時事随想抄

国家と国民のための政治を考える

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本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。一昨日には、大室寅之助が、そして、昨日は、西郷隆盛が1891年以降「チーム明治天皇」に加わった可能性を昨日指摘いたしました。では、西郷隆盛の謎の長男とされる呉亀力も、「チーム明治天皇」に加わっていたのでしょうか。
 
西郷隆盛は、1851年の一年間、国際情勢の偵察のために台湾に滞在しております。1851年といいましたならば、太平天国の乱が発生した年代です。おそらく西郷は、太平天国の乱の背後にあったと推測されるイルミナティーと接触していたと考えることができるのですが、そこで、西郷は、非文明的生活をおくり、首狩り族として恐れられていた原住民の平浦族の娘との間に一子、呉亀力をもうけている可能性がかなり高いようなのです。西郷は、後に、奄美大島の龍家の娘の愛可奈を娶ってもおりますので、南方系文化に親近感を持つ人物であったのでしょう。そして、呉亀力につきましては、その後、消息不明となっているようです。
 
「チーム明治天皇」の一人が、呉亀力であったと考えますと、「西南戦争の際に、“明治天皇”は、西郷の身を案じて夜も眠れぬほどであった」と伝わることの謎は氷解いたします。西南戦争は、明治天皇をトップとした明治政府に対する反乱、すなわち、“明治天皇”を敵と見做した武力蜂起ですので、“明治天皇”が、その首謀者の身を案じることは奇妙なことなのですが、両者が親子であって、裏では繋がっていたと考えますと、説明がつくのではないでしょうか。西南戦争の際に、なぜか、その陣中に“明治天皇”の勅使が訪れます。西郷反乱軍の将兵から命を狙われかねないような険悪な雰囲気中で、西郷隆盛のみが、その勅使を厚遇したと伝わること、そして、明治政府によって早々に、西郷の名誉回復が、“明治天皇”の主導でなされたことも、このような仮説を補うでしょう。では、どのような経緯で、大室寅之助と呉亀力は、京都御所に入ったのでしょうか。
 
1863(文久3)年のイギリス軍の鹿児島砲撃によって、まずもって、薩摩藩がイルミナティーの影響下に入り、翌1864(元治元)年の英仏など4カ国の艦隊による下関砲撃によって、長州藩がイルミナティーの影響下に入ったと考えられます。こうして、1866(慶応2)年1月21日に、イルミナティーの計画にもとづいて薩長同盟が成立したようであり、同年、12月25日には孝明天皇が崩御されます(長州側による暗殺である可能性が大きいそうです)。このころに、まずもって、大室寅之助が、“明治天皇”となったと推測されます。
 
しかしながら、長州側の人物のみが“明治天皇”となることに対して、イルミナティー、もしくは、薩摩側から難色が示されたのではないか、と考えることができます。そこで西郷は、亀力を密かに日本に連れ帰り、翌1867(慶応3)年5月21日に乾退助、中岡慎太郎、西郷隆盛が京都に会して挙兵討議を行ったころに、イルミナティーからの命令によって、大室寅之助と呉亀力の二人が、“明治天皇”となることに決まり、「チーム明治天皇」がつくられたのではないか、と推測することができます(明治天皇の即位の礼は1868年8月27日)。
 
西郷が、「チーム明治天皇」に加わった経緯は、昨日、論じたとおりであり、このように考えますと、イルミナティーは、長州側からは大室寅之助を、薩摩側からは西郷親子を“明治天皇”とすることで、パワーバランスを取らせて、日本国を操ろうと計画していたと推測することができるかもしれません。

 
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(続く)

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