時事随想抄

国家と国民のための政治を考える

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今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。「君臨すれども統治せずEnglish Sovereignty does not rule but reigns」は、英国の統治体制を象徴する言葉があります。この言葉、英国君主は政治には携わらないことを伝統とするという意味であり、1714年にハノーバー王朝(現ウィンザー朝)が興り、ドイツのハノーバーから渡英して王位に就いたジョージⅠ世が、英語が不得手のため政治に携わることができず、1721年に議員内閣制(責任内閣制)が成立したことに由来しています。

ヴィクトリア女王もこの伝統に従ったと考えられてきましたが、果たして本当でしょうか。まず、第一点として、以下の点は、ヴィクトリア女王が深く政治に関与していたこと示唆しているかもしれません。

1)ヴィクトリア女王の即位当時の首相は、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(英語: William Lamb, 2ndViscount of Melbourne, PC, FRS1779315 - 18481124日)という人物です。ホイッグ党の党首であったメルバーンにつきましては、Wikipediaは、以下のように記しています。

 
――1837620日深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で推定王位継承者ヴィクトリア王女のいるケンジントン宮殿に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとの言葉を賜った。
ヴィクトリアは524日に18歳となり、成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだして慕い、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。

メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった。――
 
議員内閣制において、女王と首相が居所を同じくしているということは、メルバーン政権の政策が、ヴィクトリアに依るものであるのか、首相に依るものであるのか、曖昧であったことを意味します。ヴィクトリアが命令を下した場合、メルバーンは拒否できなかった可能性が高く、実質的に英国の国権を掌握していたのはヴィクトリアであったと推測することができます。ヴィクトリアは、「君臨すれども統治せずEnglish Sovereignty does not rule but reigns」に反していたと推測することができます。
 
そして、ヴィクトリアの背後にロスチャイルド家・サスーン家・イエズス会を中心とした「黒いユダヤ人」の国際組織があったと仮定いたしますと、首相を表看板としながら行われたヴィクトリアの政策は、実質的に「黒いユダヤ人」の国際組織の政策であったと言うことができるでしょう。アヘン戦争が、この第一期メルバーン内閣において起こったことは、この点を示唆しているかもしれません。

第2点につきましては、明日扱います。

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(続く)

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