ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

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 今日は、江戸時代前期の1615年(元和元)に、江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定した日ですが、新暦では9月9日となります。
 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が朝廷や公家を統制するための法令でした。大坂の陣で豊臣家が滅亡した直後の1615年(元和元)7月17日に、京都二条城で本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形で制定され、同月30日公家・門跡衆に公布されます。
 起草は金地院崇伝で、正式名称は「禁中方御条目」といい、漢文体の17ヶ条からなっていました。内容は、天皇の本分、摂家・三公の席次や任免、改元、天皇以下公家の衣服、廷臣の刑罰、門跡以下僧侶の官位、紫衣(しえ)勅許の条件などから成り、その後改訂されずに幕末に至ります。
 以下に、「禁中並公家諸法度」の全文(読み下し文・現代語訳・注釈付き)を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 羃崘径膺叩辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830〜887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659〜720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676〜735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792〜867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?〜715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695〜775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

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 今日は、平成時代の1994年(平成6)に、青森市の三内丸山遺蹟で巨大建造物の木柱や大量の土器が出土し、国内最大級の縄文時代集落跡であると報道された日です。
 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山の丘陵地帯にある縄文時代前期中頃から中期末までを中心とした大規模な集落跡でした。遺跡としては古くから知られ、江戸時代に山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』や菅江真澄の紀行文『栖家の山』などにも見られ、太平洋戦争後は学術調査や小規模な開発事前調査も行われています。
 1992年(平成4)からの青森県総合運動公園の拡張による新県営野球場建設に伴う発掘調査によって、「国内最大級の縄文集落」であることが明らかになり、1994年(平成6)7月16日の「東奥日報」朝刊、「朝日新聞」夕刊の報道をきっかけに、開発か保存かで、大問題となりました。しかし、スポーツ施設より遺跡保存を望む多くの世論によって、同年8月1日には工事を中止し遺跡を保存することになりました。
 発掘調査の結果、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人や子供の墓、盛り土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが発見され、縄文土器、石器、土偶、土・石製の装身具、木器、骨角牙貝製器など膨大な量の発掘物が出ています。また、1995年(平成7)から遺跡の整備と公開を行い、1997年(平成9)に国史跡となり、2000年(平成12)には、縄文時代の遺跡としては、全国で3番目となる国の特別史跡に指定、2002年(平成14)には「縄文時遊館」が開館しました。
 そして、2003年(平成15年)に出土遺物1,958点は、国の重要文化財となり、土偶や土器、ヒスイなどの装身具等多くが展示されています。遺跡は、公開されているだけで約5万屬△蝓復元された大型竪穴式住居、掘立柱建物、盛土、直径2mの柱穴が6個並ぶ大型掘立柱建物跡、墓地などを巡回しながら見ることができるようになりました。
 今までの縄文時代のイメージをうち破るもので、縄文人が定住生活し、大規模な集落を営んでいた様子をボランティアの人による定時の遺跡案内によって知ることも可能です。

〇縄文時代とは?

 今から約1万6,500年前から約3,000年前までの縄文土器の使用と竪穴住居の拡大、貝塚の形式などに特徴づけられます。終期は、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生時代の登場を契機とすると考えられています。時期区分は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つに分けるのが一般的です。この時代は小集団による狩猟中心で、獲物を取り尽くすと住居を転々と変えていた。そんな感じがありましたが、青森県で三内丸山遺跡が発見され、そのイメージは大きく塗り替えられました。

