時事随想抄

国家と国民のための政治を考える

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 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。昨日、豊臣秀吉は、反・フランシスコ派、大谷吉嗣はフランシスコ派である可能性が高いことを指摘いたしました。では、豊臣秀頼、すなわち、秀吉から見ますと孫、吉嗣から見ますと子にあたる人物は、フランシスコ派VS反・フランシスコ派のいずれであったのでしょうか。
 
以下の点から、秀頼は、フランシスコ派であったとする仮説を提起することができます。
 
1)平戸にいたリチャード・コックスRichard Cocks15661 - 1624年)による東インド会社への手紙と日記には、秀頼は薩摩・琉球に逃げたとある。コックスは、日本滞在中、当時の日本の状況について記した詳細にわたる日記を残しており、コックスの記述には、信憑性を認めることができる。薩摩はフランシスコ・ザビエルの上陸地であり、長州(山口)と同様に、イエズス会フランシスコ派の影響の強い地域であることから、秀頼は、大阪城を秘かに脱出する際に、イエズス会フランシスコ派を頼ったと推測することができる。
 
2)秀吉の正室のねねの兄・木下家定の三男・木下延俊を初代とする旧日出藩木下家の19代当主・木下崇俊によると、木下家には、秀頼の嫡男の「国松は薩摩に落ちのびた」という一子相伝の言い伝えがあるという。このことから、秀頼と国松の親子は、イエズス会フランシスコ派を頼ったと推測することができる。
 
3)寛永141025日(16371211日)に勃発した、幕末以前では最後の本格的な内戦である島原・天草の乱(島原・天草一揆)は、カトリックの支援を受けた豊臣秀頼によって起こされた内乱であるとする伝説がある。その理由は、九州の一地方の一揆としては、幕府討伐軍側は総勢13万近くの軍を動員しており、死傷者数についても諸説はあるものの、『島原記』には死者1130・負傷者6960、『有馬一件』には死者2800・負傷者7700、『オランダ商館長日記』には士卒8万のうち死者5712と記されているほどの大規模な武力衝突であり、二大勢力による内戦の様相を呈していた可能性が指摘されているからである。島原はキリシタン大名である小西行長や有馬晴信の所領であったことから、もとより領民のキリスト教信仰も盛んであり、フランシスコ派のイエズス会宣教師であって、「戦争屋」とも言えるガスパル・コエリョGaspar Coelho1530-159057日)が没した場所でもある点、及び、コエリョが、バテレン追放令が発布されると、大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出している点を踏まえると、島原は、フランシスコ派の牙城となっており、島原の乱はその延長線上にあると推測することができる。島原の乱の背景には、フランシスコ派の策動が見え隠れしており、島原の乱は秀頼が起こしたとする伝説は、秀頼とフランシスコ派との関連を示唆している。
 

このような3点から、秀頼はフランシスコ派であったと推測され、そして、この点は、その凡そ300年後に、明治維新がフランシスコ派の影響の強い薩摩(鹿児島)と長州(山口)の両藩によって遂行されたことと関連があるのではないか、と推測することができるのです。


 

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(続く)

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