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箱根用水

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1.平面的な測量

 大げさに言えば「平板測量」であるが、原理は簡単で、小学生にも出来るものである。
 ぼくが小学校6年の時、学校の周りを、班毎に、縮尺100分の1くらいで測った覚えがある。出発点まで戻ってきた時に、真面目な班は、2センチくらいのひらき、不真面目な班は5センチ以上のひらきだった。この測量?は、画板の上に磁石を乗っけ、北を適当に合わせて だったから、大人が、しっかりした道具(たとえば、三脚など)を使い、本気になって測れば、と思う。もちろん、山地に行けば、険しい地形との戦いもあるだろうけれど、友野与右衛門氏は、正確な絵図面は作っていたと思う。

2.高さの問題

 要するに、老中たちは、「高さを合わせるには、キリシタン・バテレンの術か怪力乱神の助けを借りるのだろう」というのだが、友野与右衛門氏は「人間なら、だれでもできます」と云って、説明を始めるのである。 説明は なんと 2ページ※も続いている。
 ※タカクラ・テル「箱根用水」、p.69 〜 79の中の p.76~77、昭和46年。

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 タカクラ氏の説明で、「ヘ」が抜けているのは、ご愛嬌?。「ト」はある。
 タカクラ氏は「だれも分かったものがいない!」と書いている。小説としては、仕方がないか! しかし、率直に云って、タカクラ氏の あの説明は分かりにくい。「ヘ」が抜けていることと言い、タカクラ氏も分かっていなかったのでは? である。伊那半左衛門くらいには分かって欲しかったのだが、分かる人がいたのでは、小説にならない?

 ぼくは、このような問題は、三角関数を習った時に考えたが、同級生たちはどうだったろうか、今度の同窓会の時に聴いてみよう。今の高校生なら分かると思うのだが、この時の老中たちは、分からなかったようだ。  図を書かないと、やはり 難しいんじゃないかなぁ!

 ※タカクラ氏の説明で抜けているのは、「イ、ロ、ハ」の3地点、「ハ、ホ、ヘ」の3地点が、それぞれ、平面図上で直線の上に載るという条件である。5地点が、一直線の上に載る必要はない。
 ※「深良村に、二つの地点、イ、ロを、千尺をへだてて、平(たいら)に取ります。」と説明しているが、これは難しいだろう。芦ノ湖側は、湖面があるので「たいらにとる」ことは容易だろうけれど、深良側は、地形の補正が必要である。ハイの延長が地形線とぶつかる所をイ’として、そこでの測量が必要となる。原理は単純だが、面倒な手続きが必要である。
 ※要するに、高さの差が問題になるのは、水の取り入れ口と掘り抜きの出口との差であるから、「ロ」は、掘り抜きの出口に設定する必要がある。「ロ」を出口に設定した時に、たいらに「イ」の地点をとることが可能だったのかどうか。実際問題として。
   

「深良用水の沿革」

 順序が逆になりましたが、「深良用水の沿革」を紹介します。

 出版は、「静岡県芦湖水利組合」。著者は、初版が喜多川龍男氏、昭和39年(1964)、再版が牧野氏、昭和54年(1979)。(※牧野氏の名前は、このブログでは、表示できません。ぼくのパソコンでは表示できるのですが、公開すると、数字になってしまいます。記録の「録」の字の、金偏を馬偏にした字です)

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 タカクラ・テル氏や佐藤隆氏が「箱根用水」と云っている用水に対して、「深良用水」と云っている。なにか 理由がありそうだ。
「深良用水の沿革」という本を読んだ。初版は喜多川龍男(昭和39年;1964)出版である。
 この本の冒頭に、「深良隧道地形平面図」と「深良隧道縦断面図」が折り込まれている。これらは、箱根用水総合調査団(団長:東邦大学・志賀富士男教授)によって昭和25年(1950)、調査されたものである。発表年 ?。

