575日記

あけましておめでとうございます。

秀句仰望

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俳人たちの尊敬すべき句を、御一緒にすこしだけ鑑賞してみましょう。自分なりの解釈も試みようと思います。
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  早いもので10月ももう終わろうとしていますね。

  ということは、秋の季語ともそろそろお別れということになります。

  
  ところで、この10月、個人的に少々嬉しかったことがあります。

  『俳句界』という俳句の総合誌で、俳人・瀧春一が回顧されたのです。

  月別に一人ずつ紹介している「魅惑の俳人たち」という企画の10番手としての登場でした。

  あまり言うと何ですが、そこへ文を寄せた一人に現在の俳句の師もおりました。


   ただ何より瀧先生は、私が俳句を始めた一つの端緒を下さった方なのです。

  
  
  私の家庭は「和風な一家」でした。

  父は書家、母は書・華道・茶道の師範の免許を持っておりました。

  そして父は芸術家肌の大胆不敵な人で、母は基本的に倹しい生活を支えるタイプの人でした。

  
  それが・・ある年、おそらく私が小学校2年生の時だったと思いますが、

  両親が一大決心をしたんです。

  母が一生懸命貯めたお金で、父が我が家に茶室を建て増ししようというのです。

  私の当時の家の脇には掘立小屋のような物置がありました。

  そもそもは年の離れた兄が、あたかも自分の持家のように使っていたのですが、

  兄が結婚して出て行ったので、その後物置として使われていたんです。

  それを取り壊し、茶室を作るというのです。


  建て増しにはもう一つ理由がありました。

  隣家に叔父が住んでいて、その家に祖父が同居しておりました。

  私の父は長男だったので、その祖父の部屋も一緒に造ろうというのです。

  祖父を引き取ることは母の願いの一つでありました。

 
  父と母のカンカンガクガクの予算編成の末、

  父は、近くに住む、立派な日本建築に住まわれていた棟梁に頼み込んで、

  ナント!書院造を作ってくれというのでした。

  後で気づいたのですが・・・父の書棚に「小堀遠州」の本が沢山ある訳だこりゃ・。


  そして「我が家に茶室を!」を合言葉に着工がなされ、

  あれよあれよという間に、

  我が家の端に小さいながら書院造の間と水屋、それと祖父の部屋がくっ付いて、

  不思議な合成が出来上がったのでした。

  
   話は長くなりましたが・・・、

  母はその時に出た床柱の廃材を利用して、

  若い時より知っていた瀧先生に、その板切れに一句書いて頂くということを思い付いたのでした。

  そしてある日、両親と引き連れられた私とで先生のご自宅にお伺いし、そこで母は、

  
    水は息つめて 水鳥を眠らせる
   

  という美しい破調の句の手筆をお願いしました。


  父は、芥川龍之介を偲んで先生が作られた句、

 
    澄 光 堂 寝 ね し に あ ら ず 虫 時 雨
         (ちょうこうどういねしにあらずむししぐれ)
  
  を短冊に所望いたしました。

  
  澄光堂は芥川龍之介の号です。

  龍之介は 『忙中謝客』 という字を玄関に掲げていたと言います。

  そのことを題材にした一句で、父の解釈によれば、

  「邪魔をするでない!作家の身体の中で芸術の虫が鳴いている。」

  と述べられているのだそうです。  


  先生は、「書家に見られちゃ、困ったな。」と言いながら、

  お酒を嗜まれた後、どちらも素晴らしい字で書き上げられたのでした。

  碧梧桐・虚子以後の俳人では、おそらく一、二の達筆ではなかったかと、

  勝手ながら私は考えています。

  
  それからしばらくして、母はある句を先生に伝えました。

  私が4歳の時に作った俳句を思い出したんです。

  実は母親も割に豪胆なんだなと思いつつ、

  真っ赤になりながら、私は先生が何を言うのかと耳をそばだてました。

   「こりゃ、大人よりはるかに上手だ。他にはどんなのあるの?」

 
  その言葉を頂戴したことは生涯の嬉しい思い出となりました。


  先生の忘れ得ぬ句、

     木 雫 は 雨 よ り 太 し 青 楓    春一

  とともに。




 
 

