時事随想抄

国家と国民のための政治を考える

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 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。日本では戦国時代、世界史的には大航海時代の武将である大谷吉嗣とイエズス会との関連が見えてきたわけですが、ここで、大谷吉嗣は豊臣秀吉の庶子であって、更に、秀吉と淀君との間に出生したとされている豊臣秀頼(1593年〜1615年)は、実は吉嗣と淀君との間の子であるという俗説があることに注目してみましょう。この俗説の信憑性は、以下の点において認めることができます。
 
①秀頼の出生の時期から、秀頼が秀吉の子では無いことは確かであったにもかかわらず、秀吉は秀頼を溺愛した。このことは、その背景には、秀頼が秀吉の孫であったと考えれば説明がつく(豊臣秀吉(親)⇒大谷吉嗣(子)⇒豊臣秀頼(孫))。吉嗣が秀吉の子である可能性は、吉嗣の母が、秀吉の正室の高台院の取次役であった東殿であり、Wikipediaによると、「天正14年(1586年)46日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状に孝蔵主とともにあえて東殿と名指しでその存在を伝えており、すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の次ぎの間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたことがうかがえ、豊臣家中で重責を担っていた」ことによっても補われる。
 
②関ヶ原の戦いの勝敗は、西軍の小早川秀秋(1592年〜1602年)の東軍への寝返りによって決せられたとされている。その寝返りは、小早川軍が陣の敷いてある山を駆け降り、大谷軍の右翼を攻撃したことに始まる(昨日の東軍による大谷隊への攻撃とは、正しくは西軍を裏切った小早川による大谷軍への攻撃のことであり、お詫びして訂正いたします)。当時、小早川秀秋は、秀吉の養子となっており、秀吉の跡継ぎと見なされていた。ところが、秀頼の誕生によって、秀秋はその地位を失っている。仮に、秀頼が大谷吉嗣の子であるのならば、秀秋が寝返り、大谷軍を攻撃した理由ともなる(秀秋の21歳という早逝をめぐり、大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されている)。
 

 このように、秀頼が大谷吉嗣の子であると仮定いたしますと、豊臣秀頼の背後にイエズス会の姿が見え隠れしてくることになります。


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 (続く)

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