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三島の北

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 三島駅の北の溶岩洞穴は、交通量の多い道路の交差点の下が、早急な対策が必要な危険区域となっている(三島風穴検討委員会)。
 いろいろなやり方はあるが、ぼくは、「そんな所が、なぜ、交通量の多い道路、しかも、交差点などになったのか」を、まず考えた。
 
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 この地域は三島溶岩の末端であり、溶岩流が停滞し、地表には溶岩塚が多数出現した。約70年前の丹那トンネルの開通(三島駅の設置、野戦重砲連隊の駐屯)以後の開発により、かなり破壊されたが、図に示した程度は残っている。
 当時の車(荷馬車-馬力や人が引く荷車が主流だっただろう)は、アップダウンのある溶岩塚を避けて起伏の少ない部分を通り、その結果が現在の道路になったと考える。地下に溶岩洞穴がなければ、問題はなかったのだが。
 しかし、起伏が少ないということは、溶岩の流動性が良かったことであり、その結果、溶岩の2次的流出も生じやすく、また、溶岩洞穴も出来やすかった ということにならないか?

 図の説明:
 紫色は、箱根山地。箱根も火山である。
 赤線:明治の地形図の等高線、数字は標高(m)。

三島溶岩:緑色で示した。大場川や黄瀬川の川底にも露出しているが、市街地では溶岩塚として点在しているに過ぎない。破壊された溶岩塚は表現していない。が、それを考慮しても、三島溶岩が、この地域に全面的に分布しているわけではない。低い部分は、次に述べる御殿場泥流に埋積されているからである。三島溶岩の分布についての厳しい?表現は、今まで発表された多くの地質図とは異なる。

御殿場泥流:多くの地質屋に無視されてきた地質である。
 しかし、市街地の主要部分は、ほとんど、御殿場泥流で埋められている。御殿場泥流は、塗色せずに、流下の方向・向きを矢印で示した。御殿場泥流の主流は、溶岩塚群を西に迂回してから南下するが、2筋ほど、溶岩塚群の間を抜けているものがある。これらは、三島市街地の東部台地、中央台地を形成している。主流は西部台地を形成。
 そして、
・水の都・三島の水を考える場合、御殿場泥流は、浅い帯水層として重要な役割を果たしていた。
・富士山の活動を、火山活動だけでなく、山体崩壊などの活動?も含めて考える場合、溶岩流を流す活動よりも山体崩壊→岩屑なだれ→泥流発生の活動?の方が、起きる可能性が高い。また、溶岩流と泥流について、巾や流下速度などを考えると、泥流の方が、怖い。

 【地質遺産】
 三島溶岩や御殿場泥流など、ここにしかないものであり、しかも、破壊されたら復元は困難である。露頭などは、後世に伝えるべき遺産として保全すべきである。
 また、富士火山の山麓に位置する黄瀬川流域、そして三島に住む人々は、荒れ狂った時の富士山の恐ろしさを意識すべきである。そういう意味で、溶岩塚も溶岩洞穴も、出来るだけ残すべきである。

 ぼくの提案は、1)危険な区域の上を陸橋にして、溶岩洞窟に荷重を加えないようにする。
     2)市民が よく観察出来るようにすること。結果として観光資源になっても良いと思う。

三島溶岩洞穴の平面図

三島の溶岩洞穴の工事は、始まっているようだ。
とりあえず、洞穴の平面図(藤村郁雄;1979)を紹介する。
イメージ 1
 
  ※文献:藤村郁雄(1979)「富士山の溶岩洞穴の形成過程(続)」、静岡地学、第40号。

 図の 〇井 の所から洞穴に入る。色はくどう。
 以下、藤村(1979)の記述。
・B 付近の天井の岩盤の厚さは、1〜2m。
・昔道路が舗装されていていなかったころに、筆者はこの付近で荷馬車の轢轆(れきろく)の空洞に反響する音を聴いた。
・B の付近の洞内では天井から木(あるいは草)の細い根が下がり、ミミズも見られている。
・この図は昭和34年7月の測量。三島市商工課保存資料。 昭和34年=1959年

洞穴に関連して戴いたコメントは、書庫「三島溶岩洞穴」に移動し、ぼくの意見も述べる予定。

古富士泥流?

