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☆☆ ソクラテスの饗宴、人間失格や、長歌月の兎 ☆☆
☆☆ 走れメロス、眼に触れた承認要求をその一足に置き、休まない休みを貫き、体力温存のマイ・ベストをリードする、禅問ぺースのマラソン登山から、承認要求を開いて座ったそれを後ろに仰ぎ、到達したゴールの誇りをもって、背く承認の要求にことばを失わせ、休みたければ休みたいと言え、突っ走りたければ、おっと眼を奪って、一読の時間を突っ走り、奪ったその休みを、求める眼を奪い切って、思いのゴールへ誘ってみたらどう、内めん面を外めん面に貼り合わせ、座りこむ開き直りより、走り切って見せたゴールで頭を垂らせ、承認も不用、要求も不用、承認要求なんて不要も不用、太宰治さんの人間失格、無人の駅舎になりません ☆☆
作品中の自分に自刃を向け、他人を批判せずに自殺へ向かった、そんなあわいジガ像を、恥じらわずに言って退ける強心臓に、いささか驚き、地の声のブログを覗くと、内めん面と内面、外めん面と外面が、クレバスを挟んで顕れて来たので、息を呑んで、立ち竦み、汽車の煙が漂う片道キップを手に持って、無人の駅舎に佇みます。
自殺して果てた太宰治さんのことなど、内省を止めた自分を内省的にさせませんと、太宰治さんの作品に貫く動機を抜き取って干乾し、干物の自刃や、他人を批判しないそんな無い小骨を抜く、手間ヒマの不要、内省の不用を、アピール、作家が与える衝撃は、自殺の頬被りすら、剥ぎ取りました。
作家が発した短文は、地の感覚や才の感性をストレートに顕し、興味を惹かせる内面と、自信を閃かす外面の双つの面を、万華鏡のように重ねさせ、見せるので、ハッとさせられます。
☆☆ 内省的でない内省 ☆☆ 田口ランディさんのブログから
若い頃、と言っても20代から30代にかけて。自分は内省的な人間だと確信していた。心理学など聞きかじっていたし、自己啓発セミナーのようなものにも参加していた。自分の内面と向き合うことにかけては人よりも自発的にやっていると思っていた。
しかし、今になって振り返ると、ぜんぜん内省的でない内省をやっていたと思う。確かに自分の内面に関心は向いていたが、その関心には方向性があった。「自分探し」とよく呼ばれていた、あの方向性である。本当の自分というものを内面に向かって探求していた。しかし、内省とは自分探しをやめることであり、自分を探す内省などありえないのである。このことは、今になれば「あ、そうか」と納得できるが、若い頃はさっぱりわからなかった。というのは、若い頃というのは「ありのままの自分」というのがそもそも受け入れがたいのである。ありのままを見るのが嫌だ、というのが、若いということであり、まあ、それはそれでいいのだ。いまでもありのままを見ているかどうかは、主観でしか過ぎないので、八〇歳になったときに「あの頃は若かった……」と思うかもしれないが、とにかく、今現在では昔より「ありのまま」に見ることができているように感じる。この「ありのまま」というのも、若い頃は「あるがまま」と混同していた。
「ありのまま」と「あるがまま」は違うのである。ありのまま、というのはなんかこう、諦めちゃったというか、他人事というか、どういうのかなあ、どっか覚めた感じである。しょせん自分はこんなものだからいたしかたないや……というような境地に近い。五〇年も自分とつきあってくると「相変わらずの自分」を「もう変わりようもないか……」と、どうにかしようとも思わなくなるのである。自分と闘わなくなると、それなりになんとか折り合いをつけていくものである。やだな、とか、めんどくさいな、とか、いろいろ思うが、それはそれとして「相変わらず」であり、「こんな自分」であり、「しょうがない」のである。そして、人生は「やるべきことはやらなければならない」し、「ほっておけばいつかは自分で尻拭い」であるのもわかっており、だから「しかたなくやる」のである。その「しかたなくやる」という、あまりポジティブでない感じを、ネガティブだと思わなくなった。人間、しかたなくやっているくらいがちょうどいい。あまり熱心なのもはた迷惑であったりするものだ。「あるがまま」の人は、まあ、それはそれでいいのだが、それを強調され過ぎると「わがまま」に感じる。「わがまま」も、それはそれでいいのだが、度が過ぎる場合は敬遠する。嫌なものは遠ざけるし、好きなものには寄って行く。しょせん、無理をしてもいつしかそうなる。あまり内省的でない内省を、長いこと続けてきた。あまり内省的でない内省をしている人は、実によく他人のためにがんばる。内省すればするほど人はよけいなことをしなくなるので、あまり内省的な人が増えると資本主義も破綻してしまうだろうから、こんなもんでいいのかもしれない。# by flammableskirt | 2009-11-05 06:11
