私の濫読日記

4/24 なんと今日は、下院選挙のための休日でした。

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『日本人は弓を射ることを一種のスポーツと解しているのではない。はじめはへんに聞こえるかも
 知れないが、徹頭徹尾、精神的な経過と考えている』
 
禅と仏教というキーワードをもとに作者は、日本人の不思議をヨーロピアン(作者はドイツ人)に
知らしめるべく行われた講演会を文書化したものである。
 
日本人は、物事の本質をつかむためには、意識的に考えない。
心を無にすることで、何かを感じることができると考えていると作者は言う。
だから、弓術だけでなく、書道・茶道・歌舞伎あるいは、その他の武術に関しても
呼吸と言うものが重要な要素であり、筋力を鍛えることではないと書く。
 
しかし、逆にこのことが、ヨーロピアンには理解できないということを日本人は理解しない。
的に当てようと思わずに的に当てることができることが彼らには理解できない。
 
日本人は、行間を読めと教えられ、ヨーロピアンは行間などないと教えられていることの差を
きちんと理解しなければ、ならないと考える。
 
この講演がなされたのは1930年前後のことのようである。
それから日本もずいぶん変わったと思う。
 
今の日本人の一体何割が、これらのことを感覚的に理解できるのだろうか。
もちろん、まだまだ日本文化の底流にある思想は変わっていないと思いたいが、
ちょっと不安を感じつつ、読み終えた次第である。
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早いもので、インドに赴任してから4回目の夏を迎えます。
しかしながら、出不精の私はインド国内を旅行することもなく
平凡な(とはいっても、驚くことも少なくないわけですが・・・)日々を暮しております。
 
インドの建国からすでに50年、カースト制は原則廃止されたというものの
やはり5000年の歴史の中で培われた、慣性がわずかその100分の1の
期間でまったくなくなるなどと言うことは、しょせんありえない。
 
ベンツのAMGに颯爽と乗るご婦人が通過する交差点には、数人の物乞いがいて
がりがりに痩せ細った体で、車の窓をたたいて回る。それが現在のインドなのだ。
 
そこで私も、ここいらでせめてガンディーの1冊ぐらいは読んでおかないと
インドで暮らす意味はないのではと手に取った1冊です。
 
1930年ヤラヴァーダー中央刑務所に収監されたガンディーが彼の弟子たちに送った
15通の手紙を1冊にまとめたものです。
(ただし、最後の1通に関しては、出所後書かれたものとのことです。)
 
この1冊しか読んだことのない私が、こんなことを書くのは非常に僭越かとは思いますが、
思い切って言わせていただきましょう。
 
『ガンディーは、まるで良寛和尚のようではないか』
 
インドの建国の父とうたわれ、マハートマ(偉大なる魂)と呼ばれたガンディー、
でもその出張は非常に単純で明快だ。
 
真理(サッティヤー)を求めるために、愛(アヒンサー[ただし、本来の意味は愛ではなく
不殺生・不傷害等を意味する言葉])を与え、純潔(プラフマチャリヤ)を守り・嗜欲を抑制し・
不盗(アステヤ)も守り・無所有(すなわち清貧)であり・無畏(畏れなき心)を持つ。
 
真理に関しては、この手紙ではあまり詳細に述べられていないし、私のブログ程度で
その内容のすべてをお伝えできるほどの大きさではないと思われるが、
上記の内容は、普通に物事を理解できる大人であれば十分理解できるほど
容易であるような気がするのだが、それは私の浅慮ゆえであろうか。
 
と言うより、『賢者とは、誰にでもわかる言葉で語るもの』という鉄則に基づくものと考える。
 
さらに、捕捉させていただけば、上記の不盗などはこのように語られている:
 
【要りもしない果物をもらったり、必要以上に多量にもらうのは、盗みです。】
なんと単純明快か。
 
しかも、ガンディーは、ヒンドゥー教徒でありながら、キリスト教・イスラム教・仏教等の
経典もしっかり読んでおり、その中で最後にそれらが目指すことは同じことではないかと言う
結論に達していたように感じる。
このことは、仏教とともに八百万の神を信仰してきた日本人には非常に理解しやすいと感じる。
 
不思議な気分だが、ガンディーはいいおじいさんなのである。
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ソクラテスが、3人の人物と対話する形で、自分の主張を述べてゆく
劇作形式のの内容となっている。
 
前半は弁論術について、後半は人とはどう生きるべきなのかと言った論点へと移っていく。
普段、哲学などとは非常に縁遠い私にとって、難しすぎるかと思っていたのだが、
すべて内容がソクラテスとゴルギアスをはじめとする3名の人物との対話で進行していくため、
そんなに構えなくても、討論会の見学者といった感じに入っていくことができた。
 
ソクラテス曰く(勿論、プラトン曰くでもある)、弁論術は技術ではなく、経験と熟練に過ぎず、
例えば医者(医学)とは本質的に異なる。
当時、著名な弁論家であるゴルギアスを論駁していく。
善と快は、別の概念でありどちらを目的とするかによりはっきりとその本質が異なる。
 
