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当時の事は、遠い昔のことで、セピア色の写真のように
色あせているのだが、
如何しても、あの日の事件だけは、忘れることが出来ない。
今でも時々夢の中に現われ、強烈な寝汗に悩まされる。
時は夏の終わりに近く、喧しかった蝉は既に鳴き止んでいた。
アカシアの枝の葉先に退屈そうな赤とんぼが
ゆったりと羽根を休ませている。
そこには迫りくる修羅場を、予感させる気配は微塵も無かった。
ロシア軍進駐の連絡を受けた、日本人家族達全員は、
といっても、女、子供、老人ばかりであったが、
ポプラ並木が聳えたつ、車場へ向かう一本道を急いでいた。
家中から探し出した、赤い布きれを、各自手に持っている。
「ロシア人は赤いものを好む、出迎え時には、各自携帯せよ」
と、回覧板に在ったからである。
龍司は、母の警護を決意し、モーゼルの拳銃を懐へ忍ばせた。
特性の「大木刀」に、何時もの素振りを300回呉れてやり、
此れを右手に停車場へ向かった。
出発前、大人(ジャングイ)から丁寧に釘を刺された。
「ロシア兵には、何が在っても、絶対に手を出しちゃあ駄目だ」
「君は子供には見えない。行動は目立たぬよう用心しろ」
「いつも私は近くで見ているから、心配するな」
云々
大人の親切は常時変わらず、身に染みて有難かった。
周辺には、元気な青年や、壮年の男子は一人も居なかった。
みんな出征して、戦地へ出向いたからである。
歩いていたのは、徴兵検査不合格者、病気療養中の者、
老人と11歳未満の子達だけである。
子供でも、12歳に成ると幼年兵として戦車隊へ応募でき、
大半の者は、勇んで入隊していった。
龍司は7歳では異例の、中学校進学を受験し、合格していた。
体格は既に大人顔負け、甲種合格の水準を突破している。
加藤少将の活躍情報で、戦闘機乗りに憧れていた龍司は、
少年航空隊入隊を強く希望し、申し込んだのだが、
「幾らデカくても12歳未満では駄目!」
「でっかい奴は、飛行機乗りには向かないぞ」
と、笑って断られた。
幾ら頼んでも、何処へ頼んでも駄目だった。
青空のもと、黒煙を猛烈に吹き上げながら、高らかな汽笛と共に
ロシア進駐軍を乗せた列車の姿が眼前に現れた。
停車場のホームでは、意味不明な、どよめきが
一斉に沸き起こった。
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5)ロシア兵進駐
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