おおがいさんのトモダチ

森の生け花や山野の一輪差しを思う常識から常識による常識のための常識

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   ☆☆ 分かりやすさは良寛さんがトップ、
     紀まつのポストモダンより先だった 
         江戸の春 ☆☆
 ……「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である……、
 ……スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーブがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。純粋に儀礼的に遂行される切腹は、いくらその犠牲者の屍が積み上がろうとも、決して革命の原動力にはならいというわけだ。」(東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、97-98頁)……。
 こんな理解ですから、ソーカルとブリクモンの‘ソーカル事件1994-1997年で放たれた『知の欺瞞』の一矢は、その足もとをスクい、ム責任を背走するその逃げ根性を射抜きます。支離滅裂がドを加え、元気一杯なマンガに吸い取られ、倒壊するポストモダンの世界で、‘文字やことば’に徹するヒトが増えず、立ち上げた『東浩紀のゼロアカ道場』が08年にエコールノルマルから招待され、崩壊した仏のポストモダンの立て直しに駆り出されますが、どんな成果を上げるでしょうか。マンガが相手の大活躍ですからその期待には懐疑的になります。影響を排しながら、星の数に及ぶ多数の、マンガに現れた欲望の表現を、寄せてまとめる‘筋の構造’が、欠かせず、‘影響が皆無の真空地帯’に抗してそこに届きません。
 壮大なマンガのデータベースを‘構築’して、その頻度のランキングを軸にする、なんていう‘はしたない意識’で‘無に失敗したム’をランキングに架し括って逃げる、それは新しいテーマ‘スノッブ以下の謀行’を探させ、影響の大きさが極大に、そそり立たされます。ですから、そんことはないでしょう。マンガのホトんどは、抑圧の憂さを晴らしたり、熟さない感性に疼く、直情やヒステリーが結ばせる夢や霊感を、畳まず、広げさせるものです。それならその代わりに‘死を循環するドッペルゲンガー’を、軸に立てると、精神現象のもろもろがその構造主義を拝して行儀よく、千羽鶴のようにならぶのを、実感するでしょう。
   ☆☆ ポストモダンの悪夢です ☆☆
 ポストモダンの悪夢です。ヒトの本を読んで、その字句のヒトつ一つを、コジつけ解釈、多数に及んで並べたコジつけ解釈の、初めから終わりに至る‘流れ’に執着、窮屈なコジつけを‘修正’するたびに、原書を超えたような錯覚をもち、原書以上の理解に達したと、錯覚をジ画ジ賛する、つまり俗物根性が付随して発見されます。‘批判空間’には批判に値する空間が、現れたわけではありませんし、ミズからスノビズムに堕した俗物根性から、タの蛮行奇行に対立させても、空しいム徒の対立意識を現存させ、残された‘空しさ’や‘ム徒の荒唐無稽’から、ム影響の自由を感じてジコを温和しくさせるのは不可でしょう。‘コジつけ空間’は赤い風船に宙に浮かせました。赤い風船が、フランスの敗戦復活後の、自由を象徴しましたけれど、ジーンと包んだその時の気分や思うところは、未だに記憶したまま変わりません。過去型の‘批判空間’、未来型に移すと、跡を残さず萎んで消えます。不死を光らせる批判が、萎んで消えたら、ム影響を支えた批判は、ム影響の思いを裏切り、スノビズムが裏切り一色で埋められ、批判のスノッブはクズの影響を迫り立て、ム影響化に‘失敗’、スノビズムの相手を勤めず、ム徒と変わりません。
   ☆☆ 否定や肯定が衝突する頂点は、死 ☆☆
 否定や肯定が衝突する頂点は、‘死’。ですからアレクサンドル・コジェーヴ(1902-1968年)は、‘切腹’の事実に眼を見張ってギョーテン。ギロチンやジャンヌダルクの火炙り刑や魔女狩りとは、カタチがまったく異なり、自分の手で自分の腹を斬って自分を殺す、フランスの‘形式’のうちに入れようがない自己死の‘形式’に収めるそれは、スノビズムの象徴になる異例の‘形式’でした。彼の論理進行を中断させていた、歴史が終焉した後につづくべきヒトの存在は、‘切腹’による‘形式’優先のスノビズムて履行されると、敗戦後の確信に到達しました。ナチイズムに征服されたとき、その影響を受け、フランス人の何人が自殺したか、コジェーヴの認識が‘指導層’に甘く、‘形式’への究極化はむしろ曖昧です。フランスのいい所は、鉄仮面をつけて牢獄に抑留させる‘形式’を限度としたスノビズムですから、‘ナポレオンに具現化された歴史の終焉’のあとに、顕れる‘形式’を確信しなかった正直が、スノビズムの形式を未成立にさせたようです。いくら形式でも、その‘歴史の終焉’のあとを‘空白の形式’で埋めたら、地球が消えてしまい、形式化にも‘限度’がある‘形式’だったことを伺わせます。
