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本題に入る前に終戦から日本上陸迄の
足跡を期日ごとに整理しておこう。
昭和20年8月15日・無条件降伏にて終戦。
昭和20年9月1日ロシア兵集団強姦事件勃発
昭和20年9月4日、日本人、強制収容所へ収監される。
昭和21年6月集団脱走計画、立案開始。
昭和21年6月29日集団脱走,決行。
昭和21年7月30日38度線突破。
昭和21年8月3日釜山港より引上げ貨物船出航。
昭和21年8月4日博多湾沖に到着。
昭和21年8月4日〜9月5日迄コレラ患者発生の為
上陸禁止令が発令された。
博多湾外に停泊中にコレラ患者は死亡。
昭和21年9月6日、上陸許可下る。念願の本土上陸達成。
上陸と同時に、男女は別棟へと誘導された。
全員素っ裸にされ、頭からDDTの粉末を吹き付けられた。
一列に整列させられ、両腕をを水平に上げさせられた。
列の両側に待機していた、米軍の医療兵は
コレラとチブスの予防注射針を
左右両側から同時に、有無を言わさず、突き刺した。
着ていた物はその場で総て燃料油をかけられ
燃やされて処分された。
代わりにと、アメリカから送られた「ララ物資」を分配された。
全部アメリカ人の着ていた古着である。
身に付けると総てだぶだぶで在ったが
とやかく言える状態では無かった。
履物は靴はもとより、下駄も、草履も、無かった。
配られたのは、木製のつっかけである。
後日、これをサンダルと言うのだと知った。
日本人強制収容所に流されたニュース・帰国情報などは
殆どがデマであった。
此の儘ではいつ帰国できるのか、全く見当もつかない。
不安と、焦燥の日々が、延々と続いた。
ジャングイは、強制収容所への出入りは、自由のようで在った。
足しげく訪ねて呉れ、食料や日用雑貨類を
其の都度、親切に届けてくれる。
龍司親子に対する、強制収容所、所長の対応は
非情に丁重であった。
家族の居間にと、新しい畳の八畳間を提供し
妹淳子の子守にと近在の娘を、毎日通いで付けて呉れた。
如何考えても、此れは収容者に対する処遇としては
破格の待遇である。
嘗て亡父より受けた御恩が在るから
等と言ってはいたが、
恐らくは、ジャングイの口利き、差し金の賜であろうと
龍司と母は感謝していた。
ジャングイは、再度。
「親子三人で中国に残らないか」
「龍司の将来は、保証する。」
「家族の安全も絶対に守って見せる。」
「何も心配はさせない。」
等々
熱心に誘ってくれた。
この時、母の心は、揺れ始めたように見えた。
しかし龍司の腹は決まっていた。
何と言われようと
少年倶楽部や講談社の絵本でしか知らないが
祖国、日本国の大地を
生きて帰って、この足で踏みしめて見たい。
昭和21年6月に入ると、龍司は、集団脱走を決意
計画を練り始めた。
飛行場は既に占領されていて、飛行機の利用は出来まい。
鮮鉄もロシア兵と、朝鮮人の管轄下にあり利用出来ない。
取り敢えず38度線目指して、歩くしかなかった。
コウリョウ湾から、チンナンポ、平城を過ぎて
38度線地帯までの距離は、
今の地図で比較すると東京から〜広島まで歩く事に成る。
龍司は、約一ヶ月で走破出来ると見た。
極寒の冬季は駄目だ。
長雨の過ぎた後の
7月が良い。
走行は日暮れ後の暗闇を選び側道を進む。
猛暑と監視の目を避ける為である。
渡河は橋上を避ける。
水深60㎝以下の浅瀬を、着のみ着たままで、徒歩で渡る。
公道や橋の上には、監視の目が光っていた。
逃走ルートは、日の在るうちに調べて置く。
此れは少年隊全員の役目と定めた。
決行日は
昭和21年6月29日と定めた。
人数は
大人269名
子供62名
乳児19名
総勢360名である。
つづく
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10)集団脱走計画
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