ぎゃらり壷中天 鈍青房掌編

“鈍青房”は小生の庵号です。物をめぐる掌小話を掲載していきます。

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旅に出る理由

   『旅に出る理由』
 
  「以前から気になっていたんですが、大槻さんて時々胸をかばうようなしぐさをしますよね。どこかお悪いのですか」
美奈子は思い切って聞いてみた。二人は中堅の文具機器メーカーの社員。大槻は中途入社の営業マンで、もう40歳を越えている。独身だ。美奈子も婚期を少し越したところ。そういえば最近は縁談の話もこなくなっていた。たまたま二人で得意先に挨拶に出ることになり、その仕事を済ませた後、喫茶店で昼食をとっていた時のことである。
「アメリカンフットボールの選手が試合前に国歌斉唱を聞く時みたい」ちょっと茶化したつもりだった。深刻な答えが返ってきたら、墓穴を掘りかねない。すると大槻は
「くせなんですよ。自分でも無意識に手をやってしまうみたい」と、おどけて言って、白い歯を見せた。それがやけに白く輝く。ああそうか,あらためてよく見てみると大槻はかなり日に焼けている。それで余計に歯が白く目立つのだ。
「実はこれ」
と、胸の内ポケットから差し出したのはかなり年季の入ったパスポートだった。
「持ち歩いているんですか」
「御守りみたいなものかな」
そう答えて、また爽やかに笑う。美奈子はその様子に惹かれている自分がいることにその時、気がついた。
 
 この会社に中途入社する前もずっとインドにいた。と大槻は切り出した。かいつまんだ事をざっと聞いただけだったが、これまでに大槻は日本である期間働いて、資金が貯まると、それを持って外国を一人で歩き回って来たという。それを実に楽しそうに話す。だが純粋にその行動を自分だけで楽しんでいるようで、旅のハプニングを根掘り葉掘り話そうとする、にわか旅行者とはまったく違う様子だった。
「俺にはこれがあるんだ。と思うようにしているんですよ」
つまり、パスポートのことらしい。いやなことがあったり、ここは自分の居場所じゃないんだ、なんてふっと感じた時、ポケットに手をやって、そこにパスポートがしのばせてあることを確かめると、落ちつくということらしい。
 大槻の話は美奈子にとっては意外なものだった。彼のそうしなければ生きられない性分のようなものが短い時間で理解できた。普通ならそのことは驚きと好感をもって受け止められたはずだ、と美奈子は思う。しかし、どうも自分の中にある混乱の正体をつかみかねていた。
「また、行っちゃうんですか」
「もう少し、先になりそうだけどね、今度の旅はね・・・フェリーで韓国の釜山に渡って、それから大陸を横断してインドへ入り、・・・・」
その後の大槻の言葉は耳に入ってこなかった。なんだか小さな憤りが美奈子の中に小さな泡ぶくとなり、それがはじけた。
「帰る場所があるから旅に出る。出発点に戻るつもりのない行程は旅とは言いません。それは放浪というんです」
ちょっと怒ったような口調になった。自分でも意外だった。大槻も面喰らったようだった。彼にとってはどうでもいい屁理屈だ。美奈子の脳裏に昨日のニュースで見たウサイン・ボルトのフライングの場面がよぎった。始まる前に終わった。
 そのあと二人は喫茶店を出て、ほとんど言葉を交さず事務所に戻った。
                                                                   了
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