おおがいさんのトモダチ

森の生け花や山野の一輪差しを思う常識から常識による常識のための常識

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∋異境のような東北、アーカイヴの病 偉人と非人を 小分けするかも∈(津軽、二蟹田3)
   ……気持の説明は、いやなのだ。下手な感懐を述べた。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもしなかった。
 下手な感懐をもらす事はせず、大いに雑談にのみ打興じた。
 蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで、私が一向に手を出さないのを見てとり、N君の小柄でハキハキした奥さんは、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。
アトフキをはじめた。お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「後引(あとひ)き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、
 「しかし、君も、」
 「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
 僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。
 「うむ。」
「僕の知つた事ではない。ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。」N君は盃を手にしたままで、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。」でもね、あいつは、僕が教へなくたつて、真面目に首肯き、かう考へ直さうとした、このごろはそう考えようと努めてゐるんだ。
 「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」
 鶏鳴あかつきを告げたので、驚いて私は寝所へ引上げた。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとりを連れて来てゐた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。
 むらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて、海の見える観瀾山へ花見に出掛けた。
 雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。蟹田の海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。南方の人たちは、東北の海と言へば、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが。
 下北半島が、すぐ真近かに見えた。
 山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の産物に、全国有数の扁柏(ひば)がある。
 林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植した。
フランスの宣教師から、フランス流の剪定法を明治二十年代に教はつて俄然、成績を挙げ、この林檎栽培にむきになりはじめ、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅い。
 日本三大森林地の一つは昔から。冬もなほ青く繁つてゐる津軽の山々には、樹木が枝々をからませ合つている。
   ☆☆ 蟹田川の河口の大きな写真が出てゐる、
         日本地理風俗大系には、
      観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々が紹介され、
       日本三美林の称ある扁柏の津軽・国有林があり、
          蟹田町はなかなか盛んな積出港、
        ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、
      毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。
        西方の書に無視され、異境のような東北にも、
        文明開化以前の堅実な営みが、継承され、
     フランス流の剪定法を得た林檎栽培は俄然、成績を挙げ、
        大正から、青森名産として全国に知られる。☆☆
……津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なほその鬱蒼をつづけ、さうしてわが国の模範林制と呼ばれてゐる。
 はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行ひ、もつて潮風を防ぎ、またもつて岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲ひ、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいはゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依つて耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到つた。
 藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到つても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐へる特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもつて重宝がられ、年産額八十万石、と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらゐになつてゐると思はれる。
 この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出てゐて、さうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅(ぶな)、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られてゐる。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。
 このやうに蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓膜撃壌の別天地のやうに読者には思はれるだらうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。
 いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言つたつて、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。
   ☆☆蟹田の人たちは温和である。
     温和といふのは美徳であるが、
     町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、
     旅人にとつては心細い。
     天然の恵みが多いといふ事は、町勢にとつて、
     かへつて悪い事ではあるまいかと思はせるほど、
     蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかへつてゐる。
     ドガの失敗談が、気忙しげに、頭を去来し、
     政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられ、
     骨のずいまでこたへ、同情の念の、胸にせまり
     来るのを覚え、無視・黙殺し黙過された、
     傲慢不遜の名匠にも思いが立つ。☆☆
 河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したやうな形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それつきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちやなどを植ゑてゐる。
 蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。
 町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがゐるんぢやないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言つた。
 つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しやばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの、馬鹿らしい結果に終つた。
 ドガの失敗談が、それに就いてすぐ思ひ出される。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐してゐた高邁の政治談をこの大政治家に向つて開陳した。  ……「私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない!」と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。ドガ氏も、その眼つきには参つたらしい。よつぽど恥かしかつたと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経つてから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだつたらしいヴアレリイ氏にだけ、こつそり打ち明けたのである……。
 十五年といふひどく永い年月、ひた隠しに隠してゐたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたへたものがあつたのであらうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語つてゐるはうが、どうやら無難のやうである。……(抜粋・引用)
                         (蟹田4に)つづく
          つつしんで……丈司ユマ
著作権

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