大場川の右岸(三島市幸原町)の露頭。6月の初めに、対岸から見つけておいたのだが、入り口が分からなかったので、訪問が遅れた。写真中央の草が薄くなっている所。
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 (しかし この写真、地質屋でない人が見たら、何と思うだろう? 崖です!)

 細粒の火山灰が少ないのに締まっているので、「古富士泥流」と判定した。御殿場泥流ではなさそうである。しかし、この場所・この高さに古富士泥流が出てくるとなると、「境川・大場川の流路変遷」の話は再検討が必要である。

 古富士泥流は、三島溶岩より古い(少なくとも2〜3万年前より)もので、この地域では、露頭で お目にかかれるとは思っていなかった。
1)「青木橋物語」
 寿山氏から「青木橋物語」を頂いた。
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 この冊子は、「北上郷土史研究会」から、平成3年(1991)頃、出版されたもの
で、 B5 14ページ、著者は「榊武」である。この北上は「きたうえ」と読む。
 榊氏によれば、昭和2年(1927)竣工の青木橋は、「馬六頭で牽引する砲車が、しばしば往来した」という。この砲車は、三島町にあった野戦重砲連隊の重砲を載せた砲車である。三島には、野戦重砲連隊の第二連隊と第三連隊が駐在していた。現在は三島「水の都」だが、当時は軍都「三島」だったのである。

2)流路変遷について
 「青木橋下より川筋の変化について」、榊氏は岡ノ谷亀次郎氏の話を紹介している。「青木橋東袂付近に細い溝を作り、境川から水を引いた水車小屋があったが、亥の満水で洪水が湾曲の土手を決壊してまっすぐに南に氾濫し、水車小屋もろとも押し流された。以来水路が今のように変わり 云々。」
 現在大場川の流路になっているあたりに、川の水を直進させるような何かあったらしいことは、この話から言えそうである。しかし、「細い溝」が、水車を回したあと境川に戻ってしまったのか、用水として徳倉まで流れていったのかは分からない。
 なお、岡ノ谷氏の話を裏付ける資料があるのかどうかは、はっきりしない。

3)亥の満水
 榊氏は、亥の満水について、万治二年(1659)か寛文十一年(1671)か、不明であるとしている。
 ぼくは、亥の満水について、寛文十一年説を支持する。以前のブログで、「できたばかりの箱根用水関連の『新川』が、寛文十一年に決壊し、その水が箱根側に集まって、当時の境川を増水させた可能性もある」と書いたが、「新川を決壊させ、境川の流路を変えたよう激しい降雨が、寛文十一年に、箱根西麓にはあった」と、訂正する。
 根拠は、①青木橋のすぐの上流の麦塚(裾野市)や伊豆佐野(三島市)で、寛文十一年に水害があったという記録が残っている(佐藤隆氏談)こと
 ②旧深良村(現在 裾野市北部)の用水網を見ると、使った水も余り水も、ほとんど黄瀬川に流れるようになっていることである。
 新川の工事は、前年トンネルが完成した箱根用水の水を深良新田や深良上原に配るための工事であるが、決壊しても、その水は、黄瀬川の方に流れる。また、頑張って東に行ったとしても、箱根山地との境界には旧川があり、この川も、自然に任せていれば、黄瀬川に流れ込むのである。

 青木橋周辺(大場川、古(旧)境川、古々境川、徳倉用水など)と上流の富士見橋付近の現地学習会を7月26日行います。 別ブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/geologokudo/28869602.html)に投稿しました。

徳倉堰 蛇足

徳倉堰の所で、青木橋周辺がいろんな意味で重要な地点だったらしいことを書いた。 その一つは 旧「北上村役場」があったことである。役場の位置は? 年寄りに聞こうと思ったが、地図をよく見ると、記載されていたのである。
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 この地図について「等高線がきれい過ぎる」とも書いたが、等高線に関しては、明治初期の図と同じである。昭和46年(1971)になって、空中写真を図化したらしく等高線が変わっている。

 それにしても、よくぞ描き、よくぞトレースしたものである。図が出来たあとには、製版、印刷と云う行程が続く。 しかし、地質屋としては、何故そこに線があるのか、線の下に何があるのかを読み取らなければならない。 もちろん 現地踏査まで行く。

 ※この図の「?}は、取ります。資料:「青木橋物語」、昭和7年および明治35年の地形図(企画展 きたうえ村 図録)   2009年6月27日

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