ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

その日にあった歴史上の出来事についていろいろと書いています!

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全149ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1

 今日は、平安時代中期の967年(康保4)に、第62代天皇とされる村上天皇の亡くなった日ですが、新暦では7月5日となります。
 村上天皇(むらかみてんのう)は、926年(延長4年6月2日)に、京都において、第60代天皇とされる醍醐天皇の第十四皇子(母は藤原基経女中宮穏子)として生まれましたが、名は成明(なりあきら)と言いました。平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935〜940年)の後、944年(天慶7)に19歳で皇太弟となり、946年(天慶9年4月28日)に同母兄朱雀天皇の譲位により、第62代天皇に即位します。
 当初は藤原忠平を関白とし執政させましたが、949年(天暦3)に忠平が亡くなると、以後関白を置かず、親政を行なったとされるものの、実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にありました。
 その中でも、朝廷の財政逼迫のため倹約に努め、954年(天暦8)には諸臣に勅して、奢侈を禁じ、売官を停止させます。また、鴻臚館を存置するなど、957年(天徳元)の菅原文時の「意見封事三箇条」を用いたり、貧民救済のため常平所を設置し、乾元大宝を鋳造するなどの治績をあげました。
 一方で、学芸に造詣深く、和歌所が設置され、951年(天暦5)に『後撰和歌集』の編纂を下命、960年(天徳4)に「天徳内裏歌合」を催行するなど、歌人としても歌壇の庇護者としても評価され、後世「天暦の治」とも呼ばれています。
 しかし、地方政治の紊乱、盗賊の横行、悪疫の流行、水旱の災があり、律令体制が解体途上にある中で、967年(康保4年5月25日)に、京都において在位のまま、数え年42歳で亡くなりました。
 尚、皇子具平親王の裔は「村上源氏」となっています。

<村上天皇の代表的な歌>
・「円居(まとゐ)して みれどもあかぬ 藤浪の たたまく惜しき 今日にも有るかな」(新古今和歌集)
・「逢ふことは はつかにみえし 月影の おぼろけにやは あはれとも思ふ」(新古今和歌集)
・「教へおく ことたがはずは 行末の 道とほくとも 跡はまどはじ」(後撰和歌集)

〇村上天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・926年(延長4年6月2日) 京都において、第60代醍醐天皇の第14皇子(母は藤原基経女中宮穏子)として生まれる
・926年(延長4年11月) 親王宣下される
・937年(承平7年11月) 富士山が噴火する
・939年(天慶2年11月) 平将門の乱が起こる
・939年(天慶2年12月) 藤原純友の乱が起こる
・940年(天慶3年2月) 平将門が討たれる
・940年(天慶3年2月15日) 元服する
・941年(天慶4年6月) 藤原純友が討たれる
・941年(天慶4年11月) 藤原忠平が関白となる
・944年(天慶7年) 19歳で皇太弟となる
・946年(天慶9年4月28日) 朱雀天皇の禅を受け、第62代天皇に即位する
・948年(天暦2年) 京都に群盗が横行し、右近衛府・清涼殿などに押し入る
・949年(天暦3年) 関白藤原忠平が亡くなり、以後親政を行なう
・950年(天暦4年) 内裏が焼亡する
・951年(天暦5年10月) 醍醐寺五重塔が建立される 
・951年(天暦5年10月) 『後撰和歌集』の編纂を下命する
・954年 (天暦8年)  諸臣に勅して、奢侈を禁じ、売官を停止させる
・957年(天徳元年12月) 菅原文時の「意見封事三箇条」が奏上される、
・958年 (天徳2年3月)  乾元大宝(最後の本朝十二銭)を鋳造させる
・959年 (天徳3年)  公廨稲の一部を割いて別置して諸国に常平所を設ける
・960年(天徳4年3月30日) 「天徳内裏歌合」を催行する
・967年(康保4年5月25日) 京都において在位のまま、数え年42歳で亡くなる

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1

 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の亡くなった日です。
 平塚らいてう(ひらつか らいちょう)は、明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。
 知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。
 その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。
 1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。
 1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。
 1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。
 太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇平塚らいてふの主要な著作

・翻訳『恋愛と結婚』エレン・ケイ作
・自伝『元始、女性は太陽であった』
・『円窓(まるまど)より』
・『わたくしの歩いた道』

〇雑誌『青鞜』とは?

