、亡き妻と同じ格好をさせたりしてその面影を追う。しかし、彼女は優しい心の持ち主だった妻と外見だけは同じでも、内面のほうは似ても似つかないほど自分勝手で思いやりのない女である。その落差に耐え切れなくなって、最後には破局する。
 安直ではあるけれども、読んだときにまず思い出したのはヒッチコックの映画『めまい』だった。あちらのほうがまだ女性がけなげであるけれども、筋書きは相当似ている。正直なところを言うと、読後感があの映画を見た後とほぼ同じだ。
 『めまい』には主人公が出会った女性に対し、かつて自分といたことがある死んだ女と同じように金髪に髪を染めろと要求するシーンがあるのだが、こんなところまでそっくり同じではないか。そう思って少し調べてみると、この小説をルーツにヒチコックは『めまい』をつくったらしいという話まで出てきた。
 つまり、19世紀に書かれたこの作品は、現代に置きかえても十分通用するテーマを扱っていたということになる。人間が悩むこと、心が動かされること、想像力を働かせることは今も昔も案外変わらないのかもしれないと思う。
 映画の『めまい』は悪夢のような色彩の狂乱が物すごく不気味な存在感を生んでいるのだけれども、これは小説なのでそうはいかない。この話で不気味な存在感を生み出しているのは、ブリュージュという都市そのものだ。ブリュージュは中世に交易の要所として栄え、現在は廃れて死にかけている都市とされる。主人公が何をするにしても、どこにいてもブリュージュの重苦しい描写がついてくる。そもそも死んだ妻を一生思って暮らすためだけに、主人公は死のにおいがするこの都市がふさわしいと感じて移住してきたぐらいだ。
 重苦しい石づくりの朽ちかけた建物、かつてはたくさんの船が行き来した面影もなく流れが途絶えて濁った運河、まるで生活感の感じられないよどみ切った空気、常に葬式をしているような鐘の音と、聞いているだけでも鬱々としてくる。こんな雰囲気の場所に住んでいたら、主人公が妻の死をいつまでも受け入れられない中途半端な状態で、そこから前に進めないのも仕方ないだろう。妻とそっくりな女性と出会って、どうして狂気にのめり込んでいくのか。その大きな理由は、どこか現実味のない、生きようという気力を奪う、暮らしていても生きていると実感できない空気が全体に漂うブリュージュが舞台であったことで間違いない。都市そのものが全ての原因で主役なのだ。
 読み進めるにつれて、だんだんおかしくなっていく主人公と同じようにブリュージュの陰鬱な描写に毒され、こちら側もどこか夢心地のような、現実味のない漠然とした不安な気持ちになっていく。まさに小説内の舞台装置と演出そのものである。
 『めまい』を見た後も似たような気分になったのだけれども、ブリュージュという都市の圧倒的な存在感を表現することが難しいから、あちらではかわりに演出には光と色を使って不気味さや重苦しさを表現したのではないかと思ったほどだ。実際にブリュージュでロケをしたら制作費が大変なことになるという理由もあったのかもしれないけれども、実写映画でこの都市の演出は相当難しいだろう。恐らく静かで地味なシーンが多くて観客が飽きてしまうのではないか。
 そう思えば、同じテーマを扱っていても、映画のほうは光と色という視覚にダイレクトに訴える手段で演出をとったことはとても興味深い。同じテーマでも違う時代、違う表現者、違う媒体でこうも見せ方が違う。しかし、伝えたいことや受ける印象はどちらも似ていて、扱う内容に古いとか新しいとかいうことの差はないのが楽しい。
 人間が心を動かし、悩ませることは今も昔も案外変わりないことのほうが多い。テーマと演出次第で、いつの時代の人間が読んでも同じように悩んだり考えたりさせられる普遍的と言っていいような作品はできるのだろうなというのが最後に言いたいことである。

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