ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

その日にあった歴史上の出来事についていろいろと書いています!

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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、千代田IC〜鹿野ICが開通し、中国自動車道(吹田〜下関)が全線開通した日です。
 中国自動車道(ちゅうごくじどうしゃどう)は、大阪府吹田市から兵庫県、岡山県、広島県、島根県を経由して山口県下関市へ至る高速道路(高速自動車国道)で、略称は中国道、日本高速道路公団の分割民営化後は西日本高速道路が管理してきました。
 1966年(昭和41)7月に工事に着手し、1970年(昭和45)3月1日に、中国吹田IC〜中国豊中ICが暫定2車線で開通し、中国自動車道の最初の開通区間となります。その後、順次開通区間を伸ばしていき、1983年(昭和58)3月24日の千代田IC〜鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田〜下関)が全通します。
 近畿以西の東西方向の長距離交通を担う大動脈で、中国山地の南側の山間部を貫いていて、現在では山陽自動車道と共に、近畿圏と九州地方を結ぶ重要路線となりました。
 また、吹田JCTで名神高速道路と近畿自動車道、西宮山口JCTで阪神高速7号北神戸線、神戸JCTで山陽自動車道、神戸JCTで新名神高速道路、吉川JCTで舞鶴若狭自動車道、福崎ICで播但連絡道路、佐用JCTで鳥取自動車道、落合JCTで米子自動車道、北房JCTで岡山自動車道、三次東JCT/ICで松江自動車道と尾道自動車道、千代田JCT浜田自動車道、広島北JCTで広島自動車道、山口JCTと下関JCTで山陽自動車道、下関ICで関門自動車道と接続しています。
 現在の全長は540.1km、高速自動車国道の中では東北自動車道に次いで第2位の長さで、2010年度(平成22)の1日平均利用台数は約14万台でした。

〇中国自動車道関係略年表

<1966年(昭和41)>
・7月 : 中国自動車道の工事が着手される

<1970年(昭和45)>
・3月1日 : 中国吹田IC〜中国豊中ICが暫定2車線で開通(中国自動車道初の区間開通)
・7月23日 : 中国豊中IC〜宝塚ICが開通

<1973年(昭和48)>
・11月14日 : 小月IC〜下関ICが開通。同時に関門橋(関門自動車道)と接続

<1974年(昭和49)>
・6月4日 : 西宮北IC〜福崎ICが開通
・7月31日 : 小郡IC〜小月ICが開通
・12月21日 : 美作IC〜落合ICが開通

<1975年(昭和50)>
・4月1日 : 山口IC〜小郡ICが開通
・10月16日 : 宝塚IC〜西宮北IC、福崎IC〜美作ICが開通
・12月10日 : 院庄IC開通

<1976年(昭和51)>
・12月24日 : 落合IC〜北房ICが開通

<1978年(昭和53)>
・10月28日 : 北房IC〜三次ICが開通(北房IC〜庄原ICは暫定2車線)

<1979年(昭和54)>
・5月15日 : 吹田JCT(名神〜中国道直結ランプ)開通
・10月18日 : 三次IC〜千代田ICが開通

<1980年(昭和55)>
・10月17日 : 鹿野IC〜山口ICが開通(鹿野IC〜徳地ICは暫定2車線)

<1982年(昭和57)>
・4月20日 : 東城IC〜庄原ICが4車線化

<1983年(昭和58)>
・2月:山崎TB設置
・3月18日 : 新見IC〜東城ICが4車線化
・3月24日 : 千代田IC〜鹿野ICが開通し全線開通(広島北JCT〜鹿野ICは暫定2車線)

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 今日は、1950年(昭和25)に、世界気象機関(WMO)が設立された日で、「世界気象デー」となっています。
 世界気象機関(せかいきしょうきかん)は、正式名称を英語では、World Meteorological Organization(略称:WMO)といい、1947年(昭和22)に採択された「世界気象機関条約」に基づき、1950年(昭和25)3月23日正式に設立され、翌年に最初の総会を開き、国連専門機関となりました。
 前身は、1853年にベルギーのブリュッセルで開かれた海上気象会議で、その後の1873年(明治6)にオーストリアのウィーンで世界の主要海運国の気象台長が中心となって国際気象会議が開かれ、政府間組織である「国際気象機関」(International Meteorological Organization、略称:IMO)となります。それが、発展的に解消し、1947年(昭和22)に世界気象機関条約が採択され、1950年(昭和25)に、世界気象機関(WMO)が設立されるに至りました。
 その目的は、(1)気象観測網の確立、気象中枢の確立と維持についての国際協力の助長、(2)気象情報の迅速な交換のための組織の確立と助長、(3)気象観測の標準化と公表、(4)人間活動に対する気象学の応用、(5)気象の教育と研究などとなりました。その中で、気象観測業務や水文業務と調査研究活動の国際的な標準化や調整を図ることが主な業務とされています。
 その組織は、本部がスイスのジュネーブに置かれ、最高決議機関が4年に1回開催される世界気象会議で、その下に執行理事会、専門委員会、地区気象協会、事務局があり、2015年(平成27)3月現在、加盟しているのは、国連加盟の185ヶ国とクック諸島、ニウエ、および6地域(191の国と地域)となりました。
 日本は1953年(昭和28)に加盟、アジア地区協会に入っており、日本の分担金の分担率は10.68%(2015年)で、気象庁は、WMO温室効果ガス世界資料センターを1990年(平成2)に開設しています。
 尚、発足から10周年を迎えた1960年(昭和35)に、毎年3月23日が「世界気象デー」(World Meteorological Day)と定められるようになりました。毎年キャンペーンテーマを設け、気象業務への国際的な理解の促進に努めていて、今年は、「より暑く、より乾いた、より雨の多い – 将来と向き合う(原文:Hotter, drier, wetter. Face the future.)」です。