 明治時代後期の1911年(明治44)9月から 1916年(大正5)2月まで52冊(途中2回休刊)発行された、女流文芸雑誌です。平塚らいてうが生田長江にすすめられ、保持研子、中野初子、木内錠子、物集和子と共に婦人文芸集団青鞜社を興し、その機関誌として発刊されました。その創刊号に掲載された、平塚らいてうの創刊の辞「元始、女性は太陽であった」は有名となります。主に平塚らいてうが主導し、与謝野晶子、長谷川時雨、野上弥生子、田村俊子らの女流作家が参加、小説、短歌、翻訳などが掲載されます。その中で、女性問題に関心が集まり、婦人解放運動の一拠点とさえなっていき、1915年(大正4)1月からは伊藤野枝が編集を引き継ぎました。婦人の自立、貞操、堕胎、公娼問題などが次々と扱われましたが、いくつかの問題が起きて、1916年(大正5)2月で廃刊となります。

☆『青踏』発刊に際して (全文) 1911年(明治44)9月の『青踏』創刊の辞(平塚らいてう)

 元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
 偖てこゝに「青鞜」は初声を上げた。
 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。

 そして私は少しも恐れない。
 併し、どうしやう女性みづからがみづからの上に更に新にした羞恥と汚辱の惨しさを。
 女性とは斯くも嘔吐に価するものだらうか、
 否々、真正の人とは――

 私共は今日の女性として出来る丈のことをした。心の総てを尽してそして産み上げた子供がこの「青鞜」なのだ。よし、それは低能児だらうが、奇形児だらうが、早生児だらうが仕方がない、暫くこれで満足すべきだ、と。
 果して心の総てを尽したらうか。あゝ、誰か、誰か満足しやう。
 私はこゝに更により多くの不満足を女性みづからの上に新にした。 

 女性とは斯くも力なきものだらうか、
 否々、真正の人とは――

 併し私とて此真夏の日盛の中から生れた「青鞜」が極熱をもよく熱殺するだけ、それだけ猛烈な熱誠を有もつてゐると云ふことを見逃すものではない。
 熱誠! 熱誠! 私共は只これによるのだ。
 熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である、神道力である。云ひ換へれば精神集注力である。
 神秘に通ずる唯一の門を精神集注と云ふ。
 今、私は神秘と云つた。併しともすれば云はれるかの現実の上に、或は現実を離れて、手の先で、頭の先で、はた神経によつて描き出された拵へものゝ神秘ではない。夢ではない。私共の主観のどん底に於て、人間の深さ瞑想の奥に於てのみ見られる現実其儘の神秘だと云ふことを断つて置く。
 私は精神集注の只中に天才を求めやうと思ふ。
 天才とは神秘そのものである。真正の人である。
 天才は男性にあらず、女性にあらず。
 男性と云ひ、女性と云ふ性的差別は精神集注の階段に於て中層乃至下層の我、死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの、最上層の我、不死不滅の真我に於てはありやうもない。
 私は曾て此世に女性あることを知らなかつた。男性あることを知らなかつた。
 多くの男女は常によく私の心に映じてゐた、併し私は男性として、はた女性として見てゐたことはなかつた。
 然るに過剰な精神力の自からに溢れた無法な行為の数々は遂に治しがたく、救ひがたき迄の疲労に陥れた。
 人格の衰弱! 実にこれが私に女性と云ふものを始めて示した。と同時に男性と云ふものを。
 かくて私は死と云ふ言葉をこの世に学んだ。
 死! 死の恐怖! 曾て天地をあげて我とし生死の岸頭に遊びしもの、此時、ああ、死の面前に足のよろめくもの、滅ぶべきもの、女性と呼ぶもの。
 曾て統一界に住みしもの、此時雑多界にあつて途切れ、途切れの息を胸でするもの、不純なるもの、女性と呼ぶもの。
 そして、蓮命は我れ自から造るものなるを知らざるかの腑甲斐なき宿命論者の群にあやふく歩調を合せやうとしたことを、ああ思ふさへ冷たい汗は私の膚へを流れる。
 私は泣いた、苦々しくも泣いた、日夜に奏でゝ来た私の竪琴の糸の弛んだことを、調子の低くなつたことを。
 性格と云ふものゝ自分に出来たのを知つた時、私は天才に見棄てられた、天翔る羽衣を奪はれた天女のやうに、陸に上げられた人魚のやうに。
 私は歎いた、傷々しくも歎いた。私の恍惚を、最後の希望を失つたことを。

