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住まいである500坪を超える官舎の庭の片隅には、
父が創らせた大きな氷室が2つ在った。
一つの広さは、入り口から梯子を伝って降りていくと
大人が15人は、楽に出入りできる広さが在った。
毎年外気温がマイナス40度を超える季節を迎えると
近くに在った、綺麗な地下水が湧き出している大きな池は
完全に氷結する。此の氷を村人総出で切出して
もみ殻をふんだんに敷きつめた氷室へ運び込み貯蔵するのだ。
此れで1年間は我が家だけでなく、近隣の村人たちも
氷に不自由はしなかった。
此処へは、各種野菜、魚介類、果物などを常時貯蔵してあった。我が家では、此の氷室のお蔭で
真夏には、たっぷり氷の入った砂糖水が楽しめた。
村人たちから病人の知らせが在ると、
母は、氷枕や氷嚢を誰にでも貸出し、大いに感謝された。
折からの風雲急を告げる戦況を知った母は、
此の氷室を、防空壕に改造せよと命じた。
3日がかりで頑丈な防空壕は完成した。
陸軍からの回覧板の回数が日増しに多くなってきた。
何時も表紙には、
「我が軍の勝利は不動。いたずらに狼狽えるな」
と、書いてあった。
ロシア軍参戦後は、空襲警報が昼夜を問わず鳴り響いた。
其の都度、家族全員は、防空壕に駆け込んだ。
女中も下男も全員一緒である。
防空壕の中で、服部先生は
「龍司、万一に備え、生死の覚悟を決めろ」と言った。
米英・ロシア・何するものぞ!歯噛みして強がる龍司に
「お前の拳骨じゃあ敵兵の頭は潰せても、戦車は叩き潰せぬぞ」
「戦争は総合力での殺すか殺されるかだ」
「個人の力の優劣で勝敗は決められぬのだ」
と諭された。
我が家には、当時では珍しくラジオや電話機があった。
手動式だが蓄音機も在った。
8月15日、緊急回覧板が来た。
正午に、お国からの重大発表をラジオで行う。
全員ラジオの前に集合せよ。とあった。
近隣ででラジオが在るのは我が家だけであった。
昼前には50人以上は集まるだろうと
縁側を開け放し、大きな台を設え、上にラジオを据えた。
握り飯を100個用意した。
玉音放送は終わった。
日本は負けた!
晴天であった。雨でも降ればいいのにと思った。
全員ラジオの前で、地べたに、へ垂れこんだ。
龍司7歳の夏である。
大混乱が始まった。
自決用にと、人数分の青酸カリが配られた。
朝鮮人の略奪が始まった。各地で焼き討ちが始まった。
あらゆるデマが飛び交った。
満州から馬賊が襲撃して来るぞ!
隣町は匪賊に占領された!
ロシア兵が進駐して来れば、
日本人は全員校庭に引き出され戦車で轢き殺すらしい。
云々。
我が家には、父の生前に大変お世話に成ったという支那人の
陳さんが、屈強な配下を引き連れて警護に駆けつけて呉れた。
父に受けた恩義は終生忘れないと、丁重な挨拶をを受けた。
陳さんは周囲の人々から、ジャングイ(大人)と呼ばれる
人知れた、満州の傑物であった。
陳さんはこの時、龍司を養子にしたいと母に願ったようである。
母子共々身辺は必ず守る、生涯の安楽を保証するから。
母、龍司、妹淳子、三人揃って支那に残りませんかと
誠意を見せて熱心に口説かれたようだ。
母は此れを丁重に断ったようであった。
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4)玉音放送前後
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