〇「世界気象デー」の今年のキャンペーンテーマについての解説

・キャンペーンテーマ「より暑く、より乾いた、より雨の多い – 将来と向き合う(原文:Hotter, drier, wetter. Face the future.)」

 気候は変化しつつあります。これは将来起こる状況の予測などではなく、今起きていることです。人間活動に伴う温室効果ガスの大気中への蓄積によって、気候はこれから数十年間、引き続き変化します。大気中の温室効果ガス濃度は、2015 年にはこれまで観測されたことのない値に達しました。二酸化炭素濃度は、産業革命以前の濃度280ppm に対して昨年の春には北半球で400ppm という象徴的な濃度を超えました。地球全体の平均の濃度も2016 年には1年を通じて400ppm を超えるとみられます。幸い各国政府は今、気候変動の科学的根拠、及び差し迫った行動をとっていく必要性を十分に認めています。特にエネルギー分野では、低炭素技術の進歩に、より多くの研究や投資が必要とされています。しかし、既に多くの政策や技術、行動が可能となっており、これらの展開を拡大していく必要があります。こうした取組に、個人レベル、地域社会のリーダー、ビジネス分野、市民団体、政府そして国連機関全ての貢献が求められています。

  「WMOのウェブページ」より

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 今日は、平成時代の2007年(平成19)に、小説家・経済学者城山三郎の亡くなった日です。
 城山三郎(しろやま さぶろう)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)8月18日に、愛知県名古屋市中区で生まれましたが、本名は杉浦英一と言いました。
 名古屋市立名古屋商業学校(現在の市立名古屋商業高等学校)を経て、1945年(昭和20)に愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学します。しかし、17歳で海軍特別幹部練習生として志願入隊し、特攻隊員として敗戦を迎えました。
 戦後、1946年(昭和21)に東京産業大学(現在の一橋大学)予科へ入学、理論経済学を学び、卒業論文として「ケインズ革命の一考察」を書いて、1952年(昭和27)には、改名された一橋大学を卒業しました。その後帰郷し、愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任(後に専任講師)、景気論と経済原論を担当します。
 一方で小説を書き始め、経済学の知識を生かした分野を開拓、1957年(昭和32)に『輸出』で文学界新人賞受賞しました。同年末には、神奈川県茅ヶ崎市に転居し、1959年(昭和34)に『総会屋錦城』で第40回直木賞を受賞します。1963年(昭和38)に日本作家代表団としての訪中を機に、愛知学芸大を退職し、以後作家業に専念しました。
 田中正造を描いた『辛酸』など、実在の人物をモデルとした伝記小説、軍隊での体験を生かした戦争小説も手掛け、『落日燃ゆ』(1974年)で、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞、『もう,きみには頼まない―石坂泰三の世界』(1996年)で菊池寛賞、2002年(平成14)には朝日賞を受賞しましたが、紫綬褒章など国の叙勲は拒否します。
 また、映像化された作品も多く、歴史小説『黄金の日日』(1978年)は、NHKの大河ドラマとして放映されました。人間を軸に、苦境の中でも志を貫く姿を描いてきたものの、2007年(平成19)3月22日に、神奈川県茅ヶ崎市内の病院において、79歳で亡くなっています。

〇城山三郎の主要な著作

・『輸出』(1957年)文学界新人賞受賞
・『総会屋錦城(きんじょう)』(1958年)直木賞受賞
・『大義の末』(1959年)
・『小説日本銀行』(1962年)
・『辛酸(しんさん)』(1962年)
・『硫黄島に死す』(1963年)
・『鼠(ねずみ)』(1966年)
・『一歩の距離――小説予科練』(1968年)
・『雄気堂々』(1972年)
・『落日燃ゆ』(1974年)吉川英治文学賞、毎日出版文化賞受賞
・『官僚たちの夏』(1975年)
・『毎日が日曜日』(1976年)
・『黄金の日日』(1978年)
・『もう,きみには頼まない―石坂泰三の世界』(1996年)菊池寛賞受賞
・『指揮官たちの特攻』(2001年)

