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gayasanのブログ
鉄道モノを中心とした趣味の日記です

書庫世田谷線と玉電

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世田谷線の招き猫電車

現在、世田谷線は沿線にある豪徳寺の招き猫とコレボしてイベントを開催中です。その一環として運行される世田谷線の招き猫電車に、今日初めて乗車しました。

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昨日から運行を始めたようですが、見たのも乗車したのも今日が初めてです。正面の顔は目とヒゲだけだと猫だとわかりません。やはり耳も欲しかったところです。

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室内のつり革は猫仕様です。意外にも握り心地が良かったです。

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床には猫の足跡。

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果たして、この招き猫。世田谷線とその利用者に福を招いてくれるのでしょうか。

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世田谷線各駅に掲示している、玉電開業110周年記念ポスター紹介の後編です。

世田谷駅は玉電車庫がテーマです。現在は、首都高速の大橋JCTになっている場所です。玉電廃止直前の撮影のようですが、世田谷線には引き継がれなかった車両の写っていて懐かしいです。
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松陰神社前駅は「さようなら玉電」と題して、玉電廃止日の様子が並んでいます。小学生だった私は、当日風邪をひいて学校を休んでいたのですが、近所の人が三軒茶屋まで観に行っていて、その様子を聞かせてもらいました。当時は三軒茶屋にあった横断歩道橋(ポスター右上の写真)が人でいっぱいで驚いた!と言っていたのを覚えています。
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若林駅は、現在の世田谷線が玉電下高井戸線と呼ばれていたときがテーマです。西山停留所(西太子堂駅)の写真は初めて見ました。世田谷線では、玉川線から分岐したところでダブルポールの片方を下げてシングルポールで走行していたと思っていましたが、この写真ではダブルポールのままで走行しています。まだまだ研究の余地がありそうです。
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西太子堂駅のポスターは、「明治〜昭和初期の玉電」と題して玉川電気鉄道時代から昭和30年代頃までの写真を載せています。細かいことですが、右上の写真で「1901年〜1918年」とあるのは、玉電開業が1907年なので間違いでしょう。
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三軒茶屋駅は、イラストで玉電車両の変遷を整理しています。玉電関連の本に良く使われているイラストです。左上の開業時の車両のデザインを模したラッピング車両が現在走っています。
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最後に、開業時の車両デザインを模した車両と、玉電時代の200形を模した車両の横並び写真です。玉電時代の最初と最後が、この1枚に凝縮されています。開業時デザイン車両の前面下にある白丸は前照灯をイメージしているようです。
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玉電の開業110周年を記念したポスターが、世田谷線の全駅に掲示されています。駅毎に内容が異なるので、駅を利用するついでに撮影してきましたが、松原駅と西太子堂駅については日常の生活パターンではなかなか利用できないので、わざわざポスターのために出かけてきました。やっとそろった10駅毎のポスター、今回は下高井戸駅から上町駅までの5駅分を紹介します。

下高井戸駅は現在の車両達です。このうち「305」は、創業時の車両風ラッピングになっています。
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松原駅は砧線です。右下のデハ1以外は、廃止直前の写真のようです。
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山下駅は国道246号線上を走る玉電です。今は首都高で薄暗くなっていますが、当時は明るく広々とした印象です。
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宮の坂駅のポスターは渋谷駅の写真です。開業時の渋谷駅の写真を見ると、軍人さんの利用が多かったことが伺えます。
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上町駅は、玉電の本線に相当する玉川線の写真です。どの写真も停留所に大勢のお客さんが待っているのが印象的です。
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残りの5駅は後編で・・・

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世田谷線に玉電開業110周年の記念塗装車両が走っていました。

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開業時の木造車両をイメージしたデザインです。シールを貼っているだけですが、落ち着いた色合いで、最近の下品な全面広告ラッピング車両と比較すれば何倍も素敵です。
世田谷線の各駅には110周年記念のポスターが貼ってありますが、駅により内容が異なっているようです。早めに各駅をまわってコンプリートしなければと思います。

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これは渋谷駅がテーマのポスター。上段左や中段右の写真に写っている開業時の車両を、記念塗装車両はイメージしているのでしょう。

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幻の世田谷線支線

 あまり知られていない話なのですが、現在の世田谷線上町駅より分岐して荒玉浄水場(現在の砧浄水場)に至る路線の免許(地方鉄道)が、東京急行電鉄から申請されていました。結局は申請が却下されてしまった幻の世田谷線支線計画です。
 もともと、この計画のことを知ったときには、世田谷線開業前後に地元住民が要望していた勝光院西線(上町駅から小田急線千歳船橋方面への延伸)の戦後版みたいなもの、と漠然と考えていたのですが、よくよく資料を読んでみると、それとはまったく性格の違う計画だったようです。

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(出典:運輸省資料、国立公文書館所蔵資料)

 上図は、運輸省で保管されていた資料に残っていた図面です。残念ながら、免許申請時に提出されたであろう平面図等はなく、こんな略図しか見当たりませんでした。
計画されていた路線は、上町駅で世田谷線と分岐したあと、ほぼ現在の世田谷通り沿いに東宝撮影所あたりまでいき、そのあとは荒玉水道道路に沿って浄水場に向かうもので、延長は5.5㎞でした。また、線路は全線が専用軌道、途中駅は4駅を予定していました。

