おおがいさんのトモダチ

森の生け花や山野の一輪差しを思う常識から常識による常識のための常識

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2011年04月

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正直と素直だけでは、小説が風邪を引きますから、消え失せる大望をどう広く遠く近くにテレポートするか、津軽の情動・不定の中はシュレーディンガーの猫状態、迎えた太宰治・生誕100年。
字面を追ってみると、明か明かと現れる、太宰治の謙虚さが、こころを潤します。戦下の文壇に君臨した、志賀直哉という人物のその信条をハッキリさせたかったので、太宰治の書き残した文章の字面を丁寧に追い、自虐の怒りに慄えさせた、その小説の神様に、真相のスポットライトを投じ、志賀直哉は文人が恥ずべき要領の打算に腐心、上意下達と折り合う打算の要領に思いを募らせ、文学界に持ち込んだ打算の要領を、その成功で囃し、要領の成功にこころが充ちて満たされていたことが、判ります。
 その思い上がりを、太宰治が見逃せるはずがありません。
 無視・黙殺を貫き黙過したように思われても、フランス語の学習が一番いいと志賀直哉が奨めたフランスには、教訓に湧れるテオドール・ジェリコーの名画があり、人心の悲惨に沸く1816年メデューズ号・筏事件が、世界に注目され世界の絶賛を博した絵画でしたから、倫理感の深く高いその未踏の頂きは、和辻哲郎の倫理感や風土記を斥け、200年後の戦下でも変わらない世界・周知、虜囚の辱めを受けることなかれと暗誦させた戦陣訓に囲まれ、一流に限った志賀直哉の大サロンも、協賛の渦から避けられず、ゆきゆきて神軍を後押ししたことを疑わせません。志賀直哉のサロンでは、軍事絵画が大流行。
  …… 後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の事を思ひ出すと恥づかしくて、酒を飲まずには居られなかつたといふ。
 ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人といふものは、ふだんは、違う。
 粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思ひやりを持つてゐる。
 その抑制が、事情に依つて、どつと堰を破つて奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなつて、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になつてしまつて、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなつて酒を飲み、そこへ一友人がたづねて行つて、
 「どう? あれから奥さんに叱られたでせう?」と笑ひながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答へたといふ。
 叱られるつもりでゐるらしい。……。(修正変更した抜粋の引用)
   ☆☆    高貴な野蛮人。
    レヴィ・ストロースの「野生の思考」が概念を誘う。
     サルトルのレヴィ・ストロースへの答えは、
    「腐敗した西欧社会」を叩きつぶす「自由な精神」
  自由な精神は、限定サロンを驕る小説の神様・志賀直哉より、
    大望が重すぎて、よろめいてゐる太宰治が先行、
       村八分のソトにも眼をやる正直と素直 
    貧の貪欲・カニバリズムと、富の壮絶・カニバリズム、
     そんなのに吊り上げられたら、自由な精神を盗まれ、
     神様や文化サロンと同じ、タダのバーバリアンズ。☆☆

  ……「どうです。この辺で、席を変へませんか。」と、世慣れた人に特有の、慈悲深くなだめるやうな口調で言つた。いいのか、と私はT君に眼でたづねた。
「僕たちが前から計画してゐたのです。Sさんが配給の、上等酒をとつて置いたさうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きませう。Nさんのごちそうにばかりなつてゐては、いけません。」T君が傍についてゐてくれると、心強いのである。
 昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この外ヶ浜街道は、全国の旅人を、朝夕送迎してゐたのである。
 皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べた。酔ふに従つてSさんは、上機嫌になつて来た。
 「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家つてやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思つてゐるんです。名前も、文男と附けました。文(ぶん)の男(をとこ)と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似てゐるやうです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いてゐるやうな形なのです。」
 私の頭が、鉢が開いてゐるとは、初耳であつた。ひどく不安になつて来た。Sさんは、いよいよ上機嫌で、
 「どうです。お酒もそろそろ無くなつたやうですし、これから私の家へみんなでいらつしやいませんか。ね。ちよつとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢つてやつて下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。T君は、
 「行つておやりになつたら? Sさんは、けふは珍らしくひどく酔つてゐるやうですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待つてゐたのです。」
 私は行く事にした。頭の鉢にこだはる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおつしやつたのに違ひないと思ひ直した。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けてゐるものは「自信」かも知れない。
 「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。」津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。
 「挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに。
 あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て。
 坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。
 あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。
 お前はここにゐてサアヴイスをしろ。お客さんが逃げてしまふぢやないか。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのをばさんに頼んで買つて来てもらへ。
 をばさんは、砂糖をほしがつてゐたから少しわけてやれ。砂糖は、お客さんがお帰りの時でいいんだつてば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。
 シユーベルト、シヨパン、バツハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バツハか。やめろ。