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 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出した日です。
 函館大火(はこだてたいか)は、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は南南西の強風が最大瞬間風速39mに及ぶ中、北海道函館市住吉町91番地で、午後6時53分頃に出火し、瞬く間に燃え広がりました。木造家屋が密集する市街地へ次々と延焼したため、消火活動の手が付けられない状態となります。時間の経過に伴い、風向が南から南西、そしへ西風へと時計回りに変化していったため、広範囲に燃え広がり、最終的には市街地の3分の1(面積416,39ha)が焼失して、翌22日午前6時頃にようやく鎮火しました。
 これによる被害は、死者2,166名、負傷者9,485名(重傷2,318名・軽傷7,167名)、焼失家屋11,105棟、焼失世帯22,667戸、罹災人口約102,001名にのぼります。焼失した主たる建物は、官公庁13,学校18、神社寺院16、病医院48、新聞社6、銀行11、百貨店2、劇場10等となり、損害総額は23,918,027円(当時金額)と大きなものでした。
 この救済のために、天皇家・宮家からの下賜金をはじめ、諸外国より多数の見舞いがあり、全国から義援金および救援品が多く寄せられます。
 大火の被害が大きかった原因を、当時の建築学会による報告書は、「一.発火より消防署に於て知覚するまでに約五分を要したこと、二.風力甚大で火災の伝播速度大且飛火多く尚風向の旋転方向亦最悪的であった事、三.火元付近は特に地形の関係に依り延焼中頻りに風の旋転、突風起りし事、四.発火地点及海岸付近は特に矮小粗悪木造家屋連担し且全市に亘り粗雑木造家屋が多かった事、五.防火地区極めて尠く、広場、公園等の都市計画上の施設が完備して居なかった事、六.発火地点は水道終点である為め水圧弱く水量乏しく、加ふるに風力強き為めに消防組の活動意の如く行われなかった事、七.道路概して狭隘にして消防組の部署変更に困難なりし事」(『函館大火災(昭和9年3月21日)調査報告』)としました。
 また、物理学者・随筆家寺田寅彦は、「函館の大火について」(「中央公論」昭和9年5月号)を著していますので、以下に全文掲載しておきます。
 尚、函館市における大火は明治時代以降、焼失戸数1,000戸以上のものだけで10回ありますが、一般的に「函館大火」というと、最も被害の大きかった1934年(昭和9)3月21日のものとされてきました。

〇函館における大火一覧(函館の大火の内、明治時代以降で焼失戸数1,000戸以上のもの)

・1871年(明治4年9月2日) 「切見世火事」1,123戸焼失
・1873年(明治6年)3月23日 「家根屋火事」死者5名、14,314戸焼失
・1879年(明治12年)12月6日 2,326戸焼失
・1896年(明治29年)8月26日 「テコ婆火事」2,280戸焼失
・1899年(明治32年)9月15日 2,494戸焼失
・1907年(明治40年)8月25日 死者8名、負傷者1,000名、焼失戸数12,390戸焼失
・1913年(大正2年)5月4日 1,532戸焼失
・1916年(大正5年)8月2日 1,763戸焼失
・1921年(大正10年)4月14日 2,141戸焼失
・1934年(昭和9年)3月21日 死者2,166名、負傷者9,485名、22,667戸焼失