 とは云へ、苦悶、損失、困憊、乱心、破滅総て是等を支配する主人も亦常に私であつた。
 私は常に主人であつた自己の権利を以て、我れを支配する自主自由の人なることを満足し、自滅に陥れる我れをも悔ゆることなく、如何なる事件が次ぎ次ぎと起り来る時でも我の我たる道を休みなく歩んで来た。

 ああ、我が故郷の暗黒よ、絶対の光明よ。
 自からの溢れる光輝と、温熱によつて全世界を照覧し、万物を成育する太陽は天才なるかな。真正の人なるかな。 

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。
 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く病人のやうな蒼白い顔の月である。
 私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ、」こは私共の内に向つての不断の叫声、押へがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。
 此叫声、此渇望、此最終本能こそ熱烈なる精神集注とはなるのだ。
 そしてその極るところ、そこに天才の高き王座は輝く。 

 青鞜社規則の第一条に他日女性の天才を生むを目的とすると云ふ意味のことが書いてある。
 私共女性も亦一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。只精神集注の欠乏の為、偉大なる能力をして、いつまでも空しく潜在せしめ、終つひに顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪へない。

「女性の心情は表面なり、浅き水に泛ぶ軽佻浮噪の泡沫なり。されど男性の心情は深し、其水は地中の凹窩を疾走す」とツアラトゥストラは云つた。久しく家事に従事すべく極め付けられてゐた女性はかくて其精神の集注力を全く鈍らして仕舞つた。
 家事は注意の分配と不得要領によつて出来る。
 注意の集注に、潜める天才を発現するに不適當の境遇なるが故に私は、家事一切の煩瑣を厭ふ。
 煩瑣な生活は性格を多方面にし、複難にする、けれども其多方面や、複雑は天才の発現と多くの場合反比例して行く。

 潜める天才に就て、疑ひを抱く人はよもあるまい。
 今日の精神科学でさへこれを実証してゐるではないか。総ての宗教にも哲学にも何等の接触を有たない人でも最早かの催眠術、十八世紀の中葉、墺国のアントン、メスメル氏に起原を発し、彼の熱誠と忍耐の結果、遂に今日学者達の真面目な研究問題となつたかの催眠術を多少の理解あるものは疑ふことは出来まい。いかに繊弱い女性でも一度催眠状態にはいる時、或暗示に感ずることによつて、無中有を生じ、死中活を生じ忽然として霊妙不可思議とも云ふべき偉大な力を現すことや、無学文盲の田舎女が外国語を能く話したり、詩歌を作つたりすることなどは屡々私共の目前で実験された。また非常時の場合、火事、地震、戦争などの時、日常思ひ至らないやうな働をすることは誰れでも経験することだ。
 完全な催眠状態とは一切の自発的活動の全く休息して無念無想となりたる精神状態であると学者は云ふ。
 然らば私の云ふところの潜める天才の発現せらるべき状態と同一のやうだ。私は催眠術に掛れないので遺憾ながら断言は出来ないが、少くとも類似の境界だとは云へる。
 無念無想とは一体何だらう。祈祷の極、精神集注の極に於て到達し得らるゝ自己忘却ではないか。無為、恍惚ではないか。虚無ではないか。真空ではないか。
 実にこゝは真空である。真空なるが故に無尽蔵の智恵の宝の大倉庫である。一切の活力の源泉である。無始以来植物、動物、人類を経て無終に伝へらるべき一切の能力の福田である。
 こゝは過去も未来もない、あるものは只これ現在。
 ああ、潜める天才よ。我々の心の底の、奥底の情意の火焔の中なる「自然」の智恵の卵よ。全智全能性の「自然」の子供よ。 