 うるさくてかなはん。話も何も出来やしない。もつと静かなレコードを掛けろ、待て、食ふものが無くなつた。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来てゐる。それから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食へないものだ。
卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」
 疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。津軽人の愚直可憐、見るべしである。

 津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキといふ工合に呼ぶのである。先住民族アイヌの遺風、ではなからうかと思はれる。貝焼(かひやき)の訛りであらうと思はれる。貝殻から幾分ダシが出ると盲信してゐるところも無いわけではないやうであるが、卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。Sさんは、それを思ひつき、私に食べさせようとして連呼してゐるのだ。
 奥さんに、もうたくさんですから、と拝むやうに頼んで、Sさんの家を辞去した。
 その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋(きつすい)の津軽人のそれである。私に於いても同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふ。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。
 箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら、食事中にあらはれた珍客を迎え、玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。……
  ☆☆ 太宰に散見するニーチェの儚い夢は、儚さが突出、
     思い思うツァラストゥラの陰で、困惑する焦躁は
     永遠回帰に向かわず、直感通り、情動・不定のPTSDに
     耐えさせませんでした。フロイトのアーカイヴの
     病に記録されず、カラ函・コッカの造り物を叩かせ、
     トカトントンを響かせたそれは、世の中のために
     なって当然でした。貧の貪欲・カニバリズムと、
     富の壮絶・カニバリズムに挟まれ、ジェリコーの絵
     メデューズ号の筏が、脳裡に現れたかどうか。☆☆
 ……お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。
 ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれるのではあるまいか、Sさんに依つて、私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかつた。
 津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸(ひらたけ)ではないけれど、私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給へ、かい給へや。」とぞ責めたりける、である。
 Sさんは尋ねられ、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答へ、奥さんに、叱られるつもりでゐるらしい。……(修正変更した抜粋の引用)
                        (三外ヶ浜)につづく
         つつしんで……丈司ユマ著作権

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二蟹田4 免罪符になるはずがない想定や定義に挑戦した太宰治、小説の神様・志賀直哉を砕いたのは戦下に書いた津軽の風土記、太宰治生誕100年は大震災からの復活と二重・写し。
 …想定や定義…が免罪符になるはずがないのに、敵失漁りの要領を誇った、志賀直哉・風は蕉・風に恥じ、治・風にも恥じ、豊かな資金力にものを云わせて開いた一流・限定の大文化・サロン、嫌われたらソンと集まった小林秀雄らからお世辞を集め、小説の神様が文壇の神様を彷彿、誠意もなく魂もなく、気忙しい要領を気取る吸血の卑劣が、津軽の風土記に曝かれ、瀕する貧から易く逃れる観念に頼り、タダの観念に自己・陶酔、絶対の観念に尻を叩かれ、寄る辺のない狡猾の観念に汚され、文明開化を脇道に反らした元凶は、上意下達に固執し自由を捨させ、正統と異端をウソ尽くめに詰めた恫喝・依怙地、引きつる肉感・話法が、筏の内でも、筏の外でも、貪欲のトクをめぐるそのソンを相手に、ツゴーの限りを尽くし、乾く渇きを干乾しに吊し、富の壮絶・カニバリズムが、貧の貪欲・カニバリズムと激突、凄まじい欲得の渦が、リッチの日本人を非人に仕立て上げました。
 誠実とは正反対になった列島の狡猾、トクを囁き日本人のこころを二重性の中に鎖し、特別意識に陰るニッポン・カニバリズムはリッチになっても未開そのまま、大江健三郎を嘆かせ、テオドール・ジェリコー27歳が絵に画いた1816年メデューズ号の筏事件が、眼に眩しい。

  ……淡く咲いてゐる、観瀾山の桜は、花弁も薄くすきとほるやうで、心細く、いかにも雪に洗はれて咲いたといふ感じである。爛漫といふ形容は当つてゐない。
 ノヴアリスの青い花も、こんな花を空想して言つたのではあるまいかと思はせるほど、幽かな花だ。帰還兵のT君は、暑い暑いと言つて上衣を脱ぎ半裸体になつて立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭ひで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちよつとビルマのバーモオ長官に似てゐた。
 小説に就いて何か述懐を聞き出したいやうな、素振りを見せ、集つた人たちは情熱の程度に於いては、それぞれ少しづつ相違があつたやうであるが、私は問はれただけの事は、ハツキリ答へた。
 「問に答へざるはよろしからず。」といふ芭蕉翁の行脚の掟にしたがつたわけである。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やつちやつた。
 芭蕉だつて、他門の俳諸の悪口は、チクチク言つたに違ひないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどといふあさましい事はしなかつたであらう。
 にがにがしくも、そのあさましい振舞ひをしてしまつたのである。
 五十年配の作家の仕事に就いて、問はれて、私は、そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。
 神様、といふ妙な呼び方なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになる、といふへんな風潮さへ瞥見せられている。
 畏敬に近いくらゐの感情で過去の仕事が、最近どういふわけか、東京の読書人にも迎へられてゐる様子。
 贔屓の引きだふしと言ふもので、その作家は大いに迷惑して苦笑してゐるのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に、従ふ事は出来なかつた。
 このごろに到つて、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。
 エゲツナイところに、この作家の強みがある
、と思つたくらゐであつた。書かれてある世界も、ケチな小市民の、意味も無く、気取つた一喜一憂である。
 「良心的」な反省をときどきするが、そんな箇所は特に古くさく、作品の主人公が自分の生き方に就いて、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐ。 「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。
 ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本、ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。
 貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたふしである。
 フランス革命の際、王の居室にまで暴徒たちが乱入、暗愚なりと雖も、からから笑つた、フランス国王ルイ十六世、矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪ひとり、自分でそれをひよいとかぶつて、フランス万歳、と叫んだ。
 血に飢ゑたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思はず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずに、おとなしく王の居室から退去したのである。
 貴族といふものは、だらしないくらゐ、闊達なものではないかと思はれる。
 無邪気なつくろはぬ気品が、まことの貴族にはある。口をひきしめて襟元をかき合せてすましてゐるのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。
 貴族的なんて、あはれな言葉を使つちやいけない……。

   ☆☆ 志賀直哉を、戦下に批判、
      文化も文明も暗いその異境から、
      小説の神様に向かって、譏ろうとは怪しからん不届き
      そう書いた太宰治に下された弾圧、
     大震災の復興には鎮魂の森をと諭す建築家・安藤忠雄、
      上意下達で自由を失った列島の、木偶の今様を嘆き、
      100億円を寄付した人は、100億円がどう使われたか
       最後まで追わなければ、自由が死ぬと、呟き、
      意志と願いと現実の努力を、揃えてこそ自由と、
     かすみ我せきの率いるコームいん大集団が得意にする、
      フン詰まりの硬直状態を案じ、原発・紛糾の
     権力・破綻を怖れ、自由のない上意下達へ警鐘を鳴らし、
     反省を拒むその心底に「ゆきゆきて神軍」を響かせます。☆☆
  ……「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言つてはゐません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのやうにして言つた。
 私の話に少しも同感の色を示さなかつた。一座の人たちは、酔漢の放言に閉口し切つてゐるといふやうなふうに見えた。他の人たちも、互ひに顔を見合せてにやにや笑つてゐる。
 「ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だつたんだ。男振りにだまされちやいかんといふ事だ。」私の声は悲鳴に似てゐた。いよいよ脱線するばかりである。ああ、「要するに、」先輩作家の悪口は言ふものでない。
 「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはつきり宣言する。
 「日本ぢや、あの人の作品など、いいはうなんでせう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言ふ。「そりや、いいはうかも知れない。まあ、いいはうだらう。」 私の立場は、いけなくなるばかりだ。
 「君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言つてくれないのは、ひどいぢやないか。」私は笑ひながら、本音(ほんね)を吐いた。みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗る。
 「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いてゐるんだ。その大望が重すぎて、よろめいてゐるのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだらうが、しかし僕は本当の気品といふものを知つてゐる。
松葉の形の干菓子(ひぐわし)を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたつて、僕はちつともそれを上品だとは思はない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品といふものは、真黒いどつしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちや駄目なもんだ。それが本当の上品といふものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支へられたカーネーションをコツプに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思つてゐやがる。」
 暴言であつた。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似てゐる。じつさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与へ、薄汚い馬鹿者として遠ざけられてゐるのである。「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、  「僕の作品なんか、まつたく、ひどいんだからな。何を言つたつて、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらゐは、僕の仕事をみとめてくれてもいいぢやないか。君たちは、僕の仕事をさつぱりみとめてくれないから、僕だつて、あらぬ事を口走りたくなつて来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」
 みんな、ひどく笑つた。笑はれて、私も、気持がたすかつた。……
(修正変更した抜粋の引用)
                     〈二蟹田5 〉につづく
          つつしんで……丈司ユマ
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∋異境のような東北、アーカイヴの病 偉人と非人を 小分けするかも∈(津軽、二蟹田3)
   ……気持の説明は、いやなのだ。下手な感懐を述べた。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもしなかった。
 下手な感懐をもらす事はせず、大いに雑談にのみ打興じた。
 蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで、私が一向に手を出さないのを見てとり、N君の小柄でハキハキした奥さんは、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。
アトフキをはじめた。お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「後引(あとひ)き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、
 「しかし、君も、」
 「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
 僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。
 「うむ。」
