おおがいさんのトモダチ

森の生け花や山野の一輪差しを思う常識から常識による常識のための常識

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 ☆☆むらさきの ジヤンパー緑のゲートル 乞食姿の旅人はオズカス☆☆
 阿修羅のこと伝、福島第一原発は、渡部恒三の所有地、毎年莫大な土地代を手にしている… fm99.8(476)。漂流する筏の政官財・トライアングル、貪欲・カニバリズムの怒濤は、国連から睨まれ詰められ、カラダを強ばらせ、大勢の目に構わず、共食いが炙り出されます。
…空蝉の知ら路漂う蝉しぐれ、木の子の雲に カゲるオズカス…
 ☆☆義経伝説の三厩、蝦夷蜂起の地、砂鉄の産地で、木材を輸出、
       蟹田川の東海岸は、カゲらない蟹田浜。
    波打際の心細い路を北へ歩き、路が尽きる竜飛の部落、
         ぎりぎりの本州の北端である。
  東京の兄が二十七で死んだ時、勤めを休んでいろいろしてくれた
       クラスメートのN君。愛情と真理の使徒、私は
    もてなしの中にうなだれ、足もとばかり見た現実は、
           私の眼中に無かつた。
      オズカスと、いやしめて言われる時の三男坊や四男坊。
     むらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけ
    乞食姿の貧しい旅人は自分の耳に、ひそひそと宿命とでも
     いふべきものを、囁かれる事が、実にしばしばあつた。
       「信じるところに現実はあるのであつて、
       現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」☆☆
  ……愛情と真理の使徒。
 「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いた。
 蟹を小山のやうに積み上げて、私を待ち受けてゐた。
 飲食に於いては何の関心も無かつた筈、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。
 「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、言ひにくさうにして言ふ。
 「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。」
 「女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
 「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
 「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
 「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
 「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
     何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す(白居易)
 義経の伝説で名高い三厩(みまや)に到着する。
 竜飛(たつぴ)の部落は、文字どほり、路が尽きる。津軽半島の東海岸、波打際の心細い路を歩き、三厩から三時間ほど北上する。
 ぎりぎりの本州の北端である。この辺は最近、国防上なかなか大事。
 砂鉄の産地であつた蟹田の浜は、「青森県通史」に著され、いまは全く産しないが、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうである。新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々とする。
 蝦夷蜂起の寛文九年、鎮圧のための大船五艘を新造した蟹田浜、また、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた。私の中学時代の唯一の友人のN君がゐる、といふ事だけしか知らなかつた……。
(修正変更した抜粋の引用)
    ☆☆ 何せ鷹揚な性質なので、私と同様のN君 ☆☆
        いつも人にだまされてばかりゐた、
     人にだまされる度毎に、私は少しづつ暗い卑屈な
         男になつて行つた。N君は反対に、
       いくらだまされても、いよいよのんきに
          明るい性格の男になつて行く。
       鷹揚に抜けたやうなところのある子だった、
      N君は不思議な男だ、ひがまないその素直さに
      一様に敬服してゐた、人気はなかなかのものらしく、
      やはり彼は一座の花形。好みて酒を飲むべからず、
       俳諧の外、雑話すべからず、行脚掟の芭蕉翁、
       旅の句会をひらき、蕉風地方支部をこしらへる。
           私は、論語の酒無量不及乱、
        太宰風の地方支部を、こしらへる旅に非ず ☆☆
 …… どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。 私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。
 裏路の帰りは、海岸伝ひにぶらぶら歩き、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。
 頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。いま思へば、そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。
 私の下宿は高田馬場であつたが、池袋がN君の当時の下宿、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。N君は雑誌社をよして、保険会社に勤めた。
 何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。
 人にだまされる度毎に、私は少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。
 不思議な男だ、ひがまないのが感心。口の悪い遊び仲間も、N君のその素直さには一様に敬服してゐた。東京に来てからも、兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。精米業を継ぐため帰郷。
 不思議な人徳は、家業を継いで蟹田の町会議員に選ばれ、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる。
 芭蕉翁の行脚掟として、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり。論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、私は、敢へて翁の教へに従はうともしない。
 一座の花形はやはりN君、人気はなかなかのものらしく、若い顔役がその夜もあそびに来ていた。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。私はアルコールには強く、芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。
 此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の他の雑話を避けて、雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではない。
 私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。
 オズカスとして人に対した。いやしめて言われる時の三男坊や四男坊。東京の言葉さへ使はなかつた。純粋の津軽弁で話をした。もういちど、津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつた。
 都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私を、つかまうとする念願である。津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。
 乞食姿の貧しい旅人は、私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を、捜し当てたくて来た。
 個人々々の言動、私に対するもてなしの中に、私はたいてい、うなだれて、自分の足もとばかり、見て歩いてゐた。
 現実は、私の眼中に無かつた。
 自分の耳にひそひそと、宿命とでもいふべきものを、囁かれる事が、実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。
 誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。……
(修正変更した抜粋の引用)
 ∋ デリダのアーカイヴ 病の偉人と非人を 小分けするかも ∈
                   (二蟹田2に)つづく
           つつしんで……丈司ユマ
著作権

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