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臼井六郎が 明治13年(1880)12月17日、旧藩主・黒田長沖邸で
両親と妹の敵討ちとして、当時東京上等裁判所の判事であった
旧秋月藩士で“干城隊”の隊士 一瀬直久(いちのせなおひさ:改名、元山本某)を殺害した事件。

【干城隊】菊池武彦を首領として結成された140人ほどの、秋月藩半公半私の士族隊。明治元年から4年頃まで。維新後、長州の「奇兵隊」をまねて結成されたが、廃藩置県で解散、のち、秋月の乱を引き起こす「秋月党」の母体となる。

【臼井亘理】うすい わたり。臼井六郎の父
文武に優れ、特に陽明学を修めて江戸に遊学し尊皇攘夷の思想を身につけた。
家督をついでからは鉄砲組を束ねる「物頭」を努め、短期間で技術の向上、鍛錬に成果を上げ、ついで「馬廻頭」に昇進し、ここでもその技量を発揮し、大いに志気の高揚につとめたので、文久2年35歳で「用役」に抜擢され藩政に参画する事になった。

この頃秋月藩は、11代藩主長義が病死し、異母弟の岩虎が12代藩主の座に着いたばかりで、尊皇攘夷派の家臣「海賀宮門」(かいがみやと)が脱藩して京へ向かい、伏見の「寺田屋の変」に巻き込まれて薩摩藩士に惨殺され、海賀の脱藩を助けた「戸原卯橋」(とばらうきつ)は監禁されるという、大いに時代の波に洗われていた時だった。迫り来る時代の変革を前に、藩の重役達は大いに悩まされていたものと推察できる。

事の起こりは、慶応三年(この時代は、日本中が『勤皇』か『左幕』かで、意見が真っ二つに別れていた時代)福岡・黒田家の支藩である秋月藩でも、やはり意見は対立していましたが、臼井亘理をはじめとする重臣達は、公武合体を支持し幕府寄りの体制をとっていました。

明治元年、臼井亘理が藩命で京にいた時、王政復古・大政奉還の詔が出る。京で幕府崩壊の近いことを感じた亘理は、「藩のためには朝廷側についた方が得策」と考えるようになり、それに沿って行動していた。
これを変節と見た一派は、藩主へ臼井亘理の行状を悪し様に報告。亘理にはわけが分からないまま藩邸への出入りを禁じられ、やがて藩主の命で秋月への帰郷を言い渡される。
5月の始めに京を出て秋月へ戻って来た亘理は、帰郷を聞いて駆けつけた親戚・縁者・同士たちとその晩しこたま酒を飲んで眠りこけ、5月24日未明、野鳥の自宅で反対派急先鋒の千城(かんじょう)隊士数名に襲われ、亘理と横で寝ていた妻と幼い妹が殺された。

即日、藩に訴えますが、勤皇に傾きつつある藩当局の判断は、“干城隊”は無条件の無罪。
そして、京都での事が影響したのか、逆に亘理の世禄を削られる。
亘理の死は、“非命の死”・・・つまり災難としてかたずけられてしまう

この時10歳であった臼井六郎、この夜の惨劇は終生忘れられない光景となったのは想像に難しくない

長じるに従って「敵討ち」を訴える六郎を、伯父や一族はなだめたが、六郎は密かにその機会をうかがっていた。

明治六年、“仇討ち禁止令”

そんな折り19歳になった明治9年のある日、ひょんな事から、あの夜の一団が干城隊で、父母惨殺に直接手を下したのは隊士の名を知るのである。

仇の名は「一瀬直久」、新政府で裁判所判事となっており、静岡に居ると聞いて六郎は静岡へ行くが、既に一瀬は東京へ転勤になっていた。

後を追って六郎も学問の為と上京
東京では一瀬の行方を探りながら北辰一刀流の山岡鉄舟の元で剣の腕を磨き、機会を窺っていた
現在一瀬は、東京上等裁判所の判事である事。
東京・三十間堀にある旧藩主・黒田長沖邸で、月に一度の、旧秋月藩士を集めての碁会に、奴もやってくる事を知ります。

