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1983年から1993年までの30代から40代初めの10年間,わたしはほぼ2年半に1回の割合で,海外学術調査に参加していた.行った場所はいずれも大変なところで,今から思えばよく行ったものだとわれながら半ばあきれている.調査に出かけた場所は,チリー領中部アンデス,中国東北部および西部,チベット高原,キルギス天山山脈である.当時のことを,このブログで少しずつ紹介してみたい.
最初に出かけた中部アンデスは,わたしの最初の海外調査だった.調査対象は中部アンデスの第四紀火山で,火山岩のサンプリングが主な仕事だった.隊長は当時筑波大学から茨城大学へ移られたばかりのO教授であったが,このとき派遣された調査隊は,わたしとN氏(現東京大学教授)の二人だけで,これにチリー国立大学のAlfred Lahsen教授とHugo Moreno Loa氏が加わった.
チリーへの直行便がなかったので,最初アメリカ合衆国のロサンゼルスに飛び,そこからメキシコのメキシコシティーに移動して,さらにチリーのサンチャゴへ飛ぶという大掛かりな移動であった.メキシコシティーでは数泊して,メキシコ国立大学を訪問したり,郊外のポポカトペトル火山の肩にあるコルテス峠まで車で上ったりした.ちなみにポポカテペトル火山は4000mを越える火山で,コルテス峠も3000mほどの高さがあったと記憶している.メキシコのホテルでは生野菜を食べるなといわれていたのだが,滞在最期の日にうっかり食べてしまい,このために後で大変な目に会うことになる.
サンチャゴへは,エアロペルー航空で向かった.エアロペルー機はアリタリア航空の中古品で,そこかかしこにアリタリアの名前が残っていた.古そうな飛行機で少し不安であったが,やたら赤ワインがふるまわれた.もっともわたしはほとんど飲まなかったのだが.
サンチャゴ空港はかなりひなびた空港であった.背後にアンデスの山並みがそびえており,安曇平の松本空港のような雰囲気だった.宿はサンチャゴ市街の中心地,大統領府近くにあるパサデナドサルバドールという名前のこざっぱりとした小さなホテルだった.南半球なので,サンチャゴはまだ冬の真っ最中であり,真夏のメキシコシティーから来た身には,寒さがこたえた.
大統領府の壁には多数の弾痕が残っていた.アジェンデ革命政権がピノチェト将軍率いる軍事クーデターによって転覆させられてから10年も立っておらず,この弾痕は当時のなまなましい記憶を留めたものだった.選挙で選ばれたアジェンデ大統領は,自らもマシンガンを手にとって大統領府に立てこもり,反乱軍と最期まで戦って壮絶な死を遂げたのだ.この後チリー国内をめぐったが,至る所にビバ・アジェンデの落書きがみられた.
つづく (高橋正樹)
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