 切腹のそれ以外のいろいろにまで、スノビズムを広げるオマケをを探すような、‘形式の拡大’は、思うほど‘意味’はないのですが、そうするそこにもベツな俗物根性が顕れ、思いつく個々の行為には、適用に際し、思いこみの‘それ自体’をフォロー、コジつけの悪法となって、ナンセンスを被ってナンセンスにもぐり込みます。「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式(コジェーヴ)は、ム思想やム責任の‘思いこみ形式’やコジつけにまで広げられると、局面が代わり、没公益の悪戯を増やす、支離滅裂の例と化し、ミズからをナンセンスへ崩壊させ、堕ちざるをえなくさせました。苦心惨憺して固執した‘建前の最優先シュ義’、俗物の一観念‘形式’のそれさえ、無惨に斬り捨てられます。しかし‘便宜’は形式化された価値を反映、裏切りや固執や否認で否定とともに復活、‘形式’の棺から、忠臣蔵を走らせ、伊達騒動を隠らせる、‘形式’の棺に納まらない‘行動様式’となるので、世界に類例がない日本に固有の、俗物観と見なしても、‘反権力の意志’が目立ってハミ出して我を優先、コジェーヴを首肯させる‘形式’や‘行動様式’から、ゾンビとなって這い出します。‘生々しさ’は、冷たく血を凍らせる‘形式’に属さない生の倫理に揺れ、形式の棺を遠ざけます。つまりコジェーヴのスノビズム論は、その限界を論じようとすれば、具体的に即座に、反論や肯論の不徹底が表明され、‘無視’の俗物奇行に頼らせず、それからの影響を拒む謀行に敗れ、影響を受けずに済みました。
 狭小列島に残され‘固有’化した矛盾は、神仏融合のスノッブを蓑に被ってム徒に変じ、‘応仁のラン’をグサグサッと転動、コクみんの生命が‘都合の形式’で殺され犠牲にされる‘俗物’意識に根差すのですから、矛盾の中に堕とされた侵略の敗戦後、矛盾から出るに出られず、スノッブに隠ったため、コジェーヴの形式‘観念’は身につかず、敗戦後がズルズルっと愚図って終わりません。
   ☆☆ 大量消費に向けたスノビズムは、
      スノッブに非ず、野放図の依存症 ☆☆
 消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会に向かって、スノビズムSnobbismの対象を論ずる‘意味’はありませんから、大量生産とその大量消費が誕生させた‘新しい生活意識’の性格や特徴を、理解するためのアクセス方法は、ベツにする必要があります。注意のヒトつは、‘買い食い’が、スノビズムか、それとも個性を現すか。空腹のスナック化や肥満させたファーストフ−ド化、大天井のスーパーが空腹を、形式化させるという想像は、ケチを求めケチをつける謀行であって、スノッブ以下、つまり実存をイッします。
 そして‘買い食い’の習慣について、支配する‘意識’を分析する段では、コジつけの拡大が赦されない、ということになりますから、‘切腹’で承知する所となった俗物が、死を選択する‘形式’である点をもって、俗物の‘実質’のその端数は、四捨五入、意識するに値しないで、観念化に不十分。星の数ほどの生活行為の多くを、‘検証’対象に広げて、俗物意識を拡大しようとする意図は、謀行ゆえで重要な点になりません。日本人のすべてが俗物の固まりであると、スノビズムをム理押しする‘捨てないで思考’は、スノビズムをナンセンスに陥らせ、現のごどとくに失敗。
 ‘ヒトの意欲’が働かず、惰性するム気力・行為が、形式化されるその状態を、スノビズムと定義。‘切腹’が選択されるに至る‘形式’の意識は、死を拒む逃亡や、死を命じるものにも死を願う反逆を‘実質’にしないそれ故の‘形式’をもって、注目される、価値が確立します。ですから‘お家断絶’や‘一族全滅’などは、スノビズムの‘実質’に加えなくても構いません。なぜか死を欲し、単独で死を選んで単独の‘現場’に止まる、切腹の‘形式’は、最高の‘形式’としてタに例がなく、タに譲らない、ホンモノの固有性がそそり立ちます。歴史の終焉を継ぐものは、他しゃを巻きこまず、自しゃの生命を自しゃで死に処し自しゃを‘滅’す、自しゃにとって冷徹な最高の‘形式’でなければ、認めがたいのですから、未来に向かって‘ヒトの意欲’が‘働かない’にもかかわらず、儀式のように‘切腹’が選ばれるという俗物の‘規律’は、理性が拒むほどにも勇大なものです。
      ☆☆ 月の兎は 歌います ☆☆
 ……無常(信)まことに迅速 刹那刹那に移る 紅顔 長く保ち難く 玄髪 変じて糸となる いざ歌へ われ立ち舞はむ ひさかたの 今宵の月に いねらるべしや いざさらば われは帰らむ 君はここに いやすくいねよは 明日にせむ(良寛1758  〜1831 年)……、
 兎は満月から満月の15夜の月を慈しみ、15夜の月を見あげるヒトビトを、悦ばすことこそ‘貢献’と悟り、侘びしい冬の前、‘ひさかたの 今宵の月に’、15夜の冴えザえと光る、餅つきを映さん、‘いざさらば’厳冬へ勇を奮い、‘われは帰らむ’わが家こそ、‘君はここに’寛ぎ、弱きも淋しきも‘明日にせむ’、餅つく兎の光りを浴び‘いざ歌へわれ立ち舞はむ’、春のおぼろ月夜まで、ヒトりではないよ、‘月の兎’がいつも一緒、いつでも見あげなさい15夜の月を。信に迅速、迅速に掠め去る無常、無常は一時、一時の無常に戦かず、餅つく兎の光りを浴びるまで、
  ∈ 花おのおのの 日本だましひ 勇ましや ∋
 身を傷つける貢献は‘貢献’に非ず。
 ステップの10キー、‘ひさかたの 今宵の月に’‘いざさらば’‘われは帰らむ’‘君はここに’‘明日にせむ’‘いざ歌へ われ立ち舞はむ’、‘無常(信)まことに迅速’‘刹那刹那に移る’‘紅顔 長く保ち難く’‘玄髪変じて 糸となる’。これならガイライの仏典から、マル暗キした‘貢献’を凌ぐでしょう。兎が‘観念の世界’にあげた大金星です。固有の矛盾から脱するのは、切腹の俗物根性を乗り越えた、良寛さんから喜楽に始めます。
       つつしんで……丈司ユマ
著作権

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