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先日いきなり台湾からジャンボタニシの記事を投稿し,何しに台湾に行ってるの?と思われた方もいらしゃると思います. |
地球の見所(海外編)
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世界遺産トンガリロの火山の一回目はルアペフ火山です. Turangiからトンガリロに通う日々の中で,最も日数をかけたのがルアペフ火山でした.単独登山は危険とのことなのでサミットツアーに参加して山頂に行くことにしました.スキーリフトで途中まで上がり,そこから山頂を往復するというツアーです.この写真を撮影した日は3月初旬の夏季でしたが,前日夜に雪が降り,リフトが止まってツアーは中止でした.他にも何日か濃霧や雨など天候待ちの日々でようやく山頂に立てた時は感慨深いものがありました.山頂部の様子についてはこちら.ルアペフ さて,この写真の左側に突き出て見えるのはピナクルリッジという,古い火山体の残骸です.今日はピナクルリッジ周辺で見られる地形などについてご紹介しましょう. リフトを乗り継ぐとピナクルリッジの最高点のすぐそばまで行けますが,写真のように天気が悪い日はリフトが止まるので山腹の調査をしました.このスキーゲレンデは夏場は写真のようなごつごつした岩場です.画面左手にそそり立っているのは岩脈です.その右手には山小屋のすぐ背後に溶岩流が見えます.見事な溶岩堤防や溶岩じわが発達しています. リフトからは溶岩流の断面など見事な露頭がよく見えます.ネットも何もないのでスリル満点のリフトです.落ちないようにバーにしがみつきながら写真をたくさん撮りました. ある好天に恵まれた日にリフトの終点からピナクル上方の稜線まで30分ほどかけて登ってみました.写真の画面左がピナクルで,右手がルアペフの山頂部という位置関係です.この稜線からの眺めは最高でした.富士山のような形のナラホエ火山,その手前にタマ湖が見えます.このbreath takingな眺めを見れば世界遺産指定も納得です.大学生の皆さん,夏休みに出かけてみては? 安井真也 |
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サンチャゴ中央駅から列車に乗り,私たちはチヤンをめざして一路南下した.車窓からみる冬景色は日本と変わらない.落葉樹は葉を落とし,草は枯れて黄褐色になっている.どんよりと曇った冬空からは,今にもみぞれが落ちてきそうだ. 途中いくつもの農家をみることができた.庭には豚が放し飼いになっており,寒空の下裸足(はだし)の子供たちが元気そうに遊んでいた.しかし,農家の様子はお世辞にも裕福とはいえないようだ. その国が豊かかどうかは,都会の様子をみていてもわからない.地方の有様をみると,その国の本当の豊かさがわかる.1980年代,日本の農村は本当に豊かにみえた.それに比べれば,このチリーも,中国や韓国も,農村は明らかに貧しくみえた(最近はどうなのだろう). しかし,その日本も,2000年代を迎える頃からほころびが目立つようになってきた.地方の町の中心街は特にひどく,シャッター街とよばれる,半ばゴーストタウンが目立つようになった.農村にも,かつての安定した繁栄の様子は影を潜めるようになった.いろいろなところに,ほころびが目立つのだ.財政再建団体に指定された夕張市などは,その典型である.1980年代,20年後の日本がこんなになるとは,思いもよらなかった.当時の日本は,rising sunだったはずだ.やはり,「驕れる者は久しからず」なのだろうか. 南下する線路沿いの駅近くの倉庫の壁には「ビバ アジェンデ!(アジェンデ万歳!)の落書きがそこら中にみられた.社会主義改革を進めるアジェンデ大統領は,貧しい者の希望の星だったのだ.しかし,改革をあせったアジェンデは,志半ばで,軍事クーデターの銃撃戦に倒れた. 列車は南下を続けた.車窓の冬景色はどこまでも変わらず,空は相変わらずどんよりと曇っていた. つづく(高橋正樹) |
