ぎゃらり壷中天 鈍青房掌編

“鈍青房”は小生の庵号です。物をめぐる掌小話を掲載していきます。

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一歩前へ

  『一歩前へ』
 
 北島忠治の口癖は「前へ」だった。「ボールをもったら躊躇するな。逃げたりためらったりしなければ、失敗してもかまわない」と、選手たちを叱咤し、1996年95歳で亡くなるまでの67年間、明治大学ラグビー部の監督を務めあげた。「明治に入るやつはよけたり逃げたりしちゃいけない。とにかく前へ進め」を貫いたのである。
 
 「考えてみたら無謀な話やな」
Mさんは懐かしそうに、そして自嘲気味にそう言った。彼は明治大学ラグビー部出身。大学を卒業して家業の鉄鋼業を継いだ。バブル期までは
「前だけ向いて猪のように突進したんや」
それがことごとくうまくいった。
「いてまえ。そんな気分やった」
 
 しかし彼はつまづいた。バブルの崩壊も大きな要因だった。大きな借金を背負い、家族とも離れ離れとなった。
「頭に思い浮かぶことと言ったら、後ろ向きなことばっかりや」
人間は余裕がなくなると、発展的なことなど思いつかなくなる。
「もがけばもがくほど泥沼。もうあかんとなって、公園のトイレで首つろうと思うてん」
そんな修羅場をくぐり抜けてきたとは思えないほどMさんは溌剌としていた。
「ところがな、これから死のうという崖っぷち男でもな、尿意をもよおすもんなんや」
Mさんますます乗ってきた。
「便器の前に立って、これが最後の小便かと思ってな、ひょいと顔をあげたら張り紙がしてあんねん。何と書いてあったかって?そこやがな」
Mさん、たたみかける。
「一歩前へ!や」
 Mさんはそこで北島監督の声を聞いたという。ぴんと張りつめていた糸が切れた。とめどなく涙が流れた。深夜の公園の公衆便所で。
 
 「あんた、この話、出来すぎと思ってますやろ」
Mさんは現在ホームセンターの主任として働いている。
                                                                   了
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