当日、六郎は黒田邸を物陰から見張り、一瀬が館へ入るのを見るとすかさず後を追い、階段を上りかけた一瀬に向かって「親の敵、覚悟せい!」と叫んだ。
一瀬は最初ぎょっとした顔をしたが、すぐひるがえし階段を駆け上ろうとした。
そこで六郎は後を追い、13年来の仇一瀬に向かって短刀を突き立てた。引き抜いてはもう一度刺した。それから頸動脈を切断して一瀬が絶命したことを知ると、六郎はゆっくりと館をでた。

騒ぎを聞きつけ二階の窓から、六郎を知っていた者が「六郎、何をしたのだ!」と声を掛ける
六郎は「邸内を騒がせ誠に申し訳ない。多年の恨みを御邸で引き起こした事について深くお詫び申し上げる。」と深々と一礼し、門前の人力車に乗って警察に出頭した。

この知らせを郷里の秋月で聞いた六郎の祖父遊翁は、垣根を飛び越えて隣家に駆け込み、
「六郎がやった! 六郎がやった!」と叫び
「今日は我が生涯最高の日じゃ、生きてて良かった。」と泣いたと伝えられている

六郎は“復讐手続書”と題して、仇討ちに至った経緯を文章にしたためています、そこには
「国の法律を破って乱れを起こす事はまことに心苦しいが、自らの手で下さねば心は癒えなかった」との気持ちを書いています

仇討は、旧幕府時代であれば美談としてもてはやされ無罪放免だったのだろうが
仇討ち禁止令発布により、当然六郎も罪人となり裁判の結果、死罪は免れたが終身禁固刑に処せられた。
模範囚だった事もあり、帝国憲法発布の祝典により、罪一等を減ぜられ、明治24年獄中生活約10年で釈放されている。

臼井六郎の復讐は、世間を驚かした。禁止令が出ているとはいえ、まだ江戸時代の因習は色濃く残っていた頃である。
世間はこの事件をおおむね「美談」として取り扱ったようである。
山岡鉄舟も我が弟子の快挙を讃え獄中に何度も差し入れし、義挙と讃えた書き付けも残っている。また、六郎の釈放祝賀会には自由民権運動の大井健太郎も出席し「仇討ちは法的に禁止されているが、武士道の真髄であり悲願を達成し、釈放されたことはめでたい。」と祝辞を述べている。


               【 釈放後の六郎 】

帝国憲法発布による釈放大赦で明治24年に釈放。この時六郎32歳
その後いゑという女性と明治38年に結婚
当時六郎48歳 いゑ28歳 二人は門司市(現在の福岡県北九州市門司区)の門司駅前の八坂運送店という店の隣で饅頭屋を営む

八坂運送店は、六郎の叔母幾代子の夫 八坂甚八が営業していた
八坂甚八という人物は貴族院議員でもあり、北部九州でもかなりの資産家だったようで門司だけでなく鉄道沿線の主要駅に店舗を構えていた、特に鳥栖(佐賀県)に広大な土地を持っていまた

その後その鳥栖駅が鉄道の分岐点になる事を知り、駅前に八坂旅館を開き以前から気にかけていた義理の甥六郎夫婦に鳥栖の駅前に鉄道の待合所を開かないかと誘う
二人はこの誘いを喜んで受け、門司の店をたたんで鳥栖へ
当時は列車の多くが鳥栖どまりであり、南から福岡方面に行く人も、北から熊本方面に行く人も、長崎方面から来た人も一度鳥栖で降りて次の列車が来るまで待ち合わせをしなければならなかった人が多く居た

当時は列車の本数も少なく待ち時間は数時間かかることもあり
そういう人たちのためにその待合所が必要だったんですね
この六郎夫婦が経営した有料の待合所は「八角亭(やすみてい)」という名前で八坂旅館の角っこと「休み」をひっかけた名前です