「フランスに我がロダンあり。」
 ロダンは顕れたる天才だ。彼は偉大なる精神集注力を有つてゐる。一分の隙なき非常時の心を平常時の心として生きてゐる。彼は精神生活のリズムにせよ、肉体生活のリズムにせよ、立所に自由に変ずることの出来る人に相違ない。むべなる哉、インスピレーションを待つかの奴隷のやうな藝術の徒を彼は笑つた。
 其意志の命ずる時、そこに何時でもインスピレーションがある彼こそ天才となるの唯一の鍵を握つてゐる人と云ふベきだらう。
 三度の箸の上下にも、夕涼の談笑にも非常時の心で常にありたいと希ふ私は曾て白樺のロダン号を見て多くの暗示を受けたものだ、物知らずの私にはロダンの名さへ初耳であつた。そしてそこに自分の多くを見出した時、共鳴するものあるをいたく感じた時、私はいかに歓喜に堪ヘなかつたか。
 以來、戸を閉じたる密室に独座の夜々、小さき燈火が白く、次第に音高く、嵐のやうに、しかもいよいよ単調に、瞬もなく燃える時、私の五羽の白鳩が、優しい赤い眼も、黒い眼も同じ薄絹の膜に蔽はれて寄木の上にぷつと
膨れて安らかに眠る時、私は大海の底に独り醒めてゆく、私の筋は緊張し、渾身に血潮は漲る。其時、「フランスに我がロダンあり。」と云ふ思ひが何処からともなく私の心に浮ぶ。そして私はいつか彼と共に「自然」の音楽を――かの失はれたる高調の「自然」の音楽を奏でゝゐるのであつた。
 私はかの「接吻」を思ふ。あらゆるものを情熱の坩堝に鎔す接吻を、私の接吻を。接吻は実に「一」である。全霊よ、全肉よ、緊張の極の圓かなる恍惚よ、安息よ、安息の美よ。感激の涙は金色の光に輝くであらう。
 日本アルプスの上に灼熱に燃えてくるくると廻転する日没前の太陽よ。孤峯頂上に独り立つ私の静けき慟哭よ。
 弱い、そして疲れた、何ものとも正体の知れぬ、把束し難き恐怖と不安に絶えず戦慄する魂。頭脳の底の動揺、銀線をへし折るやうな其響、寝醒時に襲つて来る黒い翅の死の強迫観念。けれど、けれど、一度自奮する時、潜める天才はまだ私を指導してくれる。まだ私を全く見棄はしない。そして何処から来るともなし私の総身に力が漲つてくる、私は只々強き者となるのだ。私の心は大きくなり、深くなり、平になり、明るくなり、視野は其範囲を増し、個々のものを別々に見ることなしに全世界が一目に映じてくる。あの重かつた魂は軽く、軽く、私の肉体から抜け出して空にかゝつてゐるのだらうか。否、実は目方なきものとなつて気散して仕舞つたのだらうか。私はもう全く身も心も忘れ果てて云ふべからざる統一と調和の感に酔つて仕舞ふのだ。
 生も知らない。死も知らない。
 敢て云へば、そこに久遠の「生」がある。熱鉄の意志がある。
この時ナポレオンはアルプス何あらむやと叫ぶ。実に何ものの障碍も其前にはない。
 真の自由、真の解放、私の心身は何等の圧迫も、拘束も、恐怖も、不安も感じない。そして無感覚な右手が筆を執つて何事かをなほ書きつける。
 私は潜める天才を信ぜずには居られない。私の混乱した内的生活が僅に統一を保つて行けるのは只これあるが為めだと信ぜずにはゐられない。 