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これまでの人生の中で,驚くほど赤いと記憶に残っている夕焼けを見たことが3度ある。 1度目は学生の時に大学の構内で,2度目は研究で訪れた米国で,そして3度目はこの写真に示す豪州アデレードである。 趣味で写真をとっているため,夕焼けの写真は数多くトライしているが,構えて撮ろうとするよりも偶然の時の方が感動的な情景に出会えるのは世の常であろうか。いずれにせよ,これら3度の千載一遇とも言えるチャンスには手元にカメラがあっただけ幸せであるが,応急的な手ぶれ対策(夕焼けとはいえ日没後はかなり暗くなりスローシャッターを余儀なくされる)で四苦八苦したことが記憶に残っている。 さて,この写真は2007年4月14日,仕事で訪れたアデレードでホテルから撮影したものである。きれいな夕焼けは夕日が完全に沈んだあと,照り返しとして見られることが多いため,この日も暮れゆく西の空をしばらく眺めていた。すると案の定,空が焼け始めた。焼けただけでなく,暗くなる空に真っ赤に輝き出した。この画像には色補正などは加えておらず,見た目の色がそのまま出ている。その時の驚きがそのまま集約されている一枚といえると思っている。 職業柄,どのような気象条件であったかが知りたくて次の日に現地で新聞を探し回った。写真の下に示した当日(4月14日)の衛星写真から見れば,アデレードの西にあった弱い気圧の谷にある,まばらな雲域を見ていたことがわかる。 余談ではあるが,次の日に移動した西岸のパースでは西から近付いてきた寒冷前線の洗礼(天気図参照:ただし4月15日のもの)をあび,地元での4月の月降水量を1日で降らすような降雨に見舞われた。私自身は非常に強い雨男として知られており,南半球でも本領発揮というエピソードまで残している。 ちなみに,天気図の低気圧と寒冷前線の位置関係が日本付近(北半球)とは異なることに注目してほしい。 (加藤央之) 【予告】
7月20日・21日のオープンキャンパスにおける模擬授業は、この加藤教授による地球温暖化に関する講義です!近日中にこのブログで内容をチラッとお知らせしますので、乞うご期待! |
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私たちも南部チリーのスキー場に出かけることにした.もちろんスキーが目的ではない.スキー場があるネバド・デ・チヤン火山の調査に出かけようというのである.ただし,現在は冬なので,ネバド・デ・チヤン火山は深い雪に覆われている. ネバド・デ・チヤン火山は現在も噴火を続ける活動的な火山である.噴火様式はブルカノ式ないしはストロンボリ式である. ネバド・デ・チヤン火山に行くためには,サンチャゴから南下しチヤンの町まで鉄道を利用し,さらにバスに乗り換えてたどり着かねばならない. サンチャゴから南部のプエルトモントまで,1000km余りにわたって、海岸山脈と脊梁アンデス山脈の間に細長い盆地が延びている.チリーの中では最も湿潤温暖の地で,チリーの穀倉となっている農業地帯である.サンチャゴから北は乾燥地域になり,アントファガスタから北には不毛の地アタカマ砂漠が広がっている.また、プエルトモントから南はパタゴニアの地で,山地が直接リアス式海岸に迫って平野が少なく,しかも寒冷な不毛の地ということになる.細長いチリー共和国であるが,居住に適した土地は,わずかにサンチャゴからプエルトモントの間の,この細長い盆地だけなのだ. この盆地を南下するときには,左手にアンデス山脈がそびえ,アンデス山脈の脊梁部には,点々と火山が分布している.また,右手には高度の低い海岸山脈の高まりが続く.アンデス山脈は,サンチャゴ付近では高度が高く4000mを越えているが,南下するにつれて高度を下げ,プエルトモント付近では高度2000mを切ってくる. こうした盆地の様子は,東北地方とよく似ている.東北新幹線で北上すると,宇都宮を過ぎたあたりから,左手には脊梁山脈とその上に噴出した火山がみえ,右手には阿武隈山地や北上山地などの海岸山脈が分布する.このあたりの様子は,サンチャゴから盆地を南下するときとほとんど同じである.ただし,東北地方の方が,脊梁山脈の高さが圧倒的に低い. サンチャゴからチヤンまでは距離にして約400km,宇都宮と盛岡の間の距離とほぼ同じである. 15世紀から16世紀にかけて南米の太平洋側を支配したインカ帝国の領土は,北はエクアドル,南はチリーのサンチャゴ付近にまで達していた.そして,この帝国を支配するために,当時首都があったペルーのクスコから,石で舗装されたインカ道が延々と南北に延びていた. サンチャゴまで到達したインカ帝国は,その南方のマウレ川以南には足を踏み入れることが出来なかった.チリーの豊かな穀倉である盆地の大部分は,インカ帝国に従わない別の精悍な軍事的部族,アラウコ族の領土だったのである.この穀倉地帯には,インカ帝国に拮抗する軍事力や文化力を涵養するだけの生産力があったということの証拠である. 私たちは,この穀倉地帯を列車で南下する. つづく(高橋正樹) |