〇「函館の大火について」寺田寅彦著

 昭和九年三月二十一日の夕から翌朝へかけて函館市に大火があって二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。そうしてこれが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいことなのである。
 徳川時代の江戸には大火が名物であった。振袖火事として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午ごろ目黒行人坂大円寺から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝桜田から今の丸の内を焼いて神田下谷浅草と焼けつづけ、とうとう千住までも焼け抜けて、なおその火の支流は本郷から巣鴨にも延長し、また一方の逆流は今の日本橋区の目抜きの場所を曠野にした。これは焼失区域のだいたいの長さから言って今度の函館のそれの三倍以上であった。これは西暦一七七二年の出来事で今から百六十二年の昔の話である。当時江戸の消防機関は長い間の苦い経験で教育され訓練されてかなりに発達してはいたであろうが、ともかくも日本にまだ科学と名のつくもののなかった昔の災害であったのである。
 関東震災に踵を次いで起こった大正十二年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直接の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。あの時の火災がどうしてあれほどに暴威をほしいままにしたかについてはもとよりいろいろの原因があった。一つには水道が止まった上に、出火の箇所が多数に一時に発生して消防機関が間に合わなかったのは事実である。また一つには東京市民が明治以来のいわゆる文明開化中毒のために徳川時代に多大の犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防の事は警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察のほうでもまたそうとばかり信じ切っていたために市民の手からその防火の能力を没収してしまった。そのために焼かずとも済むものまでも焼けるに任せた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。
 今回の函館の大火はいかにして成立し得たか、これについていくらかでも正鵠に近い考察をするためには今のところ信ずべき資料があまりに僅少である。新聞記事は例によってまちまちであって、感傷をそそる情的資料は豊富でも考察に必要な正確な物的資料は乏しいのであるが、内務省警保局発表と称する新聞記事によると発火地点や時刻や延焼区域のきわめてだいたいの状況を知ることはできるようである。まず何よりもこの大火を大火ならしめた重要な直接原因は当時日本海からオホツク海に駆け抜けた低気圧のしわざに帰せなければならない。天気図によると二十一日午前六時にはかなりな低気圧の目玉が日本海の中央に陣取っていて、これからしっぽを引いた不連続線は中国から豊後水道のあたりを通って太平洋上に消えている。こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌の真西あたりの見当の日本海のまん中に来てその威力をたくましくしていた。そのために東北地方から北海道南部は一般に南西がかった雪交じりの烈風が吹きつのり、函館では南々西秒速十余メートルの烈風が報ぜられている。この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。
 古来の大火の顛末を調べてみるといずれの場合でも同様な運命ののろいがある。明暦三年の振袖火事では、毎日のように吹き続く北西気候風に乗じて江戸の大部分を焼き払うにはいかにすべきかを慎重に考究した結果ででもあるように本郷、小石川、麹町の三か所に相次いで三度に火を発している。由井正雪の残党が放火したのだという流言が行なわれたのももっともな次第である。明和九年の行人坂の火事には南西風に乗じて江戸を縦に焼き抜くために最好適地と考えられる目黒の一地点に乞食坊主の真秀が放火したのである。しかし、それはもちろんだれが計画したわけでもなく、偶然そういう「大火の成立条件」がそろったために必然的に大火が成立し、それがためにこそ稀有の大火として歴史に残っているに過ぎないのである。同様に現在の函館の場合においても偶然にも運悪くこの条件が具備していたために歴史的な大火災ができあがったに相違ないのである。
 江戸の火災の焼失区域を調べてみると、相応な風のあった場合にはほとんどきまって火元を「かなめ」として末広がりに、半開きの扇形に延焼している。これは理論上からも予期される事であり、またたとえば実験室において油をしみ込ませた石綿板の一点に放火して、電扇の風であおぐという実験をやってみてもわかることである。風速の強いときほど概してこの扇形の頂角が小さくなるのが普通で、極端な例として享保年間のある火事は麹町こうじまちから発火して品川沖へまで焼け抜けたが、その焼失区域は横幅の平均わずかに一二町ぐらいで、まるで一直線の帯のような格好になっている。風がもっともっと強くなればすべての火事はほんとうに「吹き消される」はずである。しかし江戸大火の例で見ると、この焼失区域の扇形の頂角はざっと六十度から三十度の程度である。明暦大火の場合はかなりの烈風でおそらく十メートル以上の秒速であったと思われる根拠があるが、その時のこの頂角がだいたいにおいて、今度の函館の火元から焼失区域の外郭に接して引いた二つの直線のなす角に等しい。そうしてこの頂角を二等分する線の方向がほぼ発火当時の風向に近いのである。これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。
 二十二日午前六時には低気圧中心はもうオホツク海に進出して邦領カラフトの東に位し、そのために東北地方から北海道南部はいずれもほとんど真西の風となっている。それで発火後風向はだんだんに南々西から西へ西へと回転して行ったに相違ない。このことがまた実に延焼区域を増大せしめるためにまるであつらえたかのように適応しているのである。もしも最初の南々西の風が発火後その方向を持続しながら風速を増大したのであったらおそらく火流は停車場付近を右翼の限界として海へ抜けてしまったであろうと思われるのが、不幸にも次第に西へ回った風の転向のために火流の針路が五稜郭の方面に向けられ、そのためにいっそう災害を大きくしたのではないかと想像される。この気象学者には予測さるべき風向の旋転のために死なずともよい多数の人が死んだのである。
 火災中にしばしば風向が変わったと報ぜられているがこれは大火には必然な局部的随伴現象であって現場にいる人にとっては重大な意義をもつものであるが、延焼区域の大勢を支配するものではないから、上記の推測に影響を及ぼす性質のものではないと思われる。
 要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであったことは疑いもない事実である。
 函館市は従来しばしば大火に見舞われた苦い経験から自然に消防機関の発達を促され、その点においては全国中でも優秀な設備を誇っていたと称せられているのであるが、それにもかかわらず今日のような惨禍のできあがったというのは、一つには上記のごとき不幸な偶然の回り合わせによるものであるには相違ない。おそらくそのほかにもいろいろ平生の火災とはちがった意外な事情が重なり合って、それでこそあのような稀有の大火となってしまったであろうと想像される。