☆縄文時代の主要遺跡一覧

・三内丸山遺跡(青森県青森市)前〜中期 特別史跡―2000年(平成12)指定
・大平山元遺跡(青森県東津軽郡外ヶ浜町)草創期 国史跡―2013年(平成25)指定
・亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)晩期 国史跡―1944年(昭和19)指定
・是川遺跡(青森県八戸市)晩期 国史跡―1957年(昭和32)指定
・御所野遺跡(岩手県一戸市)中期 国史跡―1993年(平成5)指定
・大湯環状列石(秋田県鹿角市)後期 特別史跡―1956年(昭和31)指定
・伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)後期 国史跡―2001年(平成13)指定
・山王囲遺跡(宮城県栗原市)晩期 国史跡―1971年(昭和46)指定
・加曾利貝塚(千葉県千葉市若葉区)前〜後期 特別史跡―2017年(平成29)指定
・堀之内貝塚(千葉県市川市)後〜晩期 国史跡―1964年(昭和39)指定
・黒浜貝塚(埼玉県蓮田市)前〜中期 国史跡―2006年(平成18)指定
・水子貝塚(埼玉県富士見市)前期 国史跡―1969年(昭和44)指定
・中里貝塚(東京都北区)中〜後期 国史跡―2000年(平成12)指定
・大森貝塚(東京都大田区・品川区)後〜晩期 国史跡―1955年(昭和30)指定
・勝坂遺跡(神奈川県相模原市南区)中期 国史跡―1974年(昭和49)指定
・夏島貝塚(神奈川県横須賀市)早期 国史跡―1972年(昭和47)指定
・馬高・三十稲場遺跡(新潟県長岡市)中期 国史跡―1979年(昭和54)指定
・笹山遺跡(新潟県十日町市)中〜後期 市史跡―1992年(平成4)指定
・長者ヶ原遺跡(新潟県糸魚川市)早〜後期 国史跡―1971年(昭和46)指定
・尖石遺跡(長野県茅野市)中期 特別史跡―1952年(昭和27)指定
・井戸尻遺跡(長野県諏訪郡富士見町)中期 国史跡―1966年(昭和41)指定
・釈迦堂遺跡(山梨県笛吹市・甲州市)早〜後期
・蜆塚遺跡(静岡県浜松市中区)後〜晩期 国史跡―1959年(昭和34)指定
・吉胡貝塚(愛知県田原市)晩期 国史跡―1951年(昭和26)指定
・炉畑遺跡(岐阜県各務原市)中〜晩期 県史跡―1974年(昭和49)指定
・桜町遺跡(富山県小矢部市)中〜後期
・真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町)前〜晩期 国史跡―1989年(平成元)指定
・鳥浜貝塚(福井県三方上中郡若狭町)草創〜前期
・津雲貝塚(岡山県笠岡市 晩期)国史跡―1968年(昭和43)指定
・上黒岩遺跡(愛媛県上浮穴郡久万高原町)草創〜後期 国史跡―1971年(昭和46)指定
・板付遺跡(福岡県福岡市博多区)晩期 国史跡―1976年(昭和51)指定
・菜畑遺跡(佐賀県唐津市)晩期 国史跡―1983年(昭和58)指定
・泉福寺洞窟遺跡(長崎県佐世保市)草創〜晩期 国史跡―1986年(昭和61)指定
・福井洞窟遺跡(長崎県佐世保市)草創〜早期 国史跡―1978年(昭和53)指定
・上野原遺跡(鹿児島県霧島市)早〜晩期 国史跡―1999年(平成11)指定

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 今日は、平安時代前期の842年(承和9)に、第52代の天皇とされる嵯峨天皇の亡くなった日ですが、新暦では8月24日となります。
 嵯峨天皇(さがてんのう)は、奈良時代の786年(延暦5年9月7日)に、第50代の天皇とされる桓武天皇の第2皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれましたが、名は神野(かみの)と言いました。799年(延暦18)に元服、幼いころから聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父に寵愛され、806年(大同元)に兄平城天皇の皇太弟となります。
 809年(大同4年4月1日)に兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位しますが、翌年3月9月に平城上皇が藤原仲成、藤原薬子にそそのかされて復位を企てる薬子(くすこ)の変が起こり、これを鎮圧しました。また、蔵人所や検非違使を設置し、律令制を修正・補足した弘仁格式を施行します。
 823年(弘仁14)に異母弟の淳和天皇に譲位、その後も仁明天皇(嵯峨皇子)の代に没するまで、上皇として朝廷を抑えました。政治的安定期を出現させ、宮廷を中心に唐風の文化が栄え、賀茂斎院をはじめ白馬節会などの儀礼、年中行事が整えられます。
 自身も詩文・書道をよくし、空海、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられましたが、842年(承和9年7月15日)に、数え年57歳で亡くなりました。

〇嵯峨天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・786年(延暦5年9月7日) 第50代の天皇とされる桓武天皇の第2皇子(母は皇后藤原乙牟漏)として生まれる
・799年(延暦18年) 元服する
・806年(大同元年) 兄平城天皇の皇太弟となる
・809年(大同4年4月1日) 兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位する
・810年(弘仁元年3月) 蔵人所を設置し、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任命する
・810年(弘仁元年9月) 平城上皇が藤原仲成、藤原薬子にそそのかされて復位を企てる薬子の変が起こる
・810年(弘仁2年11月) 六衛府を改制する
・816年(弘仁7年) 検非違使を設置する
・820年(弘仁11年)、弘仁格式が成立する
・822年(弘仁13年) 最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認める
・823年(弘仁14年) 空海に東寺を賜う
・823年(弘仁14年4月16日) 異母弟の淳和天皇に譲位する
・833年(天長10年2月) 『令義解』が撰上される  
・833年(天長10年) 淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する
・842年(承和9年7月15日) 数え年57歳で亡くなる