免許申請が行われた昭和23年といえば、既存鉄道路線の運行ですら四苦八苦していた時代です。そんな時期に世田谷区の中でも人口の少ない場所にわざわざ線路を延ばそうというのは如何なる理由があったのでしょうか。残念ながら免許申請時に提出されているはずの起業目論見書は残っていないのですが、この申請について、意見照会された東京都が運輸省に提出した文書が残っており、そこにこの路線の免許申請理由らしきものが記載されていました。少々長くなりますが、非常に興味深い内容なので全文を引用します。

東京急行電鉄上町、荒玉浄水場前間(五、五粁)地方鉄道敷設免許申請について
 
 東京急行電鉄株式会社から玉川線上町を起点とし荒玉浄水場前間五、五粁の地方鉄道敷設免許申請があったから調査したところ、東急玉川線は軌道法により敷設したもので単車運転のため輸送力少なく、利用客は毎日の乗降に不便を感じているので、会社当局は、専用敷化を計画し、これを地方鉄道に変更し、高速度運転することを出願したものである。又将来地下鉄に乗り入れて都心へ直行するのが念願である。
現在新設線沿線一帯は田園で遊園地、名勝等が無いが三本杉駅付近には砧大緑地(十二万七千坪)があり、この緑地を東京都で遊園地として設備し、将来都民のリクレエーションとしてしたしまれるよう野球場、その他を建設中である。
 又緑地の周囲の松林、雑木林等は家族連のハイキングコースとして最適の地と思われる。
 終点の荒玉浄水場前停留場付近の多摩川、川畔は釣、ハイキングに都民の良き慰安の地であるが、交通機関としては小田急線と玉川線が川畔に通じ、この中間地は東京急行のバスが運行しているのみで、そのバスも終車時間が早いので利用客は相当不便をしているように思われる。
 新設線はこれら利用客の不便を除きあわせて未開発の砧緑地の開発及び計画中の三本杉停車場付近を住宅街としてその発展に寄与しようとするもので、別段支障ないよう認められるから左記調査資料を添付して進達する。

注)一部の漢字を新字体に改めている。
(出典:運輸省文書、国立公文書館所蔵資料)

 本文の5行目までに関しては後述するとして、6行目以降について読むかぎりでは、当時整備中であった砧公園の利用者や終点近くの多摩川への観光客を目当てにしていたようです。また、最後の3行からは、沿線における宅地開発もある程度は念頭においていたことが伺えます。しかし、戦争が終わって3年しか経過していないタイミングで、多摩川へのハイキング客や砧緑地で野球をする人たちむけの鉄道という、戦争中であれば不急不要路線と呼ばれるようなものを、なぜ建設しようと考えたのでしょうか? 大きな疑問が残ります。
 ここからは、あくまでも私の想像なのですが、先の文章の先頭5行目までが大きな意味を持つのではないかと思われます。そこには、既存の玉川線の混雑緩和のために専用軌道化して軌道から地方鉄道に変更して輸送力を増強しようと東京急行が考えていること、さらには地下鉄に乗り入れて都心に直行させる構想があることが書かれています。これは、昭和31年に免許申請が行われることになる「新玉川線」構想そのものです。しかし、よくよく考えてみると、この最初の5行目までの内容と6行目以降の内容には、なんの関係もないような気がします。5行目までは、沿線周辺地域の交通状況全般を説明しているものと考えられなくもありませんが、なんとなく違和感のある繋がりです。
 いっそのこと最初の5行目までについても、この路線の申請理由が書かれていると考えた方がすっきりします。つまり、この路線こそが、東京急行が一番最初に考えた「新玉川線」(の一部)だったということになります。そう考えると、計画線を地方鉄道で申請したこと、延長5.5㎞で中間駅が4駅と少ないこと、終点が他鉄道と接続していないこと(戦争中に立ち消えになった砧線の狛江延伸計画との関係が想像される)、なによりも戦後混乱期にあえてこの路線を建設しようと考えたこと、といった疑問点が解決されることになります。
 ただし、この路線が玉川線の混雑緩和を目的としたバイパス線としての性格を持つものであるとしたら、三軒茶屋で玉川線と合流してしまっては意味がありません。これについては、昭和23年時点に申請された上町・荒玉浄水場間の路線は、この時点で構想されていた「新玉川線」の一部区間ではなかったかと考えます。とりあえず、人家まばらな郊外部から手を付けていき、都心側の区間についてはもう少し考えてみよう、ということです。

 この免許申請は、昭和34年に却下されています。却下理由は、「緑地地域に鉄道はいらない」ということです。すでに別の「新玉川線」計画が具体化(昭和31年免許申請)しており、本来の建設理由(玉川線のバイパス路線)は消滅しています。さすがにそうなると、多摩川へのハイキング客や砧緑地の利用者をあてにするしかない路線では、すでに3年前に「もはや戦後ではない」といわれたこの時期においても、やはり不急不要路線だったようです。



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