「僕の知つた事ではない。ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。」N君は盃を手にしたままで、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。」でもね、あいつは、僕が教へなくたつて、真面目に首肯き、かう考へ直さうとした、このごろはそう考えようと努めてゐるんだ。
 「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」
 鶏鳴あかつきを告げたので、驚いて私は寝所へ引上げた。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとりを連れて来てゐた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。
 むらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて、海の見える観瀾山へ花見に出掛けた。
 雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。蟹田の海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。南方の人たちは、東北の海と言へば、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが。
 下北半島が、すぐ真近かに見えた。
 山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の産物に、全国有数の扁柏(ひば)がある。
 林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植した。
フランスの宣教師から、フランス流の剪定法を明治二十年代に教はつて俄然、成績を挙げ、この林檎栽培にむきになりはじめ、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅い。
 日本三大森林地の一つは昔から。冬もなほ青く繁つてゐる津軽の山々には、樹木が枝々をからませ合つている。
   ☆☆ 蟹田川の河口の大きな写真が出てゐる、
         日本地理風俗大系には、
      観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々が紹介され、
       日本三美林の称ある扁柏の津軽・国有林があり、
          蟹田町はなかなか盛んな積出港、
        ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、
      毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。
        西方の書に無視され、異境のような東北にも、
        文明開化以前の堅実な営みが、継承され、
     フランス流の剪定法を得た林檎栽培は俄然、成績を挙げ、
        大正から、青森名産として全国に知られる。☆☆
……津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なほその鬱蒼をつづけ、さうしてわが国の模範林制と呼ばれてゐる。
 はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行ひ、もつて潮風を防ぎ、またもつて岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲ひ、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいはゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依つて耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到つた。
 藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到つても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐へる特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもつて重宝がられ、年産額八十万石、と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらゐになつてゐると思はれる。
 この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出てゐて、さうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅(ぶな)、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られてゐる。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。
 このやうに蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓膜撃壌の別天地のやうに読者には思はれるだらうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。
 いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言つたつて、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。
   ☆☆蟹田の人たちは温和である。
     温和といふのは美徳であるが、
     町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、
     旅人にとつては心細い。
     天然の恵みが多いといふ事は、町勢にとつて、
     かへつて悪い事ではあるまいかと思はせるほど、
     蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかへつてゐる。
     ドガの失敗談が、気忙しげに、頭を去来し、
     政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられ、
     骨のずいまでこたへ、同情の念の、胸にせまり
     来るのを覚え、無視・黙殺し黙過された、
     傲慢不遜の名匠にも思いが立つ。☆☆
 河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したやうな形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それつきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちやなどを植ゑてゐる。
 蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。
 町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがゐるんぢやないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言つた。
 つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しやばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの、馬鹿らしい結果に終つた。
