時事随想抄

国家と国民のための政治を考える

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 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、肥後熊本藩初代藩主となった加藤清正は、「朝鮮出兵」として知られる豊臣秀吉による文禄・慶長の役において、活躍した人物としても知られております(加藤清正の所謂「虎退治」)。
 
文禄・慶長の役に際して、加藤清正には奇妙な行動があります。それは、清正が朝鮮半島の北東部に兵を進め、朝鮮と満州の国境を流れる豆満江を越えて、満洲のオランカイthe Orangai Jurchensへ進攻したことです。
 
『日本西教史』には、かつて秀吉は、「イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った」という記録があるそうです。すなわち、秀吉による朝鮮出兵とは、陸路で明朝に至るまでのルートを確保するためのものであり、その最重要目標は、明朝までの最短ルートの探索と確保であったと考えることができるのです。
 
従いまして、黄海沿いに朝鮮半島の西側を進む計画であったはずであり、清正軍が、兵を東北部に進めることはありないことなのです。では、なぜ、清正は軍を満州に進めたのでしょうか。
 
そこで、清正の墓所が、熊本市西区花園の発星山本妙寺の浄池廟の他に、山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺にもある点が注目されてまいります。本年3月4日付本ブログにて指摘いたしましたように、1930年代に立てられた満州にユダヤ人を移住させるという「河豚計画」は、満州事変の立案者とされる陸軍中佐石原莞爾によって進められていたと言うことができます。その石原莞爾は明治22年(1889年)に、「鶴岡の聖母」という黒マリア像のある山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で生誕しております。「黒マリア」がイエズス会の秘かなる本尊である点を踏まえますと、「河豚計画」の背景には、イエズス会フランシスコ派(イルミナティー)の影響があったと推測することができるのです。
 
この点から、清正の背後にもイエズス会があり、清正が、満州地域に兵を進めた理由は、16・17世紀から、イエズス会は満州地域に注目しており、清正に斥候役(情勢視察)を務めさせた可能性、もしくは、後に清国を建設することになるヌルハチNurhaci(1559〜1626年)にイエズス会からの何らかの密書を届けさせる役割を担わせたとも推測することができます(後に、明朝は清朝によって滅ぼされる)。
 

清正の通称は虎之助であり、明治天皇となったとされる大室寅之助も「とらのすけ」であることは、何かを示唆しているのかもしれません。


 

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(続く)

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