ここから本文です
gayasanのブログ
鉄道モノを中心とした趣味の日記です

書庫全体表示

以前にも本ブログで書きましたが、玉川電気鉄道(東京急行玉川線)は、明治29年に玉川電気鉄道が玉川線部分に相当する区間を、玉川砂利電気鉄道が世田谷線部分に相当する区間の出願を行ったことが基になっています。その後、”紆余曲折”を経て両社は玉川砂利電気鉄道に統合された後、明治35年に玉川線区間の特許が認可され、同年に玉川電気鉄道に社名変更されています。
 
今回は、この”紆余曲折”していた時期に相当する明治33年6月に、玉川砂利電気鉄道が東京府に提出した「進達願」についてです。
 
「玉川砂利電気鉄道延長線路変更ノ義ニ付別紙ノ通リ差出候間其筋ヘ進達方可然御取計被成下度此段奉願候也
 追テ本年四月五日附出願仕候動力及線路変更願書ハ一時御留置ノ義申出置候(後略)」
 
この進達願は2つの点で興味があります。1つは後述する線路変更の内容について、もう1つは進達書の後半に書かれている、四月に提出されたという”動力及線路変更願”の内容についてです。動力変更とはいったい何を意味していたのでしょう。電気を止めて蒸気にしたいというのでしょうか?(注1)
 
(注1)実は、同時期(明治33年)に新宿の角筈から田無までの特許を取得していた「堀之内電気鉄道」が電車からセルボレー式活動車(いわゆる蒸気動車)に変更したいとの願書を提出しています。この時期、やはり電車という技術に対して、懐疑的な意見も多々あったのだと思われます。
 
さて、本題の進達書で触れられている線路変更の内容についてです。
変更後の路線は、以下の4区間で構成されています。
(1)青山北七丁目から世田谷村、駒澤村、玉川村を経て玉川二子渡船場まで
(2)芝区赤羽橋より一ノ橋、広尾、上目黒を経て大坂下まで
(3)三軒茶屋より世田谷村下町上町を経て駒澤村弦巻まで
(4)玉川登戸渡船場より国領甲州街道まで
 
このうち(1)については、多少短縮(起点を渋谷に変更)されますが明治35年に特許を下付されます。
 
(2)は(1)の路線と大坂下(今の大橋付近)で接続する路線になります。ライバルの城南鉄道(この時期、麻布ニノ橋から世田谷までの仮免状を取得済み)を意識した路線かもしれません。
 
(3)は三軒茶屋で(1)から分岐し、世田谷線の上町から旧大山道を通って、現在の桜新町付近で再度(1)に接続する路線です。
 
(4)は、他の3線から完全に独立した路線になっています。玉川砂利電気鉄道は、一番最初は世田谷から登戸までの路線を構想していたので、その終端部だけを残して甲州街道方面に伸ばしたものといえます。
 
こうしてみると、既に明治29年における玉川砂利電気鉄道と玉川電気鉄道の路線を統合した内容になっています。さらに進達書の別紙によれば、今回の変更は明治30年11月に提出した線路延長願いの変更版に相当するようです。そうすると、明治30年の後半には、玉川砂利電気鉄道と玉川電気鉄道の計画が既に統合されていたといえそうです。(注2)
 
(注2)世田谷区立郷土資料館の「玉電 −玉川電気鉄道と世田谷のあゆみー」には、明治30年11月に「玉川電気鉄道」が渋谷から弁慶橋経由で新橋までの線路延長願を提出したと書かれています。ひょっとすると、これと進達願の別紙に記述されている「玉川砂利電気鉄道」が提出した明治30年の延長願は同一のものかもしれません。
 

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

開くトラックバック(0)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事