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 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、洋画家坂本繁二郎の亡くなった日です。
 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう)は、1882年(明治15)3月2日に、福岡県久留米市京町で、旧筑後久留米有馬藩士の父・坂本金三郎、母・歌子の二男として生まれました。1886年(明治19)に父を亡くし、1895年(明治28)に久留米小学校を卒業後、自宅で絵を書いていましたが、1900年(明治28)に、久留米高等小学校の図画代用教員となります。
 1902年(明治35)に同郷の青木繁と共に上京して、小山正太郎の不同舎に入門しました。1904年(明治37)から太平洋画会研究所に学び、太平洋画会展に初めて作品を発表、1907年(明治40)には、『大島の一部』が東京府勧業博覧会三等賞牌を受け、『北茂安村』が第1回文展に入選して、画壇に出ます。
 1913年(大正2)に国民美術協会会員となり、翌年の二科会創立に参加、1921年(大正10)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事しました。サロン・ドートンヌに『帽子を持てる女』、『眠れる少女』を出品後、1924年(大正13)に帰国し、久留米に居を定め、放牧馬に取材した作品を多く制作します。
 1931年(昭和6)に久留米近郊の八女にアトリエを設け定住し、戦時中は身辺の静物を題材として作画を続けました。太平洋戦争後は、梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠とされ、1954年(昭和29)に毎日美術賞、1956年(昭和31)に文化勲章、1963年(昭和38)に朝日賞の栄誉に輝きます。
 能面や月を描いた連作など、晩年まで意欲的な制作活動を展開しましたが、1969年(昭和44)7月14日に、福岡県八女市の自宅で、87歳で亡くなりました。

〇坂本繁二郎の主要な作品

・『大島の一部』(1907年)東京府勧業博覧会三等賞牌
・『北茂安村の一部』(1907年)第1回文展入選
・『張り物』(1910年)第4回文展褒状
・『海岸』(1911年)第5回文展三等賞
・『うすれ日』(1912年)第6回文展出品
・『ブルターニュ』(1923年)
・『眠れる少女』(1924年)サロン・ドートンヌ出品
・『帽子を持てる女』(1925年)第12回二科展出品
・『母の像』(1927年)
・『放水路の雲』(1927年)
・『放牧三馬』(1932年)ブリヂストン美術館蔵
・『砥石』(1949年)
・『水より上る馬』(1953年)毎日美術賞受賞 東京国立近代美術館蔵
・『能面』(1955年)
・『幽光』(1969年)

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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の亡くなった日です。
 吉野秀雄(よしの ひでお)は、明治時代後期の1902年(明治35)7月3日に、群馬県高崎市で、織物問屋の株式会社吉野藤を営む、吉野家の次男として生まれました。1909年(明治42)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校を経て、1915年(大正4)に高崎商業学校に入学します。
 在学中は国文学に親しみ、正岡子規や長塚節について学び、1920年(大正9)に卒業後、慶應義塾大学理財科予科に入学、経済学部に進みました。しかし、肺結核を患って帰郷し、大学を中退せざるを得なくなり、病床で正岡子規の作品、歌論を読んで感激して、作歌を始めます。
 1926年(昭和元)に栗林はつと結婚、第1歌集『天井擬視』を刊行、1931年(昭和6)には、療養のため鎌倉に転地し、永住の地となりました。その後、会津八一の歌集『南京新唱』に感銘を受け、1933年(昭和8)より師事し、1936年(昭和11)には、第2歌集『苔径集』を刊行します。
 この年から毎月「鎌倉短歌会」を開催し、『万葉集』も定期的に講義、太平洋戦争後の1946年(昭和21)からは、鎌倉アカデミアで教えるようになりました。雑誌『創元』の創刊号に「短歌百余章」を発表、『早梅集(そうばいしゅう)』(1947年)、『寒蝉集(かんせんしゅう)』(1949年)の刊行によって、歌壇に地位を占めるようになります。
 1952年(昭和27)以降歌誌『砂丘』の選を担当する一方、良寛や「万葉集」の研究も進め、『良寛歌集』(1952年)、『良寛和尚の人と歌』(1957年)などを刊行しました。その後、『吉野秀雄歌集』(1958年)で第10回読売文学賞、随筆集『やはらかな心』(1966年)、『心のふるさと』(1967年)で第1回迢空賞、歌集『含紅集(がんこうしゅう)』(1967年)で第18回芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 書家としても知られましたが、晩年は病床に就き、1967年(昭和42)7月13日に、鎌倉において、65歳で亡くなりました。

<代表的な歌>
・「病む妻の 足頸(あしくび)にぎり 昼寝する 末の子をみれば 死なしめがたし」(寒蝉集)
・「彼の世より 呼び立つるにや この世にて 引き留(と)むるにや 熊蝉(くまぜみ)の声」
・「死をいとひ 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ こころ知るのみ」

〇吉野秀雄の主要な著作

・第1歌集『天井擬視』(1926年)
・第2歌集『苔径集』(1936年)
・研究書『鹿鳴集歌解』(1947年)
・歌集『早梅集(そうばいしゅう)』(1947年)
・歌集『寒蝉集』(1949年)
・『良寛歌集』(1952年)
・研究書『良寛和尚の人と歌』(1957年)
・歌集『吉野秀雄歌集』(1958年)第10回読売文学賞受賞
・随筆集『やはらかな心』(1966年)第1回迢空賞受賞
・随筆集『心のふるさと』(1967年)第1回迢空賞受賞
・歌集『含紅集(がんこうしゅう)』(1967年)第18回芸術選奨文部大臣賞受賞
・研究書『良寛 歌と生涯』(1975年)

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