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早いもので10月ももう終わろうとしていますね。
ということは、秋の季語ともそろそろお別れということになります。
ところで、この10月、個人的に少々嬉しかったことがあります。
『俳句界』という俳句の総合誌で、俳人・瀧春一が回顧されたのです。
月別に一人ずつ紹介している「魅惑の俳人たち」という企画の10番手としての登場でした。
あまり言うと何ですが、そこへ文を寄せた一人に現在の俳句の師もおりました。
ただ何より瀧先生は、私が俳句を始めた一つの端緒を下さった方なのです。
私の家庭は「和風な一家」でした。
父は書家、母は書・華道・茶道の師範の免許を持っておりました。
そして父は芸術家肌の大胆不敵な人で、母は基本的に倹しい生活を支えるタイプの人でした。
それが・・ある年、おそらく私が小学校2年生の時だったと思いますが、
両親が一大決心をしたんです。
母が一生懸命貯めたお金で、父が我が家に茶室を建て増ししようというのです。
私の当時の家の脇には掘立小屋のような物置がありました。
そもそもは年の離れた兄が、あたかも自分の持家のように使っていたのですが、
兄が結婚して出て行ったので、その後物置として使われていたんです。
それを取り壊し、茶室を作るというのです。
建て増しにはもう一つ理由がありました。
隣家に叔父が住んでいて、その家に祖父が同居しておりました。
私の父は長男だったので、その祖父の部屋も一緒に造ろうというのです。
祖父を引き取ることは母の願いの一つでありました。
父と母のカンカンガクガクの予算編成の末、
父は、近くに住む、立派な日本建築に住まわれていた棟梁に頼み込んで、
ナント!書院造を作ってくれというのでした。
後で気づいたのですが・・・父の書棚に「小堀遠州」の本が沢山ある訳だこりゃ・。
そして「我が家に茶室を!」を合言葉に着工がなされ、
あれよあれよという間に、
我が家の端に小さいながら書院造の間と水屋、それと祖父の部屋がくっ付いて、
不思議な合成が出来上がったのでした。
話は長くなりましたが・・・、
母はその時に出た床柱の廃材を利用して、
若い時より知っていた瀧先生に、その板切れに一句書いて頂くということを思い付いたのでした。
そしてある日、両親と引き連れられた私とで先生のご自宅にお伺いし、そこで母は、
水は息つめて 水鳥を眠らせる
という美しい破調の句の手筆をお願いしました。
父は、芥川龍之介を偲んで先生が作られた句、
澄 光 堂 寝 ね し に あ ら ず 虫 時 雨
(ちょうこうどういねしにあらずむししぐれ)
を短冊に所望いたしました。
澄光堂は芥川龍之介の号です。
龍之介は 『忙中謝客』 という字を玄関に掲げていたと言います。
そのことを題材にした一句で、父の解釈によれば、
「邪魔をするでない!作家の身体の中で芸術の虫が鳴いている。」
と述べられているのだそうです。
先生は、「書家に見られちゃ、困ったな。」と言いながら、
お酒を嗜まれた後、どちらも素晴らしい字で書き上げられたのでした。
碧梧桐・虚子以後の俳人では、おそらく一、二の達筆ではなかったかと、
勝手ながら私は考えています。
それからしばらくして、母はある句を先生に伝えました。
私が4歳の時に作った俳句を思い出したんです。
実は母親も割に豪胆なんだなと思いつつ、
真っ赤になりながら、私は先生が何を言うのかと耳をそばだてました。
「こりゃ、大人よりはるかに上手だ。他にはどんなのあるの?」
その言葉を頂戴したことは生涯の嬉しい思い出となりました。
先生の忘れ得ぬ句、
木 雫 は 雨 よ り 太 し 青 楓 春一
とともに。
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