 ドガの失敗談が、それに就いてすぐ思ひ出される。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐してゐた高邁の政治談をこの大政治家に向つて開陳した。  ……「私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない!」と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。ドガ氏も、その眼つきには参つたらしい。よつぽど恥かしかつたと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経つてから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだつたらしいヴアレリイ氏にだけ、こつそり打ち明けたのである……。
 十五年といふひどく永い年月、ひた隠しに隠してゐたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたへたものがあつたのであらうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語つてゐるはうが、どうやら無難のやうである。……(抜粋・引用)
                         (蟹田4に)つづく
          つつしんで……丈司ユマ
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 ☆☆むらさきの ジヤンパー緑のゲートル 乞食姿の旅人はオズカス☆☆
 阿修羅のこと伝、福島第一原発は、渡部恒三の所有地、毎年莫大な土地代を手にしている… fm99.8(476)。漂流する筏の政官財・トライアングル、貪欲・カニバリズムの怒濤は、国連から睨まれ詰められ、カラダを強ばらせ、大勢の目に構わず、共食いが炙り出されます。
…空蝉の知ら路漂う蝉しぐれ、木の子の雲に カゲるオズカス…
 ☆☆義経伝説の三厩、蝦夷蜂起の地、砂鉄の産地で、木材を輸出、
       蟹田川の東海岸は、カゲらない蟹田浜。
    波打際の心細い路を北へ歩き、路が尽きる竜飛の部落、
         ぎりぎりの本州の北端である。
  東京の兄が二十七で死んだ時、勤めを休んでいろいろしてくれた
       クラスメートのN君。愛情と真理の使徒、私は
    もてなしの中にうなだれ、足もとばかり見た現実は、
           私の眼中に無かつた。
      オズカスと、いやしめて言われる時の三男坊や四男坊。
     むらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけ
    乞食姿の貧しい旅人は自分の耳に、ひそひそと宿命とでも
     いふべきものを、囁かれる事が、実にしばしばあつた。
       「信じるところに現実はあるのであつて、
       現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」☆☆
  ……愛情と真理の使徒。
 「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いた。
 蟹を小山のやうに積み上げて、私を待ち受けてゐた。
 飲食に於いては何の関心も無かつた筈、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。
 「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、言ひにくさうにして言ふ。
 「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。」
 「女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
 「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
 「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
 「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
 「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
     何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す(白居易)
 義経の伝説で名高い三厩(みまや)に到着する。
 竜飛(たつぴ)の部落は、文字どほり、路が尽きる。津軽半島の東海岸、波打際の心細い路を歩き、三厩から三時間ほど北上する。
 ぎりぎりの本州の北端である。この辺は最近、国防上なかなか大事。
 砂鉄の産地であつた蟹田の浜は、「青森県通史」に著され、いまは全く産しないが、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうである。新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々とする。
 蝦夷蜂起の寛文九年、鎮圧のための大船五艘を新造した蟹田浜、また、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた。私の中学時代の唯一の友人のN君がゐる、といふ事だけしか知らなかつた……。
(修正変更した抜粋の引用)
    ☆☆ 何せ鷹揚な性質なので、私と同様のN君 ☆☆
        いつも人にだまされてばかりゐた、
     人にだまされる度毎に、私は少しづつ暗い卑屈な
         男になつて行つた。N君は反対に、
       いくらだまされても、いよいよのんきに
          明るい性格の男になつて行く。
       鷹揚に抜けたやうなところのある子だった、
      N君は不思議な男だ、ひがまないその素直さに
      一様に敬服してゐた、人気はなかなかのものらしく、
      やはり彼は一座の花形。好みて酒を飲むべからず、
       俳諧の外、雑話すべからず、行脚掟の芭蕉翁、
       旅の句会をひらき、蕉風地方支部をこしらへる。
           私は、論語の酒無量不及乱、
        太宰風の地方支部を、こしらへる旅に非ず ☆☆
 …… どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。 私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。
 裏路の帰りは、海岸伝ひにぶらぶら歩き、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。
 頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。いま思へば、そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。
 私の下宿は高田馬場であつたが、池袋がN君の当時の下宿、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。N君は雑誌社をよして、保険会社に勤めた。
 何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。
 人にだまされる度毎に、私は少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。
 不思議な男だ、ひがまないのが感心。口の悪い遊び仲間も、N君のその素直さには一様に敬服してゐた。東京に来てからも、兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。精米業を継ぐため帰郷。
 不思議な人徳は、家業を継いで蟹田の町会議員に選ばれ、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる。
