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☆☆ 小林秀雄さんの思い出 2 ☆☆
小林秀雄さんのモオツァルトは、復讐の原爆二発を浴びた全土焦土の焼け跡で発表されたとはいうものの、調べたヒトの話では、自棄パチ戦争に入った昭和17年ころから、その想いがオコされたというので、戦火の中の批評の質に期待し、その質が高い‘わかれめ’のレベルに達しているかと想うと、告別式を前に迎えた俄な読書としては、別れ行くヒトと過ぎ去ったヒトとを、イッショに抱きかかえるような感慨が襲って来て、どうしようもなかった。敗戦ごの‘戦後’が、終わっていなかったことが、素直に分かってくる。
…ある他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。
…彼は当代のあらゆる音楽的手法を知り尽くした、とは言わぬ。
…手紙の中で言っているように、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。
…独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされたことはなかった。
…模倣は独創の母である。ただ一人のほんとうの母親である。
…模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。
…してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身のかけがえのない歌を模倣するに至る。
…これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞こえるほど、独創という観念を化物じみたものにしてしまった。
…今日でもなお、モオツァルトの芸術の独創性に驚くことが出来る。
…そして、彼の見事な模倣術の方は陳腐としか思えないとは、不思議なことではあるまいか……(抜粋から)。
つまり…、金満の闇を迎えたからといって、金満のゴミ投げ合戦を始めるには、まだまだ模倣する方の力不足も、模倣の創作力の方も不足するのが否めないと、小林秀雄さんが告別式で、語りかけてきた。赤貧の闇の有頂天や陶酔では、金満のモデルを、模倣して創作するにも飽き足らないと、語って聴かせたのだから、安心して、花盛りに狂うTVやマスメディアの‘ゴミ投げ’合戦を模倣するのは、大人気ないと諦め、僕が模倣したくない代物の代わりに、惜しげもなく僕自身の手で自分の中から掘り出して、今風の代物へ模倣し、‘ごみなげ’合戦に参加して、秘かな雪合戦を楽しむのが、よいとした。時事モンダイは、こうして、真理に到達するに足りる独創を実感するため、模倣の対象に選んで僕自身のかけがえがない僕の肉声の上に乗る他はあるまいとばかりに、時事の真理や事実を、描き出すのである。
……意識とは、観念と行為との算術的差であって、差がゼロになった時に本能的行為が現れ、差が極大になった時に、人は、可能的行為が林となって道を失う。安全な社会生活の保証人は、習慣的行為というものであり、言い代えれば、不徹底な自意識というものである自意識を豊富にしたければ、何もしなければよい〈小林秀雄さんの‘罪と罰’についてから〉……。
つつしんで……丈司ユマ著作権
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小林秀雄との真昼の決闘、敬意をもって読みました。彼の著作を引用するなどの波紋は、信じられないほど少なく、批判や批評も記憶に残させず、不思議な思いに包まれて来ました。‘恩を返す’そんな言いようがあるのに、恩を小林秀雄さんに返そうとするヒトが少ないのは、気に懸かります。
小林秀雄さんが傑出していればいるほど、その胸を借り、言論を高め、‘万機公論の決定・原理’を共有、しかし花一匁の‘見返り’から、恩を返す度胸が欠けたのは残念です。彼をケナすなんて、そんな問題が起きえないほど、傑出しているのですから、その胸を‘自由’に借りなければ、卑怯な人間になって終いかねません。合間に書いた返事だけでも3000語を超えました。ブログに立てます。
素晴らしい刺戟をありがとう。お気に召すまま、コメントは、まったく自由です……丈司ユマ
2009/7/16(木) 午前 11:18 [ georgeyuma ]
Yahoo!サービスが伝えるブログのバッティング先が紹介され、
暗記(模倣)と独創力(オリジナリティー)……。
真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。「書く行為」のための「書く」ことを戒めている(坂口安吾)……。
その中から、この双つが眼を惹きました。
それらを含めると、著作の認識についても、認識の真贋が自覚の見和に映ってきます。天才の‘独創力’が、他人の音楽を理解する時も、他人のそれを模倣するように‘独創力’が使われる分けだから、独創力は天才的であるように想い、独創力を化け物のように大袈裟に考えるのは、それも熟知しない油断と見なされるのである。理解することを、独創するとは言わないのがルールとするなら、モーツァルトが他人の音楽を理解しようとする時、‘独創’が無かったというなら、それはマチガイになると、モーツァルトは考えていたらしいと、言わざるをえないのである。他人の音楽を理解するために働いたモーツァルトの独創は、理解の対象にした‘他人の音楽’を越えているから、→
2009/8/15(土) 午後 2:48 [ georgeyuma ]
→ルール通りの‘模倣’が不可能になり、結果として模倣した音楽が、モーツァルトから発表されなかったのである。つまり、天才だからといって、作曲中に‘模倣行為’がなかったわけではなく、天才の頭の中では常に‘模倣行為’がオビタダしい数をもって繰り返され、独創に始まって独創に終わる‘独創尽くめ’だったように、‘独創力’を理解してはならないことを、小林秀雄さんは思考した末に、そう論じたのである。意図をもって摑んだり実践できないのが、‘独創力’であって、天才も模倣行為を淡々と‘満足する’まで繰り返すのであって、その結果に何か新しいことが宿った時に、独創力が新しい音楽を創作したということになります。ですから、模倣しまくって模倣に熱中した結果、新しい何かがその結果に宿っていなかったら、独創に至らず模倣に終わった、ということになります。模倣レベルで終始するヒトは、結果として、独創力がなかったと他人や自分で判断され、新しい曲には到達しなかったという月並みに甘んじるのである。だから、作曲中に‘独創’を凝らそうと意図するヒトは、独創力がない結果を迎え、観念しなければ、→
2009/8/15(土) 午後 2:49 [ georgeyuma ]
→それこそ独創力のお化けになると注意したとも、言えます。同じフレーズだって、数百回も繰り返す内には、リズムもいろいろに代わり、そのフレーズを間に継なぐ前後のフレーズだって、多様に変化するだろうから、その内のドレをもって、作曲を全うするかで、結果が烈しく変化するでしょう。こうして、‘独創力’は行為の眼から眺めると、普通の工夫の連続であることを悟らせるから、素直や正直が創作行為の決め手になる、そう小林秀雄さんはコブシを聴かせてくれました。陶酔も絡むので、天才論や独創論は、なかなかピリオドを打たせません。
コメントに触発され、振り返りながら、想いが際限の見和を広げます。お気に召すまま、コメントは、まったく自由です……丈司ユマ
2009/8/15(土) 午後 2:50 [ georgeyuma ]