ただしあくまで休息が主体の待合所であり、お茶の接待くらいはしていたけれど
いつもお客が多くて料理を出す余裕などないようだったとのことです

六郎の死後、晩年は不遇だったと紹介する新聞記事が出たそうですが
実際にはそんなことはなかったようです

六郎夫妻には実子はありませんでしたが、正博という人物を養子に迎えていました
この正博は高等小学校から久留米商業(現在の久留米市立久留米商業高校)に進学しました
当時は財力がないと中等学校進学はできなかったので
臼井家は八角亭の経営がうまくいってかなり裕福だったと思われます

後に六郎は病気にかかり、60歳で逝去 墓は古里の秋月の両親の側に作られた。
妻いゑは六郎の死後唐津に移り住んでいましたが昭和20年に唐津で病死
養子の正博も翌年死去し、正博にも子どもがなかったため子孫はいないようです

仇討ちの時にはすでに結婚していたという話も聞きましたが
こちらの話の方がどうも真実のようです

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閉じる コメント(39)

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自分が六郎さんの立場にあれば必ず自分の手で仇を討ちたいと想うでしょう。現代の世の中でも法律に任せることなく、自分の手で仇を討ちたい、そういう人はたくさんいるのではないでしょうか。そういう事件が多すぎます。

2011/2/27(日) 午後 6:48 [ ゴイック ] 返信する

男泣きした

2011/2/27(日) 午後 7:56 [ gpf*w*96 ] 返信する

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私も、ドラマを見て、一層に興味をかきたてられました。こちらのブログが参考になったので、私のブログからリンクさせていただきました。

2011/2/27(日) 午後 8:42 [ saihikarunogo ] 返信する

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臼井六郎さんて本当にいらっしゃった方なんですね。私もここでたくさん学ばせてもらいました。ありがと。

2011/2/28(月) 午後 10:43 [ shizukamogisu ] 返信する

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こちらで史実を知ることが出来ました。ありがとうございます。
仇討ちの為だけに生きた臼井六郎を見て胸が苦しくなりました。
あの時代は本当に過酷な時代だったんだと改めて思いました。

2011/3/2(水) 午前 10:25 [ ars*ark* ] 返信する

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私も「遺恨あり」観ました。とても素晴らしいドラマでした。こちらのブログ、とても参考になりました。有難うございました。

2011/3/2(水) 午後 5:37 [ yos**30500*1 ] 返信する

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うは!たくさんの書き込み有難うございます
ずっと前に書いていたものですが彼を題材にした作品がメディアに載った事は地元の者としても嬉しく思います

ドラマの中の影から六郎を支えたカナさん、彼女は実在の女性なのかどうかが気に成りますw

2011/3/2(水) 午後 7:12 [ o-chian ] 返信する

どなたかもおっしゃっていましたが、確かに平民なら許されない、士族の勝手な価値観だったかも知れませんね。
しかし、日本人が忘れかけている気概の様なものが、武士道にあるのも事実。
先輩方から良き物は学び、伝えて、繋げて行く事こそが、現代に生きる我々の勤めかと思いました。

2011/3/4(金) 午前 1:35 [ nln*750**1 ] 返信する

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「武士」確かに長年続いた武士社会の中で全てが武士階級のために法律が確立されていったのでしょう

しかし次々と世界中の黒船が日本に押し寄せた時、誇り高き武士道の精神と死をもいとわぬ忠義心を世界の列強は恐れ、中国や他の国で行った様な一方的な力による支配をしなかたと言われています

明治になって造られた大日本帝国の軍隊にも、その武士道精神が根底に流れており、よって早期に規律正しい強い軍隊が出来上がったとか

温故知新と言う言葉が有りますが
現代の社会こそこの言葉をかみ締めていきたいものです

2011/3/4(金) 午前 5:38 [ o-chian ] 返信する

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敵討の後の臼井六郎について、詳しい解説、ありがとうございます!
よくわかりました!
後半生は穏やかに送ることができて、良かった。