善は、絶対であり論理的に考証すれば結論は一つであり、その因果関係は明確である。
医者の治療は明確にその目的を持っており、その治療と治癒の間には明確な関連があり、
体育教師であれば、どのように鍛えればどのような結果をもたらすかも理解できる。
 
それに対し、快は経験と熟練の上に立ち成り立つだけで、その因果関係は不明確である。
おいしい料理は、食材や香辛料、調理方法といった経験の上に成り立つものであり、
おいしいことは、人に快をもたらすものの、結果として善となるとは限らない。
 
今風に言えば、ディベートがうまくても、人として正しくなければ、意味はない。
とプラトンは行っているようだ。正直、2500年以上も前に書かれた本にこんな簡単に
賛同できるとは考えてもいなかった。
逆に言うと、2500年を経ても人間はそれほど進歩していないといことなのか。
 
私は、主にアメリカ風の勝った方が正義式の考えたかは、正直なじめない。
やはり、どちらかと言えば仏教式の人は亡くなれば、すべて仏であり、
すべてのものに神が宿る八百万の神方式の方が性に合っているようだと痛感する。
 
また、いつもの通りに感想文からは程遠いところに来てしまいましたが、
プラトンもう少し勉強してみたいと思う1冊でした。

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今更認識しなくてもよいとは思うのですが、カフカはいいですね。
この本には、カフカの20篇の短編が収められているのですが、
どの作品も面白い。こんな一言で片付けてしまってはいけないと思うのですが、
きちんと内容を分析せずに読む私にとっては、こんなものでしょう。

それと、改めて感じたのが、大先生は相当にカフカの影響を受けたのだろうな。
その思いでした。(私のブログをお読み下さっている方々には解説の必要もありませんが、
私が大先生と申す方は、そうそうはおりません。)

小説は、作家による読者への語り掛けであるか、作者の独り言を読者が盗み見るかの
いずれかであると断言しては怒られるかもしれませんが、極論としてはこれで十分と考えます。

となると読者は、その作者の意図に対しての何らかの反応を起こさなければなりません。
勿論、反応しないと言うことも立派な一つの反応であり、本を途中で破り捨て
ゴミ箱へと投げ込むようなケースもあるでしょう。
しかし、一般的なケースとしては、それを読んで何かを考えると言うのが普通でしょう。

とは言っても、それは必ずしもきちんと内容を分析し、重要な部分を抜き出し、
それに対する考察を行いと言った形式をとるべきであるとは、私は考えません。

思ったことを、そのまま考え進めればそれで十分だと考えます。

そこでやっとこの本のお話となるわけですが、不条理と言うものは私にとっては
一度覗いたら、途中でやめることの出来ない万華鏡のようなものです。
一度読んだだけで、私の中でその見方が固まってしまうケースも少なくはありませんが、
多くのケースでは、読むたびにその印象が変わっていく。

読み返さないでも、その読書の記憶が変質し、以前に抱いた印象とは違う形となっていく。
この楽しみこそ、カフカのそして大先生の面白さではないでしょうか。

勿論、これは一般の小説でも同じ作用は起こることと思うのですが、
でもそれは、精々ベクトルが数十度ずれた程度であり、カフカのような
360度の変質は起こりえないですよね。

次は、久しぶりに大先生を読まなければと誓った私でありました。

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この本が執筆されたのは、1885年前後つまり現在より120年以上前だ。
それでも尚且つ読まれている本でもあり、現在は死語となりつつあるものの
「ジキルとハイド」と言えば、二重人格者あるいはもっと簡単に言えば裏表のある者を
さす言葉として使われてきたわけであるが、その原典となるこの本は
これまで読んだことがなかった。

現代であれば、もう多重人格と言う言葉は日常の中にさえ入っており、
「24人のビリー・ミリガン」等々の小説も出ており珍しくはないのだろうが、
120年前と言う時間の流れを考えれば、この小説の時代に対する先駆性がわかる。

ただし、やはり時代の思想に縛られた面として、ジーキルからハイドへの変化には
薬物が使用されており、単なる内部人格による多重人格と同一のものと考えることは
多少の問題があるのかもしれないが、人の中に住む他人と言う様に考えれば
十分ともいえると思う。

温厚で紳士かつ長身のジーキル博士に対して、粗野で野蛮かつ小柄なハイド氏。
どこまでも対照的な二人ではあるが、実態としては一人に人間であり、
結局のところ、薬物の力を借りたとは言っても同じ肉体を使用しているのであり、
最終的には、強い人格が勝利を収めることはその必然と言えるだろう。
つまり、ジーキル博士は最終的にはハイド氏となってしまい、
自らの犯した罪を償うために、自殺を遂げてしまうのであるが、
もしも、その薬が私の手元にあったのであれば、私は一体どんな人間になるのであろう。
などと、人の中のハイド氏を想像してしまった。


さて、取り留めのない感想となってしまいましたが、少々近況を!

久しぶりに楽器を吹きました。
また、バンド活動を始めようと思います。
その後報告もどこかで出来ればと考えております。

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