  

富田木歩

    
      夕立や田をみめぐりの神ならば    其角
 
  墨田区の向島2丁目にある三囲(みめぐり)神社にこの句碑がある。

 俳句は諳んずる文学であると言われる。

 蕉門十哲の中でも、やはりその華やかさから注目される其角。その秀句の中でも、この句を声を出して

 なぞりたくなることがある。それだけ明るくさわやかな印象の句だ。

 
  しかしもう一つ、観れば一瞬にして心の沈む句碑が、この神社には立っている。

    夢に見れば死もなつかしや冬木風     木歩

 
  木歩の生涯は余りにも悲しい。悲惨と言える。

 東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた木歩は、2歳のとき、病いのために歩行不能の体となっ

 た。また貧困から、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。とはいえ、カルタ

 やメンコで文字を覚えて、本を読むことの好きな少年だった。

 
  木歩には4人の姉妹と兄、弟があった。弟は聾唖者、二人の姉と妹一人は貧しさから遊郭に身を落と

 した。

 とりわけ妹まき子とは仲が良く、まき子は、家にあっては手足になって何かと兄の面倒を見たようだ。

 また木歩も弟利助とまき子を格別大切にしたのである。

 悲しい触れ合いの中で多くの句が生まれる。

     医師の来て垣覗く子や黐の花

     床ずれに白粉ぬりぬ牽牛花

     今宵名残りとなる祈りかも夏嵐

 大正七年の二月に利助が逝く。翌三月、まき子も同じく肺を病んで家に戻った。五月には、まき子の病

 状が悪化する。七月逝去。

     かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

     涙湧く眼を追ひ移す朝顔に
    
     死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ
    
     明けはずむ樹下に母立ち尽したり


  作句は初め「ホトトギス」入門欄に投句し原石鼎の指導を受けたが、次いで臼田亞浪に師事、「石

 楠」に拠る。後には渡辺水巴の「曲水」に加わった。木歩の俳号は、彼自身が歩きたさの一念で作った 
 木製の足に依る。


  彼が壮絶な死を迎えるのが大正一二年九月一日。関東大震災である。

 木歩と同い年の親友新井声風は、浅草に住んでいた。大震災の折、木歩の元に駆けつけると、混乱の中
 
 で土手の上に妹たちと一緒の木歩を見つけたのである。木歩を背負い、枕橋近くまで走ったが、橋は燃

 え落ちて周囲に火の手が迫る。逃げ道を失ったと悟ると、声風は木歩と無言の握手をし、津波で2倍に

 水嵩を増した隅田川に飛び込んだという。

 
  木歩は何度も隅田川の洪水に見舞われたことがあるという。その中で以前親友とも死に別れていた。

 震災が起こったとき、逃げる最中、胸の内でよぎったことがあったかも知れない。

 ともに川に飛び込むことはしなかった。26歳の若さだった。


  現在私たちは、奇跡的に助かった新井声風尽力によって、木歩の優れた句や文、その才を目にしてい

 る。

 





 

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高島 茂先生

      
       