 だれも知るとおり火事の大小は最初の五分間できまると言われている。近ごろの東京で冬期かなりの烈風の日に発火してもいっこうに大火にならないのは消火着手の迅速なことによるらしい。しかし現在の東京でもなんらか「異常な事情」のためにほんの少しばかり消防が手おくれになって、そのために誤ってある程度以上に火流の前線を郭大せしめ、そうしてそれを十余メートルの烈風があおり立てたとしたら、現在の消防設備をもってしても、またたいていの広い火よけ街路の空間をもってしてもはたして防ぎ止められるかどうかはなはだ疑わしい。幸いに大雨でも降り出すか、あるいは川か海か野へでも焼け抜けてしまわない限り鎮火することは到底困難であろうと考えられる。それで函館の場合にも必ず何かしら異常な事情の存在したために最初の五分間に間に合わなかったのではないかと想像しないわけにはゆかないのである。しかしどんな事情があったかを判断すべき材料は今のところ一つもない。いろいろの怪しいうわさはあるがにわかに信用することはできない。しかしそういうことを今詮索するのはもとより自分の任でもなんでもない。ただ自分は今回の惨禍からわれわれが何事を学ぶべきかについていくらかでも考察し、そうして将来の禍根をいくらかでも軽減するための参考資料にしたいと思うのである。
 あんなにも痛ましくたくさんの死者を出したのは一つには市街が狭い地峡の上にあって逃げ道を海によって遮断せられ、しかも飛び火のためにあちらこちらと同時に燃え出し、その上に風向旋転のために避難者の見当がつかなかったことなども重要な理由には相違ないが、何よりも函館市民のだれもが、よもやあのような大火が今の世にあり得ようとは夢にも考えなかったということにすべての惨禍の根本的の原因があるように思われるのである。もう一歩根本的に考えてみると畢竟わが国において火災特に大火災というものに関する科学的基礎的の研究がほとんどまるきりできていないということが究竟の原因であると思われる。そうして、この根本原因の存続する限りは、将来いつなんどきでも適当な必要条件が具足しさえすれば、東京でもどこでも今回の函館以上の大火を生ずることは決して不可能ではないのである。そういう場合、いかに常時の小火災に対する消防設備が完成していてもなんの役にも立つはずはない。それどころか五分十分以内に消し止める設備が完成すればするほど、万一の異常の条件によって生じた大火に対する研究はかえって忘れられる傾向がある。火事にも限らず、これで安心と思うときにすべての禍いの種が生まれるのである。
 火事は地震や雷のような自然現象でもなく「おやじ」やむすこのような自由意志を備えた存在でもなく、主としてセリュローズと称する物質が空気中で燃焼する物理学的化学的現象であって、そうして九九プロセントまでは人間自身の不注意から起こるものであるというのは周知の事実である。しかし、それだから火事は不可抗力でもなんでもないという説は必ずしも穏当ではない。なぜと言えば人間が「過失の動物」であるということは、統計的に見ても動かし難い天然自然の事実であるからである。しかしまた一方でこの過失は、適当なる統制方法によってある程度まで軽減し得られるというのもまた疑いのない事実である。
 それで火災を軽減するには、一方では人間の過失を軽減する統制方法を講究し実施すると同時に、また一方では火災伝播に関する基礎的な科学的研究を遂行し、その結果を実地に応用して消火の方法を研究することが必要である。
 もちろん従来でも一部の人士の間では消防に関する研究がいろいろ行なわれており、また一方では防火に関する宣伝につとめている向きも決して少なくはないようであるが、それらの研究はまだ決して徹底的とは言い難く、宣伝の効果もはなはだ薄弱であると思われる。
 消防当局のほうでもたとえばポンプや梯子の改良とか、筒先の扱い方、消し口の駆け引きといったようなことはかなり詳しく論ぜられていても、まだまだだいじないろいろの基礎的問題がたくさんに未研究のままで取り残されているのである。たとえば今回のような大火災の場合に当たって、火流前線がどれだけ以上になった場合に、どれだけの風速どの風向ではどの方向にどこまで焼けるかという予測が明確にでき、また気象観測の結果から風向旋転の順位が相当たしかに予測され、そうして出火当初に消防方針を定めまた市民に避難の経路を指導することができたとしたらおそらく、あれほどの大火には至らず、また少なくもあんなに多くの死人は出さずに済んだであろうと想像される。こういうことはあらかじめ充分に研究さえすれば決して不可能なことではないのである。
 それからまた不幸にして最初の消防が失敗しすでにもう大火と名のつく程度になってしまってしかも三十メートルの風速で注水が霧吹きのように飛散して用をなさないというような場合に、いかにして火勢を、食い止めないまでも次第に鎮圧すべきかということでも、現代科学の精髄を集めた上で一生懸命研究すれば決して絶対に不可能なことではないであろう。
 現代日本人の科学に対する態度ほど不可思議なものはない。一方において科学の効果がむしろ滑稽なる程度にまで買いかぶられているかと思うと、一方ではまた了解のできないほどに科学の能力が見くびられているのである。火災防止のごときは実に後者の適例の一つである。おそらく世界第一の火災国たる日本の消防がほとんど全く科学的素養に乏しい消防機関の手にゆだねられ、そうして、いちばん肝心な基礎科学はかえって無用の長物ででもあるように火事場からはいっさい疎外されているのである。
 わが国で年々火災のために灰と煙になってしまう動産不動産の価格は実に二億円を超過している。年々火災のために生ずる死者の数は約二千人と見積もられている。十年たてば二十億円の金と二万人の命の損失である。関東震災の損害がいかに大きくてもそれは八十年か百年かに一回の出来事であるとすれば、これを年々根気よくこくめいに持続し繰り返す火事の災害に比すれば、長年の統計から見てはかえってそれほどのものではないと言われよう。
 年に二千人と言えば全国的に見て僅少かもしれないが、それでも天然痘や猖紅熱で死ぬ人の数よりは多い。また年二億円の損失は日本の世帯から見て非常に大きいとは言われないかもしれないが、それでも輸入超過年額の幾割かに当たり、国防費の何十プロセントにはなりうる。
 これほどの損害であるのに一般世間はもちろんのこと、為政の要路に当たる人々の大多数もこれについてほとんど全く無感覚であるかのように見えるのはいったいどういうわけであるか、実に不思議なようにも思われるのである。議会などでわずかばかりの予算の差額が問題になったり、またわずかな金のためにおおぜいの官吏の首を切ったり俸給を減らしたりするのも結構であるが、この火災による損失をいくぶんでも軽減することもたまには講究したらどんなものであろうかと思われる。この損失は全然無くすることは困難であるとしても半分なり三分の一なりに減少することは決して不可能ではないのである。
 火災による国家の損失を軽減してもなるほど直接現金は浮かび上がっては来ない。むしろかえって火災は金の動きの一つの原因とはなりうるかもしれない。このことが火災の損害に対する一般の無関心を説明する一つの要項であるには相違ないのであるが、しかしともかくも日本の国の富が年々二億円ずつ煙と灰になって消失しつつある事実を平気で見過ごすということは少なくも為政の要路に立つ人々の立場としてはあまりに申し訳のないことではないかと思われるのである。
 文明を誇る日本帝国には国民の安寧を脅かす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは伝染病研究所や癌研究所のようなもの、それから衛生試験所とか栄養研究所のようなものもある。地震に関しては大学地震研究所をはじめ中央気象台の一部にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に対しては中央気象台に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにも一つの理化学的火災研究所のある話を聞いた覚えがないのである。
 もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究とはそういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を純粋な基礎科学的な立場から根本的徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。
 研究すべき問題は無数にある。発火の原因となるべき化学的物理学的現象の研究だけでもたくさんの問題が未解決のまま残されている。たとえばつい近ごろアメリカで、巻き煙草の吸いがらから火事の卵のできる比率条件について実験的研究を行なった結果の報告が発表されていた。しかしその結果が気候を異にする日本にどこまで適用されうるかについてはだれも知らない。またたとえばガソリンが地上にこぼれたときいかなる気象条件のもとにいかなる方向にいかなる距離で引火の危険率が何プロセントであるかというようなことすらだれもまだ知らないことである。
 火災延焼に関する方則も全然不明である。延焼を支配するものは当時の風向風速気温湿度等のみならず、過去の湿度の履歴効果も少なからず関係する。またその延焼区域の住民家屋の種類、密集の程度にもよることもちろんである。これらの支配因子が与えられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度でいかなる面積に広がるかという問題についてたしかな解答を与えることは現在において困難である。しかしこれとても研究さえすれば次第に判明すべき種類の事がらである。この基礎的の方則が判明しない限り大火に対する有効な消防方針の決定されるはずはないのである。
 火災の基礎的研究には単に自然科学方面のみならず、また心理学的方面、社会学的方面にも広大な分野が存在する。たとえば東京市の近年の火災について少しばかり調べてみた結果でも、市民一人あての失火の比率とか、また失火を発見して即座に消し止める比率とか、そういう人間的因子が、たとえば京橋区日本橋区のごとき区域と浅草あさくさ本所のごとき区域とで顕著な区別のあることが発見されている。ともかくも、この種の研究を充分に進めた上で、消防署の配置や消火栓の分布を定めるのでなければ決して合理的とは言えないであろうと思われる。
 これらの研究は化学者物理学者気象学者工学者はもちろん心理学者社会学者等の精鋭を集めてはじめて可能となるような難問題に当面するであろう。決して物ずきな少数学者の気まぐれな研究に任すべき性質のものでなく、消防吏員や保険会社の統計係の手にゆだねてそれで安心していられるようなものでもなく、国家の一機関として統制された研究所の研究室において徹底的系統的に研究さるべきものではないかと思われる。
 西洋では今どきもう日本のような木造家屋集団の火災は容易に見られない。従ってこれに対する研究もまれであるのは当然である。しかし、西洋に木造都市の火事の研究がないからと言って日本人がそれに気兼ねをして研究を遠慮するには当たらない。それは、英独には地震が少ないからと言って日本で地震研究を怠る必要のないと同様である。ノルウェーの理学者が北光オーロラの研究で世界に覇をとなえており、近ごろの日本の地震学者の研究はようやく欧米学界の注意を引きつつある。しかしそれでもまだ灸治の研究をする医学者の少ないのと同じような特殊の心理から火事の研究をする理学者が少ないとしたらそれは日本のためになげかわしいことであろう。
 アメリカでは都市の大火はなくても森林火災が頻繁でその損害も多大である。そのために特別な科学的研究機関もあり、あまり理想的ではないまでもともかくも各種の研究が行なわれ、その結果はある程度まで有効に予防と消火の実際に応用されている。西部の森林地帯では「火事日和」なるものを指定して警報を発する設備もあるようである。
 わが国でも毎年四五月ごろは山火事のシーズンである。同じ一日じゅうに全国各地数十か所でほとんど同時に山火事を発することもそう珍しくはない。そういう時はたいていきまって著しい不連続線が日本海を縦断して次第に本州に迫って来る際であって同時に全国いったいに気温が急に高まって来るのが通例である。そういう時にたとえばラジオによって全国に火事注意の警報を発し、各村役場がそれを受け取った上でそれを山林地帯の住民に伝え、青年団や小学生の力をかりて一般の警戒を促すような方法でもとれば、それだけでもおそらく森林火災の損害を半減するくらいのことはできそうに思われる。われわれ素人しろうとの考えではこのくらいのことはいつでもわけもなくできそうに思われるのに、実際はまだどこでもそういう方法の行なわれているという話を聞かない。そうして年々数千万円の樹林が炎となり灰となっていたずらにうさぎやたぬきを驚かしているのである。そうして国民の選良たる代議士でだれ一人として山火事に関する問題を口にする人はないようである。
 数年前山火事に関する若干の調査をしたいと思い立って、目ぼしい山火事のあったときに自分の関係の某官衙から公文書でその山火事のあった府県の官庁に掛け合って、その山火事の延焼の過程をできるだけ詳しく知らせてくれるように頼んでやったことがあった。しかしその結果は予期に反する大失敗であって、どこからもなんらの具体的の報告が得られなかったばかりか、返事さえもよこしてくれない県が多かった。これはおそらく、どこでも単に「山火事があった」「何千町歩やけた」というくらいの大ざっぱなこと以上になんらの調査も研究もしていないということを物語るものであろうと思われた。たださえ忙しい県庁のお役人様はこの上に山火事の調査まで仰せつかっては困ると言われるかもしれないが、しかしこれも日本のためだと思って、もう少しめんどうを見てもらいたいと思うのである。山が焼ければ間接には飛行機や軍艦が焼けたことになり、それだけ日本が貧乏になり国防が手薄になるのである。それだけ国民全体の負担は増す勘定である。
 いずれにしても今回のような大火は文化をもって誇る国家の恥辱であろうと思われる。昔の江戸でも火事の多いのが自慢の「花」ではなくて消防機関の活動が「花」であったのである。とにかくこのたびの災害を再びしないようにするためには単に北海道民のみならず日本全国民の覚醒を要するであろう。政府でも火災の軽減を講究する学術的機関を設ける必要のあることは前述のとおりであるが、民衆一般にももう少し火災に関する科学的知識を普及させるのが急務であろうと思われる。少なくもさし当たり小学校中等学校の教程中に適当なる形において火災学初歩のようなものを插入したいものである。一方ではまたわが国の科学者がおりにふれてはそのいわゆるアカデミックな洞窟をいでて火災現象の基礎科学的研究にも相当の注意を払うことを希望したいと思う次第である。
 まさにこの稿を書きおわらんとしているきょう四月五日の夕刊を見るとこの日午前十時十六分函館西部から発火して七十一戸二十九棟を焼き、その際消防手一名焼死数名負傷、罹災者四百名中先日の大火で焼け出され避難中の再罹災者七十名であると報ぜられている。
 きのうあった事はきょうあり、きょうあった事はまたあすもありうるであろう。函館にあったことがまたいつ東京大阪にないとも限らぬ。考え得らるべき最悪の条件の組み合わせがあすにも突発しないとは限らないからである。同じ根本原因のある所に同じ結果がいつ発生しないと保証はできないのである。それで全国民は函館罹災民の焦眉の急を救うために応分の力を添えることを忘れないと同時に各自自身が同じ災禍にかからぬように覚悟をきめることがいっそう大切であろう。そうしてこのような災害を避けるためのあらゆる方法施設は火事というものの科学的研究にその基礎をおかなければならないという根本の第一義を忘却しないようにすることがいちばん肝要であろうと思われるのである。