これは、承認要求ではないでしょう。内省をどのように玩具にするか、太宰治さんを読み、田口ランディをよむ、読み手の感想も、内省を悼む多言を、忘却させるわけにゆかず、禅問のマイぺースでこころを律し、体力温存を図りながら、休まない休みを減らし、ゴールを安全パイで目指す登山マラソンの極意が、目蓋に焼きつけられている以上、内面が内めん面のようになり、外面が外めん面のようになり、内面が、内省を死骸に、外面が、ベニスに死すをもって果てる、というのでは、ことばに対する酷い‘冒涜’、登山のマイぺースに仕掛けるような、内省不用、「相変わらず」を是認、「こんな自分」を外面に、太宰治さんを干乾しにしてキッて棄てるように「しょうがない」を積極化、「ありのまま」と「あるがまま」は違う……、「相変わらずの自分」を「もう変わりようもないか」と、どうにかしようとも思わなくなるし、自分と闘わなくなると、それなりになんとか折り合いをつけていくものである、やだな、とか、めんどくさいな、とか、いろいろ思うが、それはそれとして「相変わらず」であり、「こんな自分」であり、「しょうがない」のであると自我、そして、人生は「やるべきことはやらなければならない」し、「ほっておけばいつかは自分で尻拭い」であるのもわかっており、だから「しかたなくやる」……、強大なルールが感情に咽ぶヒトを、ヒトの狭間に押し流すのは、太宰治さんも、そうだったと言わんばかりです。
50代でこれほど変わることを自我するヒトがいる、大変な万華鏡のジダイを、実感します。買うも買わないも、目敏く感じ取った承認要求に、歓心で答えることが、なせる承認要求の極意ですから、なにもかも、内省も内面も不用で、外めん面にこころのスポット当てて収束する、という理屈が冴えわたります。超えないクレバスが一文の中に無数に散らばり、強い人間は弱肉強食など気にも止めず、儲けを求め、予測不可能性の神話を利かせ、勝つが花と、開き直るようです。
自己否定を超える先、月の兎は、自己肯定、内省的でない内省は、自己放心。‘行き詰まり’や破綻の多さに思案投げ首、勇みすぎ、開き直りに早る、その自己肯定に、チェンジのブレーキを踏み、来日直前のオバマ大統領、評判の悪い厳しい排出ガス規制、中国の表明の後を受け、意を決し80%削減を日本に打診しました。内省が地に着ける足は、便宜や都合に絡まれず、内省的知があってこその花一匁。人気ものにタカるム知のマスコミ、その月の兎は、酷い狂いに怖じけず、赤字から黒字へカム・バックを果たし、給料や集団・員数を、守るでしょうか。錯覚を誇る自己肯定のページェント、悠然と笑みを浮かべるのは、ソクラテスのエロス。
☆☆ コンクリート・ジャングルも、微に細に宿る魂 ☆☆
微に細に宿る魂が、コンクリート・ジャングルになり、人間失格を意識した人間に、真実一路を、走れメロスで走らせ、ジャンケンですら、後出しを競い、前出しは談合で、なっとく済み、そのナカマに入れず、入らない代わりに、部外者は部外を開き直り、内省不用でつけた自信にものを言わせて、書き、承認要求をもってジャンケンの輪の中に‘殴り込む’という、気分が王さまや女王さまとなった、おろかもののクニでは、ウソを吐けないヒトは、自殺の黄泉に吸いとられ、頭を抱えるナン問やナン行は、心理の自己プロセスに載せ、今日から昨日に送って不用をジ賛、内省不用の極意で、失敗は後悔不用の単なるミスと自問、路傍の石の隣にならべて地蔵のように置き、承認要求の買わせ買いで、迷いを払拭、煽って外面を外めん面の満顔ショクで飾り、談合の意気投合もよし、ゾンブンにはしゃぐ後出しもよし、ジャンケンのジャンケンを堪能します。つまり予測不可能性を商売道具にするのは、お神籤や宝くじだけではなく、大学連山が吹き下ろす雲の合間を、見るか見ないか、お山は、見せる雲と隠す雲のページェント、パジェントは不用な内省の、内めん面の不用な咄し。ソクラテスの饗宴は、仄かに閃く内面の、エロス・祭り。内めん面の内省なんて、こども臭い。
多くのクレバスを渡った太宰治さんの、短く縮めたその歩みは、次に先送りします。
太宰治さんが躓いた句、
∈ 善をつくし美をつくしてもけしの花 ∋
Yahoo!ブログ - おおがいさんのトモダチ一茶の句 ∈善をつくし美をつくしてもけしの花∋を口にした噺があっても、教室や教本で見聞したにしたはずの良寛は、意識の中に残らなかったようです。 思い詰めたように放心し、放念し、'月の兎'を長歌に認めたのは、64才と聞かされ、13年の修行後、僧侶 ...blogs.yahoo.co.jp/georgeyuma/folder/158567.html
万華鏡の中をグルグル回る外めん面は、内めん面を不用に、ヒトをグルグル回します。 つづく
つつしんで……丈司ユマ著作権
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