 芭蕉翁の行脚掟として、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり。論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、私は、敢へて翁の教へに従はうともしない。
 一座の花形はやはりN君、人気はなかなかのものらしく、若い顔役がその夜もあそびに来ていた。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。私はアルコールには強く、芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。
 此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の他の雑話を避けて、雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではない。
 私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。
 オズカスとして人に対した。いやしめて言われる時の三男坊や四男坊。東京の言葉さへ使はなかつた。純粋の津軽弁で話をした。もういちど、津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつた。
 都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私を、つかまうとする念願である。津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。
 乞食姿の貧しい旅人は、私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を、捜し当てたくて来た。
 個人々々の言動、私に対するもてなしの中に、私はたいてい、うなだれて、自分の足もとばかり、見て歩いてゐた。
 現実は、私の眼中に無かつた。
 自分の耳にひそひそと、宿命とでもいふべきものを、囁かれる事が、実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。
 誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。……
(修正変更した抜粋の引用)
 ∋ デリダのアーカイヴ 病の偉人と非人を 小分けするかも ∈
                   (二蟹田2に)つづく
           つつしんで……丈司ユマ
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東京電力、汝を愛し、汝を憎む、くやしくてたまらない、この、もどかしさ、生誕100年太宰治 本編 一巡礼。
 ☆☆私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう、
木川田一隆が赤い糸にについて話合つた弟・平岩外四や荒木浩ら
 それからまもなく、原発データ改ざんや発電所データ改ざん
  欲情の赤字を加え死に向かった。自己を棄て、反省の縦糸と
   追慕の横糸を張る、太宰の自責・意志は正直と素直、
   弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた、
      みんな気の弱々した意志だった、
   原子力安全基盤機構
2010年10月のまとめを眼にし、
     なぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた☆☆

  ☆「ね、なぜ旅に出るの?」
   「苦しいからさ」
   「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません」
   「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、
    国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、
    嘉村礒多三十七」
   「それ、何の事なの?」
   「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれも
    そろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の
    時が、一ばん大事で、」
   「さうして、苦しい時なの?」☆
  ……何を言つてやがる。ふざけちやいけない。言ふと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ。
 たいていありふれた文学的な虚飾なのだが、自分の気持の説明など、いい加減にとしをとつたせゐか、気障な事のやうに思はれて、何も言ひたくない。
 生きてゐるうちに、自分の生れた地方の隅々まで、見て置きたくて、乞食のやうな姿で、五月中旬の春、東京を出発した。
 仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかつた、勤労奉仕の作業服、有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジヤンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでつち上げた、何だか合点のゆかない見馴れぬ型である。一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になつた。むらさきの洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合はない。
 そのむらさきの作業服に、緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズツクの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。
 いつ、どんな事があるかもわからない。
 母の形見を縫ひ直して仕立てた、縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を、背中のリユツクサツクに忍ばせてゐた。あの洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であつた。
 東北の寒さを失念してゐた。寒さは意外であつた。
 心頭滅却の修行はここだ。手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、自分に言ひ聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念じ、下品になつた。青森には、朝の八時に着いた……。
(修正変更した抜粋の引用)
    ☆☆昭和の津軽風土記、負けても負けても
   強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して、
         世のもの笑ひになる傾向がある、
        何が何やらわからぬ稜々たる反骨、
       列島に贈る言葉は、汝を愛し、汝を憎む、
       最悪のシナリオも、京大・小出裕章助教授
       くやしくてたまらない、この、もどかしさ☆☆
 ……「和服でおいでになると思つてゐました。」
 「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。T君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。
 「ありがたう。」
 「存じて居ります。Nさんも、お待ちになつてゐるやうです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。
 T君は昔、私の家にゐた事がある。おもに鶏舎の世話をしてゐた。私と同じとしだつたので、仲良く遊んだ。