 縦断面図に坑道の壁のスケッチがあるので、それを解釈して平面図にプロットした。ルートの全体的な地質は山伏峠火山体を構成する火砕岩である(日本地質学会;2007)。調査団のスケッチの地質区分の基準は、明らかでないが、全体は火砕岩であり、「集塊岩」としてあるものは、火山岩塊を含む「火山角礫岩」だろうと解釈し、●をつけて示した。

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 芦ノ湖側は、最初は順調に行ったようだが、入り口から120〜370mになると、断層を伴う輝石安山岩(幅5m未満で、縦に入ってくるので、岩脈と思われる)が出てくる。「こりゃ大変だ!」と思って平面図を見ると、ルートは北へ緩やかに曲がって行くのである。断層と喧嘩をするのではなく、と云って逃げるのでも無く、「いなしながら」という感じである。これぞ、甲州金掘りの秘伝、「樋押しの術」と思ったが、‥‥。「樋押しの術」+α? 秘伝の術を使っても、4年かかってしまったのである。
  ※全長 約1,300m。出会い地点は、芦ノ湖側から約330mの地点だそうだから、秘伝の術を使っても、これだけで4年かかってしまったことになる。

 深良側も、最初の300mほどは大変なものである。断層を伴う輝石安山岩の岩脈に加えて、新しい時代の崩積土などもあったようである。左に右に曲がったり、弧を描いたりしている。しかし、それから先(掘り抜きの中央部に当たる)は、断層や岩脈はあまりなくて、順調に掘れたようである。深良側からの掘削は、約1,000mになる。
 
 問題は、難所のあと、掘削の方向をどうやって決めたのか である。方向を適切に決めるには、始点・終点の位置と共に、切り羽の位置も把握されていなければならないだろう。地質屋の感覚で云えば、ルートマップがきれて、水準測量も出来なければ である。友野与右衛門氏は、そんな技術を持っていたんだろう! 一人では出来ないだろうから、集団的にである! 神技と云いたいが、とにかく、そういう技術を持っていたんだと思う。            2010. 2 くどう
  ※2010.4、図を差し替えました。

 

 佐藤隆氏の問題提起から

はじめに
 佐藤隆(1979、1983)の問題提起から、箱根用水について考えてみる。佐藤氏の問題提起の内、ぼくが理解できた分。

 この場合の箱根用水は、箱根隧道(箱根掘り抜き、または箱根トンネル)や裾野・長泉の用水網全体を含む。タカクラテル(1971)の小説 新版「箱根用水」は、小説「箱根用水」と記す。

1.箱根用水の開鑿は、幕府の「新田開発奨励政策」に乗っていた。
 時は寛文年間、江戸幕府も四代将軍となり、世の中も落ち着いてきて、多くの地域で新田開発が試みられた。小田原藩御厨領内では、この時期、箱根用水(施工開始:寛文6年=1966)も含めて4件の新田開発が行われた(佐藤隆;1979、第26表)。いずれも「町人請負」という形式をとっている。
 ほかにも、たとえば、東京の玉川上水も、承応2年(1653)に町人請負で施工している(杉本苑子;1994、 )。
 一方、富士川下流の「雁金堤」は、寛文7年〜延宝2年(1667〜1674)に施工されており、施工者の古郡孫太夫(親:重政、子:重年の2代)は、この地域の代官(駿河代官?)である。ー 若林淳之(1970))、静岡地理教育研究会(1976)。
 また、富士川の舟運の水路整備は、慶長12年(1607)に行われている。これは、徳川家康の命により角倉了以が行ったものである。ー 村井益男(1973)、静岡地理教育研究会(1976)。

 「町人請け負い」、町人にとっては、厳しいものだったようだ!

