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津軽 汝を愛し、汝を憎む、くやしくてたまらない、この、もどかしさ、生誕100年太宰治
☆☆私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう、
赤い糸にについて話合つた弟は、
それから二、三年後に死んだ、自己を棄て、反省の縦糸と
追慕の横糸を張る、自責の意志は正直と素直、
弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた、
みんな気の弱々した文章だった、
なぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた、
三度目の臨界・爆発の前で涌く、火事場・騒ぎは世界を逆鱗、
責任の鎖がそんなに怖いのか☆☆1・2・3・4の2
…………(中略) 衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へがあつた。じじつ私は勉強してゐた。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席となることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。
蛸といふあだなの柔道の主将さへ私には従順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。
笑ひ声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちも、たいてい私になついてゐた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても、誰も可笑しがらなかつた。
吹出物には心をなやまされた。いろいろな薬を買つてつけたが、ききめがない。薬屋へ買ひに行くときに、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして、言はなければいけなかつた。
吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど、恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。治のところへは嫁に来るひとがあるまい、顔の不評判がうちの人たちの絶頂に達し、他家へとついでゐた私のいちばん上の姉はそう言つてゐたさうである。私はせつせと薬をつけた。
みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかで人と対したから、額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがり、額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたりしたが、いろいろな薬を買つて来た弟にだけは、私はなにもかも許した。
仲がわるく、弟が中学へ受験する折に、私は彼の失敗を願つたほどだったし、ふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来た。
弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。
私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。
お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。国語の教師が語つた赤い糸にについて話合つた、興奮し、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、弟に物語つたのは、右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐる、ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番になって、赤い帯しめての、とだけ言つて、真暗い海に眼をやつたまま、口を噤んだ。
海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。弟は、それから二、三年後に死んだ。
私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。
中学四年から高等学校へ、はひつて見せなければならなかつた。学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに来る。
私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである…………。(修正変更した抜粋の引用)
☆☆ 義太夫の朝顔日記を唸る、昭和の津軽風土記
負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、
自矜の孤高を固守して、世のもの笑ひになる傾向がある
何が何やらわからぬ稜々たる反骨、「故郷に贈る言葉」を
求められたその返答、
汝を愛し、汝を憎む、
くやしくてたまらない、この、もどかしさ☆☆
…………いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言つてやりたいところ、秀才といふぬきさしならぬ名誉が私にかかる。ずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。
井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を、浅虫の海と旅館に感じて閉口。田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。
茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいか、といふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつた。
津軽藩の歴史のにほひが幽かに残つてゐた。大鰐温泉はスキイ場のため浅虫についで日本中に知れ渡つてゐる。思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へない浅虫に較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しいが、今は都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがする。
義太夫に凝つて、弘前の城下、弘前高等学校の文科に三年ゐた。義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり、当時は覚え込んでゐた。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。
真面目に義太夫を唸つてゐる。少しも気障(きざ)なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。
粋人振りを政策やら商策やらの武器として、用ゐてゐる抜け目のない人さへあるらしく、つまらない芸事に何といふ事もなく、馬鹿な大汗をかいて勉強致してゐる、この様な可憐な旦那は、青森市より弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。
随ふ事を知らず、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしい。古書・永慶軍記にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず」。
ほんものの馬鹿意地がある。浪曼性を発揮するおどけた虚構には違ひないが、少年のお洒落の本能はまたもむつくり頭をもたげ、『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、けふはめつぽふ、きれえぢやねえか、などと言つてみたく、ワクワクしなが.ら、その服装の準備にとりかかりました。馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言つて教へてゐる。
「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。」
どこにいつたい誇るべき伝統があるのだ。依怙地にその封建性を自慢みたいにしてゐる。明治御維新の時だつて、この藩からどのやうな勤皇家が出たか。藩の態度はどうであつたか。露骨に言へば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかつたか。弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。
何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ。陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であつたといふ。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすくさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言ふのがわかつてゐたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたと聞いた。
そんな仕末のわるい骨が私にも一本あつて、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにゐる。雑誌社から、すくさま目をむき肘を張り、何が何やらわからぬ稜々たる反骨「故郷に贈る言葉」を求められ、その返答に曰く、汝を愛し、汝を憎む。
作者自身の反省である。だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、実は、津軽の人にたいする私の反省である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このやうに津軽の悪口を言ふのである。他国の人が、私のこのやうな悪口を聞いて、安易に津軽を見くびつたら、私はやつぱり不愉快に思ふだらう。なんと言つても、私は津軽を愛してゐる。
私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだはりすぎてゐるのだ。津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしてゐる。さうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はぬのである。
地方出身の全部が事実で無いとしても、このやうな伝説が起るのも無理がないと思はれるほど、考へて、考へつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないやうな気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。
だらしないのだ、県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。
弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐるものに、加勢したいのは自然の人情である。下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いたのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを、描写する事はつひに出来なかつた。
負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らない。自矜の孤高を固守して、世のもの笑ひになる。何が何やらわからぬ稜々たる反骨「故郷に贈る言葉」を求められ、その返答は、汝を愛し、汝を憎む。それが何であるか、形にあらはして、はつきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない、この、もどかしさ。
津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
…………〈修正変更した抜粋の引用1・2・3・4の2〉
つぎは〈本編 一 巡礼〉につづく
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