 「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いやうな善いやうなところだ。」とその頃、祖母がT君を批評して言つたのを私は聞いて覚えてゐる。
 先年出征して、南方の孤島で戦ひ、病気になつて昨年帰還し、病気をなほしてまた以前の病院につとめてゐる。
 「戦地で一ばん、うれしかつた事は何かね。」 T君は言下に答へた。
 「戦地で配給のビールを、コツプに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しづつ吸ひ込んで、途中でコツプを唇から離して、一息つかうと思つたのですが、どうしてもコツプが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
 「どうだね、からだのはうは。」T君はずつと以前に一度、肋膜を病んだ事があつて、それが戦地で再発したのである。おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。
 「精神の病気なんだ。忘れちまへば、なほるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
 「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
 「さすがに人間ができて来たやうだね。」
 「ええ、まあ、ほどよくやつてゐます。」と言つて、笑つた。「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなつて。」
 「おいしさうなものばかりぢやないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」 私は傍のお膳をぼんやり眺めた。
 心にきめた事が一つあつた。それは、食ひ物に淡泊なれ、といふ事であつた。東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせゐか、武士は食はねど高楊枝などといふ、ちよつとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を、滑稽に思ひながらも愛してゐるのである。何もことさらに楊枝まで使つてみせなくてもよささうに思はれるのだが、そこが男の意地である……。
(修正変更した抜粋の引用)
   ☆☆償却が進んだ古い原発は利益を生む、
      会社への貢献が厚遇されない
   貪欲の恨みを喰んだ原子力部門、同じ会社の他部門を離れ、
   他社の原発部門と密に組んで流した筏、安全の海を漂流、
   業界を横断する原子力村だから、他部門に口出しさせない、
   原発専門・集団の自負心、貪欲に陰る自己・溺愛の非と否、
          飢えて渇く、漂流・筏のカニバリズム、
         東電ストップ高、外資が筆頭株主になる日も
            責任の飢餓がそんなに怖いのか☆☆
 …… 男の意地といふものは、とかく滑稽な形であらはれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行つて、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴へ、さうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもつと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でせう、ついでに少し家へ持つて帰りたいのですけれども、わけていただけませんでせうかしら、などと満面に卑屈の笑ひを浮べて歎願する人がたまにあるとかいふ噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けてゐる筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。
 食べ物などの事にはあまり敏感でない、おつとりした人たちとばかり逢つたのである。
 「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思つても困つてしまふな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なささうに言ふので、私は実に幸福な気がした。 いつの世だつて、人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。
 「僕は、しかし君を、親友だと思つてゐるんだぜ。」
 実に乱暴な、失敬な、いやみつたらしく気障(きざ)つたらしい芝居気たつぷりの、思ひ上つた言葉である。私は言つてしまつて身悶えした。他に言ひかたが無いものか。
 「それは、かへつて愉快ぢやないんです。」T君も敏感に察したやうである。
 「私は金木のあなたの家に仕へた者です。さうして、あなたは御主人です。さう思つていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経つてゐますけれども、いまでもしよつちゆう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまつた! と思つて、はつと夢から醒める事があります。」
 帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいてゐたので呆然とした。
 合浦公園の桜は、いま、満開だといふ話であつた。青森市の街路は白つぽく乾いて、いま造船で懸命なのだ。
 「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。」
 「病院のはうは?」
 「あしたは日曜です。」
 「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた……。
(修正変更した抜粋の引用)
  ◆◇東電ストップ高、外資が筆頭株主になる日も? 最終更新:2011年04月09日 14時30分  東京株式市場の東京電力株は、先週末8日の終値はストップ高の420円となった。こんな時にいったい誰が買っているのか?←反省を拒むかすみ我せきの封建・カニバリズム、原爆所有の貪欲が制御・不能と見た外国勢、東京電力のカニバリズムを中国大陸の資本が制御、日本狭小列島がカニバリズムの妬み、嫉み、蔑み、荒みを狂わせる前に、未然の封じ込め。
  ◇◆最悪のシナリオも〜京大・小出裕章助教授指摘2011/04/10(日)京都大学原子炉実験所の小出助教授は、放射濃度の急上昇に加え、原子炉の温度や圧力の急上昇していること、更に塩素が中性子に反応して生まれるクロル38という塩素が原子炉内で発見されたことなどから、炉内で再臨界が起きている可能性が高いと指摘する。中性子は核分裂が起きたときに発生する。臨界とは放射性ウラン燃料などが核分裂連鎖反応を起こす状態のことを言う。「再臨界」は、臨界状態にあった原子炉が一旦停止して核分裂が止まった後、燃料棒の露出などでウラン燃料が溶け出して、圧力容器の下部に蓄積するなどして、制御されない状態で核分裂連鎖反応が起きる状態を指す。←京都大学原子炉実験所の小出助教授も蚊帳の外、人間の盾に想定されたのだろうか。
  ◆◇原子力安全基盤機構2010年10月のまとめ……地震で電源喪失した場合、3時間40分後には圧力容器内の圧力が上がって容器が破損し、炉心の核燃料棒も損傷。格納容器も高圧に耐えきれず、6時間50分後に破損して、燃料棒から溶け出した放射性物質が外部へ漏れる……。←コームいんの世界は、次官独りを残すカニバリズムの世界、骨肉・血気が目的や責任をソッチ退けに鍔迫り合い、予算を共食、結果も目的も亡骸を晒す。 
                      〈二蟹田〉につづく
         つつしんで……丈司ユマ著作権

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