         高島 茂先生

 高島茂先生とはじめてお会いしたのは、かなり幼いころのはずですが、記憶にありません。滝春一先生

のお宅でかもしれません。母とは滝先生の雑誌「暖流」で古いつきあいのようでした。
 
 そこで私の5歳の時の句を滝先生と共に褒めてくださったこと。小学校の時にもたまたま母に句会に連

れて行かれ、そこで1句作るように言われ、それを特選のように扱ってくださったことが、現在に繋がっ

ているのは確かなことです。


 普段は焼き鳥やさん。新宿の文人の溜まり場であった「ボルガ」の主人で、そこにはかなり多くの俳人

が出入りしていたようです。石川桂郎の「俳狂列伝」にはお金のない俳人に酒を振る舞ったり、世話をし

た話がでています。そんなところからでしょう、皆川磐水氏の御本では、他のすべての俳人には、俳人の

名前と合わせて○○主宰と書いてあるのに対し、「獐」主宰 高島茂ではなく、”人情の俳人”高島茂と

確か書いてありました。

 もちろん別の話でしょうが、何に観てのことか、母も高島先生のことを「高島先生は大人よ〜。」とい

っていたことが、なぜか耳に残っています。人望の厚い方であることは間違いありません。

 
 「獐」に私が所属してから、何度か句を貯めては「ボルガ」にお邪魔して、句を観ていただきました。

茂先生は店の仕事傍らに、時折店内の賑わいにも通るような大きな声を出しつつ、私の句を一見斜め読み

のような早さで読まれ、的確に評価して指導してくださいました。

 
 昭和62年現代俳句協会賞受賞。平成11年8月に亡くなりました。

 「獐」の表紙に先生の字で書かれ、当時魅かれていた句、
 
    混 濁 を 吐 き つ つ 太 る 烏 貝 (こんだくをはきつつふとるからすがい)

も今や懐かしい響きの句となってしまいました。

石川桂郎

    
   
        石川桂郎
 
 石川桂郎に魅かれ始めたのは、だいぶまえのこと、私の大叔母が住み、お茶を教えていた鶴川の家のそ

ばに桂郎が住んでいたことを知ったあたりからでしょうか。その著書「風狂列伝」が面白いと聞いて読ん

だりもしました。私の以前習っていた俳句の2人の師とも付き合いのあったことは、それを読む中で、ま

たその後に知ることとなりました。

 しかし本当の意味で興味を覚えたのは最近のことだと思います。

    遠 蛙 酒 の 器 の 水 を 飲 む     桂郎

 良さそうな句を自分なりに少しばかり抜き出そうとすると、そこにはやはり独特の色気がはっきりある

ことに気づかされました。生い立ちや経験、体験から沁みてくる人間臭さと、それを携えながらも、句の

上では瀟洒に立ち振舞うことも知っている、というようなところがあると思います。それが絡み合って独

特な色気が滲むといいましょうか。

 江戸っ子で職人気質、持ち前の喧嘩っぱやさと不器用でときに気の弱いところも見せる人柄。どの句を

見てもなぜか含羞を帯びた桂郎の顔が浮かんでくるのです。強烈な個性が先入観としてあるからだけとは

思えません。句自体にそれを感じるからだと思います。

 句にも癖がありますから、読めば読むほど、人間と句が表裏となる感覚を覚えますが、桂郎ほどの人は

僕の思い浮かべるうちには今はちょっと見当たらないかもしれません。
 
 「風土」を主宰し、読売文学賞、蛇笏賞作家。芥川賞の次点にもなりました。11月6日は桂郎忌とし

て歳時記に載っています。

 桂郎の「べらんめー」は相当のの切れ味で、これほどスピーチの面白かった俳人はいないのではという

ことを耳にしたことがあります。生前にお会いしたかった・・。







 

室生犀星

 

        室生犀星

 俳人と言うよりも、詩人・文学者ですが、独特の味わいのある句が多くあります。最近気になった句を

一つ試みに挙げてみます。

    ふるさとや白山吹の町のうら

 何でもないような句ですが、非常に味わい深いと思います。
 
 岩手山や磐梯山等、立派な山の麓で育った文人を時々うらやましくも思いますが、ふるさとを感じると

いうのは、ほとんどの者にとってどういう時なのでしょうか?すばらしく牧歌的な環境で、少年時代を過

ごした人ばかりではありません。都会の生まれの人でも、成長してから、例えば河原の草いきれを感じた

とき、落ち葉を踏みしめたとき、あるいは工場のにおいが鼻をくすぐったとき、何か懐かしい気持ちにな

るということもあるでしょう。「私自身の胸にある故郷を句としてみたい。」ということはだれもが一度

は抱く考えです。でも意外とうまく表現している人は少ないのではないでしょうか?

 室生犀星は金沢の人、犀川のほとりで育ったようですね。それ故に犀星。郷土をこよなく愛していたの

でしょう。この句からもそのことが偲ばれます。

 犀星の知る金沢は、現在のように発展していなくとも、人々の往来の多い立派な町であったでしょう。

大人たちの活気と白山吹の輝かしさのうらに、ひっそりとある我が家。短く平明な中にしっかりと犀星の

詩的感覚がきらめいているように思います。

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