ぎゃらり壷中天 鈍青房掌編

“鈍青房”は小生の庵号です。物をめぐる掌小話を掲載していきます。

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当たり前を繰り返す

  『当たり前を繰り返す』
 
 「次の目標?それは次のヒットを打つことですよ。打者なら当然でしょ」天才ヒッターが日米通算2000本安打を達成した日、テレビ画面の中でインタビューに答えていた。
「なんか、拍子抜けしちゃうわね。もっと大きなこと言って、リップサービスすればいいのに」妻の葉子が素直な感想をもらす。
「いや、彼の場合、次の目標って言われても、一通りのこと成し遂げてしまってもう何も残っていないんだよ。次のステージへ進もうにも、今活躍しているのが最高のステージなわけで・・・」竹下が答えると、
「ふーん」野球にはまったく興味のない妻はもう何でもよさそうで、食器を洗うためにキッチンへ立っていった。
 天才ヒッターの言うことはそんなにつまらないことだろうか。最初から竹下は妻とは全く違う感想を持っていた。妻は――大きな目標達成も小さな一歩から始まるんだと理解したようだったが、彼が当たり前のように答えたのは、そういうことではなく、修行者的な日常の中から発せられた言葉のように思われる。来たボールを確実に打ち返してヒットを重ねていくことが自分の仕事であり、その結果として記録がついてくるということを言っているように思えたのだ。これは道元の禅の教えに通じるところがある。日常の作務をひとつずつ丁寧にこなすことから、身を律する術を覚えていく。ひいてはその人格を形成していく基本となるのである。ひとつのことを突き詰めていくという修行者的発言であると受け止めるべきであると。
 
 葉子が晩酌の徳利と盃を運んできたとき、
「燗の温度が安定してきたね」竹下は感じたことを何気なく言った。葉子はおおらかな性格で、というよりはかなり大雑把なタイプの人間で細かなことには拘らない。料理の際も小匙で一杯半とか、中火で二分なんてレシピは全部すっ飛ばして、感だけですます。したがって出来上がりはいつも違う。
「そりゃあそうよ。いくら私でももう三年も同じパターンで燗をつけているのよ。同じことを繰り返すことにある種の安心と充足感を覚えるようになったわ」
「いうね。でもね、そうなんだよ、そこが肝心なところなんだよ」
「どういうこと?」
「決められたことや、ある種のパターンを淡々と繰り返していると、そこに別な次元への窓口が開くことがあるらしい。名人上手と称される人たちがこぞって同様のコメントを残しているのもそのあたりの境地を体験しているからだろう。僕にもわからないけど、どうも心の充実なんてのも、案外そんな当たり前のことが当たり前にできることから導かれるものなんじゃないかな」竹下は葉子に言うというよりは自分の言葉に納得するように頷いていると、葉子は呆れ顔で言った。
「それって、あなたが毎晩晩酌することを正当化している詭弁じゃないの」
                                                                                                             了
 
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