 自由解放! 女性の自由解放と云ふ声は随分久しい以前から私共の耳辺にざわめいてゐる。併しそれが何だらう。思ふに自由と云ひ、解放と云ふ意味が甚しく誤解されてゐはしなかつたらうか。尤も単に女性解放問題と云つても其中には多くの問題が包まれてゐたらう。併し只外界の圧迫や、拘束から脱せしめ、所謂高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与へ、家庭と云ふ小天地から、親と云ひ、夫と云ふ保護者の手から離れて所謂独立の生活をさせたからとてそれが何で私共女性の自由解放であらう。成程それも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与へるものかも知れない。併し到底方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。
 とは云へ私は日本の多くの識者のやうな女子高等教育不必要論者では勿論ない。「自然」より同一の本質を受けて生れた男女に一はこれを必要とし、一はこれを不必要とするなどのことは或国、或時代に於て暫くは許せるにせよ、少しく根本的に考へればこんな不合理なことはあるまい。
 私は日本に唯一つの私立女子大学があるばかり、男子の大学は容易に女性の前に門戸を開くの寛大を示さない現状を悲しむ。併し一旦にして我々女性の智識の水平線が男性のそれと同一になつたとしたところでそれが何だらう。抑も智識を求めるのは無智、無明の闇を脱して自己を解放せむが為に外ならぬ。然るにアミイバのやうに貪り取つた智識も一度眼を拭つて見れば殻ばかりなのに驚くではないか。そして又我々は其殻から脱する為め多くの苦闘を余儀なくせねばならないではないか。一切の思想は我々の真の智恵を暗まし、自然から遠ざける。智識を弄んで生きる徒は学者かも知れないが到底智者ではない。否、却て眼前の事物其儘の真を見ることの最も困難な盲に近い徒である。
 釈迦は雪山に入つて端座六年一夜大悟して、「奇哉、一切衆生具有如来智恵徳相、又曰、一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏」と。彼は始めて事物其儘の真を徹見し、自然の完全に驚嘆したのだ。かくて釈迦は真の現実家になつた。真の自然主義者になつた。空想家ではない。実に全自我を解放した大自覚者となつたのだ。
 私共は釈迦に於て、真の現実家は神秘家でなければならぬことを、真の自然主義者は理想家でなければならぬことを見る。
 我がロダンも亦さうだ。彼は現実に徹底することによつてそこに現実と全く相合する理想を見出した。
「自然は常に完全なり、彼女は一つの誤謬をも作らず」と云つたではないか。自からの意力によつて自然に従ひ、自然に従ふことによつて自然を我ものとした彼は自から自然主義者と云つてゐる。
 日本の自然主義者と云はれる人達の眼は現実其儘の理想を見る迄に未だ徹してゐない。集注力の欠乏した彼等の心には自然は決して其全き姿を現はさないのだ。人間の瞑想の奥底に於てのみ見られる現実即理想の天地は彼等の前に未だ容易に開けさうもない。
 彼等のどこに自由解放があらう。あの首械、手械、足械はいつ落ちやう。彼等こそ自縄自縛の徒、我れみづからの奴隷たる境界に苦しむ憐れむべき徒ではあるまいか。
 私は無暗と男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少しく遅れて歩まうとする女性を見るに忍びない。 

 女性よ、芥の山を心に築かむよりも空虚に充実することによつて自然のいかに全きかを知れ。 

 然らば私の希ふ真の自由解放とは何だらう。云ふ迄もなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。それには発展の妨害となるものゝ総てをまづ取除かねばならぬ。それは外的の圧迫だらうか、はたまた智識の不足だらうか、否、それらも全くなくはあるまい、併し其主たるものは矢張り我そのもの、天才の所有者、天才の宿れる宮なる我そのものである。
 我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。
 私共は我がうちなる潜める天才の為めに我を犠牲にせねばならぬ。所謂無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)
 只私共の内なる潜める天才を信ずることによつて、天才に対する不断の叫声と、渇望と、最終の本能とによつて、祈祷に熱中し、精神を集注し以て我を忘れるより外道はない。
 そしてこの道の極ところ、そこに天才の玉座は高く輝く。 

 私は総ての女性と共に潜める天才を確信したい。只唯一の可能性に信頼し、女性としてこの世に生れ来つて我等の幸を心から喜びたい。
 私共の救主は只私共の内なる天才そのものだ。最早私共は寺院や、教会に仏や神を求むるものではない。
 私共は最早、天啓を待つものではない。我れ自からの努力によつて、我が内なる自然の秘密を曝露し、自から天啓たらむとするものだ。
 私共は奇蹟を求め、遠き彼方の神秘に憧れるものではない、我れ自からの努力によつて我が内なる自然の秘密を曝露し、自から奇蹟たり、神秘たらむとするものだ。
 私共をして熱烈なる祈祷を、精紳集注を不断に継続せしめよ。かくて飽迄も徹底せしめよ。潜める天才を産む日まで、隠れたる太陽の輝く日まで。
 其日私共は全世界を、一切のものを、我ものとするのである。其日私共は唯我独存の王者として我が踵もて自然の心核に自存自立する反省の要なき真正の人となるのである。
 そして孤独、寂寥のいかに楽しく、豊かなるかを知るであらう。 