2.友野与右衛門の誤算-1
 第1の誤算は、箱根隧道を1年で仕上げる予定が4年かかったことだという。費用も当然4倍かかったことになる。
 友野与右衛門の測量技術は、神技と云って良いだろう。総延長約1.300m、高低差約10mを両方から掘り進んで、ピタリと合わせている。それなのに である。
 掘削が進まなかった理由は、地質の問題だと思う。岩盤は、単純に硬いとか柔らかいではなく、火山灰など細粒の地(じ)の中に硬い岩塊が複雑に入っているという状況だったに違いない。地の部分がしっかりしていれば、掘削面は安定しているが、そうでもなかったようだ。掘削は慎重に進められたので、落盤事故はなかったようだが(人身事故もなかったようだが)、掘削後、水量が減少し砂浚いを必要とするような落盤があったことを佐藤氏は述べている。

箱根火山の地質図(日本地質学会;2007)を読むと、箱根隧道は、「山伏峠火山体-35〜30万年前、玄武岩質」の中を経過してるように見える。この火山体は、外輪山を構成する成層火山の一つである。

3.友野与右衛門の誤算-2
 箱根隧道掘削後の問題は、数多くある。俗っぽい言い方をすれば、「友野与右衛門は、儲からなかった」となってしまうが、隧道掘削以上に難しい問題が発生している。

 3.1 新田・畑成田の増加が思ったほどではなかったこと。「従来は水田の増加が530町歩といわれてきましたが事実は200町歩に達していません」と佐藤氏は書いている。
 用水路の整備は契約に入っていたようで、小説「箱根用水」にも、「用水はできたといっても、じっさいに水をとおして見ると、みぞや、入りひや、水門には、いろいろ、不十分な所のあるのがわかった。友野や大場は、そのために、毎日、かけまわっている。」という記述がある。

 3.2 しかし、小説「箱根用水」には、新しい水争いが発生したことは書いていない。黄瀬川の谷は、もともと、黄瀬川の水を引いて水田を作っていたし、用水網もあったのだ。重要なことは、箱根の水も同じ用水網を使ったことだ。水自体を「黄瀬川の水」、「箱根の水」と区別することは出来ないので、問題が発生する。

「お前のところは、黄瀬川の地水懸りと云いながら、湖水の水も使っているではないか!」
「そっちこそ、湖水掛懸りと云いながら、黄瀬川の地水も引いてるではないか!」
 と云うような争いが、水不足の年ごとに繰り返されたそうだ。
 
 この水不足、雨が少なくても起こるが、雨の量→用水の量が変わらなくとも、水を必要とする水田が増えても起こる。水田が増え続ければ、水不足は、激しくなるばかりである。ともかく、水争いは、隧道掘削から100年後の安永5年(1776)の「水配規定書」で、やっと解決の方向に向かう。

 友野与右衛門も、どんな気持ちで、水争いを眺めていたんだろうなぁ と思う。友野与右衛門には、用水路や堰の補修の義務はあり、それは履行していたが、その用水路や堰が関係している水争いを調停したりするような権限は持っていなかったようだ。だから、意見があったとしても、代官所への「願い出」という形で出すしかなかったようだ。
 
   3.3以降は次回。         

2.佐藤隆「箱根用水史」(1979)
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 佐藤氏が明らかにした事実、まさに 事実は小説より奇なり! である。
この小説とは、タカクラ・テル「箱根用水」であるが、 タカクラ・テル氏も、あの10倍、20倍くらいの小説を書きたかったんだろう!!! 高倉氏は、1945年当時は 獄中にあり、獄中で箱根用水のことばかりを考えていたそうだが、集めた資料は、7月の空襲で焼けて、灰になってしまった※1 と書いている。

佐藤氏の著書は、B5, 310ページ+ の大著であり、学術書※2 である。 ぼくはまだ通読していない。まだ、拾い読みの段階である。しかし、「箱根用水ができるまで」(1983)という解説書があるし、じつは、佐藤氏から直接話を聞いているので、箱根用水のことは、かなり分かったつもりでいる。

※2:学術書なんだろう。しかし、どうも 文章の推敲は不足だ と ぼくは思う。(もちろん、本人には言う!)
※1:「空襲で焼けて、灰になってしまった」。この感じ 分かるだろうか! ちょっと横道だが !!

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