2011/3/6(日) 午後 0:18 [ saihikarunogo ] 返信する

はじめまして。
『遺恨あり〜明治十三年 最後の仇討〜』ドラマを切っ掛けに
臼井六郎さんの事を調べて こちらに辿り着きました。
事件に関する詳細な記事を拝読し、大変参考になりました。
(原作や関連書籍を探している所だったので)
ポチさせて頂きます。
士族だからという事を鑑みての判決といい、
若者が自身の青春を捨てて生きた事実といい、
「そういう時代だったのだ」では釈然としない感が正直残ります。
ドラマに描かれなかった主人公のその後がわかりスッキリしました。
教えていただき、ありがとうございました。

2011/3/15(火) 午後 1:25 風森湛 返信する

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風森湛さん
現代に生きる私達にすれば、この時代の思想はしがたい物が有りますよね
仇討ちとは言え人殺しが賞賛された時代に育ち、明治維新で時代が変わりそれに取り残される上級階級であったはずの武士たあち
200年続いた江戸時代、そしてそれ以前から脈々と続いていた武家社会の終焉に起きるべくして起きた1つの寂しい物語ですね

2011/3/19(土) 午前 0:40 [ o-chian ] 返信する

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妹も殺害されたと書いてありますが、私の後輩に六郎さんの妹さんのひ孫さんがいますよ。その後輩から聞いた話しですが今でもその家系では代々剣道をさせられるそうです。 削除

2011/3/24(木) 午後 6:14 [ マスター ] 返信する

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マスターさん
そう言えばドラマでも妹は殺されてなかったですね^^;
少し調べてみます

2011/3/24(木) 午後 7:35 [ o-chian ] 返信する

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今度その後輩に詳しく聞いてまたコメントします。 削除

2011/3/24(木) 午後 10:56 [ マスター ] 返信する

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私は、秋月出身です。城跡に中学校があり、桜も綺麗でとても誇りに思っています。
歴史資料館には何度も通っていました。このドラマを見て色々と考え、又秋月で過ごした日々を想いました。実際に秋月藩が存在していたんだと改めて知ることができ、なんだか自分のルーツを知ったような気分になりました。再放送して欲しいです。 削除

2011/3/28(月) 午後 11:58 [ ドルフィン ] 返信する

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マスターさん
是非お願いします、地元の人間としては知っておきたいですからね^^;

ドルフィンさん
私は秋月のお膝元に住んでいますwまた近々資料館にも行ってみようかと思っているところです
ドラマ自体も非常に良いできでしたよね、再放送きっとされると信じています^^

2011/3/29(火) 午後 8:57 [ o-chian ] 返信する

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こんにちは。
先ほどBS朝日の放送で初めてこのドラマを観ました。
観たのは途中からでしたので、内容を知りたくて検索していたところ、こちらのブログにたどり着きました。

見応えのあるドラマ。
ブログのおかげで理解が深まりました。
ありがとうございました。

臼井六郎の妹のことですが、こちらのブログに添付してある「言渡書」には、「嬰孩ノ妹ニマデ傷ヲ負ハセ」とありますので、ご存命ったのではないでしょうか?

貴重な資料をありがとうございます。
ドラマを最初から観たくなりました。 削除

2013/9/8(日) 午後 3:52 [ 小出 ] 返信する

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今日 この映画みました なかなか見ごたえある映画であり 索引していたら ここにきました
映画は一部脚色してありますが ここで史実を知りました また記事にすることがあれば参考にさせてもらいたいと思うのでよろしくお願いします

2014/2/16(日) 午前 9:34 あさ 返信する

実の両親の殺害状況を目の前にしたら武士でなくても怒りが込み上げますが、まして7%のプライド高いブシナラ尚更ですね。殺人ですが感情は理解出来ます。まして、旧武家ですからね……

2017/3/9(木) 午後 10:37 [ una***** ] 返信する

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