 最早女性は月ではない。
 其日、女性は矢張り元始の太陽である。真正の人である。 

 私共は日出づる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大圓宮殿を営まうとするものだ。
 女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ。
 よし、私は半途にして斃るとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なほ麻痺せる双手を挙げて「女性よ、進め、進め。」と最後の息は叫ぶであらう。
 今私の眼から涙が溢れる。涙が溢れる。
 私はもう筆を擱かねばならぬ。
 併しなほ一言云ひたい。私は「青鞜」の発刊と云ふことを女性のなかの潜める天才を、殊に藝術に志した女性の中なる潜める天才を発現しむるによき機会を与へるものとして、又その為の機関として多くの意味を認めるものだと云ふことを、よしこゝ暫らくの「青鞜」は天才の発現を妨害する私共の心のなかなる塵埃や、渣滓や、籾殻を吐出すことによつて僅に存在の意義ある位のものであらうとも。
 私は又思ふ、私共の怠慢によらずして努カの結果「青鞜」の失はれる日、私共の目的は幾分か達せられるのであらう、と。
 最後に今一つ、青鞜社の社員は私と同じやうに若い社員は一人残らず各自の潜める天才を発現し、自己一人に限られたる特性を尊重し、他人の犯すことの出来ない各自の天職を全うせむ為に只管に精神を集中する熱烈な、誠実な真面目な、純朴な、天真な、寧幼稚な女性であつて他の多くの世間の女性の団体にともすれば見るやうな有名無実な腰掛つぶしは断じてないことを切望して止まぬ私はまたこれを信じて疑はぬものだと云ふことを云つて置く。
 烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である。――完――

  『青踏』創刊号(1911年9月)より

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1

 今日は、平安時代前期の811年(弘仁2)に、武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の亡くなった日ですが、新暦では6月17日となります。
 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、奈良時代の758年(天平宝字2年)に、阿知使主を祖先とした東漢氏の一族であった、左京大夫・坂上苅田麻呂の子(母は畝火浄永の娘とも)として生まれました。
 武術に秀で、780年(宝亀11)に近衛将監、785年(延暦4)に従五位下、787年(延暦6)に近衛少将となり、791年(延暦10)には征夷副使となり、793年(延暦12)に征夷大将軍大伴弟麻呂に従って東北へ向かいます。翌年蝦夷を討ち、796年(延暦15)に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、鎮守将軍も兼任しました。
 797年(延暦16)に征夷大将軍に任命され、801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向い、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢の地を攻略し、10月に平安京に凱旋して、節刀を返上します。802年(延暦21)に胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣され、鎮守府を多賀城から移しました。さらに、803年(延暦22)にも造志波城使として、陸奥国に派遣され北進して、同年4月には、夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼を500余人を率いて降伏させました。
 翌年には再び征夷大将軍に任命され、蝦夷地経略の多大な功績によって、805年(延暦24)には参議となって公卿に列します。その後、中納言を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至りましたが、この間の810年(弘仁元)に起きた薬子の変でも、美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めました。
 京都清水寺の草創にも関わりましたが、811年(弘仁2)に平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなり、従二位を追贈されています。

〇坂上田村麻呂関係略年表(日付は旧暦です)

・758年(天平宝字2年) 左京大夫・坂上苅田麻呂の子として生まれる
・780年(宝亀11年) 近衛将監となる
・785年(延暦4年) 従五位下に叙せられる
・787年(延暦6年) 近衛少将となる
・791年(延暦10年) 征東副使に任命される
・793年(延暦12年) 東北へ向かって軍を進発させる
・794年(延暦13年) 征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討つ
・795年(延暦14年) 従四位下に叙せられる
・796年(延暦15年1月25日) 陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命される
・796年(延暦15年10月27日) 鎮守将軍を兼任する
・797年(延暦16年11月5日) 征夷大将軍に任命される
・798年(延暦17年閏5月24日) 従四位上に叙せられる
・799年(延暦18年5月) 近衛権中将となる
・801年(延暦20年2月14日) 第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向う
・801年(延暦20年10月28日) 平安京に凱旋して、節刀を返上する
・801年(延暦20年11月7日) 従三位に叙せられる
・801年(延暦20年12月) 近衛中将となる
・802年(延暦21年1月9日) 胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年3月6日) 造志波城使として、陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年4月15日) 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼が500余人を率いて降伏する
・804年(延暦23年1月28日) 4度目の蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命される
・805年(延暦24年) 参議となって公卿に列する
・806年(大同元年3月18日) 中納言となる 
・806年(大同元年3月21日) 中衛大将となる
・807年(大同2年4月12日) 右近衛大将となる
・807年(大同2年8月14日) 侍従も兼任する
・807年(大同2年11月16日) 兵部卿を兼任する
・809年(大同4年3月30日) 正三位に叙せられる
・810年(弘仁元) 平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となる
・810年(弘仁元年9月6日) 薬子の変が起る
・810年(弘仁元年9月10日) 大納言に昇進する
・810年(弘仁元年9月12日) 美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努める
・811年(弘仁2年5月23日) 平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなる

開く コメント(0)

イメージ 1

 今日は、江戸時代中期の1737年(元文2)に、江戸幕府第10代将軍徳川家治の生まれた日ですが、新暦では6月20日となります。
 徳川家治(とくがわ いえはる)は、江戸城内において、徳川家重(後の江戸幕府第9代将軍)の長男(母は側室お幸の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。幼少から明敏で期待され、祖父の第8代将軍吉宗の膝下で養育されます。
 1741年(寛保元)に元服して権大納言に叙任し、1754年(宝暦4)には、閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚しました。1760年(宝暦10)に、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、同年9月2日には江戸幕府第10代将軍の宣下を受け、正二位内大臣に昇叙します。
 1767年(明和4)に田沼意次を側用人とし、1772年(明和9)には老中へ昇格させ、政治の実権を握らせることとなりました。その中で積極的な経済政策により、商品経済の発展をみましたが、他方で賄賂が横行し、田沼時代とも呼ばれます。また、1772年(明和9)に江戸で「明和の大火」が起き、1782年(天明2)に天明の大飢饉(〜1787年)が始まり、翌年には浅間山天明大噴火が起こり、百姓一揆、打ちこわしが増加するなど、社会不安の激化した時期となりました。
 その中で、田沼意次に幕政を依存し、自らは絵画・囲碁・将棋などの趣味に没頭することが多くなったと言われていて、近習たちと対局した棋譜が約百局現存、自身の著書として詰将棋百番『御撰象棊攷格』も残されています。
 この間、1779年(安永8)に世子だった徳川家基が18歳で急死、1781年(天明元)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自分の養子としましたが、1786年(天明6年8月25日)に江戸城内において、数え年50歳で亡くなりました。

〇徳川家治関係略年表(日付は旧暦です)

・1737年(元文2年5月22日) 徳川家重(後の江戸幕府第9代将軍)の長男(母は側室お幸の方)として生まれる
・1741年(寛保元年8月12日) 元服して家治を名乗り、従二位権大納言に叙任する
・1745年(延享2年11月2日) 父・家重が江戸幕府第9代将軍の宣下を受ける
・1751年(寛延4年6月20日) 祖父の吉宗が江戸城内において、数え年68歳で亡くなる
・1754年(宝暦4年12月) 閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚する
・1760年(宝暦10年2月4日) 右近衛大将を兼任する
・1760年(宝暦10年5月3日) 父の隠居により徳川宗家の家督を相続する
・1760年(宝暦10年9月2日) 江戸幕府第10代将軍の宣下を受け、正二位内大臣に昇叙する
・1761年(宝暦11年6月12日) 父の家重が江戸城内において、数え年51歳で亡くなる
・1762年(宝暦12年10月25日) 長男竹千代(後の徳川家基)が誕生する
・1767年(明和4年7月1日) 田沼意次が側用人になる
・1772年(明和9年1月15日) 田沼意次が老中となる
・1772年(明和9年2月29日) 江戸で「明和の大火」が起き、死者1万4,700人、行方不明者4,060人を出す
・1779年(安永8年2月24日) 家治の世子徳川家基が18歳で急死する
・1780年(安永9年9月4日) 右大臣に転任する
・1781年(天明元年) 一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自分の養子とする
・1782年(天明2年) 印旛沼・手賀沼の干拓工事が始まる
・1782年(天明2年) 天明の大飢饉(〜1787年)が始まる
・1783年(天明3年) 浅間山天明大噴火が起こる
・1785年(天明5年) 詰将棋百番『御撰象棊攷格』が完成する
・1786年(天明6年8月25日) 江戸城内において、数え年50歳で亡くなる
・1786年(天明6年9月22日) 死後、正一位太政大臣を追贈される

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1

 安土桃山時代の1575年(天正3)に、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日ですが、新暦では6月29日となります。
 長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
 決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
 現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
 以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』(第八巻)

三州長篠御合戦の事

 五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
 志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
 五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
 信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
 かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
 討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
 中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
 岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。

【注釈】

[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。

<現代語訳>

 5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
 5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
 設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
 5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
 信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
 このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
 5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
 中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
 5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
 また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
 信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全149ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事