(昭和九年五月、中央公論) 「青空文庫ホームページ」より

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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、東京の上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館した日です。
 東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本を中心とする東洋諸地域の美術工芸、考古遺物を保管・展示している日本の代表する博物館で、1882年(明治15)3月20日に東京・上野の寛永寺本坊跡地(現在の東京都台東区上野公園)に開館しました。
 その前身は、1871年(明治4)設置の文部省博物局が翌年、湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催した日本最初の博覧会で、1873年(明治6)に「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転しました。そこでも、博覧会が開かれ、終了後は毎月1と6の日に公開されるようになります。
 1877年(明治10)に、上野の寛永寺本坊跡地で第1回内国勧業博覧会が開催され、1881年(明治14)に同所に煉瓦造2階建の本館(イギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計)が完成、第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌年3月20日に、明治天皇の行幸を得て、「博物館」の開館式が行われましたが、附属動物園(恩賜上野動物園の前身)も同時開園しています。
 1886年(明治19)に、宮内省の管理となり、1889年(明治22)に「帝国博物館」と改称し、さらに翌年、当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称しました。
 1909年(明治42)に、隣接して表慶館が開館したものの、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で本館・2号館・3号館が大破して使用不能となります。翌年に、動物園が博物館から分離し、動物園を含む上野公園が宮内省から東京市に下賜され、1925年(大正14)には、自然史関連の資料を「東京博物館」(後の国立科学博物館)などに移しました。
 1938年(昭和13)に、復興本館(現在の本館)が開館しましたが、1945年(昭和20)3月に太平洋戦争下の空襲激化のため観覧を停止せざるを得なくなり、戦後の1846年(昭和21)3月から再開されています。
 1947年(昭和22)5月3日には、文部省所管となり、新憲法公布と共に「国立博物館」と改称されました。その後、1968年(昭和43)に東洋館が完成、1978年(昭和53)に法隆寺宝物館が開館(1999年改築)、1984年(昭和59)に資料館が完成、1999年(平成11)に平成館が開館と施設が充実されてきています。
 収蔵品は、日本および東洋の美術・工芸・考古遺品など国宝89件、重要文化財643件を含む、総数117,460件(2018年3月31日時点)ですが、これとは別に、寄託品として国宝55件、重要文化財260件を含む総数3,109件を保管してきました。
 尚、2001年(平成13)に京都国立博物館,奈良国立博物館と共に独立行政法人国立博物館に移行、2007年(平成19)には、独立行政法人国立文化財機構となって、現在に至っています。

〇博物館とは?

 広辞苑によると、「古今・東西にわたって考古学資料・美術品・歴史的遺物、その他の学術的資料を博く蒐集し、これを組織的に陳列して一般公衆の展覧に供し、学術研究の資とし、社会教育に寄与するための施設。」となっていました。
 また、博物館法では、「博物館は、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し(育成を含む)、展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせて、これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされています。
 日本では、明治時代前期の1872年(明治5)に文部省博物局の管轄で湯島の聖堂に開設されたのが最初とされ、1875年(明治8)になって内務省管轄の博物館が設置されました。この博物館は、帝国博物館、東京帝室博物館などと名称を変え、太平洋戦争後、国立博物館となり、1952年(昭和27)に現在の東京国立博物館になったのです。
 そして、戦後になって博物館の数は急速に増えていきました。日本では現在、博物館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2011年(平成23)10月現在で、5,747館があります。

☆東京国立博物館関係略年表

・1871年(明治4) 文部省博物局が設置される
・1872年(明治53月) 文部省博物局により、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催される
・1873年(明治6) 「文部省博物館」は太政官正院の「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、場所も湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転する
・1875年(明治8) 「博覧会事務局」は再び「博物館」と改称され、内務省の管轄となる
・1875年(明治8) 博覧会事務局副総裁の佐野常民は大部のウィーン万国博覧会報告書を提出(大東京博物館設置の必要性を力説)する
・1876年(明治9)、再度「博物館」に改称する
・1877年(明治10) 上野の寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第1回内国勧業博覧会が開催される
・1881年(明治14) 上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の本館(イギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計)が完成、第2回内国勧業博覧会の展示館として使用される
・1881年(明治14) 農商務省の管理となる
・1882年(明治15)3月20日 明治天皇の行幸を得て、「博物館」の開館式が行われるが、附属動物園(恩賜上野動物園の前身)も同時開園した
・1886年(明治19) 宮内省の管理となる
・1888年(明治21) 宮内省図書寮の付属になる
・1889年(明治22) 「帝国博物館」と改称する
・1900年(明治33) 当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称する
・1908年(明治41) 片山東熊設計の石造および煉瓦造2階建(ネオ・ルネサンス様式)、表慶館(2,049平方m)が竣工する
・1909年(明治42) 表慶館が開館する
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災で本館・2号館・3号館が大破して使用不能となる
・1924年(大正13) 動物園が博物館から分離し、動物園を含む上野公園が宮内省から東京市に下賜される
・1925年(大正14) 自然史関連の資料を「東京博物館」(後の国立科学博物館)などに移す
・1928年(昭和3) 復興本館(現在の本館)の建設が決まる
・1932年(昭和7)12月 復興本館(現在の本館)が着工する
・1938年(昭和13)11月 復興本館(現在の本館)が開館(22,416平方m)する
・1940年(昭和15) 皇紀2,600年を記念して「正倉院御物特別展観」が開催される
・1945年(昭和20)3月 太平洋戦争下の空襲激化のため観覧を停止する
・1946年(昭和21)3月 戦後、観覧が再開される
・1947年(昭和22)5月3日 文部省所管となり、新憲法公布と共に「国立博物館」と改称される
・1947年(昭和22)9月 機関紙「博物館ニュース」が創刊される
・1952年(昭和27) 「東京国立博物館」と名称を変更する
・1965年(昭和40) 「ツタンカーメン展」を開催し大人気となる
・1968年(昭和43) 文化庁発足と同時にその所管となる
・1968年(昭和43) 谷口吉郎設計の東洋館(12,531平方m)が完成する
・1972年(昭和47) 創立100周年を記念して「東京国立博物館所蔵名品展」が開催される
・1974年(昭和49) 「モナ・リザ展」を開催し大人気(入場者151万人)となる
・1978年(昭和53) 法隆寺宝物館が開館する
・1984年(昭和59)2月 新しく資料館の建物が完成する
・1992年(平成4) 創立120周年を記念して特別展「日本と東洋の美」が開催される
・1999年(平成11)7月 法隆寺宝物館が改築され(3,980平方m)て開館する
・1999年(平成11)10月 平成館(17,981平方m)が開館する
・2001年(平成13)4月 京都国立博物館,奈良国立博物館と共に独立行政法人国立博物館に移行する
・2007年(平成19)4月 独立行政法人国立文化財機構となる

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